11章 予見と後知恵  (原文 p.339
 この物語を構成するに当たって、我々には後知恵と言う利益と不利益があることを常に意識する様にした。後知恵は時として過去を明瞭に見る事が出来る。完全な視界である。しかし起きた事の道筋をあまりに明るく照らすため、他のすべてのことを深い影の中に置いてしまう。パールハーバーについてのコメントの中で、ロベルタ・ウオールステッターNote 1は、「事件が起きた後で、関連ある信号を関連のない信号の中から選び出すのは、非常に容易である。事件の後では、当然信号は水晶のように明瞭である;事件が起きて以降、信号が送られていた事件は何だったかを知ることが出来る。しかし、事件の前ではそれは不鮮明で、矛盾に満ちている」ことを発見した。

 時がたつにつれ、より多くの文書が利用できるようになる。そして起きたことのむき出しの事実がより明らかになる。しかし、これらの過去の世界の出来事がどのように起きたかを再び思い描くことは、先入観と不確実性、減退と残された記憶の潤色 ―後に起き、または書かれたものによる― によって、より難しくなる。このような注意を心にとめて、我々は他者を裁く前に、今は明らかになっている識見がその時に真に意味があったことか、人々が当然、知ったり行ったりすることが出来たことには限界があったのではないかを我々自身に問うた。
 我々は、9/11攻撃は4種類の失敗を明らかにしたと信じる。それらは、想像力、政策、能力および管理である。
    111 想像力          (原文 p.339
 歴史の概観 
 9/11攻撃は、並外れて不釣合いな事件だった。アメリカは以前にも不意打ちに遭っている。パールハーバーはよく知られた事件の一つである。その他のものは、1950年の朝鮮における中国の攻撃である
。しかし、これらは大きな戦力による攻撃だった。 
(*)朝鮮戦争において、国連軍・米軍が中朝国境に迫った時、中国軍が「人民義勇軍」として参戦し、国連軍・米軍は38度線付近まで、後退を強いられた(訳注)
 いかなる意味でも、日本の戦争行為の脅威ほどではなかったが、9/11攻撃はある意味でさらに破壊的なものであった。それは小隊にもならない、小人数のグループによって実行された。統治の規模としては、その背後にある供給源は些細なものだった。そのグループは、地球上でもっとも貧しく、もっとも遠く、工業化からもっとも遅れた国の一つに基地を持つ組織から派遣されていた。その組織は、若い狂信者と、高い教育を受けながら、彼らの出身社会に適当な居場所を見つけられないか、そこから追い出された狂信者の混合体から新兵を勧誘していた。
 これらの事件を理解するには、1990年代のいくつかの背景を再構成することを試みなければならない。アメリカ人たちは冷戦の終結を安心と満足と共に祝った。ソビエトの軍事的脅威の終了によって、国家安全保障の支出は削減されたので、合衆国々民は平和の配当を楽しみたいと望んでいた。
 合衆国は冷戦後の世界に、卓越した軍事力として出現した。しかし、ソビエト連邦の突然の消失によって作り出された真空状態は、不安定性と合衆国への新たな挑戦を作り出した。ジョージ・HW・ブッシュ大統領[41代]は、1990年から1991年に、これらの最初の事件を扱った。イラクのクウェート侵攻に対する国際同盟軍の逆侵攻の指導である。合衆国の指導者が新しい脅威に対処した例としては、ウクライナ、ベラルーシ、カザフスタンからの核兵器の除去;新しい核の危険の封じ込めを助けるナン―ルーガーの脅威減少計画;ボスニア・コソボ戦争への国際的参加などがある。
 アメリカは賞賛や羨望、非難の目標として際立っていた。これはある種の文化的非対称を生み出した。我々にとって、アフガニスタンは、はるか彼方に見えた。アルカイダのメンバーにとって、アメリカは大変近くに見えた。ある意味で、彼らは我々に比べて、よりグローバルだった。
危険の理解  
 もし政府のリーダーが、彼が直面する脅威の重要性を理解していたとしても、また同時にそれを除去しようとする彼らの政策がいつでも、すぐには成功しそうも無いことを理解していたとしても、なお歴史の審判は厳しいものだろう。彼らは脅威の重要性を理解していたのか?
 合衆国政府は攻撃が我々の国土の上で行われた時には、激しく反応する。1993年のワールド・トレードセンター爆破を組織したラムジ・ユセフと1993年に、歩いて出勤するために[信号を]待っていた二人のCIA雇員を、バージニア州ラングレーで殺したミル・アマル・カンシは、容赦ない断固たる目標となり、彼らをその罪で法廷に立たせるために、合衆国に連れ戻す取組みは成功した。
 9/11以前、アルカイダとその協力者が殺したアメリカ人は、東アフリカの大使館爆破と「コール」攻撃を含めて50人に達していなかった。合衆国政府は脅威を深刻に考えてはいたが、第1、第2どころか、第3級の敵にさえ立ち向かうために動員する感覚ではなかった。例えば、1995年から1999年の間、セルビアとそのバルカンでの残虐行為に対して、控えめな国家的取組みを展開したが、アルカイダに費やされたものはそれに比べても小さなものだった。
 我々が見いだせる最良の例は、2000年はおろか、2001年の初めの8ヶ月間でさえ、どの合衆国の世論調査機関も、テロリズムの問題は、主要な全国的調査の中で質問するに値するほど、充分に大衆の関心がある問題とは考えていなかった事だ。ビン・ラディンもアルカイダも、テロリズムさえも、2000年の大統領選挙活動の重要な問題ではなかった。議会もメディアも、それに殆んど注意を払っていなかった。
 もし大統領がアメリカ国民を好戦的な取組みに結集させるとすれば、彼は拡大するアルカイダの危険についての評価を公表する必要があっただろう。我々の政府は、ウサマ・ビン・ラディンとは誰か、彼が率いているのはどのような組織か、ビン・ラディンあるいはアルカイダは何をする積りか、彼らが過去に資金を提供したり、激励した攻撃は何か、将来の攻撃のために彼らが持っている能力は何かなどについて、完全な公開討論に火花を散らすことができただろう。我々は、アメリカ人と国際的な大衆の意見は異なっているかも知れないと信じる ―そして、大統領の選択肢の範囲もそのようであるかもしれない― 彼らはこれらの詳細を知らされてきたか。脅威に対抗して武器を取るかを含むこの種の討論の最近の例には、セルビアでの人種浄化、生物兵器の攻撃、イラクの大量破壊兵器、地球的気候変動およびHIVAIDSの流行などがある。
 我々は、アルカイダが1988年、ソビエトのアフガニスタン占領終了の年に作られたことを知っている。しかし、情報機関は少なくとも我々が見る書類の中では、1999年までこの組織について記述した事はなかった。19957月に配布された「国家情報評価」(National Intelligence Estimate )は合衆国に対する将来のテロリストの攻撃を、合衆国内についても予側していた。それは、この危険は引き続く数年の間に増加するだろうと警告していた。特に脆弱な特定の地点として、ホワイトハウス、キャピトル[議事堂]、ウオール街のような資本主義の象徴、電力網のような重要な社会基盤施設、スポーツ・アリーナのような人々の集まる場所、民間航空全般などを推定していた。それは、1993年のワールド・トレードセンター爆破が多数の人々の殺害を意図したもので、従来の政治的ゴール[拘留者の解放など]を達成しようとしたものではないことを警告していた。
 1995年の「国家情報評価」は、「強い組織」には欠けるが「むしろ弱い提携」下にある「個人の流動的な組織化」を最大の危険と記述している。彼らは「伝統的な集団の外側」で行動するが「訓練施設と安全な避難所の世界的なネットワークと接触を持っている」。これは現れ始めた危険について、知られていたことを基礎とした優れた要約だった。
 1996年から1997年にかけて、情報社会は新しい情報を得た。それは、ビン・ラディンが、攻撃目標の予定と作戦指揮官たちを持つ彼自身のテロリスト・グループを率いているというものだった。また、これまでビン・ラディンの組織の関与が明らかでなかった、1992年の合衆国の軍要員の宿舎となっていたイエメンのホテルの攻撃、1993年のソマリアでの合衆国軍のブラックホーク・ヘリコプターの撃墜、そして殆ど確実と思われる1995年リヤドでのサウジ国防軍の訓練を行っていたアメリカ人に対する爆破などが明らかになった。
 1995年版「情報評価」1997年版に更新するとき、新しい情報は討議されなかった。それは1995年に詳述されたテロリストの危険は存続すると強調していた。更新された[1997年版の]要約の中で、ビン・ラディンについての唯一の言及は、次の文章である。「イランとその代理人は、テロリスト資金源のビン・ラディンとその追従者も同様に、海外の合衆国施設に対する脅迫と調査の段階を上げており、その中には合衆国内で起こる追加攻撃の兆候もあるかもしれない」。ビン・ラディンは6ページの報告の中で、他の二つのセンテンスで触れられたのみである。アルカイダの組織については述べられていない。1997年の更新は、9/11以前のテロリズムの危険に対する最後の情報評価となった。
 1998年から2001年にかけて、特別のトピックスについて、大変良い分析報告が配布された。これらには、ビン・ラディンの政治哲学、彼の世界的ネットワークに対する指揮権、199912月にヨルダンで逮捕されたテロリストからの情報分析、アルカイダの作戦形態、そしてイスラム過激派運動の発展的ゴールなどが含まれていた。政府高官への朝の概況報告のために、多くの機密扱いの文書が準備された。そのタイトルは次のようなものがあった。
 「合衆国航空機に対する(対空ミサイルによる)ビン・ラディンの脅迫(19986月)」「タリバンとビン・ラディンの間の表面的緊張(19991月)」「コーカサスの合衆国権益に対するテロリストの脅威(19996月)」「ビン・ラディンは警備の緩い休日を利用する(199912月)」「ビン・ラディンの制裁回避(20003月)」「ビン・ラディン、生物および放射性物質兵器に関心(20012月)」「タリバンは現在ビン・ラディンを強く掴んでいる(20013月)」「テロリスト・グループは合衆国人質計画での協力する(20015月)「ビン・ラディンは合衆国内での打撃を決定した(20018月)」(Note 5)
 このような報告およびビン・ラディンのアルカイダに対する指揮構造についての1999年の文書があったにもかかわらず、彼の戦略と、過去のテロリストの攻撃への彼の組織の関与の程度についての全体像は存在しなかった。いかなる情報社会も、彼の組織の他の政府との関係や、合衆国に対して引き起こそうとしている脅威の規模について、権威ある描写を提供したものはなかった。 
 しかし、中央情報副長官ジョン・マクローリンは、テロリズム対策センターCTC)が積上げた報告は、新しい「国家情報推定」に現れたどの分析よりも「劇的に没落した」と我々に語った。彼はセンターの3040人の分析グループの仕事のほとんどは、収集した文書を扱ったもの[二次資料]だったと認めた。2000年遅く、DCIジョージ・テネットは、アルカイダに対する戦略的分析の不足を認めた。CTC内でこの問題に取り組むため、彼は主席マネジャーを指名した。20013月、彼はDCIに「戦略的推定能力の創造」について概要説明した。CTCは、20016月に戦略推定部門を創設した。この取り組みに10人の分析官を追加すると言う決定は大きな官僚的勝利とみられた。しかしCTCは彼ら[分析官]を見つけるのに苦労した。この新しい部門の主任は、2001910日に着任したと報告されている。
 CIAの肖像化が弱かったとはいえ、ビル・クリントンおよびジョージ・ブッシュ両大統領と彼らの上級補佐官たちは、その画を持っていた ―ビン・ラディンは危険だと理解していた― と我々に語った。しかし、彼らの性格と政策の取り組みのペースを考えると、彼らが、アルカイダは何人を殺すのか、それがどのように早くなされるかを、完全に理解していたとは信じられない。その水準を明らかにする事は困難だが、その脅威はまだ説得力のあるものとなっていなかったと我々は信じる。
  9/11以前の一般的な知識を取り返す事は、今は難しい。たとえば19994月の「ニューヨーク・タイムス」の記事は、「合衆国はビン・ラディンが攻撃を指示している証拠を見つける事は困難」との見出しで、ビン・ラディンがテロリストのリーダーであることを暴露しようとしたNote 8CTCの分析のトップは、1999年まで、破滅的な脅威について化学、生物および核兵器に関係する危険のみを考え、警告を割り引いて見ていた―そして彼を控えめに扱い、9/11の数ヶ月前に「対テロリズムを『破滅的』『大規模』『超』テロリズムを扱う業務と再定義する事は誤りだろう。事実、このような表現は、合衆国が直面しようとしている、あるいはテロリズムが合衆国の利益に支払わせようとしている費用の大部分を表現していない」と書いた。
 ビン・ラディンとアルカイダが重大な危険を提出しているとの認識のもとで、これはアメリカが数十年にわたって共存してきた通常のテロリズムの脅威の、新しいまた特別に有害なバージョンなのか、あるいは徹底的に新しく、これまでに経験したことのない危険だと見せかけているのかについて、上級職員たちも半信半疑だった。この違いは、戦争を始めるか、またどのように始めるかの慎重な考慮に影響した。
 そのため、ビン・ラディンを前例のない新しい危険と見る政府の専門家は、彼らの見解に広い支持を得る手段を必要とした。あるいは少なくとも論点にスポットライトをあて、次いでおそらく政府を横断して行動を促す必要があった。国家[情報]推定は、しばしばその役割を果たし、まさにその理由のために論争の余地があった。広い範囲での思考と討論を引き起こしたこのような評価は、その受取人たちと、より広い政策決定集団に大きな衝撃を与えた。例えば「国家情報推定」は議会で注目された。しかし、我々が述べて来たように、1997年から9/11の間に、誰もテロリズムについて[論評を]提出しなかった。
 2001年になっても、政府はアルカイダが「第一級の脅威」か、否かについて最高レベルでの決定を必要としていたと、リチャード・クラークはコンドリ―ザ・ライスに当てた2001125日の最初のメモに書いた。また、9/11の一週間前にライスに送ったペンタゴンとCIAの足の引き合いについての辛辣な抗議の中で、彼は首脳部の「真の問題」は、「われわれはアルカイダの脅威の扱いについて真剣だったか?・・・アルカイダは大きな取引か?」と言うことだと繰り返している。
 ある一派の考えとして、クラークは94日のノートに、テロリスト・ネットワークが18から24か月ごとに、20人のアメリカ人を殺すという不法行為を暗示的に論じている。もしこの見解が信用されたら、現行の政策はそれに見合ったものとなっていたかもしれない。他の一派はアルカイダを「過激イスラムの槍の穂先」と見ていた。しかし、この脅威について、国家の評価を要求し、また脅威について広い討議を呼びかけ、公開的な議論を推進しようとする者は誰もいなかった。9/11以前に、この問題が議会を含む合衆国政府の集団的討論となる事は無かった。
 我々は、規模と想像力の問題に戻ろう。ライスに挑発的に書いたクラークのノートでさえ、攻撃により「数百」のアメリカ人が殺されると仮定している。「数千」ではなかった。


想像力の制度化  
航空機を兵器とする場合 
 想像力は、通常 官僚主義と結びついた資質ではない。例えば、パールハーバー以前に、合衆国政府は日本の攻撃が来ようとしていることについて、優れた情報を持っていた。特に194111月末の平和交渉の行き詰まり以降そうであった。それは、ある歴史家が書いているように「不確実の苦痛」の日々であった。もっとも起こりうる攻撃目標は、南アジアと判定された。攻撃は迫りつつあったが「職員たちは、途方に暮れていた。攻撃はどこに来るのか、あるいはそれを防ぐために、さらに何をすれば良いのか」Note 11。思い返すと、得られる通信傍受は、可能性ある目標として、ハワイについての日本の調査を指摘していた。しかし、他の歴史家は「明確な警報に直面していたのに、警報の評価は通常へと曲げられた」と見ているNote12
 それゆえ、たとえ官僚機構の中にあっても、日常的に想像力の訓練を行う方法を見つけることが極めて重要となる。そのためには、航空機を兵器として使用することを想像できるエキスパートを見つけることが、さらに必要となる。実際、アルカイダと他のグループは、これまでに、すでにトラック爆弾と称する自殺用の乗り物を使用していた。これをさらに他の乗り物、例えばボート(「コール」攻撃)や飛行機にしたらとひらめく事は、考えられないことではない。
 このシナリオは、徐々に航空機の安全担当専門家たちの思考の中に入り込んだ。1996年、TWA800便の墜落の結果、クリントン大統領は副大統領アル・ゴアの下に、合衆国内の航空機の安全面の欠陥を報告する委員会を作った。ゴア委員会の報告は、政府内外からの適切な専門家が念入りな調査を行ったが、自殺ハイジャックや、飛行機を兵器として使うことについては述べていない。それは主に航空機に載せられた爆発物の危険性に注目していた。マニラ航空機計画の類似である。しかし、ゴア委員会は、乗客選別の怠慢と機内持ち込み品に対する注意を喚起した。
 1998年遅く、アルカイダが飛行機をハイジャックする可能性のある計画について、複数の報告があった。一つは、124日のクリントン大統領のための「大統領日報」(PDB)(第4章)で、従来型の人質確保に重点を戻していた。日報は、ビン・ラディンのハイジャック作戦計画への関与は、「盲目のシャイフ」アブデル・ラーマンのような拘留者の解放のためと報告している。もしPDBの内容が、議会の主要メンバーを含むより広いグループに提供されていたら、それは国内空港と、航空便のセキュリティー手続きの継続的な修正の必要性について、より大きな注意を引いていたかもしれない。
 脅威の報告は、爆発物を満載した飛行機を使う可能性についても言及していた。記載されている中でもっとも目立った可能性のある計画は、爆発物を搭載した飛行機を合衆国の市街に飛び込ませるものだった。19989月に出回ったこの報告は、東アジアのアメリカ領事館に立ち寄った、一人の情報源によるものだった。同じ年の8月、情報社会は、あるリビア人グループが飛行機をワールド・トレードセンターに衝突させようとしているという情報を受けた。これらの情報は、共に裏付けることが出来なかった。さらに、1994年にアルジェリア人グループが飛行機をハイジャックした。おそらくパリ上空で爆破しようとしたか、あるいはエッフェル塔に衝突させようとしたものだろう。
 1994年、個人所有の飛行機がホワイトハウスの南側の芝生に墜落した。1995年早く、アブドル・ハキム・ムラド ―ラムジ・ユセフのマニラ航空機爆破計画の共謀者― はフィリピン当局に彼とユセフは飛行機でCIA本部に飛び込むことを議論していたと話した。
 クラークは少なくとも1996年のアトランタ・オリンピック以来、飛行機によって引き起こされる危険について関わってきた。そこで彼は防空計画を作ることを試みた。彼は、国防総省が支出を断わった後、財務省の資産を使って計画を作ろうとしてきた。シークレット・サービスはワシントン地区への空からの脅威の問題について、仕事を続けてきた。1998年、クラークは解明が不十分な点を指摘する訓練を主催した。この紙上訓練では、テロリストのグループがアトランタの地上でビジネスジェット機を徴発して爆発物を積み込み、それをワシントンD.C.の目標に向けて飛ばすという筋書きを含んでいた。クラークは、ペンタゴン、連邦航空局(FAA),およびシークレット・サービスから来ている職員に、この状況で彼らは何が出来るかを質問した。ペンタゴンから来た職員たちは、ラングレー空軍基地からその飛行機にスクランブルをかける事が出来ると言った。しかし彼らは、交戦規定について大統領を通す必要があった。そしてそのような体系は無かった。訓練では、問題に対して明瞭な解答は出なかった。
 1999年末、マサチューセッツ沖でのエジプト航空990便、B767の墜落について、メディア上で大量の討論が行われた。もっともらしい説明は、パイロットの一人が凶暴となって操縦装置を奪い、飛行機を海に飛び込ませたというものだった。1999年から2000年のミレニアム警戒の後、国民がくつろいでいる時、クラークは彼の「テロリズム対策安全保障グループ(CSG)」の会議を開き、アルカイダによるハイジャックの可能性について、大々的な論議に専念した。
 [調査委員会での]宣誓証言の中で、クラークは、自殺ハイジャックは多くある中の一つの危険な思いつきであり、それについての警告を、数万から、多分数十万に上るアルカイダその他のテロリストの脅威の大量の警告の中から発見する事は難しいと考えたと言っている。しかし、その可能性は想像できるものであり、そして想像された。19998月初旬、FAAの民間航空安全情報局は、ビン・ラディンによるハイジャックの脅威について要約した。この問題に使えるすべての情報を完全に列挙した後、この文書は少数の主要なシナリオを認定した。その中の一つが「自殺ハイジャック作戦」だった。FAAの分析官は、このような作戦はありそうも無いと判定した。「それは、ラーマンその他の過激派の重要拘留者を獲得するという、鍵となるゴールを達成するための交渉の機会を提供しない。・・・自殺ハイジャックは選択肢の最後の手段として評価された」。
 [FAAの]分析官たちはどのような種類の「対話の機会」をアルカイダが望んでいるかについて、ある程度明らかにすることが出来た。CIAは起こり得るハイジャックのシナリオについいて、分析的評価を書いた事は無かった。
 9/11以前に、飛行機による陰謀の先見的分析が、司法省の検察官(Justice Department trial attorney )によって書かれた。検察官は、明らかに彼自身が主導して、このような状況下で、合衆国の飛行機を撃墜することを含む法律の公布に関心を持った。
 北米防空司令部[NORAD]も飛行機を兵器として使う可能性をイメージしていた。そしてこのような脅威 ―おそらく大量破壊兵器を運びながら、海外から合衆国に来る飛行機― に反撃する訓練を考え出していた。この考察において、脅威は実際の情報によったものではなかった。指揮・統制計画とNORADの備えをテストしようとした一つのアイデアでは、ハイジャックされた飛行機が海外から来て、ペンタゴンに突入するという仮定がなされた。このアイデアは主題(朝鮮戦争)から外れすぎるとして、またあまりに真実味がないとして、訓練の計画の早い段階で脇に置かれた。我々が第1章で指摘したように、軍の計画者はこのような飛行機は海外から来ると仮定していた;[そうでなければ]彼らは目標を特定し、迎撃機を緊急発進する時間が無かった。
 結局、我々は少なくともいくつかの政府官庁がハイジャックの危険を懸念し、さまざまなシナリオを推測したことがあると認める事が出来る。課題はこれらのシナリオを、肉付けし、試験すること、そしてシナリオを建設的行動に転換する道を描きだすことだった。
 1941年のパールハーバー攻撃以来、情報社会は奇襲攻撃の機先を制する問題を理解するため、何代にもわたる取組みに専念してきた。厳格な分析手法が開発された。それは特にソビエト連邦に向けられていた。そして情報社会の数人の専門家は、それについて我々と討論した。これらの方式は、多くの方法で関連付けられている。しかし、ほとんどすべては共通して四つの要素を持つ。(1)奇襲攻撃はどのように発動されるかを考える。(2)もっとも危険な指標に関与する通報者を特定する。(3)ふさわしい場所で、その通報者から情報を集める。(4)もっとも危険な可能性または少なくとも初期に警告されたターゲットから[攻撃を]逸らす様な防御を採用する。  
 湾岸戦争終了後、警告の不足に関係して、DCIロバート・ゲーツに指導され大規模な調査が1992年に行われた。それは数件の勧告を提案した。その中に、警報のための国家情報職員を強化することがあった。我々はこれらの対策はゲーツの後継者のもとで弱くなったと聞いた。テロリストの攻撃についての警告の責任は、警告のための国家情報職員から、CTC引き継がれた。情報委員会テロリズム対策部会は脅威の警告を発する責任を持った。
 我々は、何年にもわたって熱心に開発さてきた奇襲攻撃を避ける方式が、正しく適用されていたという証拠を発見できなかった。また、化学・生物・放射物質および核兵器に対するアルカイダの取組みを、分析から除外するという重要な問題もあった。
 何がなされなかったかを考察すると、想像力を制度化する方法が示される。今述べられた四つの要素に戻ろう:
1 CTCは、ハイジャックされ、あるいは爆発物を積載した航空機が、どのように兵器として使われるかを分析しなかった。これは、自殺テロリズムが中東のテロリストの主要な戦術となっていたにもかかわらず、敵の視点からの分析(「赤組」の分析)がなされていない。もしそうしていたら、分析は直ちにテロリストに対する緊急拘束にスポットライトを当てただろう ―自殺作戦は大型ジェット機に適用できることを発見しただろう。9/11以前に彼らは全くそうしなかった。
2.  CTCはこの攻撃方式を警告する諜報員の配置を提案していない。例えば、このような諜報員の一人が、テロリストの可能性ある者が大型ジェット機の飛行訓練を続けていること、あるいは上級のフライト・シュミレーターを購入しようとしていることを発見したかもしれない
3.  CTCは提案しておらず、通報者を管理するのに必要な、情報社会の情報収集管理方式を設置していない。したがって警告システムは、20017月のアリゾナでテロリストの可能性のある者が各種の飛行訓練に興味を持っているというFBIの報告、あるいは20018月、ミネソタ飛行学校での疑わしい行動によるザカリウス・ムサウイの拘束のような情報を予期していなかった。8月末、ムサウイの拘束は「イスラム過激派が飛行訓練」との題でDCIと他のCIA上層部に概況報告されたが、組織がこの情報の潜在的な重要性を理解する方向になかったので、このニュースは警報としては何の効果も持たなかった。
4.  情報社会も航空安全保障熟練者も、航空機内あるいは自殺その他のテロリストによってコントロールされた航空機に対する系統的な防御を分析していない。航空機についての多くの脅威の報告がFAAに送られたが、そこでは特定された、信頼できる脅威に対応することのみを続けていて、我々がここに述べたような、より広い警告機能の実施を試みることはなかった。政府内の誰も、国内[航空]の脆弱性について、担当する者はいなかった。
 リチャード・クラークは、1996年のアトランタ・オリンピック、ホワイトハウス複合施設、そして2001年のジェノバでのG8サミットなどの警備を通じて、航空機が提示する危険に関わってきたと語った。しかし彼の自覚は、情報社会の警告よりも、トム・クランシーの小説によるところが大きいと考えた。彼は、飛行機をハイジャックから護るための層状のセキュリティー防御をいかに強化するかについて、組織的な問題として積極的に取り組むように政府に強く主張すること、あるいは自殺ハイジャッカーに対する空の防衛に妥当性を与えることについて、国家の政策の上に位置付けることはしなかった、あるいは出来なかった。
 パールハーバー以降、幾十年にわたって合衆国政府が苦心して開発してきた奇襲攻撃の検出と警告の方式は、失敗ではなかった;しかし、それは実際に試されなかった。それらは、合衆国に対する直接の奇襲攻撃がまさに開始されようとしていた20世紀が終わる時点で、敵を分析するために使用されなかった。

                        
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112 政策    (原文 p.348
  9/11への道は、大きく非効率的な合衆国政府が、ますます巨大化した脅威をいかに過小評価する傾向があったかを再び描きだす。ビン・ラディンとアルカイダによって育てられたテロリズムは、政府がこれまでに直面した何者とも異なっていた。テロリストの行為に対処する既存の機構は、個人が犯した行為に対する裁判と処罰であり、敵対する政府の行為に対する制裁措置、報復、抑止、戦争だった。アルカイダの行為はそのどのカテゴリーにも当てはまらなかった。その犯罪は、その規模において戦争行為に近いものだったが、それらは、容易に脅されたり、覆されたり、破壊される領域や市民も資産も無い、緩やかで広範囲にわたる星雲のように漠然とした陰謀集団によって犯された。  
 2001年初め、DCIテネットと[CIA工作担当副長官ジェームス・パビットは、次期大統領ブッシュ、同副大統領チェイニー、およびライスに情報の概況報告を行なった。そこにはアルカイダについての話題も含まれていた。パビットは、ビン・ラディンはこの国にとって最大の脅威の一つだと伝えたことを思い出した。
 ブッシュはビン・ラディンを殺せば問題は終わるのかと質問した。パビットは、彼とDCIは、ビン・ラディンを殺せば衝撃となるだろうが、脅威を止める事はできないだろうと答えたと言った、後にCIAは、より公的な評価をホワイトハウスに提出し、この結論を繰り返した。そこには、長期的には、アフガニスタンを作戦のための保護区として使っているアルカイダの能力を終わらせることが、脅威を処理する唯一の道であることを追加した。
 おそらく、新政権にとって、リチャード・クラークの残留はテロリズムについての助言者として、最も適切なものであった。しかし彼は、もし彼の政策助言が直ちに受け入れられ、実行されたとしても、9/11を防ぐことは出来なかっただろうと認めている。
 そこで我々は、アルカイダとアフガニスタンの保護区に対して、大きな行動のために国家を動員する理由となる機会を、合衆国政府はいつ持ったかを問わねばならない。その主な機会は、1996年から1997年にかけて合衆国政府が新しい情報を受け取ったあと、19988月の大使館爆破の後、1999年末にヨルダン人とレザムの陰謀が発見された後、および2000年の合衆国艦艇「コール」攻撃の後などである。
 9/11以前の、アルカイダに対する反応についての合衆国の政策は、基本的には1998年の大使館爆破に続いて定義されたものである。この決定について、我々は第4章に記した。留意すべきことは、それらの決定は、クリントン政権によって、極めて厳しい政治状況の中で下されたものだという点である。この時、反対派は大統領の弾劾を求めていた。さらに1998年から1999年にかけて、クリントン大統領は、セルビアに対して起こるかもしれない戦争について政府の準備を進めていた。また、イラクに対する大規模な空爆を認めていた。
 大使館爆破の悲劇は、ビン・ラディンが引き起こした国家安全保障上の脅威について、政府を横断する完全な調査の機会を提供した。このような調査は、問題となっているすべての事項が、その時の国内の政治問題よりも大きい事を明らかにした。しかし、政府の主要な政策官庁は、このような脅威に対応していなかった。
 国務省の外交上の努力は、全く無益だった。アルカイダとテロリズムは、パキスタンやサウジアラビアで既に一杯な協議事項に、もう一つの優先項目として追加された。9/11以後それは変わった。
  政策立案者たちは、計画の実施に当たって、主にCIA秘密工作(ca)にたよることに転換した。9/11以前、CIA以上に日夜働いて、アルカイダ攻撃に関して多くの責任を持ち、あるいはそれを実施した官庁はなかった。しかし、CIAが精力的に全世界で努力してテロリストの活動を阻止し、あるいは代理人を使って、ビン・ラディンとその副官たちを捕捉または殺害を試みることには限界があった。1997年中ごろには、早くもあるCIA職員が彼の監督官に書いている。 「我々がしていることは、陸軍部隊が来るまで介入せずに待っているだけだ」/騎兵隊が来るまで縄張りを守っているだけだ」holding the ring until the cavalry gets here.
 軍の手法はうまく行かないか、あるいは応用できなかった。9/11以前、国防総省はアフガニスタンのアルカイダ保護区を終わらせる任務を与えられてはいなかった。
  クリントン、ブッシュ両政権の高官たちは、9/11以前に合衆国がアフガニスタンに全面的に侵攻することなど、事実上、思いもよらないことだと見なしていた。それが正式に官庁間で討議される問題となった事は絶対になかった。
 より小さな形での介入も検討されてきた。その一つは、合衆国軍人または情報局員あるいは特殊部隊の、アフガニスタンあるいは周辺国への配置である。それは、公開あるいはは秘密(clands.,secret)または極秘(合衆国とのつながりを隠した)(coventry)配置である。それによって合衆国は、もはや行動につながる情報の収集を代理人に頼る必要が無くなる。しかし、それは基地の確保と、周辺国の上空通過による支援を必要とするだろう。それは、重要な政治的、軍事的、および情報上の努力が必要とされ、資金と危険が結合した、何か月かから幾年かにわたるものとなるだろう。大きな地上兵力がアフガニスタンにある今でも、ビン・ラディンの位置を突き止めることがいかに難しいかが証明されていることを考えると、その成功の可能性を計算する事は困難だ。我々はクリントン大統領がこのような中間的選択を提案された証拠、あるいはこの選択肢が侵攻計画以上に検討されたという証拠を発見しなかった。
 このような政策に挑戦することは、我々がすでに討論した想像力の問題と関係している。我々はクリントン、ブッシュ両大統領は、共にアルカイダによって提出されている脅威を本当に心配していたと信じているが、アフガニスタンの保護区への介入を含んだより直接的な、取り組みは ―もし総体的に考慮されれば― 明らかに脅威に対して不釣合いなものと見なされたに違いない。
 将来への洞察を実行に移すことは、このように容易なことではない。問題がまだ小さい時に、大きな取組みを始めることは最も難しい。ひとたび危険が具体化し、皆に明らかになれば、行動を起こす事はより容易だ―しかしそれでは遅すぎるだろう。
 合衆国の職員を短期間地上に置くのとは別の手段は、タリバンに対するぶっきらぼうな(blunt)最後通告の発表だった。それは、少なくとも体制の限られた軍事能力を無力化し、進行中のアフガニスタン内戦のバランスを傾ける、限定のない航空作戦開始の準備に裏付けられていた。合衆国はタリバンに対し、ビン・ラディンによるアフガニスタンの合衆国資産に対するさらなる攻撃は、彼ら[タリバン]も責任を問われると警告し続けていた。この警告は、1998年、1999年末、もう一度2000年秋、さらに2001年夏に送られ続けてきた。繰り返しそれを送る事によって、その効果が増すことは無かった。 
 200011月、「コール」攻撃に対するアルカイダの責任についての証拠が入手された。国家安全保障補佐官サミュエル・バーガーは、ペンタゴンに、タリバンに対する保留されていた航空作戦の計画推進を依頼した。クラークは公式で明確な最後通告を紙上に書き出した。しかし、クラークの計画は、小グループの公式見解より進んだものではなかった。我々は、経験ある職員からなる同じ[テロ対策]チームが両政権下で継続していたにもかかわらず、この見解についての概況説明が新しい政府に対してなされたとか、クラークがその文書を彼らに送ったことを示す証拠を見いだすことは出来なかった。
 9/11以後、ブッシュ大統領は、アルカイダは合衆国艦艇「コール」に対する攻撃に責任があると公表した。9/11以前には、両大統領とも何の行動も取らなかった。少なくとも「コール」攻撃は、ビン・ラディンによると推論することにリスクは無かった。
 113 能力        (原文 p.350) 
 先行する章で、クリントンおよびブッシュ政府が決定してきた行動の詳細を記述した。それぞれの大統領は秘密作戦(ca)を検討し、承認した。それらは、相当の時間を浪費するプロセスで ―特にクリントン政権の時にはそうだった― 情報の収集以上には殆ど成果は無かった。1998年夏のアフガニスタンでのミサイル攻撃以降、海軍の艦艇がこの地域または近海に停泊し、巡航ミサイルの発射に備えていた。ハグ・シェルトン将軍は、13の異なる攻撃の選択肢を創作したが、何一つ推薦しなかった。9/11以前にブッシュ政府で、テロリズム対策について最も広く行われた討論は、無人プレデターの使用方法だった。それを、ビン・ラディンの位置を知るために今使うか、それとも彼を発見し攻撃できるようなミサイルを装備するまで待つかである。振り返ると、クリントン、ブッシュ両大統領に提案された行動メニューの、狭く想像力に欠ける選択肢に我々は衝撃を受ける。 
 9/11以前、合衆国政府はアルカイダ問題を、冷戦の最終段階およびその直後と同じ政府機構と能力によって解決しようと試みた。これらの能力は不十分だったが、ごく僅かな拡大あるいは改造が行われたのみであった。
 秘密工作(ca)については、ホワイトハウスは、テロリスト対策センターCIA工作本部(Directorate of Op. ) に頼っていた。いくらかの職員、特にビン・ラディン班の職員は任務に熱心だったが、大部分はそうではなかった。本部の幹部職員は、熱心とは言えなかった。CIAは、自身の職員によって準軍事的作戦を実行する能力は大きくなかった。そして9/11以前にはこの官庁[CIA]はこの種の能力を大規模に拡大しようとしてはいなかった。工作担当副長官ジェームス・パビットは、ホワイトハウスによって奨励された極秘活動(ca)が、過去に「秘密工作部」(Clandestine Service)をトラブルに巻き込んだことを記憶していた。彼はそれが再び起きること望まなかった。彼は、このような強力な敵に対する真に深刻な対テロリズム作戦は、本来軍の任務で「秘密工作部」の任務ではないと、心から考えていた。
 国防総省について言えば、統合参謀本部[JCS]の士官たちは、熱心に援助した。「特殊作戦部隊」(Special Operations Command)の何人かは部隊をアフガニスタンで使うことを計画しており、作戦命令を期待していたと語った。統合参謀本部議長のシェルトン将軍と中央軍指揮官アンソニー・ジニ将軍は異なる見解を持っていた。シェルトンは、19988月の攻撃は、優れた兵器の放棄を証明したと感じており、その後一貫して、高価なトマホーク・ミサイルを単なる「ジャングル・ジム」のようなテロリストの訓練施設に発射することに反対していた。彼はこの見解に、国防長官のウイリアム・コーヘンの完全な支持を得ていた。シェルトンは他の選択肢となる計画を準備させられたが、一方、「活動可能」いう情報なしに、合衆国の人命を危険にさらす如何なる軍の行動にも、自身の強い疑問を表明する準備もしていた。
 テロリズム対策安全保障グループ[CSG]と最高幹部の限られたサークルの中で、対テロリズム政策の高い代価を維持しておくのは、軍の制度の中以に無いことは明白だった。1998年のミサイル攻撃以来、JCSの一方のメンバーは、ゴールドウオータ―ニコルス改革の適用によって、シェルトンが[長官たちから]相談を受けるJCSの唯一のメンバーである事は、彼らにとって不幸だと新聞に知らせた。引き続く軍の選択肢はより広いものとなると説明されたが、アルカイダに関する情報と計画の書類がジッパー付きの赤い容器に入って到着したにもかかわらず、多くの将官(flag)や一般士官たちでその中身を見る許可を得た者は誰も居なかった、と統合参謀本部の作戦副官は我々に語った。
 9/11以前、それはおそらく合衆国を脅かす最も危険な敵で、合衆国の脅威であったにもかかわらず、国防総省は全力でアルカイダに対抗する任務に従事した事はなかった。クリントン政権は、保護区の敵に対する長期の攻撃計画の準備の指揮を、実質的にCIAに頼った。ブッシュ政権もこのやり方を採用した。新しい戦略の出現が想定されていたが、軍がこの問題を処理する時の将来の役割はまだ定義されていなかった。
 国防総省内部はで、コーヘン長官[クリントン政権]もドナルド・ラムズフェルド長官[ブッシュ政権]も、主要な注意を他の問題への挑戦に向けた。
 アメリカ本土の防衛は外へ向かっていた。NORAD自体は、[冷戦終了後も]なんとか少しの警戒基地を残すことができた。その計画されたシナリオは、偶然にもハイジャックされた飛行機がアメリカの目標に導かれるというものだが、海外から来る飛行機はただ一機だった。我々は、自殺ハイジャックの脅威が現実に認識される前に、その危険を扱う事は、NORADの防御姿勢に高くつく変化だったと認識する。それは難しい売り込みだったろう。しかし、NORADは、すぐに利用できる情報を念入りに調べることも、問題にしようとすることも無かった。
 官庁の能力の最も重大な弱点は、国内の領域にあった。第3章で、我々はこれらの指示について討論した―FBI,移民帰化局、FAAその他である。9/11以前、国内官庁の能力を強化する努力は、ミレニアム[警戒]の事後措置の再検討として、2000年に行われた。クリントン大統領と彼の補佐官たちは、国境警備問題について相当の注意を払ったが、離任前に重要な改善をもたらす事はできなかった。NSC主導の省庁間プロセスでは、司法と運輸部が主導権(リーダーシップ)をとって、制度上の変更を協議事項の中に持ち込む事はなかった。
(The NSC-led interagency process did not effectively bring along the leadership of the Justice and Transportation departments in an agenda for institutional change.)
 FBIは職員が現場で集めた知識を、国の優先度に結びつける能力を持たなかった。FBI長官代理は、FBIが合衆国内で二人のアルカイダの可能性がある人物を捜査していること、あるいは、911日まで飛行訓練をしていたイスラム過激派を拘束したことを聞いていなかった。中央情報長官は、FBIのムサウイの調査について、その知らせがFBIのテロリズム対策副本部長(assistant director)へ届く何週間か前に知っていた。
 他の官庁はFBIまかせだった。86日の大統領日報[PDB]の中で、アルカイダに関する70の全分野の調査をブッシュ大統領に報告し、大統領は元気付けられたと言うニュースがあった。しかし、CIAは、FBIが言ったことを単に言い直しただけだった。だれもカーテンの後ろを見なかった。  
 FAAは、積極的に予測してセキュリティーを考える能力が特に弱かった。自殺ハイジャックのシナリオについての真剣な対策の調査、セキュリティー・システムの各層の批判などが、見逃すことのできない脆弱性を修復する変化を提案できたかもしれない  ―搭乗拒否リストの拡張、CAPPS選別システムによる捜査中の乗客の特定、連邦航空保安官の国内線への配置、操縦室ドアの堅牢化、想定し訓練してきたものと異なる種類のハイジャックに対する乗員への警告、FAANORADの管制官と管理官の訓練の調整などである。
 政府官庁は、ときには彼らの仕事の最も困難な部分を除いて業務範囲を定めることにより、彼らの能力が任務に適合していると示す傾向がある(*)。彼らはしばしば受身で、与えられた見解を受け入れる。そこには、危険な脅威についての明らかな脆弱性を修復する取り組みは、あまりにコストがかかり、議論や分裂をもたらすとの考えを含んでいた。
(*)display a tendency to match capabilitties to mission by defining away their hardest part of their job.
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114 管理   (原文 p.353
作戦の管理 
 この報告書の早い時期に、我々が9/11計画を阻止する多くの機会を失ったことを詳細に記した。時には不注意あるいは法律の誤解により情報は共有されなかった。分析は蓄積されなかった。効果的な作戦は発動されなかった。手渡しされる情報は、政府の国外と国内に分割された省庁の間を越えるところで、しばしば紛失した。
 特別の問題にはラベルが貼られたとはいえ、これらは、21世紀の新しい挑戦の問題をいかに管理するかについて、政府が広範囲に適合する能力がない兆候だと我々は信じる。官庁は病院の一揃いの専門医のようなものだ。めいめいが検査を指示し、症状を観察し、そして治療を指示する。欠けているのは、彼らがチームとして働くことを確実にする内科の主治医である。
 もう一つの欠けている要素は、国家を横断する業務の効率的な管理だ。行動する職員たちは、政府の中のすべての利用できる知識に頼るべきだ。この管理には、情報が共有され、またその職務が官庁を越え、国外・国内の境界を越えて、明確に割り当てられていることを確認するべきである。
 例として、第6章で扱った、ミダル、ハズミの事例、および彼らの2000年のクアラルンプールへの旅行について考えてみる。1999年末、国家安全保障局(NSA)は、それぞれハリド、ナワフ、サレムと名乗る男たちを結びつける通信を分析した。情報社会の実務レベルの職員は、それ以上のことは殆ど知らなかった。しかし、彼らは正しく「ナワフ」と「ハリド」は「作戦幹部」の一部であり、「何か極悪な事を計画中らしい」と結論を下していた。
 NSAは、これらの人物の身元確認は彼らの仕事とは考えていなかった。自身は、CIAのような情報の消費者を援助する官庁と見ていた。NSAはいかなる要求にも積極的に対応しようとしていた。
 もしNSAが、このような人間の身元確認を試みることを求められたら、同じ人物についての早期の情報について、自分のデータベースを調べることから始めるだろう。その情報のいくつかは報告されており、いくつかは報告さていれないだろう。しかし、それらはデータベースの中で、すべて容易にアクセス出来る。NSAの分析官は即座にナワフのフルネームはナワフ・アル・ハズミで、彼はハリドの古い友人であったことを発見したであろう。
 この情報その他をもとに、マネジャーたちがこれらの工作員の東南アジアでの動きをより効率的に追跡することが出来ただろう。マネジャーは「ナワフ・アル・ハズミ」として、国務省にその名前を問い合わせることが出来た。国務省は即座に自己の記録からナワフ・アル・ハズミを見つけだし、彼もまた合衆国訪問のビザを発行されていたことを明らかにしただろう。職員はそのビザが、ハリド・アル・ミダルと殆ど同じ日に、同じ場所、ジッダで発行されたことを知っただろう。
 旅行者たちがクアラルンプールからバンコックに去ったとき、地方の職員は旅行者の一人がハリド・アル・ミダルだと特定することが出来た。飛行機が去った後、彼らの仲間の一人がアル・ハズミの名前であることを知った。しかし職員たちは、その名前が何を意味するかを知らなかった。
 情報がバンコックに着いたのは、彼らの入国後だったので、これらの旅行者を追跡するには遅すぎた。現地当局はハリド・アル・ミダルを地域または世界的な注意人物の一部として、はっきりと目を付けていた。彼ら[当局]は入国時、彼を追跡できたかもしれない。彼らはその可能性ある仲間としてナワフ・アル・ハズミを捜すように警告されていた。彼らもまた彼[ハズミ]に気づいたかも知れない。その代わりに、彼らはクアラルンプールが警報を鳴らした直後に通知された。そのとき、旅行者たちはバンコックの街路に消えていた。
 112日、CIAのアルカイダ班の班長は、上司にクアラルンプールの監視は続いていると話した。彼は、実際はミダルと彼の仲間がすでに消えており、追跡は終わっていることを知らなかったのだろう。バンコックの合衆国職員は、113日、残念そうに悪い知らせを報告している。彼らの名前はバンコックの監視リストに載せられたから、もし彼らが出国していなければ、タイ当局は気付くかも知れない。114日、CIAのアルカイダ班の班長は、再び彼の上司に対して情報を更新し、職員たちは、いまやいろいろな国に散らばってしまった容疑者の追跡を続けていると話した。
 遺憾なことに、バンコックに消えたアラブ人たちを追跡する努力が行われたという何の証拠もない。バンコックでの選別が失敗した場合、これらアラブの旅行者を見抜く他の機会を作り出す努力はなされなかった。ミダルのパスポートの中の証拠から、論理的にあり得る目的地と阻止点は合衆国だったろう。しかし誰もこれら個人を探すよう、INSFBIに警告したものはいなかった。彼らは、警告されることなく、115日、ロサンゼルスに到着した。
 20003月初旬、バンコックは、ナワフ・アル・ハズミが ―いまやファーストネームだけでなくフルネームが特定さていた― 115日、ロサンゼルス向けユナイテッド航空便により出発したと報告した。しかしCIAはこの名前あるいは海外からの通信による警報の重要性を評価しなかった。我々はこの情報がFBIに送られた証拠を見つけることが出来なかった。
 もし監視リストに記載することで[入国を]妨げたとしても、あるいは少なくとも合衆国職員がハズミとミダルの入国について警告されていたとしても、我々は、監視リスト自体が9/11攻撃を妨げたとは考えない。アルカイダは、その工作員の合衆国への入国の失敗に慣れていた。これらの将来のハイジャッカーたちは、誰もパイロットではなかった。彼らは入国を許され、監視された。その代わりの何かより大きな結果を期待して、FBIは我慢したのかもしれない。
 これは難しい仮定だ。(There are difficult what-ifs.)情報社会は、このような長期的な情報作戦の実施は危険が高すぎると判断したかもしれない。たとえば、有力なテロリストの足跡を失ったかもしれない。9/11以前にFBIはこのような作戦を実施する能力を持っていなかったと判定されただろう。しかし、情報社会は、このような選択をする機会を好んだかもしれない。
 この事例の細部から、あるいは他の機会から、我々が教科書のカタログに入ったような何らかの意味のある、あるいはそれにより十分な情報による合同計画を開発するためには、異なる官庁からパズルのピースを十分に集める事が、情報社会にとっていかに難しいかは誰にも理解できる。これらのことを、国家間で達成する事は特に困難だ。特別の行動が要求されていないときに情報を取り込み、何が重要か、あるいはなすべき要求は何かを決める実務レベルの職員に我々は同情する。
 誰がこれらの事がなされたと確認する管理の仕事をするのか。一つの答えは、誰もがその仕事をするということだ。CIA工作担当副長官ジェームス・パビットは、責任は関係者すべてに存在すると強調した。それに加えて、彼は現場の優先を強調した。現場は作戦管理の手綱を持っている。本部の仕事は現場の支援であり、遅滞なくそれを行うことだと彼は強調した。もし現場が情報その他の支援を求めてきたら、本部の仕事はそれを直ちに受けることだ
 これは作戦の伝統的観点であり、通常大きな利益をもたらしてきた。それはFBI9/11以前に現地支局の優先を強調していたことを思い出させる。このような伝統的組織が、ある一人がある場所から他の場所へ飛びまわるような国際的な事件の管理の課題にどのように適用されるかを問われたとき、工作担当副長官deputy director for operation)はすべての関係者はその仕事に責任を負うと論じた。パビットは、容疑者がいつも追跡されている、特定の現場の責任について強調した。一方、テロリスト対策センターはすべての活動中の部署の管理を想定されているが、現地で起きていることについては、現場の管理者(manager)に責任があるとも言っている。

作戦の機会

1.20001月:CIAは、ハリド・アル・ミダルを監視リストに載せなかった。またミダルが合法的な合衆国ビザを
 持っていることを知ったとき、
FBIに通知しなかった。

2.20001月:CIAは、ミダルと彼の仲間を追跡する多国間の計画 ―彼らをバンコックからその先、合衆国まで追跡 できる計画― を作り出さなかった。

3.20003月:CIAは、ナワフ・アル・ハズミを監視リストに掲載せず、また彼が合衆国ビザを持っており、2000
 1
15日にロサンゼルスに飛んだことを知ったとき、FBIに知らせなかった。

4.20011月:CIAは、ある情報提供者が、ハラドあるいはタフィク・ビン・アタシュが、200010月の合衆国艦艇 コール爆破の主要人物と特定したこと、またクアラルンプールの会議にハリド・アル・ミダルと共に出席していた ことをFBIに知らせなかった。

5.20015月:CIA職員はミダルの合衆国ビザ、ハズミの合衆国への旅行、あるいはハラドがクアラルンプールの
 会議に出席していた事などを、
FBIに知らせなかった。(これらは、彼が高度の脅威に関連の有る旅行を再検討し ていた時に確認された)

6.20016月:FBICIA職員は、クアラルンプール会議についてのすべての関連情報が「コール」調査官との間で共 有されているかを、611日の会議で確認しなかった。

7.20018月:FBIはミダルとハズミの合衆国到着の可能性の情報の重要性を認識しなかった。そして適切な措置 ― 情報の共有、担当要員の任命、捜査の十分な優先性の付与など― を取らなかった。

8.20018月:FBI本部はムサウイの操縦訓練と信仰についての情報の重要性を認識せず、適切な措置 ―官庁間の
 上級職員を含む情報の共有、ムサウイとアルカイダとの関係についての情報の取得、ムサウイが何を計画していた のかを決定するために十分な優先度を与えることなど―
を取らなかった。

9.20018月:CIAはハリド・シェイク・ムハンマドが重要なアルカイダの鍵となる副官であるという情報、および ムクタルはラムジ・ビナルシブとムサウイにつながると分析している他の報告書の言うムクタルとは、KSMである と認定した関連情報を重視しなかった。

10.20018月・CIAFBIは、ミダル、ハズミ、ムサウイの存在を、差し迫った攻撃について報告している全般的な 脅威に結び付けなかった。  

 
 本部は手助けしたり、促したり、誰もがその輪の中にあることを確かめようとしがちだ。時々、特別の職位のものが一つの方法を押し付けたり、あるいは本部が誰かに何かをするように強いたりする。しかし、本部はこれらの事件を成功裏に管理することに、絶対に責任を負わなかった。したがって、CIA本部の管理者は、計画の中に欠落が生じていることを認識せず、その事件の失敗を殆ど知らなかった。
 その時のテロリスト対策センター長director)コファー・ブラックは、この作戦は多くの中の一つで、そのときには「興味を起こさせるが、まだ重大な問題ではない」とされていたと思い出して我々に語った。彼はバンコックの会話を充分早く受け取らなかった失敗について思い出して語った。しかし、なぜその事件が消えたのか、警告されなかったかについて何の根拠も思いださなかった。
 次の下のレベルでは、その時のCIAのアルカイダ班の班長(director)は、何をするか、しないかを指示するのは彼の仕事だとは考えていなかったと思い出している。彼は[追跡している]個々人が分散し、離れる時に、注意を払わなかった。そこには、足跡がバンコックで一時的に失われた後に作戦を打ち切る、という自覚的な決定は無かった。しかし、ミレニアム警戒の長時間にわたる極度の緊張の後、オーバーワークとなったスタッフに疲労があったことを彼は認めた。
 このケースの詳細は、過去と将来の、真の管理への挑戦を明らかにしている。合衆国政府は、情報をプールし、それを計画と合同作戦における責任の割り当ての指標とする方法を発見しなければならない。その合同作戦には、CIAFBI,国務省、軍、国土安全保障に係わる官庁といった、本質的に全く異なる組織が含まれる。

 組織的管理 
 外国と国内の境界に橋渡しをし、また情報を計画と整合するという日々の仕事以上に、この挑戦は、政府のトップリーダーが何に優先度をおき資産を配置するかという、より広範囲な管理の問題を含んでいる。もう一度CIAの調査により、問題を説明する事は有益だろう。それは、9/11以前の政府の対テロリズム活動の中で、CIAの役割が中心的だったからである。
 1998124日、DCIテネットは、数人のCIA職員と彼の組織管理担当副長官(deputy for community managementに対して指示を出し、そこで述べた。「我々は戦争状態にある。私は、CIA内部や情報社会の中で、どの資産や人々も、その努力を惜しむことが無いように望む」。そのメモは、CIAや情報集団を動かす上で、全体的には殆ど効果は無かった。
 そのメモは、CIA職員と彼の組織管理担当副長官のジョアン・デンプシーに宛てに送られただけであった。彼女は秘密活動部門を除く、主要な情報官庁の長にファックスで送った。一握りの人たちがそれを受け取っただけだった。当時のNSA局長ケネス・ミニハン中将はこのメモはCIAだけのもので、NSAには当てはまらないと信じた。なぜなら、誰も彼にNSAの欠点を告げていなかったから。CIA職員は、このメモは情報社会の残りの者[CIA以外の者]に向けられていると考えた。彼らはすでに出来うる限りのことをしているので、集団の残りのものが負担を負う必要があると信じた。
 このエピソードは、情報社会での、特に国防総省の中での、指示と優先度に関するDCIの権威のある種の限界を示している。DCIは、彼らを統制すること無く、諸官庁に指示しなければならない。DCIは、彼らの行動についての支出金を受け取っていない。したがって彼らの財布の紐を統制できない。DCIは、彼らがどのようにその資産を使ったかについてほとんど知見を持たない。議会は1996年、情報社会の管理についてDCIを助ける副長官のポストおよび[情報の]収集、分析と生産および管理のための補佐官(Assistant)を作ることによってDCIの権威を強化しようとした。しかしその地位の権限は限られており、また中央管理の必要性が明確には理解されていなかった。  
 9/11以前には、DCIはイスラム主義テロリストに対する戦争の管理戦略を発展させていなかった。その管理戦略は、このような戦争において情報集団が身に付けなければならない能力 ―言語の訓練から、分析官の[情報]収集方法まで― を定義したであろう。このような管理戦略は、CTCを越えてその専門知識を提供し、作戦を支援している構成員にまで広げる必要があるだろう。それはテロリズム対策の目標と明白に結合されるだろう。それは提出された経費と、これらの能力の獲得と実行のために必要な組織の変革を詳細に説明しただろう。
 DCIテネットと工作担当副長官は、テロリズムとの戦いの管理戦略を持っていたと我々に語った。それはCIAの再建だった。彼らは、CIAは先頃[冷戦終了後]の予算抑制によって全体的に激しい損害を受けてきたため、部局全般の能力を回復させる必要があると言った。実際は、多くの部局の予算が削減されてきたにもかかわらず、CTCの予算は削減されて来なかった。CIA全体の予算回復によって、上げ潮がすべてのボートを持ち上げるだろう。彼らはまた、局(CIA)の全部門と、CTCや海外支局の能力の改善は、テロとの戦争において相乗効果を引き起こすことが出来ると強調した。
 複数の職員が我々に指摘したように、この管理手法は二律背反が見られる。すべてを同時に再建しようとすると、最優先事項の取組みに対し必要な最大限の支援がなされない可能性を生じる。さらに、この手法は、テロ対策に対する外部からの比較的強力な支援を、全部局の財源増加のために向ける事を企ててもいた。テロ対策の支持者たちは、納得できるテロ対策の予算計画が提示されなかったので、いささか財布の紐を固くしたのかもしれない。DCIの管理戦略は主にCIAに焦点を合わせていた。
 管理戦略の欠乏と情報社会を横断する資金の使途の監視方法に欠けるため、DCIテネットと彼の補佐たちは、テロリズムとの戦争のために情報社会全体の予算を発展させる事は困難なことを発見した。 
 テロリズムについての国内の情報収集の責任は、FBIにのみ与えられている。しかし、クリントン政権の全期間を通じて、FBI長官と大統領の間の関係は存在しないようなものだった。FBI長官は直接大統領と連絡する事は無かったようだ。彼の側近も、国家安全保障会議と残りの国家安全保障集団とは、殆ど情報を共有していなかった。その結果、テロリズム対策の取組みの中で決定的な作業関係の一つが壊れた。
 ミレニアムの特例 
 我々の解説を終える前に、テロリズムを扱う上で、政府が全体として協力して働いていたある時期の回想と説明を提供しよう。ミレニアムに先行する199912月の最後の週である。199912月から20001月初めの時期、テロリズムについての情報が広く豊富にあふれた。特に、それ以前FBIはほとんど情報の共有をしなかったが、この時期はFBIからの[情報の]流れは著しかった。情報社会からの流れもまた顕著だった。その幾つかは公務員たち ―地方空港管理者や地方警察署― にも到達した。彼らはこのような情報を以前に見たことも無く、また9/11以前にそれを再び見る事は無いだろう。そして海外よりも合衆国内のテロリストの脅威が、政府各局の上級職員と両議会の指導者たちに頻繁な注意を喚起した。 
 何故そうだったのか。最も明らかな事は、誰もがすでにミレニアムの縁にあり、コンピュータプログラムの突発事故(Y2K問題)の可能性があった。それは、記録の破壊、電力や通信の遮断、あるいは日常生活の混乱をもたらすかもしれなかった。そこで、ヨルダン当局は国内での爆破を計画していたアルカイダ16名を逮捕した。拘留者の中に、2人の合衆国市民が含まれていた。その直後に、注意深い税関職員はロサンゼルス空港爆破の明白な意図のもとに、爆発物を持ってカナダ国境をこえたアーメド・レザムを逮捕した。彼は国境の両側に共謀者を持っていたことが判明した。
 これらは噂さされるように、高度に秘密な情報日報やFBIの尋問メモに記載されるような出来事ではなかった。この情報は、すべての主要新聞にのり、テレビ・ニュースのネットワークのハイライトとなった。ヨルダン人の拘束は、ニューヨーク・タイムスの13ページに載っただけだったが、夕刻毎のニュース・キャスト番組で顔が写された。レザムの拘束はその第1ページだった。そしてその最初の話題と、その後の追跡調査はテレビ・ニュースを一週間支配した。国中のFBIの現地職員は、心配する市民からの電話の泥沼の中にいた。司法省、FAA、地方警察および主要空港の代表者が現れる時には、いつもマイクロフォンが顔の前にあった。 
 ミレニアム警戒の後、政府はくつろいでいた。テロリズム対策は、FBI、テロリスト対策センター、テロリズム対策安全保障グループの秘密保護の区分に戻っていった。しかし、この経験は政府がテロリズムに対して、自身を動員する能力があることを示した。一つの要素はY2K問題について広く拡がった予兆であり、同じように重要なもう一つの要素は、単純に共有された情報であった。誰もが、抽象的な脅威だけではなく、少なくとも合衆国で拘束された一人のテロリストを知っていた。テロリズムはアーメド・レザムという顔を持った。そしてバーモントから南カリフォルニアにいたるアメリカ人たちは、彼に似た者の監視を続けた。
 2001年夏、DCIテネット、テロリスト対策センターおよびテロリズム対策安全保障グループは大きな警報を鳴らすために彼らの最大限の努力を行った。それは、アルカイダが何か大きな事を計画しているという情報に基づいていた。しかし、ミレニアム現象は繰り返されなかった。FBIの現場捜査官は、不審なテロリストの活動を見ることはなく、本部が彼らを奮起させる事もなかった。
 20015月から911日の間、新聞やテレビの上で、テロリズムに関して注目される人物は殆どいなかった。第1ページは、東アフリカ大使館爆破とレザムの裁判の終了を扱ったものだった。これらのルポルタージュはすべて回顧で、問題は満足の行く解決をしたと表現していた。裏のページは、海外の大使館および軍施設の安全の強化の通知と、アラビア半島への旅行についての政府の警告だった。残りのすべては秘密とされた。



第11章 Note

Note 1, Roberta  Wohlstetter, “Pearl Harbor: Warning and Decision”  Stanford Univ. Press, 1952

Note 5. これらのタイトルは「国家情報日報」および「上級幹部情報報告」からの引用。

Note 8,  “New York Times” , Apr.13.1999. p.A1

Note 11, Waldo Heinrichs, “Frankrin D, roosbelt and America Entry into World War Ⅱ“

         (Oxford Univ.Press, 1988p215

Note12. Gordon Prange, ”At Dawn We Slept : The Untold Story of Pearl Harbor”

                 McGraw Hill, 1981pp732-733



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