第3章:テロリズム対策の進歩    (原文 .71
 2章で、我々は新しい種類のテロリズムの成長と、新しいテロリストの組織について ―特にウサマ・ビンラディンが戦争を宣言し[東アフリカの]二か所の合衆国大使館の爆破を組織した1988年から1998年までについて― 記述した。この章では、これと並行して進化した、イスラム過激派によるテロリズムに対抗する合衆国政府の取り組みの跡を追う。
 この報告の中では多くの人物について述べる。合衆国政府についての研究はどれもそうだが、いくつかの最も重要な役割を演じたのは組織である。我々は種々の官庁を紹介し、彼らがどのように新しい種類のテロリズムに順応したかを述べる
 3・1 古いテロリズムから新しいテロリズムへ:
     
初のワールド・トレードセンター爆破
  (原文 p.71
 1993年2月26日、正午を18分過ぎた時「ワールド・トレードセンター」のつのタワーの下で巨大な爆弾が爆発した。これは自爆攻撃ではなかった。テロリストたちは、地下2階の駐車場に時限装置付きの爆弾を積んだトラックを駐車させて立ち去った。引き続いて起こった爆発は七つ上の階まで達する穴をあけた。六人の人々が死に、負傷者は千人を超えた。現場に立ち会ったFBI捜査官は、死者が比較的少なかったのは奇跡的だったと述べている。
 大統領ビル・クリントンは、「国家安全保障会議:NSC」に対応の指揮を命じた。政府各官庁は、直ちに容疑者発見のための活動を開始した。CIAにあった「テロリスト対策センターCTC」は、ファイルを繰り返し調べ、世界中にその根源を探った。国防総省の巨大な通信収集機関「国家安全保障局:NSA」は、その通信傍受網を強化し、手掛かりを掴もうとデータベースを探した。FBIの「ニューヨーク地区支局」(The New York Field Office)は、地域の捜査を監督し、最終的には将来のテロリスト事件に対処する方式を定めた。
 この出来事の四つの特徴は、9/11事件にとって重要性を持つ。
第一に、この爆発は、その怒りと敵意に限界のない、新しいテロリストによる挑戦の合図だった。この爆破を仕掛けたスンニ派過激主義者のラムジ・ユセフは、後に二十五万人を殺したかったと言った。
第二にこの爆破の捜査において、FBIと司法省は、非常に優れた仕事をした。何日もたたないうちに、FBIはトラックの残骸が、ライダー社のレンタル・バンの部品である事を突き止めた。バンは爆破の前日、ジャージーシティーで盗難届が出されていた。
 トラックを借り、それが盗まれたと申し出ていたモハムド・サラメは、預託金の400ドル取り戻そうとレンタル事務所に電話をかけ続けていた。199334日、FBIは現地で彼を逮捕した。短期間にFBIは数人の計画者を拘留した。その中には爆弾用の化学物質を調達したエンジニア、ニダル・アヤドおよびその調合を手伝ったマームド・アブハリマなどが含まれていた。
 FBIはもう一人の共謀者、アマド・アヤユも特定した。彼は19929月、ジョン・F・ケネディー国際空港で、入国管理当局によって逮捕され、書類偽造の罪で告発されていた。彼の旅行仲間はラムジ・ユセフだった。彼もまた偽造書類で入国し告発されたが、政治亡命を申請し認められていた。この攻撃の中心人物がユセフであることはすぐに明らかになった。彼は爆破の直後パキスタンに逃れ、ほぼ二年近く逮捕をまぬがれた。
 サラメ、アブハリマおよびアヤドの拘束で、FBIはブルックリンのファルーク・モスクに目をつけた。そこの中心人物は、スンニ派ムスリム過激主義者のシャイフ[宗教指導者]オマル・アブデル・ラーマンだった。彼は1990年にエジプトから合衆国に移住して来ていた。視力を失い「盲目のシャイフ」と呼ばれていたオマルは、演説や著述の中で、サイード・クトゥプの「道しるべ」のメッセージを説教して、合衆国を全世界のムスリムの抑圧者であると決めつけ、神の敵と戦うことは彼らの宗教上の義務であると力説していた。あるFBIの情報提供者が、オランドおよびリンカーン・トンネルを含むニユーヨークのランドマーク[代表的建造物]爆破計画を知った。「ランドマーク計画」の粉砕にあたり、FBI1993年6月、オマルとその他、多くの共謀者たちを逮捕した。 
 捜索と逮捕の結果「ニューヨーク南部地区・連邦検事(Attorney)」はアヤユ、サラメ、アヤド、アブハリマ、盲目のシャイフおよびラムジ・ユセフを含む多数の人物を、ワールド・トレードセンター爆破およびその他の陰謀に関した罪について起訴し、有罪とした。
 この捜索(investigation)と起訴の手際があまりにも見事だったため、残念なことに法の執行組織は完璧で、テロリズムに十分対抗できるという盲信が生まれた。はたして盲目のシャイフやラムジ・ユセフを逮捕・起訴しただけで、この新型ウイルスからアメリカ国民を本当に守れるのか、彼らはその最初の兆候に過ぎないのではないかという疑問を、クリントン大統領とその顧問たち、議会、ニュースメディアのうち誰一人として、あえてこの時点で追求しようとはしなかった。
 第三に、最初のワールド・トレードセンター爆破に対して法的機関が有効に作用したことで、アメリカ合衆国が直面している新しい脅威の本質と規模をしっかりと検証する必要性を曖昧にしてしまう、副次的効果を生じた。この事件の数度の裁判で、民衆や政策立案者がビン・ラディンのネットワークに注目するようになることは無かった。
 FBIがとりまとめ「連邦検事局」が提出した証拠のいくつかは、被告席にいる者達だけが計画者ではないことを示していた。アヤユから押収された資料は、この計画やそのほかの計画が、アフガニスタン―パキスタン国境のテロリスト訓練キャンプ、ハルダン・キャンプもしくはその近くで孵化したことを示していた。19924月、アヤユはテキサスを離れてそこに行き、爆弾の製造方法を学んだ。彼はパキスタンでラムジ・ユセフと会い、合衆国の爆破目標について討議し、また「テロリスト・キット」を組み上げた。そのキットには、爆弾製造マニュアル、作戦指導書、合衆国に対するテロ活動を扇動するビデオテープ、偽造身分証明書などが含まれていた。
 ユセフは、19951月、フィリピンでのマニラ航空計画が警察により摘発されたのに続いて、パキスタンで逮捕された。マニラ航空計画とは十数機の太平洋横断航空便に爆弾を積み込んだ後、同時に爆発させることを想定したものだった。ユセフの叔父で当時カタールにいた、ハリド・シェイク・ムハンマド[KSM]は、マニラ航空計画についてのユセフの共謀者で、トレードセンター爆破に先立ってユセフに電信で送金を行なっている。19961月「連邦検事」はKSMに対する起訴状を取得したが、おそらくカタール政府職員の誰かが彼に警告したのだろう。ハリド・シェイク・ムハンマドは巧みに逃亡した。(そして捕まることなく、9/11攻撃に中心的役割を果たした)
 法の執行プロセスは、逮捕され告発された人物の罪を証明することを眼目としている。捜査官と検察官は、たとえ彼らが捜索を継続しており、今後の起訴を計画または希望していたとしても、告発された部分以外の、個人が関与しているかもしれない証拠のすべてを提出することはできない。このプロセスは、その性格上、事件は終わった 事件は解決され正義は成された― と民衆に示すためのものである。それは、さらに悪いことが起こる前兆ではないか、と問うようには意図されていない。まして、より一般的にテロリスト戦術の手がかり 合衆国内への入国や資金調達の方法、戦術の様式など― を調べるためであったとしても、そのために事実を収集し分析することなどは許されない。
 第四に、爆破事件で新しいテロリストの脅威に対する民衆の意識は高まったが、首尾よく起訴できたことで、この脅威を過小評価する傾向がひろまった。連邦検事(The government's attorney)たちは犯罪の重大性を強調し、ユセフが技術的にいかに巧妙かという証拠を提出した。しかし民衆の間に広まった印象は、賢いユセフについてではなく、馬鹿なサラメはレンタカーの預託金400ドルを返してもらうため何回も[レンタル会社に]出かけたということだった。

                       
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    3・2 法執行機関の順応と非順応      (原文 p.73
 こうした、新タイプのテロリズムの初期の兆候への対応として、まず考えられるのは法的手段を取ることである。したがって、それに対処する合衆国の能力を概観するために、まずこの国家の巨大な法執行機関複合体から始めることにする。
 司法省とFBI
 連邦[=国家]レベルでは、法の執行の大部分は司法省に集中している。テロリズム対策について司法省管轄下の最有力機関は「連邦捜査局:the Federal Bureau of Investigation[FBI]」である。FBI包括的な権限(general grant of authority)の認可は持っていないが、それに代わる特定の法的権限(specific statutory authorization)のもとで活動している。その仕事の多くは、地区支局(local office)と呼ばれる現地の支局で行われている。地理的に指定された範囲を受け持つ56の地区支局がある。それぞれが特定の地理的範囲を担当し、他の支局とは完全に切り離されている。9/11以前は、任務に就いた特定の捜査官は、一般的にはその優先順位を自由に設定する事ができ、また状況に応じて担当者を任命する事ができた。 
 支局の優先順位は、二つの基本的な事柄によって決められる。第一に、局内の業績は、逮捕者数、起訴手続き、起訴数および有罪判決数などの統計的数値によって評価される。テロリスト対策や防諜の仕事は、必ずしも有効な、あるいは計量可能な結果をもたらすとは限らない非常に長期にわたる情報捜査を含み、昇進には結びつかない。管理者クラスに達した捜査官で、テロリスト対策の経験者は殆どいない。第二に、優先度は地域レベルの地区支局で決められた。その関心は経済上の違反や、麻薬、ギャングに関連した伝統的な犯罪に集中していた。個々の地区支局の優先度は、国家の優先度によるものではなく、その地域の優先度に叶うように選択された。
 また支局は「起点支局」(office of origin)方式によって運営される。これは重複や起こりうる競合を避けるためで、FBIは一つの事件に関して単一の支局を指名し、そこにすべての捜索を管轄させる。東アフリカの大使館爆破に先立って「ニューヨーク地区支局」はビン・ラディンを起訴していたので、すべてのビン・ラディンの事件について起点支局となった。それには、東アフリカの爆破事件や、その後の合衆国軍艦「コール」攻撃なども含まれる。ビン・ラディンとアルカイダについてのほとんどの情報が、そこに集積されていた。この支局は、ニューヨーク南部地区・連邦検事と密接に協力し、多くの攻撃と陰謀の犯罪者を特定し、逮捕し、起訴し、有罪とするよう働いてきた。起点支局とされなかった支局は、彼らが指揮できず、賞賛もされない事件について、多くのエネルギーを費やそうという気にはなれなかった。
 FBIの自国内の情報収集は1930年代に始まる。第二次世界大戦の兆しが現れるにともない、フランクリン・D・ルーズベルト大統領はFBI長官J・エドガー・フーバーに、外国および外国に影響された破壊工作 共産主義者、ナチ、そして日本人を調査するよう命じた。フーバーは起こりうるスパイ活動、サボタージュおよび破壊活動の調査を地区支局の任務として追加した。大戦後、国外の情報は新たに設立された「中央情報局:Central Intelligence Agency [CIA]」に割り当てられた。フーバーは嫉妬心から、FBIの国内の書類ファイルをすべてのライバルから秘匿した。フーバーは、自分は大統領にのみ責任があると考えた。そしてFBIの国内の情報収集活動は成長を続けた。1960年代、FBIは合衆国内で、CIAと軍情報部から重要な援助を受けていた。これらの援助の内のいくつかは、法律的根拠に疑わしいものもあった。
 国内の情報機関としての活動を奨励された年月は数十年に及んだが、それは1970年代に突然終わった。フーバーが死んだ二年後の1972年、議会とニュースメディアによるニクソン政権のウオーターゲート・スキャンダルの調査は  「チャーチ‐パイク委員会」による国外および国内の情報についての、より一般的な調査へと拡大した。委員会は、国内の情報に関する成果を公開した。そこには1956年から1971年にかけて、国内の組織体、および結果的に、国内の反体制的な人物に対して実施された秘密の行動計画が暴露された。FBIは広範囲な政治的人物をスパイしていた。そして、特にフーバーが信用を落としたいと望んだ人物 (マルチン・ルーサー・キング・Jr牧師など) を対象としていた。そして非合法な盗聴と監視を認可していた。このショックは世論調査の結果に表れた。そこではアメリカ人がFBIを『高度に望ましい』とする見解は、84%から37%に低下した。FBIの「国内情報局」は解体された。
  1976年、エドワード・リーバイ司法長官は、合衆国における情報収集を規制する国内警戒ガイドラインを採用した。これによってさらに強い規制を求める声をそらしたのである。1983年、ウイリアム・フレンチ・スミス司法長官はリーバイのガイドラインを修正し、潜在的なテロリズムの内密の調査を奨励した。また彼は捜査とその期間の認可についての規則を緩和した。しかし彼のガイドラインも、リーバイの場合と同様、テロリズムの容疑者は破壊活動の容疑者と類似している現実を考慮して、個人を行為よりもその信条によって調査の対象とすることができた。さらに、スミスのガイドラインは、潜在的テロリストは、しばしば過激な宗教組織のメンバーであるという現実を考慮し、テロリズムの調査は国家と宗教の境界線を越えることができるとした。
 1986年、議会は合衆国外でのテロリストの攻撃の調査をFBIに認可した。3年後、FBIが当該国の承諾なしに逮捕する権限が追加された。一方、副大統領ジョージ・H・W・ブッシュ率いるプロジェクト・チームは、「中央情報長官[DCI]」ウイリアム・ケーシーが以前から推し進めてきた構想「テロリスト対策センター:Counter Terrorist Center[CTC]」を認可した。CTCでは、FBI, CIAその他の組織が国際テロリズムに対し一体となって働く。本体は明らかにCIAだが、FBIは局員を送りこみ、合衆国内の裁判のため手配書が出ている人物を逮捕する手がかりを得ることができた。
 FBIの対テロリズムの能力を、パンアメリカン103便事件ほど輝かしく示した例はない。198812月、ロンドンを離陸してニューヨークに向かった同便は、スコットランドのロッカビー上空で爆破され、270名が殺された。初期の証拠はシリア政府を、後にはイラクを暗に示していた。「テロリスト対策センター」は、犯人の逮捕を保留した。一方、FBIの技術者は英国のセキュリティー・サービスと協力して、広く散らばった飛行機の破片を集め、分析した。1991年、彼らは「テロリスト対策センター」の協力を得て、一つの小さな断片が時限装置の部品であることを突き止めた。それは技術者にとってはDNAと同様にはっきりした特徴を持ったもので、リビア製であった。他の証拠と合わせて、FBIはこの事件はリビア政府によるものと結論づけた。結局リビアは責任を認めた。パンアメリカン103便事件は、犯行責任をすぐさまテロリストにかぶせることへの戒めの例となった。おまけに、解決すべき事件を託された時、FBIがいかに優れた調査能力を保持しているかがまたしても示された。
FBIの組織と優先度
 1993年、クリントン大統領はルイス・フリーをFBI長官に選んだ。彼は2001年6月までその職に留まることになるのだが、FBIの仕事は原則として地区支局によって行われるべきだと考えていた。この考えを強調するため、彼は本部の職員を削減し、捜索活動を地域に分散した。職務につく特別捜査官は権力と影響力および独立性を得た。
 フリーはテロリズムが主要な脅威である事を認識していた。彼は、特に中東地域に焦点を絞って、海外の大使館付法務官事務所(legal attache’office)を増強した。また、テロリストの行動を待っているのではなく、彼らが動く前に行動しろと捜査官たちを督励した。1993年のワールド・トレードセンター爆破後の最初の議会での予算要求に当たって、彼は「この種の犯罪は単に解決するだけでは充分ではありません。犯罪が実行される前に、FBIがテロリズムを阻止する事が同じくらい重要なのです」と述べている。彼はCIAの「テロリスト対策センター」を補完する組織として、FBI本部内に「テロリズム対策部」(Counterterrorism Division )を創設した。そして、FBICIAの対テロリズム担当の上級職員たちを交換できるよう取り計らった。また海外の法務官とCIAの間で、さらに協力がなされるように促した。
 しかし、フリーの努力は、テロリズム対策の資源,すなわち人材の意義のある移動という形に解釈される事はなかった。FBI、司法省および「行政管理予算局:OMB」の職員たちは、FBIの指導層は人材を暴力犯罪や麻薬規制などの分野から、テロリズムに移動させるのは気がすすまないように見えると語った。これに対し他のFBI職員たちは、議会とOMBは政治的意欲に欠け、FBIのテロリズム対策の人的資源が不足していることを理解していないと非難した。おまけに、フリーは彼の見方を地区支局に押し付ける事はしなかった。数少ない重要な例外はあるものの、地区支局は大切な資源をテロリズムに当てる事はなく、しばしば予算を再編成して他の優先的事件に振りかえた。
 1998年、FBIはその次長、ロバート“ベアー”ブライアントの指導で「戦略的五ヵ年計画」を発表した。初めて、FBIは、テロリズム対策を含む国家と経済の安全保障を最優先課題に指定した。後に新しい「テロリズム対策局」の長となるデール・ワトソンは、東アフリカでの大使館爆破のあとで「光があたって」FBI内に文化の変化が必然的に起こったと述べた。五か年計画遂行には、情報収集をより強化する必用があった。それは情報収集を容易にし、分析し、広めるために全国的な自動化されたシステムが求められた。経験があり訓練された捜査官と分析官から成るプロフェッショナルな情報組織の創設が思い描かれていた。もし首尾よく事が運んでいれば、個々の関係無い事件として扱う場合に比べて、テロリズムと組織的に取り組む大きなステップとなっていただろう。しかし、この計画は成功しなかった。
 第一にこの計画は必要な人的資源を確保できなかった。1998年「国家と経済の安全保障」を最優先課題としたにもかかわらず、FBIはこれに従って人材を移動させなかった。FBIのテロリズム対策の予算は1990年代中ごろには三倍となったのに、その支出は、1998年から2001会計年度まで、ほぼ一定のままだった。2000年には、テロリズム対策の約二倍の捜査官が、麻薬対策に専念していた。
 第二に、FBIの戦略的分析能力の強化を目的とした新しい部門は挫折した。そこは人材不足のうえ、FBI作戦部門の上級マネジャー達の抵抗に直面した。この新しい部門はテロリストの活動傾向を見きわめ、FBIが何を知らないかを明確にし、最終的には情報収集努力を促すものと見なされていた。しかしFBIは、分析の役割についてはほとんど評価してこなかった。分析官は、主として現存する事件を手助けする補助的存在として使われ続けた。問題を混乱させていたのは、分析官を、相応な教育を受け経験をつんだ人材から広く募集するのではなく、組織内部に求めるというFBIの伝統的な採用方法にあった。
 おまけに分析官たちは、彼らが分析することを期待されている、FBIや情報社会の情報に接触する事が難しかった。FBIの情報システムの貧弱な状態は、このような情報への接触が、情報が存在する活動単位や捜査班の各メンバーと分析官との個人的関係に大きく依存しているせいだった。これらすべての理由により、9/11以前にテロリズム対策を戦略的に分析したレポートの中で、満足すべきものはほとんど無かった。事実FBIが、合衆国本土に対するテロリストの脅威の総合的評価を完成したことは全く無かった。
 第三に、FBIは効果的な情報収集の努力をしたことがなかった。人的資源からの情報は限られており、捜査官たちの教育は充分でなかった。16週間の捜査官教育コースの中で、防諜とテロリズム対策については3日が割かれるだけだった。これに続く教育の大部分は、実務を通じて行なわれた。FBIは情報提供者の報告の真偽を確認する適当な手法を持たず、またその報告を、内部でも外部でも、適切に追跡しあるいは共有するシステムを持たなかった。FBIは、テロリズム対策捜査官が必要とする調査と翻訳に、十分な資源[人材]を投入しなかった。特にアラビア語その他の鍵となる言語に熟達した充分な翻訳者を欠いており、その結果、相当数の傍受記録が翻訳されないままに残された。
 結局、FBIの情報システムは情けないほど不十分なものであった。FBIは、いま何を知っているかを知る能力を欠いていた。その組織の知識を把握し、共有する効果的な機構がなかった。FBIの捜査官は聞き込みその他で記録的な調査を行ったが、集まった情報を意義あるものにまとめあげ、配布する報告担当官がいなかった。
  1999年、FBIは「テロリズム対策局」と「防諜局」を別々に作った。新設の「テロリズム対策局」(Counterterrorism Division )の初代部長デール・ワトソンは、FBIの対テロリズム能力を早急に増強しなければならないと痛感した。2000年に発表された「MAXCAP 05」と呼ばれる彼の計画は、FBIの対テロリズム部門を2005年までに「最大能力」とすることを目指していた。現場の幹部は、この戦略を実行するために必要な、分析者も言語学者も、技術的に訓練された熟達者もないとワトソンに訴えた。ワトソンが彼の計画を現場幹部に提示した一年後の2001年9月、ロバート・ミュラー長官に提出された報告書は、殆どすべての地区支局は「最大能力」以下で運営されていると評価した。「テロリズムの防止という目標に達するには、主眼点を受け身の能力から、機能的な情報収集能力へと劇的に転換する必用がある。そうすることで手掛りや作戦上の手助けだけでなく、明瞭な戦略分析と方針が得られる」と述べている。
FBIの法的制約と「壁」
 FBIは、法の執行と情報活動については異なる手法によっていた。一般の犯罪について[法執行]は、従来通りの令状を適用し使用することができた。しかし国際テロリズムを含む情報活動については、規則が違っていた。多年にわたり、司法長官は国外の勢力とその代理人を、法廷の審査を受ける事なく監視する権限を有していた。しかし1978年、議会は「外国諜報活動監視法」(Foreign Intelligence Surveillance ActFISA)を通過させた。この法律は、合衆国内での外国勢力とその代理人を対象とする情報収集を規制するものだった。さらに、申し出のあった調査(後には身体検査も)について法廷[FISC]の審査が必要となったのに加えて、1978年法の法廷による解釈は、調査が認められるのは、その「主目的」が海外諜報情報の取得である場合に限られるというものだった。言い換えれば、FISAの権威を、一般犯罪の令状発行の抜け道として使用できないようにしたのである。司法省はこのような規制を、一般犯罪の検察官(criminal prosecutor)は、FISAの情報の概要の報告を受けることはできるが、その収集を指示あるいは統制できないと解釈していた。
 1980年代から1990年代初めまで、司法省検察官Justice prosecutor)は、非公式な取り決めでFISAの活動中に集められた情報を得ていた。そこには、そうした情報を自分たちの事件に不適切に利用しないという暗黙の了解があった。FBIが、犯罪の可能性の有る情報を検察官(prosecutor)と共有するかどうかは、完全にFBIの判断に任されていた。
 しかし、1994年、オルドリッチ・エイムスのスパイ事件についての起訴は、情報捜査における検察官(prosecutor)の役割についての関心をよみがえらせる事となった。司法省の「情報政策審査局 The Department of Justice's Office of Intelligence Policy and Review(OIPR)はすべてのFISAの申請を再調査し「FISA裁判所:FISC」に提出する責任がある。それまでにFBI捜査官と検察官(prosecutor)との間に数多くの事前協議があったため、裁判官がFISAの令状は不当に使用されてきたと裁定するのではないかとOIPRは懸念した。もしそのようなことが起こっていたら、エイムスは有罪判決を免れたかもしれない。OIPRの局長代理リチャード・スクラッグスは、司法長官のジャネット・リーバイに情報共有は制御不足だとこぼした。そしてみずから、FISAの資料について、情報共有の手続きに乗り出した。情報政策審査局は、FISAからの情報が犯罪検察官に流れるのを防ぐ門番となった。
  1995年7月、リーバイ司法長官は、司法検察官FBIの間の情報共有の管理を目的とする公式手続きを発表した。それは、司法次官ジェイミー・ゴレリックの監督のもとに、司法省国家安全保障幹事会の率いる作業部会内で練り上げられた。こうした手続きは 検察官との諜報情報の共有の必要性を認めながらも― そうした情報を省内の情報サイドから犯罪側へと流れる方式を制御した。
 これらの手続きは、殆ど直ちに誤解され、誤用された。その結果、部局間の手続きの下で許されていたときと比べて、FBI犯罪部(Crim. Div.)」のあいだの情報共有と共同作業は、事実上はるかに少なくなった。やがてこの手続きは、しばしば「壁」として引用されるようになった。しかしこの「壁」という表現は不適切だ。なぜなら、いくつかの要因が情報共有にとって一連の障壁を作り出していたからだ。
  司法省の情報政策審査局:OIPRが、情報が犯罪部門に達するのを阻止するする唯一の関所となった。レノ司法長官の手続きには、こうした但し書きは含まれていなかったが「外国諜報活動監視裁判所:FISCの裁判長だったロイス・ランバート判事の関与を反映するものだとの意見により、局[OIPR]はともかくその役割を引き受けた。OIPRは、もしここで犯罪検察官(cr.pr.)への情報の流れを制御できなければ、もうFBIの令状請求をFISA法廷へ提出しないと脅しをかけた。情報の流れは縮小した。
 この1995年の指針は、捜査官(agent)と犯罪検察官(criminal pros.)の間の情報共有について扱ったのみで、FBI内の二種類の捜査官:諜報事案について働いている者と犯罪捜査について働いている者との間の情報共有を扱ったものではなかった。しかし、OIPPRFBI指導部およびFISA法廷などからの圧力は、捜査官たちの間 ―たとえ同じ捜査班内にあっても― に障壁を生み始めた。FBIの次長ブライアントは、捜査官たちに、過度の情報共有は昇進上の障害になりうると改めて注意をうながした。現場の捜査官たちは、いかなるFISAの情報も、犯罪捜査官とは共有できないと誤って信じ始めた。
 この感覚は、たとえFISAの手順が使われない場合であっても、FBIはいかなる諜報情報も犯罪捜査官と共有できないという、さらに誇張された考え方に発展していった。こんなわけで、国家安全保障局やCIAからの適切な情報が犯罪捜査官に届かないということがしばしば起こった。1999, 2000および2001年の各々の回顧(review)では、情報の共有は起きておらず、1995年の手続きが意図したことは日常的に無視されたとそれぞれ個別に結論している。こうした組織上の確信と慣習が、積り積もってどのような不都合な結果を生じたか、そのいくつかを、第8章で扱うつもりだ。
 さらに別の法的制約があった。検察官とFBI捜査官の双方は、大陪審の情報からも法廷規則によって隔てられていると主張した。この禁止令は、大陪審に提出されたごく小さな断片にも適用された。禁止には例外も有った。しかし、FBIの地区支局が解釈したように、この禁止は捜索によって発掘された大部分に適用されるものと思われた。さらに、国外の情報が国内情報と混淆した場合には、大統領令(executive order)から来る制約があった。結局NSAは、ビン・ラディン関係の報告書に、調査官(investigator)と検察官(prosecutor)がその内容を共有するには事前の承認が必要であると但し書きをつけ始めた。こうした成り行きで情報の共有という動脈の流れはさらに狭められることになった。
その他の法執行機関
 司法省にはFBI以外にも多くの組織がある。その一つ「合衆国保安官サービス」には、9/11時点でほぼ4,000名が所属し、特に地方警察の知識が豊富で、逃亡者の追跡に熟達していた。「麻薬取締局:DEA2001年には4,500名以上の捜査官を擁していた。DEAの捜査官が、テロリズム対策に利用できる情報源を、FBIまたはCIAに紹介することが出来た機会は数多くあった。
 「移民帰化局:INS には、国境警備員9,000名、監察官4,500名、入国審査官2,000名が属し、おそらく反テロリズムの拡大する任務のために最大の潜在能力を有していた。しかし、INSは、南西国境[メキシコ側]からの不法入国、外国人犯罪者および増大する一方の帰化申請請求の滞留書類などといった途方もない大仕事に忙殺されていた。ホワイトハウス、司法省、とりわけ議会がこれらの問題への取り組み強化を求めていた。さらに1993年、INSの局長になったドリス・メイスナーは、この官庁の能力が、時代遅れの技術と人材不足により著しく阻害されていることに気付いた。国境パトロールはいまだに手動のタイプライターを、また入国港湾の調査官は紙の監視リストを使っていたし、保護施設やその他の福祉施設は、不正な申請を防ぐことができなかった。
 メイスナー局長は、1993年のワールド・トレードセンター爆破に反応して、領事局事務官と国境検査官が使うテロリスト監視リストを自動化する資金を国務省領事局に送った。INSは新しい「見張り」チーム(unit)を指名した。彼らは、テロリスト容疑者の監視リスト作りのために国務省と共に働き、またリスト対象者が入国港に現れた時、彼らをどのように扱うかを決定している情報官庁およびFBIと共に作業する。このリストによって、1998年までに97人のテロリスト容疑者が合衆国の入国港[含空港]で入国を拒否された。
 テロリスト容疑者の外国人に対し、どのように国外退去を実施するかは激しい議論を呼んだ。INSは、移民法の専門知識と、裁判事件にする権限を持っていた。一方FBIは時には証拠として必要となる機密扱いの情報を持っており、その結果、情報共有の衝突が起こされた。1996年の新法は、これら秘密情報を国外退去審査に使うことを認可した。INSが秘密情報を使ってテロリスト関連として国外退去処分にした外国人はほんの一握りで、そのうちアルカイダ関係者は皆無だった。
 1986,1995および1997年に、INSの中級クラスの職員が、管理者に対し、テロリズム対策の包括的提案を行なった。しかし、これらに対し何の対応もとられなかった。1997年「国家安全保障ユニット:National Security Unit」が設立された。そこは警報発令を扱い、移民法の執行の中でテロリストの可能性ある事件を追跡し、司法省の他の部門と共に働く。それはFBIで優先度の高い、ヒズボラとハマスに焦点をあてており、どうすれば移民法をテロリズムに耐えるものにできるかについて検証し始めた。たとえば、帰化申請前にCIAによるセキュリティー・チェックを完全に終わらせるように要求したが、うまくゆかなかった。テロリストの有罪判決によって、在留外国人の地位を無効にするかどうかといった政治的な問題は論じられなかった。
 議会は、クリントン政権の支持の下に、メキシコ国境の監視ために必要な国境警備員の数を1999年までに倍増し、4分の1マイルごとに一名とした。北方へも追加の人員を配置しようとした案は拒否された。カナダとの国境では、13.25マイルに一名の警備員であった。カナダからのテロリストの入国の事例、カナダでのテロリストの活動の認識と、より寛大な移民法の適用[の現状]、および国境パトロールによって北部国境の戦略を推進するという監察官(inspector general)の報告にもかかわらず、唯一の積極的方策はこれ以上、国境警備員の数を減らさないというものだった。
 入国港の監察官は、テロリストに焦点を合わせることは求められていなかった。監察官たちは、入国旅行者の姓名を自働化された監視リストによってチェックしながら、これは有る意味でテロリストのチェックなのだと自覚した事さえ無かったと語った。また、一般に国境監察官は、事実に基づいて許可を決定するために必要な情報を持っていなかった。 INSが始めたが、完成に至らなかった二つの取組みがある。それが[完成すれば]監察官に対テロリズム関連の情報を提供したはずだった。提案されたシステムは外国人留学ビザの規定を守っているかの追跡と、合衆国への入国または出国の足跡をたどる方法を確立することだった。
  1996年、新しい法律は、INSが州および地方の法執行機関と合意の下で、訓練を提供し、地方機関に移民法の執行権を与えることを可能にした。彼らはテロリストの監視リストを利用することはできなかった。市内に多くの移民人口を持つ市長たちは、しばしば市の職員に連邦移民局職員との共同業務を押し付けた。多くの人口が法の枠組みの外に住んでいた。偽造書類は容易に手に入った。議会は圧倒的な諸問題を前にしながらINSの職員数を固定化していた。
 INS、州、および地方の法執行機関への主要な関与手段は「合同テロリズム作業班Joint Terrorism Task ForceJTTF」だった。JTTFは、1980年、国内のテロ組織を巻き込んだ事件の洪水への対応として、ニューヨーク市で最初に試行され、FBIのニューヨーク地区支局によって監督された。その存在のおかげで情報交換の機会が生まれ、最初のワールド・トレードセンター爆破の後に、地方の公務員は他の官庁の代表者と同じくFBIの捜査協力者として登録された。1990年代を通じて、FBIJTTFの数を増強し、9/11発生時には34に達していた。JTTFは有効ではあったが、限界もあった。彼らの優先事項は、地域や地区支局の関心度が高い順によって設定され、職員が十分いない所がほとんどだった。州および地方の自治体の多くが、JTTFに専任の代表を置くメリットはほとんど無いと思っていた。
 テロリズム対策として、それほど重要視されてはいなかったが、これ以外の連邦法執行機関が「財務省」の中にも見いだされた。財務省は「シークレット・サービス」「税関」「アルコール・タバコ・火器局」などを擁していた。「シークレット・サービス」の使命は大統領はじめ政府要人の警護なので、テロリストによる暗殺計画がうわさされる時には、常にその職員がFBIの中に含まれていた。「税関」は合衆国に入国するすべての場所に職員を配置していた。その職員はINSの職員と肩を並べて働き、時には両グループで協力しあった。第6章で詳述するが、1999年から2000年にかけての冬、特に注意深い税関職員の質問によって、ロサンゼルス国際空港の爆破を明らかな使命とするアルカイダのテロリストが逮捕された。
 「アルコール・タバコ・火器局:ATF」の職員はしばしばFBIの要員として利用された。ATFの研究所とその分析力は、19932月のワールド・トレードセンター爆破および19954月のアルフレッド・P.・ムラー連邦ビル[オクラホマシティー:オクラホマ]爆破の捜査において非常に重要な役割を演じた。
 9/11以前、FBIの一部の例外を除いて、伸びきった合衆国の法執行組織の中で、テロリズム対策に従事している官庁はほとんど無かった。さらに、法が執行されるのは、犯人が特定され、陰謀が形をなし、攻撃が実行された後である。実行犯は所在を突き止められ、逮捕され、訴追のために合衆国の法廷に送り返されなければならない。FBI職員が強調したように、FBIと司法省は巡航ミサイルを持っている訳ではない。彼らは、誰かを起訴することによって戦いを宣言する。彼らはテロリズムに立ち向かう主役となる。なぜなら、そうする事を求められているのだから。

                     
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3・3 連邦航空局の・・・(*)    (原文p.82

    (*)・・・の部分は、「順応と非順応」(ADAPTATION-AND NONADAPTATION) が省略されている。以下の節も同じ(訳者)
 運輸省の中にある「連邦航空局」(FAA は、議会から時には矛盾する命令 ―合衆国の民間航空の安全と保安管理および民間航空事業の発展促進― を与えられてきた。FAAは、民間航空の顧客をテロリストやその他の犯罪から守る、セキュリティー上の使命を持っていた。FAAは、9/11より以前の何年かは、ハイジャックよりも破壊工作を航空機に対するより大きな脅威と考えていた。第一に、この十年間、国内でのハイジャックは起きていなかった (Note 90) 。第二に民間商業航空システムは、銃火器のような武器より、爆発により傷つきやすいと認識されていた。結局、爆発物はハイジャックよりも致命的であり、より重要と考えられていた。1996年、アル・ゴア副大統領(*)を議長とする、航空機の安全と保安に関する大統領委員会は、航空機への破壊行為や爆発物に対する懸念を強調した。ゴア委員会は新しい危険として、地対空ミサイルによる攻撃の可能性についても指摘した。1997年の最終報告書では、自殺ハイジャックの可能性については論じられていなかった。 (*)クリントン政権(訳註)
 FAAは航空保安規則を制定し、補強した。航空会社と空港はその実施を求められた。その規則は、幾重にも重なる 「層状」防御方式を生み出すよう想定されていた。これは、どこか一つの層で失敗しても致命的にはならない。なぜなら、別の層が保安上のバックアップを提供するからである。しかし、ハイジャックに関する各層 ―諜報、乗客の事前審査、チェックポイントでの審査および搭乗時の保安検査は― 9/11以前には重大な欠陥があった。要するに、こういった審査では異なる四機の飛行機に、異なる三か所の空港から搭乗したハイジャック犯たちを誰一人止めることが出来なかったのだ。
 FAAの政策は、諜報を利用して、具体的な陰謀と民間商用航空の保安に対する一般的な脅威の両方を特定し、航空局が適切な対策を策定し展開できるようにすることだった
 40人からなるFAAの諜報班は、FBI、CIAその他の官庁から、航空機に対する脅威の評価ができる、広い範囲のデータを受け取っているものとされていた。しかし膨大なデータの中に、合衆国内でのテロリストの存在と活動に関連したものは殆ど含まれていなかった。たとえば1998年、テロリストたちが飛行訓練を何に利用しようとしているかを評価しようとしたFBIの取り組みや、2001年、過激な中東人が飛行学校への出席していることを警告したフェニックスの電信による通報などは、FAA本部には届いていなかった。FAAのトップの中には、国内の脅威の事態を重大な盲点だとみなす人もいた。
 おまけに、FAAの諜報班は、局の指導部から大して注目されていなかった。ジェイン・ガーベイ局長(Administrator)だけでなく彼女の次長も、日常的に諜報日報を見直すことはなかった。そしてたまたま彼らが見たものは、彼らのために選別されたものだった。彼女は、自身の諜報班からの大量のハイジャックの脅威を伝える情報に気付かなかった。その結果、諜報班の情報が局の政策決定プロセスに深くかかわることはなかった。歴史的に見ても、決然たる安全対策がとられるのは、悲劇が起きてから、あるいは特定の陰謀が発見された後でしかない。
 第二の安全のための層は乗客の事前審査だった。FAAは「直接」の脅威を引き起こすと知られた個人を、飛行機に乗せないよう指示していた。しかし、9/11の場合のように、政府の監視リストは数千人の明らかな、または疑がわしいテロリストを含んでいたのにも拘わらず、FAAの「非搭乗」リストには十二人のテロリスト容疑者(9/11の実質的首謀者、ハリド・シェイク・ムハンマドが入っていたが)の名前しか載っていなかった。四年も前に「ゴア委員会」が事前審査の改善のため、テロリストの監視リストの供給をFBICIAに求めていたというのに、このような驚くべき行き違いが存在した。FAAの民間航空セキュリティー部門で長期間務めた主任は、テロリストとして知られている または容疑がある(9/11前で約60.000名)者の、国務省のTIPOFFリストについて、2004126日の公開聴聞会で聞くまで、気付いてすらいなかったと証言した。FAATIPOFFのデータにアクセスしたが、利用するにはあまりにも難しすぎた。
 航空運輸業者に求められている事前審査の第二部は、FAA承認のコンピュータ化されたアルゴリズム(CAPPSComputer Passenger Prescreening Systemとして知られている)の実行である。これはその横顔(profile)から、乗客が飛行機に最小限の危険以上のものを引起こすかどうかを認定するように設計されている。アルゴリズムはハイジャック犯の横顔のデータが入ってはいるが、当時はさらなる安全確認のためには、旅客の手荷物をCAPPSによって選別するだけで良いと考えられていた。選別といっても、ただ検査に引っかかった荷物を[X線]スクリーンにかけて、爆発物の有無を調べるか、本人の搭乗を終えるまで荷物を機外に留め置くだけだった。識別の可能性と乗客処理能力の低下を秤にかけて「検査対象者」は、1997年以前に検査システムがコンピュータ化される以前がそうだったように、その手荷物についてこれ以上の特別検査を受ける必要はなかった。この方針の変更もまた自殺ではなく、破壊行為が民間航空の主要な脅威だという認識を反映していた。
 チェックポイントでの篩分けは、保安上もっとも重要で明瞭な層であると見なされた。通過型金属探知器と訓練された検査員によって操作されるX線装置が、禁止物品の阻止に用いられた。多くの政府報告書がこのチェックポイントの効果は、かんばしいものではなく、しばしばFAAの試験用物品の検出にも失敗したことを示しいている。多くのきわめて有害な、あるいは危険な物品が金属探知機を作動させなかったり、X線検査では多くの無害な日用品と区別することが出来なかった。
  FAAの規則は、刃渡り4インチ以下のナイフは、はっきりと禁止していなかったので、航空会社のチェックポイント操作基準(FAAと共同で作った)では、明らかにその持込みは許されていた。この方針についてFAAの根拠は以下である。(1)航空局はこのような物品は脅威とは見なさない。(2)大部分の地方の法律も、個人がこのようなナイフを携帯することを禁止していない。(3)このようなナイフは、金属探知機の感度を大幅に上げなければ検出が難しいだろう。ナイフの持込をすべて禁止するという1993年の提案は、小型の切断器具は発見が困難であり、また多数の意味のない「警報」はチェックポイントでのいらだたしい混雑を増加するにちがいないとの理由で却下された。
  9/11に先立つ数年間、チェックポイントで「常時」あるいは「任意」に、機内持ち込み手荷物を人手により検査すべしというFAAの要求は、爆発物の痕跡検査に切り替えられるか、あるいは航空業者によって単純に無視されるようになった。したがって、(爆発物以外の) 凶器を確認するための乗客および持ち込み手荷物の二次検査は、乗客が金属探知機で警報される場合を除き存在しなくなった。二次検査で小型のナイフが発見された場合も、通常それは乗客に返却された。報告されたところでは、9/11のハイジャック犯たちは、空港のチェックポイントで検査で検出できないものを使うよう指導されていた。
 9/11以前の保安システムでは、航空運送業者が重要な役割を果たしていた。運輸省の主席監察官が我々に語ったように、航空業者から、保安のコストを抑えるとともに「保安要件が航空業務に及ぼす影響を限定し、航空業界が乗客と航空機の移動というその第一義の任務に集中できるようにしてもらいたい」との大きな圧力があった。「そうした反対圧力は、結果的に、保安面で深刻な弱体化をもたらした」FAAで長年にわたり保安担当であった職員は、保安規則に対する航空業者の対応は「非難、否定、引延ばし」だと評し「航空運送業者は、フライトの安全の重要性は認識していたが、保安に対しての認識が薄かった」と語った。
 セキュリティーの最後の層である民間航空機の飛行中の保安対策は「自殺ハイジャック」を想定したものではなかった。FAA公認の「一般戦略」は、1960年代に始まり、幾十年に及ぶあまたのハイジャック経験を経て練りあげられたものだった。それは乗務員たちに、ハイジャック犯に対処する最良の策は、彼らの要求を入れ、機を安全に着陸させ、その後は警察か軍隊の手にゆだねることだ、と指示していた。FAAによれば、ハイジャックが長時間に及べば及ぶほど、平和的な解決に至りやすいことをデータが示している。この戦略は、ハイジャック犯は合意可能な要求(国外亡命や囚人の釈放など)を提示することを前提としたもので、FAA職員が言ったように「『自殺ハイジャック』は、彼らのゲーム計画にはなかった」FAAの訓練教則には、暴力が起きた場合の乗務員に対する指針は示されていなかった。
 広く行き渡った、協力、無抵抗の「一般戦略」は、ハイジャックの際にはコックピットのドアを補強しても大した違いは生じなかっただろうということを示唆していた。2001年早く、民間航空機のコックピットのドアの補強が提案された時「民間航空パイロット協会」の安全委員会議長は述べた。「ドアをどれほど頑丈なものにしたとしても、もし彼らが同僚の乗務員の首を締め上げたとしたら、私はドアを開けるだろう」。9/11以前、FAAの規則は、緊急時のため、コックピットのドアは直ちに出入り可能にしておくよう指示していた。とはいえ、1960年代の規則では、乗務員はコックピットドアを閉じ、飛行中はロックすることが要求されていた。だがこの規則は常に守られたわけではなく、強制されていたわけでもなかった。
 警備については、9/11時点で訓練され武装した連邦航空保安官はただの33名にすぎなかった。彼らは、国際線出発便への乗換客を警護する場合を除いて、国内線に配置されることは無かった。この方針は、国内線のハイジャックは制御下にあるというFAAの見解の現れだった。この見解は、世界中どこであれ米国民間機をハイジャックしたテロリストは、1986年以来皆無だったことで、確信となっていた。近年どのような保安に起因する事件も無かったので、また民間機を対象とする陰謀の「特定され、かつ信頼性ある」証拠も無かったので、FAA指導部の関心は、ハイジャック以外のもっぱら業務上日常的に起こる諸問題に向けられていた。FAA局長のガーべイは「2001年は毎日が、感謝祭の前日のような忙しさだった」と回想した。航空サービスの改善要求に注意を払って、議会は航空システムの収容能力、効率、乗客の満足度などの改善を含む「乗客の権利の法案」に努力を注いでいた。テロリズムに焦点を当てているものは誰もいなかった。

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    3・4 情報社会の中での・・・       (p.86)
 「1947年国家安全保障法」(National Security Act)は、「中央情報長官」(Director of Central IntelligenceDCI)のポストを創設した。国防総省、国務省、司法省その他の内閣官庁から独立して、DCIは合衆国の情報社会を統率し、また連邦諸部局に情報を供給している。 
 内閣の省庁から独立した諜報社会の唯一の要素はCIA[中央情報局]である。それは独立の機関として、あらゆる源から情報を収集し、分析し、報告する。CIAの第一の顧客は合衆国大統領で、大統領はまたCIA極秘作戦(covert operation)に従事させる権限を持っている。極秘活動は局の予算のごく一部にすぎないのだが、その作戦はしばしば論争の的となり、時代を越えて大衆のCIAに対する認識を支配してきた。
 DCIは上院の承認により決定されるが、法的には大統領府のメンバーではない。緩く連合した「情報社会」を覆う連邦法の下で、長官の権力は限定されている。彼または彼女は、情報社会の優先度を明確に述べ、議会に提出する情報官庁の予算要求の調整を行う。   
 このような責任は、DCIはこれら官庁の長の上にあって系列上の権限を持ち、また必要に応じて予算の範囲内で資源:人員を移動する権限を持つという誤った印象を与える。どちらも真実ではない。実際にはどうかというと、DCIの真の権威は、大統領との個人的親密度に直接比例する。それは月の満ち欠けのように、長年にわたって増大したり減衰したりした。また政府の他の部門、特に国防長官との関係についても同じことが言える。
 国防総省の情報関係機関は、国家の需要基盤national customer base)を支援するものや、国防総省あるいは軍務の需要に応じたものを含め、合衆国全体の諜報費のおよそ80%を占めている。そうした情報機関は国防総省に帰属しているため、軍の戦略的および戦術的要求に積極的に対応している。
 国家の需要基盤である国防総省の情報機関の一つは「国家安全保障局:NSA」である。そこでは海外の通信を傍受し、分析しまた暗号を解読する。またNSAは政府の情報を守るために、暗号とその鍵を作る。他の機関は、最近改称された「国家地球空間情報局:NGA である。ここでは画像を用意し分析して、地図や航路図、監視情報などの広い範囲の製品を作り出す。国防総省の第三の機関は「国家偵察局:NRO」である。ここでは情報収集衛星を開発、調達、発射し、軌道上に維持して、他の政府機関に役立てる。
 「国防情報局:DIA」は、国防長官、統合参謀本部議長および軍の野戦指揮官達を支援している。そこは技術的に収集した情報と共に、人的資源からも情報収集を行っている。陸軍、海軍、空軍、海兵隊にはそれぞれ固有の情報部があり、情報を集め、入手すべき武器の決定を手伝い、特定の任務遂行に必要な戦術上の情報獲得に努めている。
 国防総省のこれらの機関に加えて、情報社会の他の要素としてFB Iの国家安全保障部門、国務省の情報・調査局、財務省の情報部、エネルギー省の情報および防諜局 ―情報局の方は国家の研究システムの専門知識を梃として、核兵器についての特別の能力を持っている―、沿岸警備隊の情報局、そして今日では国土安全保障省の情報分析およびインフラ保護局が含まれる。
国家安全保障局
 国家安全保障局(National Security AgencyNSA)によるテロリストの通信傍受は、しばしば政府のいたるところで警報を鳴らす。またその通信傍受は、多くは分析官のジグソーパズルを解く決定的な要素となる。NSAの技術者たちは数字暗号を解読するシステムを構築し、今日の込み入った信号環境を解明した。分析官たちは、自分たちに無関係の外国人同士の会話に耳を傾ける。彼らはまた「交信分析」(traffic analysis)を行なっている。―そこでは技術的な通信システムや暗号および、テロ組織を含む海外のさまざまな組織の構造を研究している。
 冷戦時代の敵対者たちが軍の指揮および統制に使っていたのは、非常に序列的でなじみ深い、予想しやすい方法だった。グローバル化と通信革命によって、結合は緩いが商品化された機器と暗号を使ってネットワーク化している敵によって、信号収集の障害は幾何級数的に増大した。同時に冷戦の終了とそれによる国家の安全保障資金の削減は、情報機関に組織の切りつめと、規模の節約を強いた。近代の敵は通信技術の巧妙な使い手である。NSAの挑戦とその機会は 「分量、多様性、速度」について、指数関数的に増加した。
 法律は、NSAが配慮なく合衆国市民について情報を集めることの無いよう、また合衆国内に滞在する人物[外国人]の情報を、外国の情報機関の求めに応じた令状によることなく集めることの無いように要求している。またNSAは、FB Iが適切な令状を得ることができるように、犯罪、スパイあるいは「テロリスト計画」の徴候をFB Iに通知するものと思われていた。後に記すように、NSAは中東のテロリストの疑いのある諸施設の交信を報告する技術的能力を持っていたにもかかわらず、合衆国内の個人と外国との間の交信を収集する令状をFISA法廷に求めなかった。なぜならそれはFB Iの役割だと信じていたからである。また、合衆国内の人物を標的としていると思われたくなかったこと、そして多分、NSAが外国情報収集をつかさどる法律に違反していると思われることを望まなかったからであろう。
 NSAによる、情報の出所と入手方法についての過剰なまでの秘匿、国外情報への集中と国内問題の回避とは、のちに見るように9/11の物語の中の重要な要素となる。

情報資産としての技術と責任
 合衆国の戦闘員や国家の安全保障政策決定者たちが、その任務遂行のために、新たに発展した科学技術を用いたことは、二十世紀の偉大な成功物語の一つである。それは偶然起こったことではない。最近の戦争は、進歩した技術を使った勇敢な男女によって戦われ、決定的な勝利が得られた。そのテクノロジーは、何年も前から良心的で勤勉な行政および立法部門の指導者たちによって開発され、承認され、代価を支払って得られたものである。
 しかし、テクノロジーの挑戦はリスクを伴うものだ。それは費用がかかり、時には失敗し、問題を解決するのみならず、しばしば問題を引き起こしたりする。冷戦時代、ソビエト連邦の封鎖地域の状況を我々に洞察させた最新技術も、個々のテロリストの特定と追跡のためには、限られた使われ方しかない。
 一方テロリスト達もこの急速な通信技術の発達から利益を得た。彼らは通信工業界が年間三兆ドルを投じた製品を棚から買取り、手に入れることができた。彼らはたいした支出をすることなく、さまざまな、世界中で即座に使うことが出来る、複雑な、または暗号化された通信機器を獲得することができた。
 世界規模のウエブサイトの出現は、テロリスト達に情報を取得し、指令や統制を実行するさらに容易な手段を与えてきた。9/11陰謀の実行指揮者、モハメド・アタは、ドイツのハンブルグから合衆国の飛行学校をオンラインで探した。情報収集の対象はより精巧になってきている。こうした変化で、監視と警報発令はより困難なものとなってきた。
 科学技術が作り出した問題は数々あるが、それに対するアメリカ人の愛着は、それらが解決したように見なす。だがテクノロジーは、組織がしっかりとした政策と機構、開発する動機を持っているとき最良の結果を生み出す。たとえば、最良の情報テクノロジーであっても、情報官庁の職員と保安システムが、情報の配布より保護を評価する状況である限り、情報の共有化は進まないだろう。
中央情報局:CIA
 CIAは、第二次大戦の初期にルーズベルト大統領が作った「戦略情報局:OSS」の子孫である。当初その仕事はFBIが行うものと考えられていた。OSSの父は、ウオール街の弁護士で「乱暴者のビル」と呼ばれたウイリアム・J.・ドノバンだった。彼はOSSに彼に似た人物 ―旅行好きで人付き合いが良く、プロとして仕事を良くこなす男女を採用した。
 いまなお彼の遺産として合衆国の情報社会の一部に残っている新しい制度は「調査・分析支部」の創設だった。そこでは合衆国の大学から来た多数の学者達が、スパイからの報告や軍の傍受した通信、ラジオ放送の録音テープあるいはあらゆる種類の出版物などを熱心に読みふけり、そして国外の工作地域についての政治、経済、社会環境などの報告書を準備していた。
 第二次大戦が終わると、ドノバンが落胆したことには、ハリー・トルーマン大統領はOSSを解体した。四か月後、大統領は国務、戦争および海軍の長官および大統領の私的な代理によって構成される「国家情報庁」のもとで「国家の安全保障に関する情報任務が最も効率的に遂行されるよう、すべての連邦の国外情報活動が計画、発展、調整される」ように指示した。この組織は、それぞれの部署から選り抜かれたメンバーからなる「中央情報グループ」の補佐を受け、「中央情報長官」に率いられた。
 その後、トルーマン大統領は「1947年国家安全保障法」に合意した。この法では、とりわけ「中央情報長官:DC I」の下に「中央情報局:Central Intelligence Agency CIA」を設立したことが重要である。合衆国版ゲシュタポになるのではないかという懸念を利用したFB Iのロビー活動によって、FB Iには国内の安全保障分野と反スパイ活動が割り当てられた。CIAは「警察、出頭令状、法の執行権力、国内の安全保障機能」を持たないことが、明確に合意された。この構造が、CIAと国防総省の情報機関およびCIAFB Iの間の緊張関係を生み出した。
秘密および極秘活 (Clandestine and Covert Action  こうした歴史において、 CIAは9/11の時代まで、エリート組織としての多くの貢献をもたらし、国家の最前線でアメリカの敵と交戦していると見なされた。「工作本部」(Directorate of Operations)に属している「極秘工作部」(Clandestine Service)の担当官は、国外の支局に扇形に配置された。各支局の長は組織の中の重要人物で、各国に於いてDCIの代理者として追加の肩書きを与えられた。彼(時に彼女)は、関連する地域の本部長(Directrate)が発行する優先順位を示した作戦命令によって管理され、中央が決定した人材配置を強いられた。

 スパイ行為は高度に危険であるため、
秘密工作の目標設定、募集、取扱い、秘密情報源の終了および収集情報の配布は、ワシントンの承認と議決を必要とした。しかし、ある程度合衆国内のFB Iの地区支局に類似した、この非中央集権的システムにおいて、「工作本部」の誰もが、現地の活動を管理するよりは支援することが本部の仕事だと考えていた。
 1960年代、CIAは亡命キューバ人のピッグス湾上陸が失敗したことで、窮地に立たされた。ベトナム戦争はさらに大きな非難をもたらした。ウオーターゲート時代の突出した姿は、上院のフランク・チャーチと、下院のオーティス・パイクを長とする委員会によるCIA調査の結果であった。彼らはCIAが、フィデル・カストロはじめ外国の指導者達を秘密裏に暗殺しようと計画してきたという証拠を公開した。大統領はこれらの判決に明白な責任をとってこなかったため、CIA職員たちが大統領の「妥当な否認権」を守ると言いつつ、非難の大半を引き受けた。 

  [以下の(ca)(CS)は確認のため一時的に附与した]
 ウオーターゲート時代以後、議会はCIAがアメリカの基本的な法律に反して極秘活動(covert action)を行うことが無いように監視する委員会を設立した。CIAの「秘密工作部」(CS)の事件担当官たちは、いかなる極秘活動(ca)も大統領の認可と議会への報告を必要とすることを定めた、ヒューグ-ライアン修正法のような条項を、極秘活動(ca)はしばしば問題を引き起こし、彼らの職歴に重大な傷を付けかねないというメッセージだと解釈した。1980年代半ばの中米での極秘活動(ca)計画をめぐる論争によって「秘密工作部」(CS)の数人の上級職員たちは起訴された。1990年代を通して、アルカイダ対策の中で、CIAに対してより積極的な極秘活動(ca)を要望した政策立案者側と、慎重なCIA指導者たち ―部下たちの行動に法的根拠と大統領の認可が有ることを確認する細心の注意を求めていた― との間が、しばしば緊迫したことは明らかな事実である。   
 秘密工作部」(CS)は冷戦終了による「平和の配当」の衝撃を、1922年に始まった削減により感じていた。職員数の減少と海外施設の閉鎖に対して、DCIと彼のマネジャー達はバルカンやアフリカで「押し寄せる大波」のように危機を作り出すことで、あるいは職員達をその職域を越えて当面する問題に当てることで対応した。多くの場合、急増した職員たちは、新しい問題には殆んどなじみがなかった。必然的に、世界のある地域やある情報収集対象は完全にはカバーされず、あるいは全くカバーされなかった。またこの戦略は、外国の親密な諜報機関と密接な関係を持つことに重点を置いた。合衆国が情報収集能力を持たない地域では彼らの助けを必要とした。  
 秘密工作部」(CS)がどん底の状況だったのは1995年である。この年に新しい部員となったのは、僅か25名の訓練生だけだった。1998年、DCIは政府と議会を説得して、長期再建計画について承認を得ることができた。採用者を訓練し、言葉を学習させ、全能力が出せるまで経験を積ませるには、5ないし7年を必要としていた。
分析. CIAの「情報本部」(Directorate of Intelligence )は、戦争に参画した時代の、当初の大学的性格をいくらか維持していた。そこの男女たちは、彼らの報告(この場合は秘密扱いの出版物)の量と質を互いに判定する傾向があった。彼らの同僚とは別に、彼らは政策立案者の承認と指導を期待していた。1990年代から今日に至るまで、秘密扱いの日刊「新聞」の一つである「上級幹部情報日報:SEIB」に寄稿が掲載されることや、さらに評価が高い「大統領日報:PDB に選ばれることは、とりわけ重要視されている。
 CIAが「冷戦」を戦うために創設され、幾十年の間、一つか二つの主要な敵に向かって焦点を合わせて来たことは、少なくとも一つの積極的な効果を生んだ:それは、管理官manager)や分析官が、安心して時間と資源を詳細で思慮深い基礎調査に費やす環境を作り出したことである。その払い戻しはすぐでは無かったかもしれない。しかし、彼らがその論評を書くとき、たとえそれが簡単な概要であっても、彼らはその深い知識にもとづいてそれを書くことができた。
 冷戦が終了した時、このような人的資産を新しい敵に対して配置換えすることは容易には出来なかった。文化の影響はなお深部を流れていた。目標や関心が不確かで変りやすいこの流動的な国際環境の中で、情報管理官inteligence manager)たちは、もはや長期にわたる知的財産の蓄積に、忍耐強く戦略的に取り組むことは不可能だと感じていた。本や論文の翻訳を伴う大学的文化は、ニュース室文化に道を譲った。
 1990年代を通じて「24時間ニュースショウ」の開始やインターネットが、政策立案者たちに新鮮な報告をさらに早い速度で供給するよう、分析官(analist)たちに圧力をかけた。分析官たちは、その顧客がメディアから手に入れるものに、さらに前後の文脈や補足を加えるように努力した。全ての情報源と戦略的分析の弱体化は、ダビッド・ジェレミア将軍を議長とするパネルによって明白にされた。委員会は、1998年のインドとパキスタンの核実験の予測に失敗した情報社会を批判した。同じように、ドナルド・ラムズフェルドを議長とする1999年のパネルは、合衆国に対する大陸間弾道ミサイルの脅威の評価について、情報社会の限られた能力を論議した。双方の報告書は、あまりに多い優先事項による努力の分散、戦略的分析技術に対する関心の低下および適切な情報共有を妨げている保安規則などに注意を喚起した。類似の冷戦の技術には、奇襲攻撃に対する精巧な警報の方式があったが、テロリズムのような新しい危機の分析手段としてはあまりに色あせたものであった。
防護Security). 新しいテロリズムと対抗するためのCIAの能力に影響を与えている他の経験の背景は、冷戦の初期に遡る。当時、中央情報局は、ソビエト連邦の諜報機関KGBの侵入について、病的なまでに懸念していた。1970年代初頭まで、CIAの防諜組織を率いていたジェイムス・ジーザス・アングルトンは、CIAは幾匹かのソ連の「ネズミ」を飼っているという妄執に取り憑かれていた。アングルトンが退職させられ、振り子は逆に振れたが、はるかに大きくは振れなかった。実際のソ連の侵入の実例が、懸念を高く保った。そして1990年代はじめ、オルドリッチ・エイムススパイ事件が起きた。それはCIAを激しく当惑させた。信じがたいことだが、エイムスは評議員fellow officer)達から保護され昇進もされてきたが、その間に彼は自身の経費を、合衆国の工作員や捜査員の名前をソ連に売り渡すことで支払ってきた。その結果、彼らの多くが殺された。
  防護問題が情報の共有化を著しく込み入ったものとした。情報は、巧妙で洗練された敵の目に触れないように、細かく区分して保管されていた。したがって、情報の取り扱いには多くの制約があり、eメールのような新規の電子システムによって、合衆国政府の他の官庁に情報を送ることには深い疑念があった。
  防護の問題は、テロリズム対策の資格を持つ新しい職員の採用についても困難を増加させた。中東の言語やイスラム学を学べるアメリカの大学は殆ど無い。2002年、アメリカの全大学で、アラブ語の学位を与えられたものは6人だった。合衆国外にたびたび旅行したものは、採用の最初の関門で長時間待つことを余儀なくされた。国外で生まれたものや、外国に多くの親戚を持つものは志願すらしないように説得された。冷戦終結後のCIAの予算の縮小は、いくつか顕著な例外を除き「秘密工作部」(CS)に採用する資格を、一般職員と同等のものとする傾向があったことは驚くにあたらない。すなわち、彼らは伝統的な工作員の採用に適しており、また国外の部局との連絡関係の開発に適していた。しかし、テロリストの組織内での人材探しとその使用の資質を備えてはいなかった。
初期の対テロリズムの努力
  1970年代と1980年代には、テロリズムは主に中東での地域紛争に結びついていた。テロリスト・グループの多くは、政府、または政府の設立を目指す闘士たち ―パレスチナ解放機構:PLO のような― のいずれかをスポンサーとしていた。
  1980年代の中頃、[レーガン政権]副大統領ジョージ・ブッシュ率いる特別部会の報告を基礎に、そしてローマとアテネ空港でのテロリスト攻撃の後、DCIは「工作本部」と「情報本部」を横断する活動を統合して「テロリスト対策センター」(Counter Terrorist CenterCTC )を創設した。同センターは、FBIその他の官庁からの代表者によって構成された。正式な組織図ではDCIに報告されることになっていたが、実際は大部分のセンターの主任は「秘密工作部」(CS)に所属しており、通常は「工作本部」に指導を求めた。
  センターはCIA支局による情報収集を活性化し、調整した。またその結果を編集し、選ばれた報告を適切な部署、例えば情報本部の分析官や他の情報社会、政策立案者などに配布した。センターはその官僚的ナワバリを守った。中央情報長官は、かつて一度、テロリズムに対する分析を調整するための国家情報職員を雇っていた。この部局は1980年代遅くに廃止され、その任務は「テロリスト対策センター」に一部が吸収された。センターに配属された分析官たちは、数多くの報告を作成したが、その焦点は作戦の支援だった。1994年、CIAのある監査官の報告は、センターのテロリストの攻撃に対する警報発令能力を批判した。 
  この後の諸章で、膨大な能力とエネルギーおよび献身にもかかわらず、情報社会がビン・ラディンとアルカイダの挑戦に対抗しえなかった問題を取り上げる。こうした問題を向けられると、情報報社会のマネジャーたちは、しばしばそうした仕事をさせる人材が不足していたのだと答える。
 冷戦の終了による国家の防衛支出の削減は、1990から1996会計年度までの外国情報計画の予算削減を、また1996から2000会計年までの予算の「横這い」をもたらした。(1999会計年度のギングリッチ ―下院議長、共和党― の追加と呼ばれるもの、およびその後の二回の小額の追加を除く) これらの削減は、情報官庁に困難な問題を発生させた。政策立案者たちは、古いシステム ―高周波ラジオや旧式のテレビアンテナで働く超高周波および極超高周波システム(可視距離間無線通信)― に対応する能力を維持しながら、コンピュータ間通信などの新しい通信システムと闘うデジタル化した未来技術への移行を要求した。さらに1991年の湾岸戦争の成功に続いて、映像の要求が劇的に増加した。これら二つの発展は、次世代の衛星システム計画にさらに割増金を追加することになった。そのコストは、残りの情報予算を大きく圧迫した。その結果、情報官庁は工作員と分析官の双方に影響するスタッフの削減を強いられる事となった。
 しかし少なくともCIAにとって、テロリストと取り組む中での重荷の一部は、これまで述べてきた背景から生じた:つまり、CIAは極度に意欲のある人々をひきつける能力を持っているが、習慣的に危険を冒すことを嫌い、極秘活動(ca)についての能力を減退させ、情報配布の制限に傾き、新しいタイプの人物に同調することが難しく、最新情報の説明的ルポルタージュの発表に熟達した組織だ、ということである。言い換えれば、CIAは対テロリズムの分野において最大の効果を得るには、重大な変化が必要だということだ。1997年、クリントン大統領はジョージ・テネットをDCIに任命した。彼にとっては、何と言ってもテロリズムは最優先の課題だった。しかし「調査委員会」の質問に答えた2004年の時点でのテネット本人の評価では、CIA特別工作部(CS)が対テロリズムの役割を充分に果たすのは、少なくとも5年先ということであった。そしてテネットが疑いなくCIA長官だった間、情報社会の連合体は、合衆国全体の情報の取り組みに対する第一責任者は誰なのかという疑問を未解答のまま残した。

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3・5 国務省と国防総省・・・ 
     p.93
国務省
  2004年、「委員会」は、国務次官リチャード・アーミテージに「国務省がこれほど長い間、ビン・ラディンを追放しろとアフガニスタンのタリバン政権を説得し続けたのはなぜですか。それが望みの無い努力だと判っていたのに」と質問した。アーミテージは答えた。「国務省の務めを果たしたまでです。爆撃機を飛ばしたわけじゃありません。そんなことはしません。・・・こうした事態の中で、自分たちの務めを果たしたのです」と答えた。
  50年前だったら、アーミテージのような地位にある人物が、国務省のこのような限定的な役割について話すことは無かっただろう。1950年代後半まで、国務省は大統領と議会に対して、合衆国とそれ以外の世界との関係について助言する際、支配的な立場にあった。 1947年に設立された「国家安全保障会議」[NSC]は、公開討議を求めるペンタゴンのロビー活動の成果だった。NSCでは、もし合衆国が遂行するための必要な手段を持たない国家目標を国務省が設定していると軍が考えた時、軍はそれに反対することが出来た。
 国務省は、1960年代にケネディーおよびジョンソン政権がロバート・マクナマラの国防総省に切り替えるまで、首位を維持した。国防総省には、外国政策問題を分析するミニ国務省が作られた。リチャード・ニクソン大統領は政策立案と政策調整をヘンリー・キッシンジャーの率いる強力なNSCスタッフに要請した。
 これ以後、個々の国務長官は重要な人物だったが、省の役割は侵食され続けた。1990年代に入ると、予算についても、議会からも大統領の行政管理予算局からも殆ど支持を得られなかった。
 FB ICIAの「工作本部」と同じように、国務省もワシントンより現地での職務を重視する伝統があった。しかし、赴任先の政府は、合衆国政府とのつながりを、大使を通じて作る ―それは大使がワシントンから与えられた本来の任務だが― だけでなく、CIA支局や国防総省連絡官を通じて作ることがしばしばあった。次第に大使館自体が、ペンタゴンに報告する強力な地区最高司令官の陰に隠れた存在となっていった。
 テロリズム対策
  1960年代から1970年代、国務省は対テロリズム政策を管理していた。それはテロリストの背後にいると想定された政府と連絡する公式チャンネルであった。さらにこの時期のテロリスト事件は、おおむね合意によって片付いていたので、大使または大使館職員は、合衆国の利益の必然的な代表者だった。
 合衆国がテロリズムに対して外交努力を一貫して継続することは、繰り返される挑戦だった。1976年、議会の指示により国務省はテロリズム闘争の調整官の地位を、国務次官に相当するランクに引き上げた。「特使」として、この職員は省内で対テロリズム問題を可視化し、政府省庁間の政策統合を助けた。しかし、テヘランの合衆国大使館で53人のアメリカ人が人質とされた1979年から1981年にわたる長期の危機によって、対テロリズムに関しての国務省の主導は終わった。カーター大統領の独断的な国家安全保障補佐官ズビグニュー・ブルゼジンスキーが任務について、それ以来、調整機能はホワイトハウスにとどまることになった。
 レーガン大統領の二人目の国務長官ジョージ・シュルツは、テロリズムとの戦闘について、合衆国の積極的な取り組みを主張し、しばしば軍事力の使用を推奨した。しかし、国防長官のカスパー・ワインバーガーはシュルツに反対した。シュルツはワインバーガーに逆らって前進することは出来なかった。彼自身の省内においてさえ、そうだった。シュルツがまずポール・ブレマー、次いでロバート・オークレイという、どちらも外交面で傑出した経験を持つ古参の大使を調整官に指名することで、テロリズム対策活動の地位と注目度を高めはしたものの、[国務]省はテロリズムが第一の関心事項ではない地区支局に牛耳られ続けた。
 シュルツの後任の国務長官たちは、この問題について彼ほどに関心は無かった。議会の反対だけが、テロリズムを麻薬や犯罪を扱う新しい官庁に合併しようという、クリントン大統領の初代国務長官、ウオーレン・クリストファーを妨げた。マドレーヌ・オルブライト長官の部下の調整官は「調査委員会」で、彼の仕事は省内ではごく小さなものだと感じたと述べた。自分の地位をそんなふうに述べたことは論議を生んだし、オルブライト長官が19988月のビン・ラディンに対する攻撃を強く支持したにも拘わらず、国務省が対テロリズムで演じた役割は、9/11以前には警告的に過ぎないものが多かった。これは、対テロリズムの優先度が、合衆国政府が目指している広い対外政策の境界の内側にとどまっていたといいう現実を示すものだった。
 国務省の領事館職員は、世界のいたる所で合衆国への旅行ビザを扱う時、テロリズムの挑戦にさらされているということを忘れてはならない。なぜなら、彼らは合衆国への渡航ビザを取り扱っているのだから。「盲目のシャイフ」と呼ばれるアブデル・ラーマンが思い通りに入出国していたことが判明した後、国はその監視リストとビザ発行方針に重要な改定を行った。1993年、議会は国境の保安のために、国がビザ発行料金を維持する法律を通過した;これらの料金は完全に自動化されたテロリスト監視リストを作るために使われた。1990年代末までに、同省はビザ、法の執行および監視リスト情報についての世界同時電子化データベースを作り上げた。これは9/11以後の国境審査システムの核である。だが、後に見るように、このシステムはなお多くの抜け孔を持っていた。
国防総省
 国防総省は連邦官庁の中のマンモスである。ロシアのGDPより大きな年度予算を持つ帝国だ。国防総省は一部シビリアン、一部軍人からなる。シビリアンの長官は、大統領の下で最終監督権を持つ。制服組の中の最高職は、統合参謀本部議長である。彼は軍の標準スタッフ区画 J2(情報)、J3(作戦)等々― に分けられた統合参謀によって補佐される。
 各々の業務の異なる任務に重点を置く必要性と要求のため、また彼らの長くかつ誇らしい伝統のため、陸軍、海軍、空軍および海兵隊はその戦闘での役割や予算、指導権を持つポストなどをめぐって、しばしば激しく争ってきた。だが二つの事態の進展がこの争いを鎮静化させた。
 最初のものは1986年の議会によるゴールドウオーター‐ニコルス法の通過である。この法により、上位への昇進には、異なる軍務、あるいは合同軍務 (すなわち多面的職務)で、ある期間の勤務が求められた。これは直ちに強力な効果をもたらした。総体的には、上級士官たちの、出身の軍に対する忠誠心を緩和し、軍幹部として、より広く考えるようにさせた。しかし、それはまた大統領に提示される助言と選択肢の多様性を減少させる事にもなった。ゴールドウオータ―ニコルス法の例は、連邦の官僚制度の他の部署で、特に法の執行部門と情報社会で、競争を減らし協力を増加することに応用できる教訓を持っていると見なされる。
 第二の関連する進展は、各任務の長とスタッフから、ワシントンの外、特に戦略軍とヨーロッパ・太平洋・中央・南部の四地域にある連合または統合指揮部への計画と指揮権限の重要な委譲である。こうした指揮部の地位に就くことは、野心的な将官達にとって、この上なく名誉ある昇進となり、この五人の総指令官の発言は各軍務の長(service chief)のそれと同様な影響を持つものとなった。

テロリズム対策
 ペンタゴンが初めてテロリズムと関係したのは、1970年代に起きた人質事件の結果である。1976年6月、パレスチナのテロリストがエア・フランス機を乗っ取り、ウガンダのエンテベ空港に着陸させて、105人のイスラエルおよびユダヤ人を人質とした。イスラエルの特殊部隊が飛行機を急襲し、テロリスト全員を殺し、一人を除くすべての人質を救出した。197710月、西ドイツの特殊部隊は、モガディシオ[ソマリア]の滑走路上にいたルフトハンザ航空機について同様の措置を取った。テロリストは全員殺され、人質は全員無事に保護された。ホワイトハウス、議会のメンバー、報道機関などが、合衆国にはこのような行動の準備があるかをペンタゴンにただした。答えは「ノー」だった。陸軍はすぐに「デルタ・フォース」の創設を命じた。その任務の一つは人質の救出だった。
 新しい部隊の最初のテストはうまく行かなかった。それは19804月、イラン人質事件の際に起きた。このとき、海兵隊員の操縦する海軍のヘリコプターが、テヘラン南東二百マイルの「デザート・ワン」として知られた場所に向かって飛行した。デルタ・ フォースの戦闘員と新しい燃料を積んだ空軍機と待ち合わせるためだった。弱い砂嵐が三機のヘリコプターを使用不能にし、指揮官は任務の打ち切りを指示した。しかし、地上での混乱で八機の飛行機と五名の空軍、三名の海兵を失った。「デサート・ワン」として記憶されるこの失敗は、軍のメンバーの記憶に鮮明に残っている。それはまた、後のゴールドウオーター―ニコルス法の改訂にも影響した。
  1983年、ベイルート[レバノン]でヒズボラによる海兵隊員の虐殺が起きた。レーガン大統領はただちに合衆国の軍隊をレバノンから撤退させた。これは後に聖戦主義者たちに、アメリカの弱さの証拠として、常に引き合いに出される失態となった。詳細な調査により、戦力を海外に展開する時の慣例となるべき新しい手順のリストが作成された。そこにはいくつかの防衛手段も含まれており、不審な車両やトラックだけでなく、上空の不明の航空機に対する注意も含まれていた。「軍の保護」は国防総省の時間と資産をかなり費やす事になった。
 十年後、軍幹部は「デザート・ワン」とベイルート撤退を思い起こさせるもう一つの経験をした。初代のブッシュ大統領は、戦争に引き裂かれたソマリアに人道的救助を行うため、合衆国軍隊の派遣を承認した。部族の派閥が補給の任務を妨害した。1993年秋、合衆国の指揮官たちは、トラブルの主因は、軍閥のムハンマド・ファラー・アイディードだと結論した。彼を逮捕するため、モガディシオに侵入する軍の特殊部隊が発進した。長い夜の空路の途中で、二機のブラックホーク・ヘリコプターが撃墜された。73名のアメリカ人が傷つき、18名が殺された。世界中のテレビ画面は、勝ち誇ったソマリア人たちによって街路を引きずり回されるアメリカ人の死体の映像を放映した。議会からの圧力によって[作戦を引き継いでいた]クリントン大統領は直ちに合衆国の戦力の撤退を指示した。「ブラックホーク・ダウン」は「デザート・ワン」と共に、制服組アメリカ人の間で一種のシンボルとして、周到な準備と圧倒的戦力および明確に定義された使命なしに、向こう見ずな行動を起こす危険を思い出させる慣用句となった。
 1995年から1996年にかけて、国防総省は大量破壊兵器(WMD)を含むテロ事件が自国内で起きた場合、それにどう対処するかのプラン作成に資金を投じ始めた。本土防衛のための国内コマンドに関する構想は、1997年に論議が開始され、1999年、統合参謀本部はその考えを国内の「統一コマンド」創設に発展させたが、議会がこのアイデアをつぶした。これに対して、国防総省はバージニア州ノーフォークに、国内の自然災害と人為的災害のいずれにも、軍として対応する責任を持つ「統合戦力コマンド」を創設した。
  1997年、「ナン―ルーガー―ドメニク国内準備計画」に従って、国防総省は国内120の大都市で一次救援隊員の訓練を始めた。この取り組みの鍵となる部分として、国防総省はテロリストのWMD事件に対処するための「州兵軍WMD市民支援チーム」を創設した。2001会計年度ではこのような32の州兵軍チームが承認された。州知事の指揮の下で、彼らは攻撃の性質を評価し、医療・技術面で助言し、州と地域の対応を調整するといった支援を民間の諸機関に対して行う。
 国防総省は国務省と同様、テロリズム対策に関する省庁間委員会で、省を代表する調整官を持っていた。クリントン政権の第一期の終わりには、この職員が、特別作戦・低強度紛争担当国防次官補assistant secretary of defense)となっていた。
 1980年代の経験から、軍の幹部たちは、もし対テロリズム作戦で役割をになうとしても、それは従来型の軍の役割 ―テロリズムのスポンサー国家に対して行動することだろうと思っていた。そして軍はその場合いかに対応するかの優れた先例を持っていた。1986年、ベルリンのディスコで爆弾が爆発し、二名のアメリカ兵が殺された。情報はこの爆発を明らかにリビアのママール・カダフィー大佐に結び付けていた。レーガン大統領は、リビアに対する空爆を命じた。この作戦の費用はタダではなかった:合衆国は二機の飛行機を失った。1988年のパンアメリカン103便の爆破を含め、後に集められた証拠の数々から、この作戦がカダフィのテロリズムへの関心を削ぐものではなかったことがはっきりと示された。だが、当時はそれが成功したと思われた。そのため、リビアから得られた教訓は、合衆国の航空戦力の使用によって、テロリストの行為の立案者やスポンサーに苦痛を与え、テロリズムを止めることが出来るというものだった。
 この学習はクリントン政権の初期から、トマホーク・ミサイルを使って応用された。ジョージ・H..ブッシュ[初代大統領]は、1991年の湾岸戦争によるクウェート救出を表彰されるため、その国を訪問する予定だった。クウェートのセキュリティー・サービスは、イラクの工作員が前大統領の暗殺を計画しているとワシントンに警告した。クリントン大統領は、ブッシュを保護するよう警戒を命じたのみならず、イラクに報復する選択肢は有るかと尋ねた。ペンタゴンはトマホーク・ミサイルの12の目標を提案した。ホワイトハウスとCIAで随伴被害について討論した結果、目標は三か所に減らされ、さらにバクダット中央のイラク情報機関本部の一か所に減らされた。攻撃は市民の被害を最小にするため、夜間に行われた。23発のミサイルが発射された。民間人1人が死んだだけで、作戦は完全に成功した:諜報本部は破壊され、それ以後、イラクによって計画されたテロ行為の情報はこなかった。
  1986年のリビア攻撃、1993年のイラク攻撃は、軍幹部にとって、対テロリズムのための軍事力の行使が効果的であるという象徴となった ―抑止を目的とした空からの限定攻撃である。残された難問は、敵が国家の領域を超える弱い結びつきをしている場合、どのような抑止が効果的かという事だった。

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    3・6 ホワイト ハウスの・・・    (原文 p.98
 テロリズムと対抗することは、過去でも現在でも、合衆国政府のいかなる部門であれ、その部門単独では出来ず、ある種の協力機構が必要である。テロリズムが顕著な問題でなかった時には、国務省がその役割を果たすことが出来た。しかし、イラン人質事件(19781981)の危機が進展した時、その対応は[国務省の]手続きの範囲外となった:国家安全保障補佐官ズビグニー・ブルゼジンスキーが危機管理の任についた。
 レーガン政権は、大統領のスタッフに対テロリズムに協力を継続させ、それを公式なものとした。ベイルートでの海兵隊員殺害の後、レーガン大統領は「国家安全保障指令138号(National Security Directive 138)」に署名し、「防衛基準を受動的なものから能動的なものに移行する」ことと、その移行を効果的なものとするため、計画の変更または人的資源の追加を要求した。それは国務省に対して「他国の政府との協力を成功させる努力の強化」を、またCIAに対しては「連絡官の利用と情報能力の強化および合衆国の利益に打撃を与える計画を行なっているグループと個人に先手を打つ計画と能力の開発」を指示していた。
 1985年7月、アメリカ法律家協会で、大統領はテロリズムを「戦争行為」であると定義し、宣言した。「このような怪物達が安全に休憩し、訓練し、そして残酷で致死的な技術を実行することのできる場所が、地上に残されるはずはありません。もしテロリスト達が保護区をどこにも持たないことを確実にするために、必要なら一緒に、あるいは統一して行動しなければなりません」。リビアへの空爆はこの戦略の表明だった。
 レーガン大統領の第二期のほぼ全般にわたって、対テロリズムの協同関係は、国家安全保障大統領補佐官代理(deputy national security adviser)を議長とする、上級者の省庁間協力委員会により管理された。しかしレーガン政権は、ホワイトハウスが対テロリズムを主導するべきだという見解の上に雲を投げた大きなスキャンダルによって終了した。
 レーガン大統領は、ヒズボラがアメリカ人の人質をとり、彼らを定期的に殺している事を心配していた。また彼は自身が署名して立法化した法律に制約を受けていた。それは、彼が強く支持していたニカラグアの反共主義者コントラ・ゲリラに軍需品を輸出することを非合法としていた。彼の国家安全保障補佐官ロバート・マックファーレンとその次席ジョン・ポインデクスター提督は、もし合衆国が人質と穏当な程度の武器を交換することでイランと秘かに合意すれば、人質問題は解決され、合衆国の中東での地位も改善されるだろうと思っていた。シュルツ[国務長官]とワインバーガー[国防長官]は一つになって、マックファーレンとポインデクスターに反対した。
 マックファーレンとポインデクスターのスタッフ、海兵隊中佐のオリヴァー・ノースは、合衆国の法律をかいくぐって、合衆国の武器と人質を交換し、それからコントラに方向を変える計画を作り出した。彼は中央情報長官のウイリアム・ケージーから励まされていたかもしれない。
 1986年から1987年にかけてこの事実が明らかになった時、すべてが再び1970年代であるように見えた:極秘活動(ca)の大規模な乱用。いまや、毒入り葉巻やマフィアのヒットマンの話にかわって、アメリカ人たちはマックファーレンによる秘密のテヘラン[イラン]訪問の証言を聞いた。それは偽名を使い、暗号の鍵が糖衣で描かれた冷凍されたチョコレートのデコレーションケーキを携えた訪問だった。特別審議会の調査の結果、マックファーレン、ポインデクスター、ノースおよびCIAの「秘密工作部」の高位の職員を含む10名が起訴された。調査は、説明責任の重要性と法の忠実な執行に対する公的責任に照明を当てた。9/11の物語にとって、イラン-コントラ事件が重要なのは、それがホワイトハウスからのいかなる作戦指令についてもまず懐疑的になってしまう、官僚主義の体質を作り出したことである。
 国家安全保障補佐官の職務が拡大するにつれて、従来「国家安全保障会議」スタッフと呼ばれていた補佐官スタッフの行為と組織は、さらに公式なものとなった。補佐官は、大統領指令(presidential directive)についての勧告を行った。大統領指令は大統領によって異なる呼称を持ち、クリントン大統領の時は「大統領決定指令」(Presidential Decision Directives:PDD)、ジョージ・W.・ブッシュ大統領の時は「国家安全保障大統領決定指令」(National Security Policy Directives:NSPD)と呼ばれた。これらの文書と大統領の承認が必要な多くのものは、一般には各省庁を代表する次官補または次官補代理によって構成される各種省庁間委員会を通過したものである。NSCスタッフは上位の管理者(director)を持つ。彼は省庁間会議に出席して、しばしば議長を務め、合意の形成を促進し、国家安全保障補佐官の、より広い立場での利益を代表する。
 クリントン大統領は就任すると直ちに、ホワイトハウスがテロリズム対策を調整することを決定した。1993年1月25日、パキスタンから来たイスラム過激派、ミル・アマル・カンシーがバージニアのCIA本部入口前の幹線道路上でCIA雇員二名を射殺した。(カンシーは車で逃げ、ずっと後になって国外で逮捕された。)それからわずか一か月後、[最初の] ワールド・トレードセンター爆破があり、さらに二・三週間後にイラクによるブッシュ前大統領に対する[暗殺の]陰謀が生じた。
 クリントン大統領の初代の国家安全保障担当補佐官(National Security Advisor)アンソニー・レークは、先のブッシュ政権から継続したスタッフとして、これまでに犯罪、麻薬、テロリズムを担当したベテランの文民公務員リチャード・クラークを抱えていた。(そのポートフォリオ分析は「麻薬と暴力」の相関図として知られていた)クリントン大統領とレークは、クラークに彼らのためにテロリズム対策の調整作業のスタッフとして働くことを求めた。それからほどなく、彼は後に「テロリズム対策安全保障グループ」(CSG)と呼ばれる事になる中級クラスの省庁間委員会の議長となった。合衆国のテロリスト対策のアドバイザーから監理者への昇進は後述する通りである。
 ブッシュ前大統領殺害の陰謀に引き起こされた、イラクに対するミサイル攻撃を説明している時、クリントン大統領は述べた (Note 99) 。「我々の革命[独立戦争]の最初の日から、アメリカの安全は次のメッセージの明白性に基づいている:我々を踏みつけにするな。我々の主権を守り、国家がスポンサーとなるテロリズムに従事するものたちにメッセージを送り、我が国民に対するさらなる暴力を思い止まらせ、そしてこの世界で文明的な行動をとらせるためには、それ相応の断固とした対応が不可欠だ」
 1995年1月の年頭教書で、クリントン大統領は「彼らの攻撃が国内であろうと国外であろうと、テロリストとの闘いで我々の手を強化するための包括的な法律を制定する」ことを約束した。2月、彼は連邦の犯罪司法権の拡張、テロリストの国外追放の容易化、テロリストの資金調達を禁ずる法律などを議会に提案した。5月初め、彼はあまたの強力な修正案を提出した。この間、三月には東京からオウム真理教という末日的カルトが地下鉄内で神経性ガス:サリンを散布し、12名が死亡、数千人が傷ついたというニュースが続いた。この教団は日本で多くの不動産や実験室を持ち、世界中で支部を拡大してきた。その中の一つにはニューヨークも含まれていた。そのことをFBICIAも全く聞いたことがなかった。4月にはオクラホマシティーで連邦政府のムラー・ビル爆破が起きた。イスラム主義者の犯行という直後の疑惑は誤りであることが明らかになった。爆破犯たちはアメリカ人の反政府過激主義者、ティモシー・マクベイとテリー・ニコルスであることが証明された。クリントン大統領は、FBIに盗聴と電子的捜査の執行権を拡大すること、爆発物に追跡可能な非反応性標識・タガント(taggant)を付けること、およびFBICIAだけでなく地方警察にもあらたに充分な資金を与えることなど、自分の当初の提案についての修正を提案した。
  19956月、大統領は非公開の「大統領決定指令39号」を発令した。それには、合衆国は「わが領域およびわが市民に対するすべてのテロリストの攻撃を、阻止し、打ち負かし、そして激しく応酬しなければならない」とあった。この指令はテロリズムを国家安全保障上の問題であると同時に犯罪であると両方の名前で呼び、各省庁に責任を割り当てた。東京での出来事が警報となって、クリントン大統領は、化学・生物化学および核兵器を伴ったテロリズムの摘発と対応に備えることを、彼のスッタッフとすべての省庁の最優先度課題とした。
 1995年から1996年の間、クリントン大統領はテロリストに保護区を提供しないよう、他の国々に協力を求めることにかなりの時間を割いた。彼はFBIに対して、著しく大幅な増加予算を提示したが、その大半はテロリズム対策費だった。CIAについては基本的には予算削減割当てを中止し、テロリズム対策のための追加予算要求を認めた。
  1996年の再選後、彼の新しい国家安全保障チームの発表に際して、クリントン大統領は、テロリズムは国家が直面する幾つかの挑戦リストの首位に位置すると述べた。1998年、ビン・ラディンのファトワその他の警報の後、クリントン大統領は彼の国家安全保障担当補佐官サミュエル“サンディー”バーガーの提案を受け入れ、クラークに安全保障、インフラ施設保護、およびテロリズム対策のための国家調整官という新しい地位を与えた。クリントン大統領は二つの「大統領決定指令62号、63号」を発令した。それは「大統領決定指令39号」で作られた各省庁の任務を基礎としたものである;対テロリズムに関する10の計画範囲の提示;これらの任務を監督するクラークの権限の、少なくとも書類上での強調などだった。特にリーバイ司法長官の任務と関係するため、この新しい権限は正確で限られた言葉で定義された。クラークは予算については「助言を与える」のみであり、行為としては「省庁間で合意したガイドラインの進展を調整する」のみだった。
 クラークはまた、それが彼の問題と関わるときは、閣僚級の長官会議に席を与えられる栄誉を得た。ホワイトハウスのスタッフとしては異例の処置だった。彼の省庁間組織CSGは、―バーガーが首脳達に直接報告するよう求めることが無ければ― 通常は次席閣僚の次官級会議に報告する。補足的な指令63号は、国家の非常時に不可欠な生活基盤の各要素を定義し、その保全の方法を考察している。[62号と63号を]合わせると、二つの指示は基本的に国内の任務は司法省とFBIに残し、国外のテロリズムは、クラークとバーガーの調整手腕の下で、CIAと国務省その他の省庁にゆだねられた。
 新しい取決めとのかかわりを説明して、19985月、海軍大学の学位授与式での演説で大統領は述べた。
「第一に、我々はその集約された手段を、すべての形のテロリズムに対する戦いを強化するために使うでしょう:どこに隠れようともテロリストを捕まえること;海外のテロリストの保護区を取り除くため他の諸国と協力して働くこと;国内・国外でアメリカ人をテロリズムから保護するために迅速かつ効果的に対応すること。第二に我々は、重要な生活基盤、電力システム、水道、警察、消防、医薬サービス、航空交通管制、財務サービス、電話システム、コンピュータネットワーク・・・などに対する攻撃を検知し、阻止し、防護する総括的な計画を立ち上げるでしょう。第三に、我々は、生物化学兵器の拡散と使用を妨げ、このような恐ろしい兵器が暴力国家やテロリスト・グループ、国際的犯罪組織によって拡散されるような事態から人々を保護することに総合的な努力を払うでしょう」
 明らかに、大統領のテロリズムに対する関心は着実に上昇していた。この懸念の増加は、1999年の初めにさらに明らかになった。彼は「国家科学アカデミー」で演説し、もし合衆国が準備することなく、テロリストによって大量破壊兵器や強力なサイバー兵器の攻撃を受けた場合、何が起きるかについて、彼の深刻な憂慮を表明した。

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3・7 議会の・・・
   
       (原文 p.102
 共和国[アメリカ合衆国]が始まって以来、行政府と立法府の間の権力問題以上に熱く争われた論争は無い。憲法制定会議で創設者たちは強い行政府を求めたが、一方でその力をチェックした。彼らは双方の権力に充分にあいまいな部分を残したため、議会と大統領の間で国家の安全と外交政策について、論争の余地が残された。
 最も深刻な問題は、戦争の開始にあたり、大統領は議会の承認を必要とするか否かに集中してきた。この論争についての現在の状況は、大統領は小規模な限定された作戦については軍を動員出来るが、大規模で限定のない軍事作戦については、議会の承認が無いとしても、少なくとも支持を必要とするという認識に落ち着いてきているように見える。
 この論法は、9/11の物語の中で重要となる。クリントン、ブッシュ両大統領とも、ビン・ラディンが戦争を宣言し、我々に対し戦争を始めた後も、彼に対し宣戦布告をしない選択をした。彼らは、公式に認められる宣言をしなかった。9/11以後まで、議会の承認は求められなかった。
 議会での国家安全保障の監視に関する最も重大な変化が起こったのは、第二次世界大戦終結後だった。 1946年の「議会再組織法」により、現代的な「軍務委員会」が生まれた。それは今日では非常に強大なものとなっている。特に注目すべき革新は「上下両院合同原子力エネルギー委員会」の創設である。その委員会はわが国の核抑止力の進展について多くの人の信任を得てはいるが、行政府に関しては大きな力を振るいすぎるとの批判も受けていた。
 皮肉なことにこの委員会は、1970年代、議会が次の最も重要な監視についての改革を始めたため廃止されてしまった。この改革は、権力の乱用の監視についてのチャーチ[上院]とパイク[下院]の調査に応じたものだった。1977年、上下両院は、行政府の情報工作の実行を監視する特別調査委員会の設立を行った。
情報委員会
 下院および上院の情報についての特別委員会は、いくつかの重要な特徴を共有した。彼らの権限には限界があった。彼らは情報官庁に対して、独占的権限は持たなかった。支出は最終的には「歳出委員会」によって決められた。「軍務委員会」は国防総省内の情報機関に対し司法権を行使した。(上院の場合はCIAについても行った)その結果、必然的に情報予算の上昇と下降は、防衛費の支出傾向に直結している。
 大統領は、議会の情報委員会が、合衆国の情報活動について完全かつ最新の情報を持っていることを確認するよう、法律によって要求されている。情報委員会はCIAが情報源、方法および工作を保護するために、情報をある程度秘匿することを認めている。CIAは大統領が認可した秘密作戦(ca)の「結果と通告メモ」を情報委員会に提出しなければならない。そこには失敗についての詳細も記さなければならない。委員会は、秘密事項を保護できるよう、最も重要な仕事は非公開のヒアリングまたはブリーフィングで行う。
 情報委員会のメンバーは、各々の院の制限により、限定された時間内で働く。こうした制限があるため、委員会メンバーが効果的監視を行なうための専門技術を向上させることが出来ないと考えている委員も多い。
 秘密は必要ではあったが、監視を妨げた。情報社会の予算の総額は、多くの活動がそうであったように、秘匿されている。かくして、情報委員会は民主主義下の最良の監視機能:情報公開を利用することが出来なかった。このことは、情報委員会を議会の他の監視委員会とはかなり異なるものとし、それがしはしばしば、詮索好きのジャーナリズトや、番犬を自認する組織などを行動に駆り立てている。

冷戦後の時代への順応
 1991年の予想外の、急速な冷戦の終結は、外交政策と国家安全保障について、政府の内外双方にトラウマを作り出した。ある者は情報社会がソビエト連邦の崩壊を予測できなかったことを非難した。(そしてこの議論が情報官庁の大幅な縮小の提案理由に使われた)一方、ソビエトの挑戦に備える安全保障構造維持の巨額な負担をまぬがれるという良いニュースは、不安定性の増大という悪いニュースを伴っていると認識した人がほとんどだった。多くの分野で人々が直面したのは、これまで準備をしてこなかった脅威と諜報活動による挑戦だった。情報活動を監査する委員会においても事情は同じだった。新しいデジタル技術、画像に対する要求、旧式のシステムの能力の継続的維持、それらは人間の努力という支出を、衛星システムの上により多く費やす必要があることを意味した。おまけに標的とする相手は、我々の情報機関の公開情報から学んだので、否定したり、まやかしの情報を流すことがより効果的となった。情報社会の包括的改革の提案もあった。上院議員のボーレンとマカディーによって提出されたもので、制度上の弱点についての議会の論議は、まだあまりに少ないと述べられていた。
 冷戦が終結し、さらに情報社会がエイムス―スパイスキャンダルに動揺していたこともあって、初め前国防長官のレス・アスピン、次いで同じく前国防長官ハロルド・ブラウンが議長を勤めた大統領委員会は、情報活動の将来について検証した。そして、DCIには人材と情報社会の予算の職権が欠けているとの勧告を発表し、さらに1996年、情報委員会は、これらの問題改善のための立法化を提案した。
 国防総省と同省に議会で権限を持つ委員会は、この改革提案の反対に立ち上がった。大統領とDCIはこの変化を積極的には支持しなかった。1996年に行なわれた比較的小さな改革は、DCIに諮問の権威を与え、また管理と情報の収集と分析に関してDCIを補佐する副長官を作った。この改革は、上院情報特別委員会が防衛支出承認案を却下するという前例の無い脅迫の直後に行なわれた。実際、国家情報に関して、DCIの権威を高めるどころか、1990年代には、たとえばCIAの画像分析能力を国防総省内に新設された画像・地図製作部門に移転するといった、逆の動きも目についた。

議会の順応
 行政府と同じように、議会全体も、国家の安全に脅威となってきた、国家の領域を越えるテロリズムに対する順応は遅かった。特に、ビン・ラディンの増加する脅威と戦闘能力について、議会では充分に理解されていなかった。連邦政府の最も代表的な部門として、議会は世論と有権者が何を重大事項と思っているか、その傾向を密着して追っている。911日以前には、テロリズムはめったに重要項目とならなかった。テロリズムは、特別の事件のあとで短期間注目され、ある程度、突発的に議会の注目を集めるが、その後、一般の政策協議の中で低い段階に戻る。
 議会はいくつかの点で何の価値もなかった。第一に議会はいつも国内問題を強く指向してきた。外交政策と国家安全保障の事項は、行政当局によって脅威が特定され、明確に説明された後、[議題として]取り上げられた。詳細な説明が繰り返し行わることがなかったので、国家安全保障問題は議会で優先順位が高くなることはなかった。大統領たちは、国際問題に政治的資産を使う点で、選り好みをした。9/11前の十年間で、外交問題と国家安全保障についての大統領の論議や議会および大衆の注意は、その他の諸問題で占められていた。すなわち、ハイチ、ボスニア、ロシア、中国、ソマリア、コソボ、NATOの拡大、中東和平プロセス、ミサイル防衛そしてグローバリゼーションなどである。テロリズムが頻繁に中心課題となることはめったに無かった;問題となった時でも、内容の多くはテロリストの戦術 ―化学、細菌、核、コンピュータ攻撃― であって、テロリストの組織についてではなかった。
 第二に議会は、国家安全保障問題に関する予算配分については、大統領の総体的な指導に従いがちであった。個々の問題や内部での優先順位については、しばしば鋭い論議があったが、概して予算全体としては大統領の要求に近い形で、議会によって承認され充当された。1990年代初めに、国防、諜報、外交問題についての支出は確実に下降傾向を示した。ホワイトハウスがキャピトル・ヒル[議会]からの政治的信号を読んでいいたことは確かだが、議会はおおむね行政府の予算請求に同意していた。1990年代の後半、議会は情報計画に対する政府の要求の約98%を充当していた。1999財政年度の全情報組織に対するギングリッチの提出した 15億ドルの予算追加は別として、9/11以前の10年間、国家安全保障問題に関する予算配分は、―テロリズム対策資金も含め― そのほとんどが大統領府の行政管理予算局で行われた。
 第三に議会自身、冷戦終了後の新しい脅威に対抗すべく自らを再編成することが無かった。議会の再編成についての合同委員会による勧告は、1994年の選挙後、下院では部分的に実施されたが、国家安全保障機能の再編成は行われなかった。上院はなんら評価すべき変更を行わなかった。伝統的な問題 ―外交政策、防衛、情報― などについて、その構成がおおむね代わりばえの無い委員会によって扱われ、一方、国家の領域を越えるテロリズムのような問題はその裂け目に落ち込んでしまった。テロリズムは下院だけでも異なる14の委員会の管轄下に入り、テロリズムに関する上下両院の予算および監視機能は、複数の委員会の間に不都合に分散されていた。集約・統一化されたテロ対策   ―脅威を特定することから、傷つきやすいインフラ施設の対処まで― を真剣に考えようとする努力は殆んどなされなかった。議会のばらばらな取り組みは、行政府が政策を練り上げるうえで問題を生じた。
 第四に、時間が経つにつれて議会の監視機能は弱くなってきていた。近年、計画の執行と法の履行についての伝統的な評論にとって代わって「個人の調査、起こりうるスキャンダル、メディアの関心を引くように意図された事件などに焦点を合わせる」種類の記事が幅をきかせている。地味だが重要な監視の仕事は、なおざりにされるようになって、それが適正に行われていると信じている人は過去にも現在にもほとんどいない。DCIテネットは「脅威から脅威へ、また脅威へと走っていた。そこには『君は後戻りしてこれと、これと、これをやりなさい』と正しく言うシステムは無かった」と語った。
 DCIだけでなくすべての行政部門は、その日その日の関心事に気をとられながらも、テロリズム対策の戦略と政策の問題に対処する上で議会の助けを必要としていた。しかし、議員達もまたそうした日常的な事件や失敗の調査の見直しに時間をとられて ―それは行政部門も同じだったが― 大きな問題を見落とした。スタッフたちもまた重要視されている包括的な監視プロジェクトではなく、選挙区の問題や多くの場合、個々の計画の予算(多くは少額)の追加や削減などに集中する傾向にあった。
 第五に、いくつかの問題に関して、他の優先度が議会を別の方向に向かわせた。それは9/11に至る数か月の間に台頭しつつあった脅威に対応する手助けとはならなかった。航空産業を管轄する委員会は、空港の混雑と航空路線の経済性を圧倒的に重視し、安全性は二の次になっていた。INS担当の委員会は、テロリスト[の越境、入国]ではなく、南西国境[メキシコ国境]に焦点を合わせていた。FBIを担当する委員会は情報技術の改良の支出を極度に制限していたと司法省の職員は我々に語った。理由の一部は、このような問題を扱うFBIの能力を懸念していたためである。南アジアを担当する各種委員会は、1990年代の10年間をパキスタンに制裁を課すことに費やしたため、その後の大統領には、9/11以前にパキスタン政策を変更するよう影響力を行使する余地はほとんど無かった。国防総省を担当する委員会は、テロリズムに対して軍が対応を進めていることにほとんど注意を払わず、情報の改革を妨害した。すべての委員会が、予算措置の細部に足をとられ、長期の問題を考慮する時間、あるいは ―多くの現在あるいは過去の委員が我々に話したことだが― 適切な監視を実施する時間が殆ど無かったことに気付いていた。
 こうした傾向の一つ一つが、9/11以前の数年間に、テロリズムの脅威に取り扱いで、議会が緩慢で不適切であったとしか言いようのない結果につながった。立法府は殆ど順応せず、変化しつつあった脅威に取り組むために、自身を再編成することは無かった。そのテロリズムに対する注意は断片的で、いくつかの委員会の間にまき散らされていた。議会は行政府の省庁にほとんど指針を与えず、意義ある形で改革を施すこともなく、また国の安全保障や国内省庁が抱える多くの問題を系統立てて特定し、対処し、解決に務めようとしなかった。こうしたことが、9/11の直後に明らかとなった。上、下両院の議員は、それぞれ大切な問題に取り組んでいたとはいえ、議会全体のテロリズムの脅威に対する注意のレベルは低かった。
 我々は1998年1月から20019月までの、テロリズムについてのヒアリングの回数を調べた。上院の軍務委員会は9回行い、うち4回は合衆国軍艦「コール」への攻撃についてのものだった。同じく下院の軍務委員会は9回のヒアリングを持ち、6回はテロリズムについての特別監視委員会によるものだった。上院の外交委員会およびこれに相当する下院の委員会は共に4回開いた。上院の情報特別委員会は、その世界的な脅威についての年次ヒアリングを含めて8回開いた。またこれに相当する下院の委員会は対テロリズムに限定したおそらく2回と、さらにそのテロリスト作業部会によるブリーフィングをしていた。上院と下院の情報パネル(intelligence panels )は、9/11の合同調査以前に、ビン・ラディンやアルカイダについて、国民や議会の注意を促したことはなかった。おそらく、部分的にはこれらの作業の秘密性のためであろう。それぞれの委員が管轄分野の事件についてのヒアリングを毎年開いていたという状況ではあるものの、このリストは印象的なものではない。国家安全保障をつかさどる議会の委員たちの中で、テロリズムについての優先度は二ないし三番目だった。
 実際、議会は国家の安全の脅威の出現という問題を彼らの皿の外に押し出し、その考察を他の部門に委ねるという明らかな傾向があった。議会は、間違いなく彼らが監視責任の中心であった仕事を、外部の調査会に委託していた。1999年初め、これらの調査会の報告書は、テロリズムへの取り組みと本土の安全保障について数多くの勧告を行ったが、議会の注意をひくことはほとんど無かった。彼らの衝撃の大部分は9/11以後にやってきた。

第3章Note

Note 90. 1993年、ルフトハンザ機(がハイジャックされJFK空港に着陸したが、一時間後に解決した事件。

Note 99. 国民に対する演説  June 26,1993.



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