2章 新しいテロリズムの創設   (原文 p.47)
21 宣戦布告
 19982月、サウジアラビアを追放された四十歳のウサマ・ビン・ラディン[UBL]とエジプトから亡命した医師アイマン・アル・ザワヒリは、アフガニスタンに置いた彼らの本部から、ロンドンのあるアラビア語の新聞社に「世界イスラム前線」の名のもとに「ファトワ」と称する文書を公表する手配をした。「ファトワ」とは本来は尊敬されているイスラム法の権威者によってなされる「イスラム法」の解釈である。しかし、ビン・ラディンとザワヒリはもとより、その宣言に署名している他の三人のいずれもがイスラム法学者ではなかった。彼らは、アメリカは神とその伝道者に対して戦争を宣言してきたと主張し、アメリカ人であれば誰であれ、この地球上の何処であれ、殺害せよと呼びかけた。「どの国においても、可能なかぎりそうすることが、個々のイスラム教徒の義務である」と。
 3ヶ月後にアフガニスタンで行なわれた「ABCテレビ」のインタビューに際し、ビン・ラディンはこのテーマをさらに拡大した。彼はイスラム教徒にとって、アメリカ人を殺す事は、異教徒を殺す事よりさらに重要であると主張した。「その力を他のことに費やすより、だれか一人のアメリカ兵を殺す事の方がはるかに重要だ」と彼は述べた。
 テロリズムを是認するのか、民間人に対する攻撃を認めるのかという質問に対して彼は答えた。「我々は今日の世界で最悪の盗人、最悪のテロリストはアメリカ人だと信じている。それに対しての報復は同じ手段を用いるしかない。我々は軍人と民間人とを区別する事はない。我々が係る限り、すべてが標的だ」。
 それは無差別殺戮を是認したという点では斬新だったが、ビン・ラディンの1998年の宣言は、彼が1992年以来公的にまたは私的に行ってきた合衆国攻撃の一連の呼びかけの最新のものにすぎなかった。
                                   

ノート:イスラムの名前は、必ずしも西欧の姓とは一致しない。ここでは,個人の識別に、姓名の最後の個所を使う。例えば、Nawaf al Hazumi は、Hazumiとする。al は冠詞として省略する。ただし、例外的にBin は、最後の名前の一部とみなし、Bin Ladin とする。アラビア語の英語への翻訳については決まりが無いので、常識と音訳、新聞や政府文書の混合による。例えば、al Quida al Qaeda とする。(原報脚注)
[日本語訳では、原則として上記に倣い、ローマ字読みと新聞等の慣例の混合とした。訳者註]

  19968月、ビン・ラディンは、ムスリムに対して、アメリカ兵をサウジアラビアから追放しろという、彼独自の形式の「ファトワ」を出している。この長くて支離滅裂な文書は、イスラムの最も神聖な土地に異教徒の軍隊の存在を認めたサウジ王室を非難し、最近王国で起きたアメリカ軍施設に対する自爆攻撃を祝福している。また、合衆国海兵隊員241名を殺した1983年のベイルートでの自爆攻撃、1992年のアデンでの爆破、そして特に1993年のソマリアでの銃撃戦を「合衆国はその後、失望と屈辱、敗北にまみれ、仲間の死者と共にその地を去った」と賞賛している。
 ビン・ラディンは「ABC」のインタビューに対し、彼とその支持者はソマリアにおいて、さらに長期にわたる戦い ―アフガニスタンでのソビエトに対するような― に備えていたが「合衆国は恥と失望と共にソマリアから逃げだした」と語った。ボロをまとっていても献身的なイスラム教徒の軍隊は、超越的戦力に打ち克つことが出来る例としてアフガニスタンからのソビエト軍の撤退を引用し、彼はインタビュワーに語った。「我々は確実に、アッラーの惠みによって、アメリカ人を圧倒するだろう」そして彼は警告を続けた。「もし不当な現状が続くなら、・・・戦いをアメリカの国土に移すことは避けられない」
  合衆国を攻撃する計画は、1990年代を通して揺るぎない確信をもって進展した。ビン・ラディンは自らを「偉大な伝道者[ムハンマド]の足跡をたどり、彼の言葉をすべての民族に伝える者」とみなした。また、人々の力を結集し、アメリカを破壊する新しい戦いを組織し、世界をイスラム化する者であるとみなした。
2・2 イスラム世界におけるビン ・ラディンの声明   (原文 p.48
 これは政治的、社会的混乱に満ちた豊かな大地から芽を出した、エキセントリックで暴力的な思想の物語である。これは、歴史的な瞬間を掴みとろうとして、身構えている組織の物語である。無差別にアメリカ人を殺せと呼びかけているビン・ラディンは、いかにして何千人の信奉者を得、また何百万もの人達からある程度の賛同を勝ち取ったのだろうか。
 ビン・ラディンがその思想を形成し、また宣伝しているメッセージの源となった歴史、文化および信念の核心などは、多くのアメリカ人には全く知られていない。彼は、イスラムの過去の偉大さの象徴を理解することにより、歴代の外国の支配者の犠牲となっている[イスラムの]人々に誇りを取り戻すことを約束する。聖なる「コーラン」やその解説者達についての、文化あるいは宗教上の比喩を口にする。近代化やグローバリゼーションによるつむじ風のような変化にさらされて、まごついている人びとの心に訴える。彼の言辞はイスラム、歴史、地域の政治あるいは経済上の不安などの多様な源から、都合の良いものを選びだし引用したものだ。また彼はムスリム社会に広く共有されている合衆国に対する不満を強調している。イスラムの最も聖なる土地、サウジアラビアに合衆国の軍隊が存在している事に対し、激しい非難をあびせた。彼は湾岸戦争の後、制裁によってイラクの人々が被っている苦難を語り、また合衆国のイスラエル支援に抗議した。
 写真:アフガニスタンにおけるウサマ・ビン・ラディン (1998)(p.49)(略)
 イスラム 
 イスラム(それは「神の意思に従うもの」との意味) は、ムスリム[イスラム教徒]の信じる所によると、唯一の神の一連の啓示をうけた預言者ムハンマドによってアラビアに興った。その神はアブラハムの神でもあり、またイエスの神でもある。これらの啓示は天使ガブリエルによってもたらされ「コーラン:Qur'an」に記録された。アブラハムからイエスに連なる預言者の鎖の最も偉大で最後の者(ムハンマド)に与えられたこれらの啓示は、人間に対する神のメッセージを完成したものであるとムスリムは信じている。また「ハディース:Hadith はムハンマドの言行を彼と同時代の人々が記録したもので、もう一つの拠りどころとなっている。第三は「シャリーア:Sharia」で、これはコーランとハディースに由来する法典である。
 イスラムは二つの大きな宗派、スンニ:Sunniとシーア:Shiaに分かれている。
 預言者[ムハンマド]が死ぬと直ちに、ムスリム社会あるいはウンマ[イスラム共同体]の新しい指導者、あるいはカリフを選ぶ問題が起こった。当初、後継者は彼の同時代の預言者たちの中から選び出すことが出来たが、時がたつにつれこのような方法は不可能になった。シーア派は「ウンマ」の指導者は大預言者[ムハンマド]の直系の子孫でなければならないと主張し、スンニ派は後継者の信仰と学識がある基準に合致していれば、直系である必要はないと主張した。流血の戦いの後、スンニ派が主流派となり、今もそうである。(シーア派はイランの支配的勢力である)カリフによる統治  ウンマの制度化された支配体制― は、スンニ派の制度として、初めはアラブの、最終的にはオスマン・トルコの支配下で1924年まで続いた。
 多くのムスリムは,預言者ムハンマドへの啓示後の百年を黄金時代として回想する。その記憶はアラブ人たちの間で最も強い。その時起こったこと―それはアラビア半島から、中東、北アフリカ、さらにはヨーロッパまで、一世紀よりも少ない期間でのイスラム圏の拡大である。それはまさに奇跡のように見えたし、今もそう見える。イスラムの過去の栄光への郷愁は、いまも大きな力となっている。
 イスラムは、信仰であると同時に生活のすべての側面における行動の規範である。多くのムスリムにとって、良い政府とは彼らの信仰の道徳的原則によって導かれるものであろう。これはかならずしも宗教指導者による統治や、世俗的な国家の廃止を意味するものではない。だがそれは、ムスリムの統治者たちが歴史を通して宗教と国家を進んで区別してきたにもかかわらず、一部のムスリムは両者を区分することを不快に感じていることを意味している。
 過激主義者にとって、このような区分は、議会や立法機関の存在と同様、統治者たちが生活のすべての局面を覆う神の権威を侵害する、ニセのムスリムであることの証明に他ならない。イスラム世界では ―より適当な言葉が望ましいが―「原理主義:fundamentalism」とラベルを貼られる[思想が]周期的に湧き上がる。信者達のわがままを非難しながら、一部の宗教者たちは「コーラン」と「ハディース」の文言通りの教えに厳格に立ち返るよう訴えてきた。ビン・ラディンが好んで引用する十四世紀の学者、イブン・タイミーヤは、堕落した統治者とそれを批判しない宗教者双方を激しく非難した。彼は、ムスリムは、単に彼自身のように学識のある解説者に頼ることなく、みずからコーランとハディースを読み、その順守の質を互いに維持しあうべきだと説いた。
 この極端なイスラム主義の歴史観によると、イスラムの黄金時代以降の衰退は、彼らの宗教が示す真実の道に背を向けた統治者と民衆によるものだと非難する。その結果、その土地、富、そして魂まで奪うことに熱心な侵略的外国勢力に対して、脆弱なイスラムが残されていると説く。

ビン・ラディンの世界観 
 全世界のリーダーシップを目論んだにもかかわらず、ビン・ラディンは主としてアラブ人とスンニ派に気に入られそうな極端なイスラム史観を提示している。彼は、宗教上の帰依の真の道を放棄して、結果的にカリフ制を破壊した指導者達を非難する原理主義者達の論理に拠っている。彼は「抑圧と屈辱の壁は銃弾の雨によってしか破壊することができない」のだから、殉教を喜んで受け入れるよう、その弟子達に度々求めている。失われた過去の静かな世界の秩序を切に望んでいる人たちに対して、彼は今日の不安定性に変る制度としてカリフ制を提案している。他の者には、彼らの世界を説明する、単純化した策略simplistic conspiracies to explaintheir world)を提供している。
 ビン ・ラディンは、さらにエジプトの文筆家、サイード・クトゥプ(Sayyid Qutb)に深く拠っている。ムスリム同胞団のメンバーで、政府転覆を企んだ罪により1966年、処刑されたクトゥプは、イスラム学に西欧の歴史と思想の非常に浅い知識を混ぜ合せた。1940年代後半に、エジプト政府によって、勉学のため合衆国に送られたクトゥプは、西欧の社会と歴史に大きな嫌悪感を抱いて帰国した。彼は西欧の達成したものは物質的なもののみであるとして排除し、また西欧社会は「その良心を満足させ、存在を正当化する何ものも持たない」と論じた。
 クトゥプの著作は、三つの基本的なテーマを説く。第一に、世界は野蛮と放縦と不信仰に取り巻かれていると主張し、この状況を彼はジャヒリーア:jahiliyya と呼ぶ。(これは預言者ムハンマドに啓示が与えられる前の無知の時代を指す 宗教上の用語である)。 クトゥプは、人間はイスラムかジャヒリーアのどちらか一方であると論じた。第二に、彼はムスリムを含む多くの人々が、イスラム的思考以上に、ジャヒリーアとその物質的安逸に魅了されているので、ジャヒリーアはイスラムに勝利するかもしれないと警告した。第三に、神とサタン[悪魔]との戦いとクトゥプが考えたものにおいて[どちらにも属さない]中間の地は存在しない。したがって ―彼の定義する所の― すべてのムスリムは、この戦いのために武器を手に取らなければならない。彼の考えを拒否するいかなるムスリムも、一人の不信心者として打ち倒すに値する。 
 ビン・ラディンはクトゥプの妥協のない考えに共鳴し、彼とその信奉者には、正当な理由のない大量殺戮さえも、信仰を守るためであれば、正当化されるとした。
 アメリカ人の多くは「なぜ彼らは私たちを憎むのだ?」と思い、またある者は「彼らの攻撃を止めるために、我々は何ができるのだ?」と問うてきた。
 ビン ・ラディンとアルカイダは、これらの問題の双方に回答してきた。最初の問いは、アメリカはイスラムを攻撃したし、ムスリムが巻き込まれているすべての紛争に責任があると言う。かくして、イスラエルとパレスチナの、ロシアとチェチェンの、インドとカシミールの、南方諸島でのフィリッピン政府とエスニック・ムスリムとの戦いで、アメリカは非難される。またアメリカは、アルカイダが「お前の代理人」と嘲笑している、ムスリム諸国の政府に対しても責任がある。ビン・ラディンは 「我々のこれらの政府との戦いは、お前達[アメリカ人]との戦いと切り離す事はできない」と明言している。こういった告発は、イラクからパレスチナに至る地域において、アメリカはその抑圧的な為政者を支持しているとして、合衆国に怒りを向けているアラブやムスリムの中に、ただちに数百万の賛同者を得る。
 ビン・ラディンの合衆国に対する不満は、合衆国の特別な政策に対する反発として始まったものかもしれないが、それは急速に、はるかに深いものとなっていった。第二の質問、アメリカはなにが出来るのか、に対するアルカイダの答えは、ともかく中東を放棄し、イスラムに改宗させ、不道徳と神不在の社会と文化を終わりにせよと言うことだ。「あなたが人類史上最悪の文明であると告げるのは悲しい」。もしアメリカが応じなければ、イスラム世界との戦争になるだろう。アルカイダのリーダーの言葉によれば、「あなた方が生を望む以上に[我々は]死を望んでいる」。
歴史的、政治的背景 
 イスラム社会の中で、原理主義的運動が政治権力を維持した例は殆んど無い。十九および二十世紀において、原理主義者は植民地反対の声が上がるのを手助けしたが、第一次大戦後の世界の熱狂的で非宗教的な独立闘争において果たした役割は僅かだった。西欧の教育をうけた法律家や、兵士、官吏達が大半の独立運動を指導した。そして、宗教指導者の影響や伝統的な文化は、国の進歩の障害になると見なされた。
 第二次大戦に続いて西欧勢力からの独立を獲得した後、中東アラブは、当初のプライドと楽観主義から、今日の無関心、冷淡、絶望の混合した状態にいたる円弧をたどった。幾つかの国では、最高峰をなす部族のもとに、王朝的な国家がすでに存在したか、あるいは大急ぎで作られた。サウジアラビア、モロッコおよびヨルダン王朝は今日もなお生き残っているが、エジプト、リビア、イラク、およびイエメンの王朝は世俗主義的国家主義者の革命によって、結局は崩壊した。
 世俗的な体制は成長する未来を約束した。それはしばしば単一の世俗的アラブ国家を要求する包括的なイデオロギーと結びついていた(それらは、ガマル・アブデル・ナセルエジプト大統領のアラブ社会主義、あるいはシリアおよびイラクのバース党などによって推進された)。しかし出現したのは決まって、一般にはいかなる反対意見も許容しない独裁的な体制であった。議会制の伝統を持つエジプトのような国でさえそうだった。しばしば、彼らの政策 ―抑圧、報酬、移住、および大衆の怒りをスケープゴート(多くは外国人)に転化すること等を用いた― を形成していたのは、権力を固守したいという願望だった。
 1970年代の終わりになると、世俗的独裁的国家主義の破綻は、ムスリム世界全体に明らかとなった。同時にこれらの体制は、平和的手段により反対する、ほとんど全ての道を閉ざしてしまい、彼らの批判者は沈黙するか、脱出するか、暴力的反抗によるかのいずれかの道を選ばざるを得なくなった。1979年のイラン革命はシーア派の神政を権力の座につけた。その成功は、各地のスンニ派原理主義者さえも勇気づけた。
 1980年代には、突然出現した石油の富の洪水の中で、サウジアラビアは、イスラム・スンニ派の原理主義的解釈であるワッハーブ主義を助成することにより、シーア派イランと競合した。それがイスラムの最も神聖な土地の管理者の責務であると常に自覚しているサウジ政府は、王国やペルシャ湾岸の裕福なアラブ諸国と協力して、彼らのイスラムの教義を解釈、説教しまた教育するため、モスクや宗教学校の建設に寄付を行った。
 このような正当性の競合において、世俗の体制は何の代替手法も持ち合わせなかった。その代わりに多くの場合、支配者たちは社会的、教育的問題の統制面で譲歩することにより、地域的なイスラム運動を買収する方法を探し求めた。それに満足するというよりは より大胆になって、イスラム主義者たちは権力抗争を続けた。この傾向は特にエジプトで顕著だった。1981年のアンワル・サダト大統領の暗殺といった暴力的なイスラム運動に直面して、エジプト政府は、イスラム系軍人に対する激しい抑圧と、イスラム学者や文筆家に対する陰険ないやがらせを組み合わせ、その多くを国外へ追いやった。パキスタンでは、軍事政権はその権力掌握を正当化するために、おおやけには敬虔な姿勢をとり、社会・教育面でイスラム主義者を前例のないほど優遇した。
 これらのイスラム的政治の実験は1990年代の間に失敗していった。イラン革命は勢いをなくし、威信と大衆の支持を失った。またパキスタンの支配者は、住民が原理主義者のイスラムにほとんど熱意を持っていないことに気付いた。イスラム主義者たちの復興運動は、ムスリム社会を通じて追随者を獲得したが、イランとスーダン以外では政治的な力を失った。1991年、アルジェリアではイスラム主義者が投票によって権力を得る事がほぼ確実視されていたが、軍が彼らの勝利を横取りし、今も続いている残酷な内戦の引き金を引いた。
 現在の支配者に反対する者が、既存の政治システムに参加する道はほとんど無い。有ったとしても、ごく僅かしかない。かくして、彼らは自分たちの社会を浄化し、有難くもない近代化をはねつけ、聖なる「シャリーア」の呼びかけに進んで従おうとする聴衆となるのだ。
社会的、経済的不安 
 1970年代から80年代の初め、思いがけない富の氾濫が、近代化されていなかった産油国を、数十年の歳月を経ずに一足飛びに発展へと向かわせた。彼らは、巨大な規模の社会基盤整備や教育の拡大、社会福祉計画などに莫大な資金をつぎ込んだ。こうした計画により、受給者意識は大幅に広まったが、それに応じた社会的義務感を伴うことは無かった。しかし、1980年代末、石油収入が減少すると、多くの儲けのないプロジェクトの負担と人口の増大が、これらの給付計画の継続を困難なものとした。給付の縮小は、政府からの多額の贈与を当然の権利と考えるようになっていた受取人の間に、大きな憤懣を生んだ。この憤りは石油収入が直接支配者とその家族、友人、支援者達のポケットに入っていると言う公衆の認識によってさらに火をかきたてられた。
 産油国以外のアラブ諸国とパキスタン(および経済発展が僅かに始まったばかりのアフガニスタン)は、かつてバランスのとれた近代化を目指したように見えた。これらの国では、起業精神と自由な企業についての広い理解に裏付けられて設立された商業、財務、産業の分野で、充分な議論がなされた。しかし、収益の少ない重工業、国の専売事業、不透明な官僚主義が徐々に成長を抑制した。さらに重要なことは、これらの国家中心の体制は、そのエリートたちが国家の富を手に握ることを最優先にしたことである。教育ある若者を惹きつける仕事を作り出すダイナミックな経済を育てる事に乗り気ではなかったので、これらの国々の経済は停滞し、安全弁として産油国もしくは西欧への出稼ぎ労働に頼るようになった。おまけに多くのムスリムの国に見られる女性の抑圧と疎外は、個人の活動の機会を深刻に制限しただけでなく、経済全体の生産性を減じることとなった。
 1990年代までに、高い出生率と乳幼児死亡率の減少がムスリム世界に共通の問題をもたらした。それは好ましい、もしくは安定した雇用を期待できない若者の数が、急激かつ定常的に増加したことである。これは社会を混乱へと導くお決まりの道筋である。これら若者の多くが、宗教学校で学んだだけで、彼らの社会が必要とする技術を欠いていた。また貴重な技術を身につけたより多くの人達も、満足できる仕事を提供できない停滞した経済の中に住んでいた。
 宗教を学ぶ人々と同じように、世俗的なものを学ぶ数百万の人々も、異なる世界の思想や歴史、文化をほとんど学ぶ事のない教育システムから生みだされた人達である。世俗的教育は、人文学や社会科学よりも、技術的分野に偏りがちだ。これらの若者たちの多くは、たとえ海外で学ぶ機会を得たとしても、異なる文化を理解するのに必要な視野と技能を欠いていた。
 自分にふさわしい生活を探し求めるうちに、彼らは欲求不満となり、しばしば家族の大きな犠牲の上に得た教育の恩恵を受けることができず、彼ら自身の家族を持つこともできなかった。こんな状態の若者の一部は、容易に過激派の標的となった。
ビン・ラディンの歴史的好機 
 ほとんどのムスリムは、彼らの信仰の平和的で、排他的でないビジョンを好む。それはビン・ラディンのように過激な宗派主義的なものではない。アラブ人の間で、ビン・ラディンの追随者たちは「タクフィリ:takfiri」あるいは「他のムスリムを不信心者と決め付ける者たち」と呼ばれている。それは彼らに同意しない者たちを悪魔とし、すぐに暗殺しようとするからである。神学以前の問題として、大部分のムスリムは他の人々と同じように、それがいかに正当化されていようと、大量殺戮や野蛮な行為に対して反感を持つという人間的な事実が存在する。
 ブッシュ大統領は「すべてのアメリカ人は、テロの顔は真のイスラムの顔ではないという事を認識しなければならない」と述べたNote 17「イスラムは地球上の十億の人々に満足を与えている信仰である。それはあらゆる種族の人々を兄弟姉妹としてきた信仰である。またそれは憎しみではなく愛に基づく信仰である」しかし、政治、社会、経済上の問題が火の付きやすい社会を作り出し、ビン・ラディンは、イスラムの最も極端な原理主義者の伝統を彼のマッチとして使ったのだ。宗教を含むこれらの要素は、すべて爆発物の中に混合されている。
 他の過激主義者は、彼らの追随者を持っていたし、今も持っている。しかし不満にみちた社会に訴える時、他のリーダーや象徴たちが薄れていったのに対し、ビン・ラディンは信頼できる者としてとどまった。彼は西欧とアメリカに対する抵抗の象徴として、皆の上に存在する事ができた。彼は抵抗の象徴―とりわけ西欧とアメリカに対する抵抗の象徴として存在し続けることが出来た。1980年代のイスラム戦役での偉大な成功経験の勝利の戦士として、自分とその仲間を紹介することができた。ソ連の占領に対するアフガン聖戦である。
 1988年を経て、アメリカ攻撃に焦点を合わせるにつれ、ビン・ラディンは明瞭なアピールをするようになった。地方の支配者やイスラエルを相手とする他の過激主義者は、充分遠くまで出かけてはいないし、彼が「蛇の頭」と名付けた[相手との]仕事を手がけた事も無いと彼は論じた。
 最終的にはビン・ラディンはもう一つの利点 ―実体のある世界的な組織を掌握した。19982月の宣戦布告の「ファトワ」を発表した時点で、彼はこの組織を十年にわたって育て上げてきたことになる。彼はデモンストレーションをするごとに、新たな志願者を惹き寄せ、訓練し、組織に編入し、より大胆な攻撃を仕掛けさせて、これこそ未来の運動であると誇示して信奉者を結集していた。
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2・3 ビン・ラディンとアルカイダの台頭1988-1992  (原文 p.55)
 1979年から1989年にいたるアフガニスタン紛争の十年間は、イスラム過激主義者に集結地点と訓練場を提供した。アフガニスタンの共産主義者政府は、1978年権力を握ったが、支配を継続する事はできなかった。1979年末、ソビエト政府はこの国をモスクワの影響下に確実に留めようとして軍隊を送った。それに対する反応はアフガン国民の抵抗運動で、それはソビエトの軍隊を打ち負かした。
 侵略者に対する聖戦:ジハードと見なされた戦いに義勇兵として参加するため、世界中からムスリムの若者達がアフガニスタンに集まった。最も多かったのは中東からだった。その一部はサウジ人で、その中にウサマ・ビン・ラディンもいた。
 1980年、アフガニスタンに到着したとき23歳だったビン・ラディンは、サウジの建設業界の大物の57人の子供の17番目だった。6フィート5[インチ]、やせ型のビン・ラディンは、外見はあまりよくなかったが、実際には運動家で、乗馬がうまく、ランナーであり、登山家でありサッカープレーヤーでもあった。サウジアラビアのアブドゥル・アジズ大学に在籍していたが、何らかの理由で宗教の勉強に興味を持ち、パレスチナ人でクトゥプの門弟であるアブドゥラ・アザームの火のような説教のテープに鼓舞された。ビン・ラディンは義勇兵達の間で際立った存在だった。それは、彼が宗教の学習成果を示したからではなく、一族の膨大な財産に近付くことが出来たからである。
 ビン・ラディンはアフガニスタンでの聖戦継続と最終的な成功は、次第に複雑さを増し世界的になったある組織に依っている事を、どの義勇兵達より良く知っていた。その組織は、おもにサウジアラビアとペルシャ湾岸諸国の金融資産家をとりまとめた「金の鎖」として知られるようになる金融支援ネットワークを含んでいた。寄付金が慈善事業や非政府組織(NGO)を通じて流れ込んできた。ビン・ラディンと「アフガン・アラブ」たちは、次第にこのネットワークからの財源に依存するようになった。その代理人たちは「ムジャヒディン」あるいは「聖戦々士」に武器や補給品を買い付けるため世界のマーケットを渡り歩いていた。
合衆国を含む世界各地で、モスクや学校、寄宿舎などが戦士の募集拠点として利用された。そのいくつかは、イスラム過激派やその後援者によって作られたものであった。この活動でビン・ラディンは重要な役割を受け持った。彼はアザーム師と共に、アフガニスタンへ新兵を送り込む窓口となる「奉仕団」(MAK)を創設した。
 ビン・ラディンの努力に対する国際的な環境は理想的だった。サウジアラビアと合衆国は、ソビエトの占領と戦っている反乱グループに対する数億ドル相当の秘密の援助を提供した。この援助はパキスタンを通して行われた。「パキスタン軍情報機関」(ISID)は反乱者たちの訓練を手助けし、武器を分配していた。しかしビン・ラディンと仲間たちは、独自の支援と訓練の源を持っており、合衆国からはほとんど、あるいは全く援助を受けなかった。
 19884月、アフガン聖戦に勝利がもたらされた。モスクワは9か月以内に軍をアフガニスタンから引き上げると宣言した。ソビエト軍が撤退を開始したので、ジハードの指導者たちは次に何をするべきかを討議した。
 ビン・ラディンとアザームは、アフガニスタンのために首尾よく結成された組織を解体させてはならないという点で合意した。そして、将来のジハードに備える潜在的指導組織として、彼らが「基地」あるいは「基礎」(al Qaeda:アルカイダ)と呼ぶ組織を創設した。アザームがMAKのトップと見なされていたのだが、19888月の時点で、明らかにアルカイダのリーダー(エミール:指揮官)はビン・ラディンだった。この組織には運営の手足として、情報部、軍事委員会、財務委員会、政治委員会およびメデイア対策と広報を担当する委員会などを含んでいた。さらに、ビン ・ラディンの私的補佐会議(シューラ)も有った。
 ビン・ラディンがアルカイダのかじ取りに就任したことは、彼の自信と野心が増大した証拠である。彼はすぐに、争う余地のない支配と、ムジャヒディンとして世界のどこででも戦う準備をするとの願望を明らかにした。対照的にアザームは、真のイスラム政府ができるまで、アフガニスタンで戦い続けることを希望し、さらにパレスチナ人として、次の最優先の課題はイスラエルであるとみなした。
 二人の議論が権力についてか、個人的見解の相違か、あるいは戦略的なものであったかはともかく、それは19891124日に終わった。遠隔操作の自動車爆弾がアザームを二人の息子と共に殺したのだ。殺人者はライバルのエジプト人たちだったと見なされている。その結果、残されたビン・ラディンは論議の余地なく、残されたMAKとアルカイダ双方に責任を持つ事になった。
 クトゥプの著作や、サウジの教育機関内にいるエジプト人イスラム主義の教師達によって、イスラム主義はすでにビン・ラディンと彼の仲間のアルカイダに対して、大きな影響を及ぼしていた。1980年代末に、エジプトのイスラム主義運動は 、サダト大統領の暗殺に続く政府の厳しい取締まりにより著しい打撃をうけ、 二つの主要な組織;「イスラム・グループ」と「エジプト・イスラム聖戦」に分裂した。双方に共通の精神的指導者 ―特に「イスラム・グループ」にとって― は「盲目のシャイフ」と呼ばれるオマル・アブデル・ラーマンだった。彼の説教がサダトの暗殺を扇動した。1980年代、エジプトの監獄を出たり入ったりした後、アブデル・ラーマンは合衆国に避難所を見つけた。ジャージー・シティー[ニュージャージ]の本部から、彼は不信心者の暗殺を呼びかけるメッセージをばらまいた。
  ビン ・ラディン・サークルの最も重要なエジプト人は外科医のアイマン・アル・ザワヒリであった。彼は「エジプト・イスラム聖戦」の強力な派閥を率いていた。彼の弟子たちの多くが、新しい組織の重要メンバーとなった。そして、彼のビン・ラディンとの強い結びつきから、多くの人達が彼をアルカイダの副代表と考えるようになった。事実何年か後、彼らがその組織を合体させた時、彼はビン・ラディンの副官となった。
ビン・ラディンのスーダンへの移動 
 1989年秋、ビン・ラディンはイスラム過激派の中でそれなりの身の丈に達したので、スーダンの政治指導者、ハッサン・アル・トゥラビは、彼の組織全体をスーダンに移動するように促した。トゥラビは、最近ハルツームで権力を握った連合体の中の「国民イスラム戦線」を率いていた。ビン・ラディンは、南部スーダンで進行しているアフリカ・クリスチャン分離主義者たちとの戦争でトウラビを助け、また道路の建設も行うことに同意した。トウラビはその見返りに、ビン・ラディンに対し、世界的なビジネス展開の基地として、また将来のジハードに備える基地としてスーダンを使用させようとした。1990年、代理人たちがスーダンの不動産を買い始めたころ、ビン・ラディンはアフガニスタンから一旦サウジアラビアに戻った。
 19908月、イラクがクウェートに侵攻した。アフガニスタンでの努力によって名声と尊敬を得ていたビン・ラディンは、アラブ王室にクウェートを取り戻す聖戦のため、彼の聖戦々士:ムジャヒディンを招集することを提案した。彼は拒絶され、サウジは合衆国が主導する連合に参加した。合衆国の軍隊が王国内に基地を置く事にサウジが合意した後、ビン・ラディンとかなりの数のイスラム宗教者たちは公然とその合意を非難し始めた。サウジ政府はイスラム宗教者達を追放し、ビン・ラディンを沈黙させるため ―他にもいろいろとやったが― 彼のパスポートを取り上げた。19914月、王家の中の反体制的人物の助けで、彼はパキスタンでのイスラム集会に出席するとの口実のもと、サウジを抜け出した。1994年、サウジ政府は彼の資産を凍結し、彼の市民権を廃止した。彼はもはや祖国と呼べる国を持たない身となった。
 1991年、ビン・ラディンはスーダンに移動し、ビジネスとテロリストの複雑に絡み合う企業の共同体を創設した。やがて前者は多くの会社と、銀行口座と非政府組織の世界的ネットワークを取り込むはずだった。ビン・ラディンはトウラビとの契約を果たすために、自分の建設会社を使って、ハルツームから紅海沿岸のポート・スーダンにいたるハイウエイを建設した。その間に、アルカイダの財務職員と作戦指揮官たちは、武器や爆発物あるいはテロ作戦のためのいろいろな機材を得るためにビン・ラディン・ビジネス内での彼らの地位を利用した。創設者に一人であるアブ・ハジェール・アル・イラキは、ビン・ラディンの投資会社のトップの地位を使って、西ヨーロッパから極東まで、調達旅行を行った。また1980年代終わりに、アリゾナ州トゥーソンで知り合った他の二人、ワジ・アル・アゲとムバラク・ドウリは、さらに遠く、中国、マレーシア、フィリピンさらに当時ソビエトの連邦であったウクライナやベラルーシまで出かけた。
 ビン・ラディンの一連の事業は、財務面その他でテロリストの活動に必要な支援を隠密裏に提供した。そのネットワークには、キプロスの大手企業、ザグレブの「奉仕」団体支部、セルビアとクロアチアとの紛争でボスニアのムスリムを援助していたサラエボの国際慈善基金の事務所などがある。また「イスラム聖戦」がしてきたのと同様に、チェチェンの反乱イスラムに対する資金の経路および支援センターとして使われていた、アゼルバイジャンのバクーにあるNGOなども含まれていた。彼は、すでに存在していたウイーンに本部がある「第三世界救援機関:TWRA」なども活用した。その支部はザグレブとブダペストにもあった。(後にビン・ラディンはナイロビにNGOを設立し、そこでの工作員の隠れ家とした)
 ビン・ラディンは、いまや彼自身を国際聖戦連合のリーダーとみなしていた。彼はスーダンで、彼が連帯を強めているテロリスト組織が対等の立場で奉仕する「イスラム軍事評議会:シューラ」を組織した。それは、彼が連帯を進めようとしているテロリスト共同の主体となるものだった。それは、なお独立を保っているテロリスト組織のリーダーや代表者と、彼の「アルカイダ評議会:シューラ」によって構成されていた。このイスラム軍を創設するにあたり、彼はサウジアラビア、エジプト、ヨルダン、レバノン、イラク、オマーン、アルジェリア、リビア、チュジニア、モロッコ、ソマリアおよびエリトリアからのグループを兵籍に入れた。さらにアルカイダは、公式なものではなかったが、アフリカのチャド、マリ、ニジェール、ナイジェリアおよびウガンダ、東南アジアのビルマ、タイ、マレーシアおよびインドネシアなどの過激主義者とも協力関係を確立した。ビン・ラディンは、ボスニア紛争とも同様な関係を持った。ここに、真に世界的なテロリスト・ネットワークの基礎が置かれた。
 また、ビン・ラディンはフィリピンのモロ・イスラム解放戦線と、新たに結成されたフィリピンのアブ・サヤフ旅団に対し、装備と訓練援助を行った。アブ・サヤフという名称は、アフガン聖戦での有能な指揮官の一人にちなんで名づけられた。アルカイダは、インドネシアのイスラム主義者に率いられ、その細胞組織が、マレーシア、シンガポール、インドネシアおよびフィリピンに分散している出来たての組織、ジャマ・イスラミア:JI を援助した。また、カシミールの反乱者の攻撃に従事しているパキスタン人グループを援助した。1991年中ごろ、ビン・ラディンはその支持者の一隊を、人種紛争の中にいるタジキスタンのイスラム主義者を助けるため、支援者の一隊を北アフガニスタンの国境に派遣した。その紛争は、ソ連の中央アジア地域が独立した国家となる前から発生していた。
 同盟を作って拡大してゆくこの方式は合衆国にも拡がっていた。アルキーファと呼ばれるムスリムの組織は多数の支部を持っていた。その最大のものは、ブルックリンのファルーク・モスクにあった。1980年代中ごろ、そこはアザームとビン・ラディンの組織MAK[]の最初の外地支部として設立された。アルキーファの支部を持つ他の都市としては、アトランタ、ボストン、シカゴ、ピッツバーグおよびトゥーソンなどがある。アルキーファは、アフガニスタンで戦うために、アメリカ人ムスリムを募集した。彼らのあるものは、1990年代初期の合衆国内でのテロリスト活動や、また1998年の東アフリカでのアメリカ大使館を含むアルカイダの攻撃に参加していたかもしれない。
 
*:Mektab al Khidmat:アフガン奉仕事務所
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 2・4 組織の建設・合衆国への宣戦19921996  原文 p.59 
  ビン・ラディンは、サウジアラビアを去る前に合衆国に対する激しい非難を発表しはじめ、スーダンに到着後も続けた。1992年初め、アルカイダ指導部は、イスラムの土地を「占領」している西欧に対する聖戦のファトワを発表した。そこでは特に合衆国軍隊に対する攻撃を強調している。その文言は、19968月のビン・ラディンの公開ファトワとも類似している。引き続く数週間のうちにビン・ラディンは、しばしば講演を行って「蛇の頭」を切る必要があるという主張を繰り返した。
 この時までに、ビン・ラディンはイスラム過激派の中ではよく知られた先輩格となっていた。特に、エジプト、アラビア半島、アフガニスタン‐パキスタン国境地帯においてそうであった。そしてなお、彼は多くの大物テロリストの内の一人物であった。ビン・ラディンに近い同志達は、部下と言うよりは仲間だった。たとえば、またの名をワリ・カーンとして知られるウサマ・アスムライは、1980年代初めビン・ラディンと共に働き、フィリピンとタジキスタンで彼を助けた。またビン・ラディンが敬服し、ニュージャージに住んでいるエジプト人の宗教指導者「盲目のシャイフ[長老]もまた彼のネットワークの中にいた。アフガニスタンには、同調者仲間でなお権力闘争を続けている二、三の軍閥指導者と、パキスタン国境近くで一般的なテロリストの訓練キャンプを運営しているアブ・ズバイダがいた。そこにはさらに根無し草だが工作員として経験を積んだ、ラムジ ユセフやハリド・シェイク・ムハンマドなどがいた。彼らは誰かの組織に所属する事はなく、世界中を渡りあるいて、ビン・ラディンや「盲目のシャイフ」あるいは彼らの組織が援助する、あるいは関与するプロジェクトに参加していた。
 これらのネットワークのメンバーによって起こされたテロリストの計画を現時点で分析すると、この年代にしばしば「アルカイダの作戦」としてレッテルを貼ったことは誤りだったかもしれない。しかしこれらの結びつきを無視する事もまた誤りである。そしてこのネットワークの中で、ビン・ラディンの行動計画は際立っていた。彼の同盟者であるイスラム主義グループは、エジプト、アルジェリア、ボスニアおよびチェチェンなどの局地的戦闘に焦点を絞っていたのに対し、ビン・ラディンは、「はるかな敵」合衆国攻撃に集中していたのである。
[アルカイダと]知られたまたは疑わしい攻撃 
 1992年遅く、合衆国軍隊がソマリアに展開した後、アルカイダ指導者たちは彼らの追放を要求する「ファトワ」を公表した。12月には、合衆国軍が通常ソマリアへの通過点として利用しているアデン[イエメン]の二つのホテルで爆発があり、アメリカ人では無い二人が殺された。犯人たちは、ビン・ラディンのイスラム軍事評議会:シューラ のイエメン人メンバーに率いられる南イエメンのグループに所属していたと報告された。犯人達のうち、何人かはスーダンのアルカイダ・キャンプで訓練されていた。
 アルカイダの指導者たちはナイロビ細胞を創設し、そこを、合衆国と戦っているナイロビ[ケニア]の軍閥に対し、武器とトレーナーを送るために使った。ある作戦は直接アルカイダの軍事指導者によって監督された。それから何ヶ月かのあいだ、ソマリアには多数のトレーナーがあふれた。その中には、アルカイダの軍事委員会の古参メンバーの大部分と、武器訓練のエキスパートが含まれていた。これらのトレーナーたちは、彼らの援助によって、19938月のソマリア軍事メンバーによる二機の合衆国ヘリコプター、ブラックホークの撃墜をひき起こし、引き続く1994年初頭の合衆国軍隊の撤退をもたらしたと後に自慢したと言われる。
 195511月、リヤドのサウジ国軍訓練のためのサウジ‐合衆国共同施設の外部で自動車爆弾が爆発した。五人のアメリカ人と二人のインドから来た官吏が殺された。サウジ政府は四人の犯人を拘束した。彼らはビン・ラディンに鼓舞されたと認めた。彼らは直ちに死刑を執行された。ビン・ラディンがこの攻撃を命令したと言う証拠は何もなかったが、合衆国の情報機関はアルカイダの指導者達が、一年前からサウジアラビア国内の合衆国の標的を攻撃する事を決定しており、そのための爆発物を[アラビア]半島に輸送していたことを知った。後に、ビン・ラディンの組織の幾つかが、その功績を自分のものだとした。
 1996年6月、サウジアラビア、ダーランの居住総合施設、コバルタワーで大型自動車爆弾による大爆発が起きた。そこには合衆国空軍の隊員も住んでいた。19人のアメリカ人が殺され、372人が負傷した。この作戦はおそらくサウジ・ヒズボラだけで実行された。この組織は、イラン政府の支援を受けていた。イラン人が加わった形跡は濃厚だが、アルカイダが一定の役割を演じた兆候もあり、今のところはっきりしない。
 この時期、ビン・ラディンの関与があったのではないかと思はれる事件としては、1993年のワールド・トレードセンター爆破、同じ年のニューヨークのランドマーク[象徴的建築物]破壊計画、および1995年の1ダースに上る合衆国旅客機を太平洋上で爆破すると言うマニラ航空計画などがある。これらについては第3章で詳しく記す。
 さらに、ビン・ラディンが大量殺人の可能性を探っていたと言う別の計画も明らかとなった。スーダン政府の前のメンバーだった陸軍士官が、兵器レベルのウラニウムの売却を申し出ているとの伝言をビン・ラディンのビシネスの助手が受け取った。仲介者を通じて何回もの接触がなされた後、士官は150万ドルの売価をつけた。それはビン・ラディンをたじろがせるような価格ではなかった。アルカイダの代表者たちがウラニウムを検査したいといったところ、3フィートほどの円筒状の棒を示された。一人は本物といってもよさそうだと思った。アルカイダはその丸棒を購入したようだ。だがやがてそれは偽物である事がわかった。この試みは失敗に終わったが、ビン ラディンとその組織が何をしたがっているかがこれで判る。アルカイダの代表者の一人は、この任務についてこう語った。「ウラニウムを使えば、大勢の人物を簡単に殺せるからな」 (Note 50)
 ビン ・ラディンは、ムスリム社会のあらゆる場所から、テロリスト達を連合に引き入れたように見える。彼の考えは、スーダンのイスラム主義者のリーダー、トゥラビの思想の反映であった。トゥラビはビン・ラディンがスーダンに到着するのに合わせて「一般アラブ・イスラム会議」と称する一連の会議を招集した。ビン・ラディンの「イスラム軍事評議会」に代表される、乱暴なイスラム主義過激派のすべてのグループから代表団が集まった。またパレスチナ解放機構:PLO、ハマス:Hamas およびヒズボラ:Hezbollahなどの組織の代表も来た。
 トゥラビは、シーア派とスンニ派の対立をひとまず脇におき、今は共通の敵に対して合流するように説得しようと思っていた。1991年末から1992年にかけてスーダンで行われた協議において、アルカイダとイラン工作員たちは、主としてイスラエルと合衆国に対する活動のため ―それは単に訓練だけであったとしても― 援助を提供するという非公式の合意に達した。その後ほどなく、アルカイダの古参工作員とトレーナーが爆発物の訓練をうけるためイランにおもむいた。1993年秋、同じような代表団がレバノンのベカー渓谷にゆき、さらなる爆発物訓練のほか、情報と安全についても学んだ。聞くところでは、ビン・ラディンは1983年、レバノンで合衆国海兵隊員241名を殺したようなトラック爆弾の使用法について特に興味を示したと言う。アルカイダとイランの関係は、テロリストの作戦においては、スンニ派とシーア派の区分は超えることのできない境界ではないことを証明した。第7章に記されるように、アルカイダとイランの接触は、その後数年間続いた。
 イラクの独裁者、サダム・フセインは、1991年の湾岸戦争の時代に「十字軍」に対する忠実な防衛者と言うご都合主義的なポーズをとったことを除いては、イスラム主義を宣言したことはなかった。だが、ビン・ラディンはイラクとの協力の可能性についても探ろうとした。一方ではビン・ラディンは反サダム・イスラム主義者の「イラク・クルディスタン」のスポンサーともなってきており、彼らを自分のイスラム軍に引き寄せようともしていた。
 トゥラビは自分のイラクとのつながりを守るため、ビン・ラディンが反サダム活動に対する支援を止めるという合意を仲介したといわれている。ビン・ラディンはしばらくの間は、この制約を守っていたようだが、バクダット[サダム]の勢力範囲外でイラクの一部であるクルディスタンでは、イスラム過激派への支援を続けていた。1990年代末、これらの勢力はクルド軍勢力に敗れたが、2001年、ビン・ラディンの援助によって、新しい組織、アンサール・アルイスラムとして再建された。その頃にはイラク政権は、アンサール・アルイスラムを黙認し、さらには共通の敵、クルド人に対抗するものとして援助すらしていた可能性がある。
 1994年末あるいは1995年初頭、スーダン政府を仲介として、ビン・ラディン自身、イラクの上級情報将校とハルツーム [スーダン]で会談した。ビン・ラディンは武器調達の援助と、訓練キャンプを設ける場所の提供を求めたと言われているが、イラクがこの要求に応じたという証拠は無い。次に記すように、その後の数年には、さらに関係を確立するための努力が見られた。

 スーダンは疑わしい避難所となる 
 1998年まで、アルカイダ自身が主体となるテロリスト作戦は行えなかった。その理由の大半は、ビン・ラディンがスーダンでの基地を失ったことによる。イスラム主義体制がハルツームで権力を握って以来、合衆国その他西欧政府は、テロリスト組織に避難所を提供する事をやめるよう圧力をかけてきた。これらの[テロリスト]グループの標的とされた地域内の他の政府、エジプト、シリア、ヨルダンそしてリビアさえも、それぞれに圧力を加えた。さらに、スーダンの体制にも変化が現れ始めていた。トゥラビはなお精神的指導者だったが、1989年以来の大統領、オマル・アル・バシル将軍は、完全にはトゥラビの指示の下には無かった。こうして外部の圧力が高まるにつれ、バシルの支持者がトゥラビの支持者と入れ代わり始めた。1995年6月、エチオピアでのエジプト大統領:ホズニ・ムバラク暗殺の企てが転換点となったようだ。エジプト・イスラムグループの未遂犯は、スーダンにかくまわれ、ビン・ラディンの援助を受けていた。1996年4月、スーダンが暗殺事件に関係する三人の引渡しを拒絶した時、国連の安全保障理事会は、スーダン政府の不作為を非難する決議を通過させ、結局ハルツーム[スーダン政府]を制裁した。
 敵に保護地を提供するなと言うリビアの要求を、スーダン政府が受け入れようとしていると通知されたことは、ビン・ラディンにとって、スーダンでの滞在期限が来たと言う明瞭なシグナルであった。ビン・ラディンは、彼のイスラム軍の一部であったリビア人たちに対し、もう彼らを保護できない、彼らはこの国を離れなければならないと告げざるを得なかった。これを聞いたアルカイダおよびイスラム軍事評議会の幾人かのリビア人メンバーは、憤慨して彼との一切の関係を破棄した。
 ビン・ラディンには重大な金銭上の問題も起き始めた。スーダンに対する国際的圧力は、世界経済の緊張とあいまって、スーダンの通貨を下落させた。幾つかのビン・ラディンの企業では資金不足が発生した。スーダン当局の寄与は減少し、通常のビジネスの費用も増加した。ビン・ラディン一族に対するサウジの圧力も何らかの影響を与えたかも知れない。ビン・ラディンは彼の出費を縮小し、もっと詳細に管理する必要を認めた。彼は新しい財務担当者を任命したが、その男はビン・ラディンの信奉者達からケチとみなされることになる。
 ビン・ラディンにとって、金銭問題は他の面でも高くつく事となった。スーダン生まれのアラブ人、ヤマル・アーメド・アル・ファドルは、合衆国で暮らし、アフガン戦争中に、ブルックリンのファルーク・モスクでリクルートされた。彼はアルカイダに加入して、ビン・ラディンに忠誠を誓い、彼のビジネスの代理人の一人として仕えていた。ビン・ラディンは、ファドルが約11万ドルの上前をはねていた事を発見し、返還を要求した。ファドルは、アルカイダのあるエジプト人は月1,200ドルを与えられているのに、自分は月500ドルしか受け取っていないと憤慨した。そして組織を離れ、合衆国への有力な通報者となった。ルーセイン・エレクトウもまた、合衆国法廷でアルカイダについて証言している。彼は妻の帝王切開が必要となったとき、ビン・ラディンに金を要求したが、断られたためビン・ラディンから離れたと語った。
 1996年2月、スーダン当局は合衆国および他の政府の関係者と接触し、どうすれば外国からの圧力を弱める事ができるかを尋ねた。またサウジ側との秘密会談で、スーダンはビン・ラディンをサウジアラビアに追放すると申し出、サウジが彼を許すことを求めた。三月までには、合衆国筋がこの秘密会談を察知したのは確かである。サウジ側は明らかにビン・ラディンのスーダンからの追放を求めていた。しかし、サウジはすでにビン・ラディンの市民権を取り消しており、もう彼の国内での存在を黙認することはできなかった。ビン・ラディンも、もはやスーダンが安全だとは感じていなかったであろう。スーダンで彼は少なくとも一回、暗殺を逃れたことがあった。彼は、これはエジプトかスーダン、あるいは双方の体制側の仕業だと信じていた。ともかく1996519日、ビン・ラディンはスーダンを去った―その野望と組織力にもかかわらず、彼は著しく弱っていた。彼はアフガニスタンへと戻った。
2・5 アフガニスタンでのアルカイダの革新(1996-1998 (原文 p.63
 [19965月]ビン・ラディンは、リースした飛行機によってハルツームからジャララバード[アフガニスタン]に飛んだ。途中、給油のためアラブ首長国連邦に立ち寄った。彼は家族、ボディーガードおよびアフガニスタンにおける1988年の創設以来のアルカイダの側近を伴っていた。引き続くフライトで数十名の兵士たちも到着した。
 ビン・ラディンの着陸地はアフガニスタンだったが、合衆国と戦うという彼の野心的な企画を再興する基地としてアフガニスタンを使う可能性の鍵を握っていた国はパキスタンだった。
 パキスタンの存在基盤は、国家成立後の四分の一世紀の間、イスラムに由来していたが、その政策は明らかに世俗的なものだった。陸軍は国内で最も力を持ち、かつ尊敬される組織だったし、今もそうだ。そして陸軍はライバルであるインドと、特にカシミールをめぐっての紛争に専念し続けている。
 1970年代以降、宗教がパキスタンの政界で力を増し始めた。1977年のクーデター以後、軍の指導者たちは支持を求めてイスラム主義グループに傾き、イスラム原理主義者たちはより輝かしい存在となった。南アジアにはこの地固有のイスラム原理主義が存在していた。それは19世紀インド[北部]の村、デオバンドの学院[スンニ派]で発展してきた。サウジの財団によって育てられたイスラム・ワッハーブ派の影響力も、サウジ基金による教育機関の支援を受けて増大していた。おまけに、アフガニスタンでの戦闘で、パキスタンは膨大な、おおむね望ましくないアフガン避難民の居留地となっていた。パキスタンの教育財政はひどく逼迫して、難民の教育までは出来かねたので、政府はますます無料の教育機関として、個人の資金による宗教学校(*)に頼るようになった。年を経るうちに、これらの学校は、深いイスラムの思考を持つが、社会に売り込める技術を持たない、半端な教育を受けた若者を大量に作り出した。   (*)「マドラサ」と呼ばれていたが、寺子屋的な施設だったという。(訳註)
 パキスタンの支配者たちは、これらの熱意ある若者達が、国内では厄介者だが、国外では潜在的な使い道があることに気付いた。イスラム法の厳格な解釈を支持するタリバン運動に参加した者たちは、混迷のアフガニスタンに秩序をもたらし、パキスタンの協力的同盟者とすることができるだろう。そして幾つかの国境地帯の一つ、特に軍幹部が「戦略的深部」と呼ぶ地域に大きな安定をもたらすだろう。そこはパキスタン軍幹部が安定を望んでいた場所[アフガニスタン―パキスタン国境地帯]である。
 もしパキスタンが承認しなかったら、ビン・ラディンはアフガニスタンへ戻れなかっただろう。パキスタン軍情報部は、彼の到着について事前に情報を持ち、おまけに情報部員はそれを促進していたようだ。スーダン滞在の全期間中、彼はゲストハウスと訓練キャンプをパキスタンとアフガニスタンに維持していた。これらは、イスラムの反乱が起きているタジキスタン、カシミール、チェチェンなどの戦闘員の募集と訓練のために、複数の組織によって使われてきた膨大なネットワークの一部だった。聞く所では、パキスタンの情報将校が、ビン・ラディンをタリバンのリーダーに、彼らの有力拠点であったカンダハルの基地でひき合わせ、コースト近くのキャンプについて、ビン・ラディンの支配の再確認を助けたといわれる。そうした行動には、ビン・ラディンが今度はキャンプを拡張し、カシミールの戦闘員の訓練にも利用するだろうとの期待が見えみえだった。
地図:アフガニスタン (p. 64)(略)
 しかし、ビン・ラディンは初期のソ連軍との戦闘以来、最も弱い立場にいた。スーダン政府は、その地に彼が創設した企業の登記を取り消し、その内の幾つかを競売にかけていた。古参のアルカイダの拘留者によれば、スーダン政府はビン・ラディンがそこで所有していたすべてを没収していた。 
 彼はまた、彼の軍事委員会の長であるアブ・ウバイダ・アル・バンシリを失っていた。彼は最も能力があり大衆的なアルカイダのリーダーの一人だった。大部分のグループのリーダー達は、アフガニスタンにビン・ラディンと同行していたが、バンシリはケニアに留まり、約四年前に設立された細胞の訓練と武器の船積みを管理していた。彼はビン・ラディンがジャララバードに到着した丁度二、三日後に、ビクトリア湖のフェリーボートの事故で死んだ。その結果、ビン・ラディンには 評議会:シューラ の委員だけでなく、各細胞の総括責任者、また東アフリカでの来たるべき作戦の指揮官など、彼の「あとがま」を新たに任命する必要が生じた。彼は同様にさらに幾つかの調整を行う必要があった。というのはアルカイダのメンバーの一部には、ビン・ラディンのアフガニスタン帰還を、彼と袂を分かち、わが道をゆく好機だと考えた者がいたのだ。いくらかはアルカイダとの協力関係を維持したが、多くは全く離反した。
 しばらくの間、ビン・ラディンにとってタリバンを同盟者とすることが最良のカケになるのかは明らかでなかった。彼がアフガニスタンに到着した時、タリバンは国の大部分を支配していたが、カブールを含む主要都市はなおライバルの軍閥の支配下にあった。はじめ、ビン・ラディンはジャララバードに行った。おそらくそこが国の権力の競争者としては有力ではないイスラム・リーダーの地方評議会の支配地域だったためだろう。彼は主要なムジャヒディンの派閥の一つの長であるユニス・カリスに宿を借りた。ビン・ラディンは、イスラム過激主義者であるがタリバンの最も有力な軍事対抗者である、ガルブディン・ヘクマティアルとも接触を保ちながら、彼の選択肢を自由にしていた。しかし19969月、まずジャララバードが、ついでカブールがタリバンの手に落ちると、ビン・ラディンは彼らとの結びつきを強くした。
 この過程は常にスムーズにいった訳ではない。もはやスーダンに対して何の義理もなくなったビン・ラディンは、その聖戦に対する訴えを発表する新しい自由を得たとはっきり自覚した。タリバンがジャララバードとカブールに対してその最終攻撃を仕掛けているまさにその時、ビン・ラディンは19968月のファトワを発表した。それは「われわれは・・・ムスリムについて語ることを妨げられ続けてきた」と始まり「アッラーのみ惠により、ホラサンで、高いヒンズークシュ山脈の中に安全な基地を得ることになった」と安堵を表明する。しかしスーダンの場合と同様タリバンも、サウジ王室を含む[国々の]警告を受ける事になるだろう。
 ビン・ラディンはタリバン指導者に慎重である事を約束したが、すぐにそれを破って19973月、CNNとの扇動的なインタビューを行った。タリバンのリーダー、ムラー・オマールは直ちに彼をカンダハルに「招待」し移転させた。表向きはビン・ラディンの安全のためという理由だったが、彼をコントロールしやすい所に置くというのが本当の所だろう。
 この時期、ビン ・ラディンがイラク体制に何らかの協力を申し出て、何人かの人物を送り出した形跡がある。有意義な反応を得たとの報告は皆無だった。ある報告では、この時期のサダム・フセインの努力はサウジおよび他の中東諸国との関係再建にあり、ビン・ラディンとの関係は白紙にしていた。
 1998年中頃、状況は逆転した。聞くところではイニシアティブを取ったのはイラクだった。合衆国に対する公開ファトワ発行後の19983月、イラクの情報機関と会うため二人のアルカイダ・メンバーがイラクを訪れたと言われる。7月に入るとイラクの使節団がまずタリバンと、次いでビン・ラディンと会うためアフガニスタンを訪問した。これらの会談の一つあるいは両方が、明らかにイラクとの個人的な関係を保っていたビン・ラディンのエジプト人副官、ザワヒリによって設定されたと情報源は述べている。1998年、イラクは合衆国からの強い圧力の下にあった。それは12月の空爆によって最高潮に達した。
 タリバンとの緊張が高まったとされている1999年の間、イラク当局とビン・ラディンあるいはその代理人との間に、同様の会合が持たれたようだ。報告によればイラク側はビン・ラディンにイラク国内に安全地帯を提供すると申し出た。ビン・ラディンは辞退した。彼はイラクを選択するより、アフガニスタンの環境のほうがより快適であると判断したようだ。この報告は両者の友好的な接触を記述し、また合衆国に対する憎悪という共通のテーマを示している。しかし、この時期あるいはそれ以前の会合が、共同作戦の関係まで発展したという証拠はこれまで全く見つかってはいない。さらに、イラクがアルカイダと協力して、合衆国に対する攻撃を計画、実行したといういかなる証拠も発見されていない。  
 結局、ビン・ラディンはサウジと「金の鎖」に連なる他の資産家たちのお蔭で、アフガニスタンにおいて強力な財政的立場を享受できた。ムラー・オマールとの関係を通じて ―またタリバンにもたらされる金融上その他の利益によって― ビン・ラディンは束縛から抜け出る事が出来た;ムラー・オマールは、他のタリバン指導者が反対する時も常に彼の側に立った。ビン・ラディンはアフガニスタンでは、スーダンで欠いていた行動の自由を持っていたようだ。アルカイダのメンバーは、国内を自由に旅行することができ、またビザや出入国手続き無しに国を出入りできた。自動車や武器を購入し、輸入し、アフガン防衛省のナンバープレートを使う事も可能だった。アルカイダは、また資金の国内持ち込みにアフガン国営航空であるアリアナ航空を使った。
 タリバンは、キャンプでの訓練のためにアフガニスタンを訪れる事を望むすべての人にドアを開けていたらしい。タリバンとの同盟で、アルカイダは保護区を得た。そこでは戦闘員やテロリストを訓練し、教化し、あるいは武器を輸入し、他の聖戦グループやリーダーとの絆を強化し、さらにはテロリストの陰謀を計画し配置することができた。一方、ビン・ラディンは彼独自のゲストハウスと新兵の検査および訓練のためのキャンプを維持していた。そして、イスラム運動の世界的ネットワークに役立つために設けられた、アフガニスタン国内のこれらの膨大なインフラ設備を支援し、かつ利用していた。1996年から2001年9月11日までにアフガニスタンのビン・ラディンのキャンプで教化訓練を受けた戦闘員の総数は、一万から二万人に及ぶと合衆国の情報機関は推定している。
 戦闘員と特殊工作員の訓練に加えて、ゲスト・ハウスとキャンプからなるこの大きなネットワークは、組織に入隊させるためにアルカイダが候補者を篩い分け、審査するための仕組みとしても機能していた。数千人がキャンプにあふれたが、アルカイダのメンバーになったのは二、三百人以下だったと見られる。創立以来、アルカイダは「ふさわしい」候補者を認定するため、訓練と[宗教的]教化を活用してきた。
 この間にもアルカイダは多くの中東のグループと密接に協力してきた。エジプト、アルジェリア、イエメン、レバノン、モロッコ、チュニジア、ソマリア、その他ビン・ラディンがスーダンにいた時つながりを持ったあらゆる所のグループと。また、ロンドンの拠点やその他のヨーロッパ周辺、バルカン、コーカサスの支部をてこ入れした。さらに、ビン・ラディンは南および東南アジア過激派との間の結合も強化した。それにはマレーシア・インドネシアJI[ジャマ・イスラミア]やカシミール紛争に携わっていたパキスタンのいくつかのグループを含まれていた。
 このようにして、一年半にわたる作業の後、1998年2月のファトワは、新しくなり強化されたアルカイダについてのある種の社会的発信と見なされた。基金募集ネットワークの再建により、ビン・ラディンは再びジハード運動の中の金持ちとなっていた。彼は世界中のテロリストとのつながりを維持し、あるいは再建してきた。そしてまた彼自身の組織内部の結合も強化してきた。
 アルカイダの中核部分は、地位、任務、給与が明確に規定されたトップ・ダウンの階級構造を引き続き維持していた。中核にいる、全員ではなかったが大部分の者は、ビン・ラディンに忠誠の誓い(バイア)を行っていた。他の工作員たちはビン・ラディンや、もしくは彼の目的のために献身し、課せられた任務の遂行を誓った。しかし、彼らは忠誠の誓いを行うことはせず、ある種の自治を保つか、あるいは保とうとしていた。支持者たちの緩やかな集団は、アルカイダに献金したり、キャンプでの訓練に参加したりしたが、基本的には独立していた。とはいえ、彼らはアルカイダにとって有力な人的資源であったことに変わりはない。
 ザワヒリの「エジプト・イスラム聖戦」を効果的に併合し、アルカイダはいまや「イスラム軍事評議会」を必要とすることなく、国際テロリズムの全般的指導部となる事が約束された。ビン・ラディンはスーダンでやりかけていたことを展開することにした。彼は「蛇の頭」に一撃を加える準備ができたのだ。
 テロリストの計画におけるアルカイダの役割も変化した。アフガニスタンに移動する前は、同盟グループの戦闘に対する資金、訓練および武器の提供などに専念していたが、1998年夏の東アフリカの合衆国大使館に対する攻撃は異なる方式をとった。計画、指揮および実行はビン・ラディンとその主な補佐役たちの直接の監督のもとに、アルカイダによって行われた。
 大使館爆破
 199312月、早くもアルカイダの工作員チームはナイロビでの将来の攻撃のため、その目標の予備調査を始めた。そのチームは、以前エジプト軍の将校だったアリ・モハメドに率いられていた。1980年代中頃、彼は合衆国に移住し、合衆国陸軍に入隊して、フォートブラックで教官となった。彼はブルックリンのファルーク・モスクで、過激主義者たちに指導と訓練を行っていた。教え子の中には、1993年2月のワールド・トレードセンター爆破に関し有罪を宣告された者達もいた。調査チームにはコンピュータの熟練者も含まれており、その報告はアルカイダ指導者達に検討された。
 この時期、調査チームはナイロビのあるアパートに、調査した写真のための臨時の現像所を設けていた。このアパートはケニア細胞の拠点であり、またはそこへ出かけるアルカイダのリーダーや工作員たちの接触する場所でもあった。バンシリはアルカイダの軍事委員会の長であったが、細胞の作戦指揮官を兼ねていた。彼は常に移動していたので、ビン・ラディンは現地の管理者として他の工作員、ハレド・アル・ファワズを派遣した。これらの任務に使用する監視および通信機器には、中国あるいはドイツの商社から入手した最新型美術用state-of-the-art)のビデオカメラが含まれていた。調査チームはジブチの目標についても調査した。
 19941月、ビン・ラディンは早くも調査報告を受け取った。それはチームのコンピュータ専門家の手になる、図面つきの完璧なものだった。ビン・ラディンは、彼の軍事委員会のトップメンバーの、バンシリとその副官のアブ・ハフス・アル・マスリ(モハメド・アテフとして知られる)その他のアルカイダの指導者達と報告を再検討した。その結果、ナイロビの合衆国大使館は自動車爆弾を近接して駐車できることから、容易な攻撃目標であると合意され、彼らは計画を練り始めた。アルカイダはこうした攻撃のため、その数ヶ月前から実戦上の専門技術の向上に努めていた。軍事委員会のトップとケニア細胞を含む工作員たちが、レバノンのヒズボラ訓練キャンプに送られた。
 ケニア細胞は度重なる分裂を経験した。それが、計画の実行にかなりの遅れを生じる一因となったかもしれない。またビン・ラディンが1995年スーダンで遭遇した困難とアフガにニスタンへの移動、その後にタリバンとの連帯のために費やされた数ヶ月が、バンシリの事故による溺死などもあいまって、そうした結果につながった。
 19978月、ケニア細胞はパニックとなった。ロンドンの「デイリー・テレグラフ」がアルカイダの前の財務委員長であったマダニ・アル・タイーブがサウジ政府に寝返ったと報じた。記事は(不正確だったが)サウジ当局はタイーブの情報を、合衆国および英国当局と共有していると述べていた。時を同じくして、細胞員たちは、合衆国とケニアの捜査員たちが、ナイロビの地区専属管理者となったばかりのワジ・アル・アゲの住居を捜索し、アゲの電話が盗聴されていた事を知った。彼は1980年代にアフガニスタンでビン・ラディンと共に働いた合衆国市民である。彼は1992年にスーダンに行き、アルカイダの主要な財務工作員の一人となった。アゲがビン・ラディンの調査をしている大陪審に出頭するため合衆国に帰った時、細胞管理者の仕事はケニア市民のアルン・ファズルに引き継がれた。彼は1990年、ビン・ラディンのスーダン先遣隊の一員だった男で、複数のサイトに「安危情報」をファックスして「東アフリカの同志たちは重大な危機にある。・・・ビン・ラディンの信奉者たちが・・・ソマリアでアメリカ人を襲撃したことが・・・アメリカに知られたから」と警告し、さらなる露見を避けるための指示を与えていた。
 1998223日、ビン・ラディンは公開ファトワを発表した。その文面は、ビン・ラディンの組織とザワヒリの「エジプト・イスラム聖戦」の間で進行中だった合併交渉の一部として、しばらく前から協議されていたものだった。ファトワの発表後、1月も経たないうちに大使館攻撃チームがナイロビとダルエスサラームに召集された。そのタイミングと指示の内容は、襲撃実行の決定がファトワの公開に合わせて行われたことを示している。
 これに続く4か月はナイロビとダルエスサラームでのチームの立ち上げに費やされた。細胞のメンバーは住居を借り、爆発物の原料と運搬車両を買い入れた。爆発物の専門家が少なくとももう一名、爆弾の製造を手助けするために連れてこられた。ナイロビではホテルの一室が工作員の宿泊のため借りられた。自爆用トラックは攻撃日の直前に購入された。
 この間、ビン・ラディンは彼の公開メッセージの主張を押し進めていた。57日、アルカイダ軍事委員会の主席副官であるモハメド・アテフが、アフガニスタンにいる長老たちの出した新しいファトワをロンドンのビン・ラディン事務所に、ファックスで送ってきた。一週間後にそれはロンドンのアラビア語新聞「アル・クズ・アル・アラビ」に掲載された。それはビン・ラディンの2月のファトワを最初に公開した新聞である。今回もイスラムの敵に対する聖なる戦いの実行と、湾岸地区からアメリカ人を追放する事はムスリムの義務であるという同じメッセージを伝えた。2週間後、ビン・ラディンは「ABCニュース」のビデオインタビューに応じて同じスローガンを語り「我々は、軍服を着ているか、民間人かを区別しない。このファトワでは彼らはすべて標的である」と付け加えた。
 81日、この計画に直接関係のない細胞メンバーの殆どが東アフリカを離れた。残った工作員たちは準備を始め、爆弾を組み立て、輸送車両を確保した。84日、彼らはナイロビの大使館に最後の下見のためのドライブを行なった。86日夕方までに、運搬要員と証拠の痕跡を取り除く任務を与えられた12名を除く全員が東アフリカを去った。アフガニスタンに戻ったビン・ラディンとその指導部は、合衆国の報復を予期してカンダハルから田園地帯へと退避した。攻撃の実行声明は、すでにバクーにある、アルカイダ―エジプト・イスラム聖戦合同事務局に「『アルクズ・アルアラビ』に『直ちに』転送せよ」との待機要員への指示付きで、ファックスされていた。その一つは聖なる地の解放のためのイスラム軍の設立宣言で、他の二つ ―各大使館に一つずつ― はこの「イスラム軍」の「一大隊」に属する「中隊」がこの攻撃を実行したと言明していた。
 87日の朝、爆弾を搭載したトラックが約5分の差で二つの大使館に突入した。ナイロビでは午前1035分、ダルエスサラームでは同39分だった。その直後、バクーからロンドンに一本の電話がかかり、かねて用意されていた声明がロンドンにファックスで送信された。
 ナイロビの合衆国大使館攻撃は、大使館を破壊し、12人のアメリカ人とそれ以外の201人(その大部分はケニア人)を殺し、負傷者は約5,000人に及んだ。ダルエスサラームの合衆国大使館攻撃では、さらに11人が殺されたが、アメリカ人は含まれていなかった。後のインタビューで、ビン・ラディンはアフリカ人の死亡について「アメリカ人を攻撃なしに追い払うのが明らかに不可能な場合には、たとえムスリムが巻き添えになろうと、イスラム法のもとでは許容される」と答えた。これらの襲撃の首謀者は彼ではないのかとの質問に対して、ビン・ラディンは、世界イスラム戦線による「ユダヤと十字軍」に対する聖戦には「水晶のように明瞭」なファトワが発表されていると述べた。もし聖地解放のためにユダヤおよびアメリカ人に対して聖戦を扇動する事が「犯罪と見なされる」ならば「私が犯罪者である事は、歴史に証明させよう」と彼は語った。


第2章 Note   

Note 17. (要約)ブッシュ大統領のアラブおよびムスリム系アメリカ人との円卓会議での演説。(2002.9)

Note 50. (一部略) 裁判におけるファドルの証言。 Feb,13. 2001

Note 93,  ABCインタビュー Dec.22,1998


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