第4章 アルカイダの初期の攻撃に対する反応 (原文p.108
4・1 ケニア、タンザニア爆破以前

 1995年の「国家情報評価」(National Intelligence Estimate )は、新しいタイプのテロリズムについて警告していた。にもかかわらず、多くの当局者たちは、テロリストを、ある国家の代理人(イランのために「ホバル・タワー」を攻撃したサウジ・ヒズボラ)や国内の犯罪者(オクラホマシティーの[連政府ビルを爆破した]ティモシー・マクベイ)であるとの考えを引き続き抱いていた。第三章で指摘したように、ホワイトハウスは計画の管理について、本来の中枢ではなかったので、テロリズムに対抗する国家の取り組みは、本質的にそれぞれの官庁に分散した仕事だった。
 ビル・クリントン大統領のテロリズム対策「大統領決定命令[PDD]1995(39)および19985(62)では、テロリズムは単に法の執行を受ける[一般犯罪]事件ではなく、国家の安全保障問題であると繰り返し述べていた。これらの指示に基づき、国内においても国外と同様「国家安全保障会議」(NSCがテロリズム対策の強化に取り組むよう、その権限を強化した。この間の調整はリチャード・クラークと彼の省庁間機構「テロリズム対策安全保障グループ」(CSG)が受け持つ。これらの指示は、型にはまらない攻撃による新しい事件にスポットライトを当てながら、中心となる官庁に任務を割り当てたが、テロリストの脅威のタイプについて詳細に区分することは無かった。クラークは行動するよう省庁をせきたてたり、押したりしたかもしれないが、実際に起きたことは、国務省やペンタゴン、CIAおよび司法省で通常決められる事だった。これら省庁の取り組みは、時には熱心で、また効果的であった。テロリストの陰謀は妨げられ、また個々のテロリストは逮捕された。しかし、9/11以前、合衆国はアルカイダの除去を明瞭な戦略目標として採用してはいなかった。
    
 ン・ラディンに対抗する初期の取り組み
 1996年まで、合衆国政府のほとんど誰も、ウサマ・ビン・ラディンが、新しいテロリズムを鼓吹し、組織していることを認識していなかった。1993年、CIAは彼がスーダンでのエジプト人テロリスト数人の訓練に対して、支払いをしてきたことに気付いた。国務省は彼の資金が、1992年、アデンで爆弾を設置し、合衆国部隊の殺害を試みたイエメンのテロリストを援助したことを探知した。国務省の情報源[情報提供者]もニューヨーク地区で「盲目のシャイフ」ことオマル・アブデル・ラーマンとの疑わしいつながりを目撃していたことから、ビン・ラディンは「世界の反イスラム体制に対して財政的『ジハード』の資金を援助しているようだ」とコメントした。
 1993年、国務省はスーダンをテロリズムの国家スポンサーに指定したのち、ビン・ラディンを、監視リスト:TIPOFFに載せた。これは彼が合衆国へ入国を試みた時、ビザの取得を妨げる手段だった。しかし、1997年末になっても、CIAテロリスト対策センターCTC]でさえ、彼を「過激主義者の資金供給者」と描写し続けていた。

 1996年、CIAは、関係する情報を分析し、ビン・ラディンに対抗する作戦を計画する数名の職員からなる特別ユニットを立ち上げた。CIA工作本部長、デビッド・コーエンは、「仮想支局」(virtual station)というアイデアを試したいと考えていた。この支局は本部にあるが、目標とされた国の地域にある支局と同様に、ある主題に対して情報を集め工作を行う。特にテロリストの財政について関心があった国家安全保障補佐官アンソニー・レークの指図を受けて、コーエンは仮想支局をテロリストの財政に連結するユニットとして作った。彼は作戦本部の誰ひとり、それを運用しようと申し出ないのに苦労した。結局彼は対テロリスト・センターのイスラム過激派局で働いていた前分析官を採用した。アフガニスタンに特別の知識があったこの職員は、最近のビン・ラディンとアルカイダと言われるものに関する報告の流れに注目した。そしてコーエンに支局がこの個人に焦点を合わせてはどうかと提案した。コーエンは同意し、ビン・ラディン班unit)が生まれた。
 1996年5月、ビン・ラディンはスーダンを去り、アフガニスタンに向かった。数か月後、ビン・ラディン班がギヤを上げた頃、ヤマル・アーメド・アル・ファドルがアフリカの合衆国大使館にやってきた。彼はビン・ラディンの上級職員だったが[合衆国当局と]親密な関係を築くことを申し出た。そしてアルカイダの設立、特性、方針、意図などについて、画期的な情報を提供した。その裏付けとなる証拠が、異なる合衆国大使館の飛び込みの情報源からも来た。更なる確証がこの年遅くなって、情報機関その他の情報源からも提供された。その中には、FBI捜査官とケニア警察によるナイロビのアルカイダ細胞からの収集データもあった。
 1997年、ビン・ラディン班の職員は、ビン・ラディンが資金提供者以上のものであることに気付いた。彼らは、アルカイダが軍事委員会を持ち、世界中のアメリカ資産に対する作戦を計画し、実際に核物質を入手しようと試みていることを知った。この支局に配置された分析官たちは、集められた情報に目を通し、1992年と1993年のアデンとソマリアでの合衆国軍隊への攻撃や、1994年から95年のフィリピンでのマニラ航空機陰謀など「いたるところで関係がある」ことを知った。
 ビン・ラディン局station)は、すでにビン・ラディンに対する攻撃計画を練りつつあった。これらの計画は、人的資産と資金源の双方に向けられていた。最終的にはビン・ラディンの資金源を特定し攻撃するという計画は進まなかった。
 1995年遅く、ビン・ラディンがまだスーダンにいたころ、国務省とCIAはスーダンの公式筋とサウジ政府が、ビン・ラディン追放の可能性について討議していることを知った。合衆国大使、ティモシー・カーネイはこれを推し進めるよう、スーダン人を励ました。しかしサウジは、ビン・ラディンの市民権がすでに取り消されていることを理由に彼を受け入れたがらなかった。
 スーダンの国防大臣ファティ・エルワは、スーダンはビン・ラディンを合衆国に引き渡そうと申し出たと主張した。当委員会は、それが事実だと信ずべき証拠をいまだに発見していない。カーネイ大使は、ビン・ラディンの追放をスーダン人達にけしかけろ、と指示されただけだった。カーネイ大使は、その時点では明瞭な告発も無かったので、スーダン人たちにそれ以上のことを要求する何の法的根拠も持たなかった。
 ビン・ラディン局(station)の主任 ―以後「マイク」と呼ぶことにする― は、ビン・ラディンのアフガニスタンへの移動を絶好のチャンスと見なした。ソビエトの撤退後、CIAは事実上アフガニスタンを見捨てていたが、事件担当官は、19931月、2人のCIA雇員を暗殺したパキスタンのガンマン、ミル・アマル・カンシの追跡を通じて得た古い接触を再構築していた。こうした接触から、ビン・ラディンのこの地域での動向、ビジネス活動、警備、生活の仕方などについての情報が得られた。また、彼がタリバン援助に莫大な金を使っている証拠を得る助けとなった。テロリスト対策センター ―以後「ジェフ」と呼ぶことにする― は、ジョージ・テネット長官に、CIAの情報資産[情報提供者]は「ビン・ラディンのアフガニスタン内での活動と移動を、ほとんどリアルタイムで提供してくれる」と言った。接触先の一つは、アフガニスタンの固有の部族の一つ、パシュトン人共同体の一グループだった。
 1997年秋までに、ビン・ラディン班はこれらのアフガン部族が、ビン・ラディンを捕らえ、合衆国またはアラブの一国での裁判のために引き渡すという計画の概要を作成した。1998年始め、閣僚レベルの長官級会議はこの考えを承認した。
 一方、FBIニューヨーク地区支局とニューヨーク南部地区連邦検事は、それぞれ別の路線をたどりながら CIAから情報を得たが指示はしなかった― 大陪審にビン・ラディンの起訴を求める準備を始めていた。対テロリスト・センターはこうした事態の進行を知っていた。19986月、最終的な告発、合衆国防衛施設に対する攻撃の共謀が、ついに大陪審から秘密扱いの起訴状として発行され、その年の11月には公開された。
 19965月、ビン・ラディンがアフガニスタンに移動すると、彼は国務省南アジア局が所管する問題となった。当時、ある外交官が我々に語ったように、省および政府の中では、南アジアは一般的に優先度が低いと見られていた。1997年、マデレーヌ・オルブライトが国務長官として実権をふるい始めたころ、NSCの政策の再検討が行われ、合衆国はインドだけでなく、パキスタン、アフガニスタンにも、もっと注意を払うべきだと結論した。アフガニスタンについて言えば、当時合衆国はこの国に対する政策は皆無だったとある外交官は語った。
 国務省内では、インド‐パキスタン間の緊張に関心が集中するあまり、しばしばアフガニスタンやビン・ラディンへの注意は締め出された。パキスタンの不安定性とイスラム過激主義勢力の拡大に気付きながら、国務省職員たちが最も気にしていたのは、パキスタンとインドの間の兵器競争と、起こり得る戦争についてだった。両国が核兵器の実験で合衆国を驚かせた19985月以降、これらの危険が国務省で常に第一位の関心事となった。
 国務省は、アフガニスタンでは、ソビエト撤退以後続いている内戦を終了させようとしていた。南アジア局は、アフガニスタンを横断するパイプラインを建設する「ユニオン・カリフォルニア石油会社」(UNOCAL)のプロジェクトが、アフガニスタンの軍閥に対する「ニンジン」となるだろうと信じていた。現実にはパイプラインが建設されるチャンスは殆ど無かったが、アフガン担当デスクはパイプラインの利益の分け前への見通しが、派閥のリーダーたちを協議のテーブルに導くだろうと期待していた。合衆国の外交官が、他のライバル派閥以上にタリバンを好んだということはなかった。しかし、ある職員が述べているように、増大する懸念にも係らず、外交官たちは、当時「タリバンにもチャンスを与えよう」という気になっていた。
 オルブライト長官は、タリバンを「卑劣」と考えていることを隠さなかったが、合衆国国連大使ビル・リチャードソンは、1998年4月、使節団を率いてアフガニスタンを含む南アジアを訪問した。この数十年間、このような合衆国高官がカブールに来たことは無かった。リチャードソン大使の訪問は、主として内戦終結の話し合いを促すためだった。「アメリカ人を殺せ」という、ビン・ラディンの全ムスリムに対する最近の公開声明を考慮して、リチャードソンはタリバンにビン・ラディンを追放するよう求めた。タリバンは、ビン・ラディンがどこにいるか知らないと答え、ともかく彼は合衆国に対する脅威ではないと言った。
 要するに、1997年末から1998年春にかけて、合衆国の主要官庁はビン・ラディンに対抗すべく、それぞれ取組みを続けてきた。CIAテロリスト対策センターは、彼を逮捕し、アフガニスタンから連れ出す計画を推し進めていた。司法省の一部は、ニューヨークの法廷で刑事裁判にかけられるように、ビン・ラディンを起訴する方向で動いていた。一方、国務省はインド‐パキスタン間の核の緊張緩和と、アフガニスタンの内戦終結、さらにビン・ラディンの追放よりも、タリバンの人権侵害の改善に焦点を合わせていた。もう一つの主役である合衆国中央軍の総司令官、アンソニー・ジニ海兵大将は国務省と同じ考えだった。

CIAは捕捉計画を推進 
 最初、DCIテロリスト対策センター[CIA]とそのビン・ラディン班は、ビン・ラディンがカンダハルとタルナック農場間を移動する際、待伏せする事を検討した。カンダハルはタリバンの首都で、そこで彼は時折、夜を過ごしていた。タルナック農場は当時、彼の最初の住居だった。アフガニスタンの部族がこの待ち伏せを試みたが、失敗したとの報告を受けた。それが虚偽の報告だとの疑いがあったにも関わらず、センター[CTC]はこの計画を放棄し、その後は、タルナック農場への夜間侵入による捕捉計画に焦点を合わせた。
 タルナック農場は、カンダハル空港外部の隔離された砂漠地帯にあり、その施設は、コンクリートや泥レンガで作られた約80の建築物群が[高さ]10フィートの壁に取り囲まれていた。CIA職員はすべての場所を地図に書くことが出来、ビン・ラディンの妻の建物や、彼が一番寝室にしそうな建物を特定することが出来た。部族と協力して、彼らは侵入計画を描きあげた。1997年秋には、合衆国内で2回にわたり完全なリハーサルを行った。
 1998年始め、テロリスト対策センターの計画立案者たちは、正式の承認を得るためホワイトハウスに戻ろうとしていた。213日、テネットは、国家安全保障補佐官サンディー・バーガーに基本計画を大まかに説明した。部族の一グループが警備員を制圧して秘かに農場に入り、ビン・ラディンを捕まえる。そしてカブール郊外の砂漠のある場所に連れ出し、第二のグループに引き渡す。この第二の部族グループは彼を砂漠の中の着陸地点に連れて行く。この場所は1997年、[CIA雇員殺害犯]カンシー 逮捕の際、試験済みであった(*)。そこからCIAの飛行機が、ニューヨークかアラブ国家の首都その他、彼に起訴事実の認否を問える場所に連れてゆく手はずだった。テロリスト対策センターが準備した説明文書では、支障が起きるかもしれないと認めていた。人が殺されるかも知れず、ビン・ラディンの支持者たちは報復するだろう。おそらくカンダハルで合衆国市民を人質とするだろう。しかし概要説明の資料は行動しない場合にも危険があることを記していた。彼らは言った。「遅かれ早かれビン・ラディンは合衆国資産を攻撃するだろう。多分WMD(大量破壊兵器)を使うだろう」 
 
 
(*)カンシー逮捕はパキスタン国内だったため、この場所は実際には使われなかった。(訳注)
 クラークのテロリズム対策安全保障グループ[CSG]は、バーガーのために捕獲計画を見直した。 その計画が「進展のごく初期段階」であることを知った。NSCスタッフはCIAには計画を進めるように言い、一方、この極秘作戦(ca)の認可に必要な法的書類の草案作りに着手した。CSGはこの侵入はビン・ラディン自身を標的とするもので、建造物群全体に対するものでは無いことを強調した。
 CIAの計画立案者は3月に三回目の完全なリハーサルを行い、CSGに概要説明を行った。37日、クラークは、彼らの計画は「なんとなく未成熟」で、CIAが「何かするのは何か月か早い」とバーガーに書き送った、
 「マイク」は捕獲計画を「完璧な作戦」だと考えていた。それに必要な支援施設は最小だった。その計画は、ビン・ラディンを合衆国に送り出すまで、部族が一月間程、彼を「隠れ家」に留置するように修正されていた ―それによって合衆国の関与をいっそう見え難くする機会が増加する。「マイク」はアフガン・ネットワークからの通報を信頼していた。その裏付けも別の手段で得ていたと我々に話した。現地の主任CIA職員、ゲイリー・シュローエンもまた部族を信頼していた。56日のCIA本部への通信で、計画は「まるで軍の特殊作戦小隊が作り上げたような・・・殆どプロフェッショナルで詳細なもの」と断言した。部族と一緒に計画を推進している彼と職員たちは、その計画を「なしうる中で、殆んど最高のもの」と判断していた。そこで彼が言わんとしたのは、ビン・ラディンを捕捉もしくは殺害するチャンスは約40%だと言うことだったとシュローエンは説明した。
 部族たちは侵入に成功すると考えており、もし作戦が指導部と政策立案者に承認されれば、ある時点で「我々は引き下がって、彼ら(部族民)の思惑通りに事がうまく(そして幸運に)運ぶよう指をくんで祈る」ところだったとシュローエンは書いた。
 軍将校たちは捕獲計画を再調査した。マイクによれば「花形役者が居ない」(found no showstopper)といったところだった。デルタ・フォース指揮官は、部族が長期にわたってビン・ラディンを捕捉しておくことは「不安」だと感じ、合同特殊作戦部隊の准将マイケル・カナバンは、タルナック農場内の部族の安全を懸念した。カナバン将軍は、作戦はCIAにとって本当に複雑すぎると考えていた。「彼らの実力範囲外だ」。そして得られる結果は安物だと言った。しかし、ある統合参謀本部上級士官は「一般的に見て、おおむね我々が考え付くものと大差ない」と述べた。我々の知るかぎり、ホワイトハウスやCIAに作戦を思い止まるよう進言するものは、ペンタゴンには誰もいなかった。
 ワシントンでは、バーガーが部族の信頼性について疑問を表明した。だが、彼はテネットとの会談で、もしビン・ラディンが実際に捕捉されたら彼をどうするかという点を問題にした。彼はビン・ラディンに対する確たる証拠はまだ不十分であり、彼を誘拐し合衆国に連行しても、結局は無罪放免ということになるだけではないかと懸念していた。
 518日、CIAのマネジャーたちは、捕捉計画を承認する法的文書である「通告メモ」(MON:Memorundum of Notification)の草案を見直した。ある法的文書が捕捉計画を承認していた。1986年の大統領認定(presidential finding)は、テロリズムに対する世界規模での秘密工作(ca)を認可し、適切な権限をそれに付与したものだった。しかし、過去の「はぐれ象」に対するような告発に留意して、上級CIAマネジャー達は、自分たちが一存で勝手に行動したわけではないという証拠を、文書の形で要求したと思われる。
 このメモに関する論議で、少なくとも上級CIAマネジャーたちの間に根をおろした、準軍事的極秘作戦(ca)に対する不安感が表面化してきた。作戦副部長のジェイムス・パビットは、人々が殺されるのではないかと心配していた。どうやら彼は、作戦が僅かに暗殺計画の臭いがすると考えたらしい。おまけに彼は、それには数百万ドルの費用が掛かると見積もっていた。彼はその金を「裏金」として用意をしていなかった。また、そのような特別の金を得るために、必要なすべての議会の委員会に行きたくはなかった。パビットの心配にもかかわらず、CIA指導部はこの草案を通過させ、それを国家安全保障会議に送った。
 テロリスト対策センターの職員は、ジャネット・レノ司法長官とFBI長官ルイス・フリーに概要説明を行い、作戦の成功するチャンスは大体30%だと告げた。[CTC]センター長の「ジェフ」は、ニューヨーク地区支局のジョン・オニールと共に、ニューヨーク南部地区連邦検事のマリー・ジョー・ホワイトと彼女のスタッフに概要説明を行った。「ジェフ」も30%の数字を語ったが、彼は作戦中、確実に誰かが殺されるだろうと警告した。ニューヨークの説明会でホワイトが得た感触では、ビン・ラディンを生きて捕獲するチャンスは、ほとんど無かった。
 520日から24日にかけて、CIAは最後の段階評価(graded)リハーサルを行なった。それは三つの時間帯にわたって、各地域から職員を動員し、FBIも参加した。リハーサルはうまくいった。テロリスト対策センターは、翌週 閣僚級長官およびその次官たちに概要説明を行うことを計画した。襲撃予定日は6月23日、ビン・ラディンをアフガニスタン国外に連れ出すには、723日より遅くするわけにはいかなかった。
 520日、テネット長官は、バーガー[国家安全保障補佐官]およびその代理たちと、作戦の高いリスクについて討議した。そして、ビン・ラディンを含む人々が殺されるかもしれないと警告した。成功は、ビン・ラディンがアフガニスタンから連れ出された場合に限定される。長官たちは、作戦の実行可否を決める会議を529日と定めた。
 長官たちは会議を開かなかった。529日、「ジェフ」は「マイク」に、ちょうど今、彼はテネット、パビットおよび近東地域局の局長[chief of Directorate]と会っていると告げた。作戦を実行しないという決定がなされた。
「マイク」は、彼が監督している現地に「作戦の一時停止」を連絡した。その理由は、閣僚級役員たちが一般市民の被害 ―「随伴被害」―
のリスクが高すぎると考えたからだと彼は書いている。彼らは部族民の安全を心配した。そして「我々が細心の注意をし、最大の努力を払っても、ビン・ラディンが生き残れなかった場合、この作戦の目的と本質は誤解され、また不正確に記述され、おそらく非難されることは避けられまい」と懸念していた。
 実際に誰が作戦の実施を止めたのかについては感触が異なる。クラークによれば、CSGはこの計画には欠陥があると見なしていた。彼は仲間のNCSのスタッフに、計画は「ばかげている」と語り、長官たちはそれを承認しないだろうと予想していたと言われる。「ジェフ」は、決定は閣僚レベルで行われたと考えていた。パビットは、それはテネット[DCI]の助言を受けたバーガーの行為だと考えていた。テネットは彼の主任工作官の勧告があったとしても、自分は独自に作戦の「中断」を決めたと語った。彼はただバーガーにその旨を伝え、バーガーはそれに反対しなかった。バーガーもそう記憶していた。彼はこの計画が、決定のためホワイトハウスに提出されたことは絶対にないと言った。
 
 CIAの上級管理者は、この計画が成功するとは明らかに考えていなかった。二・三週間後にテネットの作戦次官は、CIAの評価では、部族たちがビン・ラディンを捕獲し、合衆国当局に引き渡す能力は低いとバーガーに書き送った。しかし実務レベルのCIA職員たちは失望させられた。それがキャンセルされる前、シュローエンは、「これは我々が『ビン・ラディン』をアフガニスタン滞在中に捕捉のために追いつめ、裁判にかける最良の計画だ」と述べていた。9/11以前に、捕捉計画がこれ以上の詳細なレベルに達し、準備されたことは無かった。部族民たちの行動の意欲は減退したと報告された。そしてビン・ラディンの警戒と防備はより緻密で強固なものとなった。
 この時点で9/11はまだ三年先のことだった。行動しないリスクと、彼らの工作員や代理人の生命を危険にさらすことを秤にかけて検討するのが、テネットとCIA幹部の義務だった。そして彼らには失敗をためらう理由があった;何百万ドルをドブに捨てることになる;発砲は暗殺とみなされるかもしれない;そしてもしそれがパキスタンに跳ね返れば、多分クーデターとなる。19985月、合衆国政府の決定がなされた。それはバーガーの言葉を借りれば「きれいなバックミラーを通して後退すべきところを、泥まみれのフロントグラスを通してがむしゃらに前進するようなもの」だった。(文意不明)
(from the vantage point of the driver looking through a muddy wind shield moving forward, not through rear clean rearview mirror.)
他の選択肢を探す 
 テロリスト対策センターCTC]はビン・ラディンを追い続け、秘密活動を熟考していた。 いまや最も希望の持てる手段は、外交にあると思われた。しかし、 国務省は外交をそのように運営してはおらず、1998年の夏中、インド-パキスタン間の核の緊張に掛かり切りになっていた。1998年春、CIAはサウジアラビア政府が、国内のビン・ラディン細胞を秘かに崩壊させたことを知った。その細胞は、合衆国軍隊を携行ミサイルで攻撃することを計画していた。サウジ政府は多数の個人を逮捕していたが、公表していなかった。テネット長官は、サウジに感謝するパーティーの開催を利用して、対ビン・ラディン計画への助力を依頼し、かなり有望な反応を得た。そこで、クリントン大統領はテネットを彼の非公式な代理として、テロリズム対策を担当させることにした。テネットは5月と6月の初めにリヤドを訪れた。
 病気のファード王から委任されていたサウジのアブダラー皇太子は、ビン・ラディンを裁判のために合衆国あるいは他の国に追放するよう、極秘裡にタリバンを説得することをテネットに約束した。王国の密使は情報部主席のターキ・ビン・ファイサル王子だった。のちに副大統領アル・ゴアもテネットの感謝に言葉を添え、自分たちはクリントン大統領の承認のもとにこう述べているのだとはっきり伝えた。テネットはビン・ラディンの起訴は絶対に必要だと報告した。数日後の6月10日、ニューヨーク大陪審は密封した起訴状を発行した。テネットは合衆国の選択として、秘密工作(c.a)のような、他のいかなる方法もとらないことを奨めた。
 ターキ皇子は夏のあいだ、ムラー・オマールや、その他のタリバンの指導者達と会合を続けた。明らかに褒章金の可能性と脅迫を取り混ぜることで、ターキ王子は、ビン・ラディンが追放されるだろうとの言質を得たが、ムラー・オマールがその約束を履行することは無かった。
 85日、クラークはビン・ラディンに関するCSG会議の議長を務めた。何がなされるべきかの討議の中で、記録担当者は書いている。「この問題を処理するためにすべての道を追求するべきだとの合意があったにも拘らず、テーブルの周囲からこれというアイデアは出なかった」。 
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4・2 危機:19988     (原文 p115
 199887日、国家安全保障補佐官バーガーは午前535分、電話でクリントン大統領を起こした。ケニアのナイロビと、タンザニアのダルエスサラームにある合衆国大使館が、ほとんど同時に爆破されたことを告げるためである。容疑はすぐビン・ラディンにしぼられた。長年アルカイダのナイロビ細胞を監視してきた情報は、例外的に良いもので、彼とその組織の犯行だということはすぐに確定した
 何をするべきかの討議は直ちに一つの選択肢、トマホーク巡航ミサイルに決定した。数か月前、秘密の捕捉作戦が取り消された後、クラークはペンタゴンに軍事行動の可能性を探るよう、せっついていた。7月2日、統合参謀本部議長ヒュー・シェルトン将軍は中央軍のジニ将軍に計画を進展させるよう指示していた。ジニはその計画を7月の第一週に提出した。ジニの計画立案者たちは、合衆国がテロリストに対抗して戦力を使用した二つの先例を考えたに違いない。一つは1986年のリビア攻撃、もう一つは1993年のイラクに対する攻撃である。彼らはタルナック農場のビン・ラディンの複合建築物を含むアフガニスタンの八か所のテロリスト・キャンプを、トマホークで攻撃することを提案した。大使館攻撃の後、ペンタゴンはこの計画をホワイトハウスに提出した。
 大使館爆破の後、テネットは、長官級会議に、テロリストの指導者たちが次の攻撃を計画するため、アフガニスタンのコウスト近くのキャンプに集まるらしいとの情報を持ち込んだ。バーガーによれば、テネットはビン・ラディンを含む数百人が出席するだろうと言った。CIAによれば、この地区は軍事的な宿営地として有力で、一般市民の居住地から離れており、圧倒的に聖戦派が居住しているとのことだった。ホワイトハウスの会議でテネットの隣に座っていたクラークは、テネットに「あなたが考えていることは私が考えていることか」と質問したところ、彼はうなずいて、肯定の意思表示をしたことを覚えている。首脳達はこの集会を攻撃することについて、速やかに合意した。攻撃の目的はビン・ラディンとその副官たちを殺すことであった。
 バーガーは全計画の秘密保持のため、厳重に区画化された方式をとった。811日、ジニ将軍はアフガニスタンのその場所を攻撃する詳細な計画を準備するよう命令を受けた。ペンタゴンは812日と14日に、この計画の概要をクリントン大統領に説明した。長官達はミサイルがビン・ラディンに命中することを望んでいたが、NSCのスタッフはそこに指揮官たちがいるという確かな証拠があってもなくても、攻撃することを推奨した。 
 スーダンの二つの施設を含むアフガニスタン以外の目標を攻撃する問題については、かなりの論議があった。その一つはビン・ラディンの所有物と信じられていた皮なめし工場、もう一つはアルシーファで、ハルツーム[スーダン]にある薬品工場だった。情報によれば、そこではビン・ラディンの資金援助により、神経性ガスの前駆物質を製造しているとされた。アルシーファ攻撃は、それにより将来、ビン・ラディンが神経性ガスを使う機会を減らすことが出来、また、なめし皮工場攻撃は、ビン・ラディンに財政的損害を与えることが出来るというものだった。
 19953月以来、アメリカの当局者たちは東京の地下鉄でオウム真理教が神経性サリンガスを放出したことを心にとどめていた。クリントン大統領自身、合衆国内での化学薬品および細菌によるテロリズムに大きな関心を表明していた。ビン・ラディンが「ヒロシマ」や少なくとも一万人の死傷者数を望んでいると語ったことを耳にしたという報告が続いていた。CIAは、アルシーファ工場近郊の土壌サンプル検査は、VXの前駆物質であるEMPTAについて陽性だと報告していた。VXは神経性ガスで、その唯一の使用法は大量殺人である。大使館爆破の二日前、クラークのスタッフは、ビン・ラディンは「資金を投じ、ほぼ確実にスーダンのプラントでVX生産に近づいている」と書いていた。国務省の上級職員たちも、同様の意見を個別に受け取ってきたと信じていたが、彼らとクラークのスタッフが頼っていたのは、おそらく同じ報告だろう。NSCの情報担当上級管理職senior director)メアリー・マッカーシーは、バーガーに「どの選択肢であれ、真剣に考察する前に、その施設についてもっとずっと良い情報が必要だ」というのが「最低条件」だと最初に注意した。そして、ビン・ラディンとアルシーファの関係は「現時点ではやや不確実」だと付け加えた。バーガーは、アルシーファ攻撃に反対の結論が出、その二週間後にニューヨークの地下鉄で神経性ガスが使われたら、どういう結果が生じるかと考えたと語った。
 820日早朝、クリントン大統領と彼の全補佐官たちは、アフガニスタンのコウスト近くのビン・ラディンキャンプおよびアルシーファの攻撃に合意した。大統領はスーダンの皮なめし工場を目標リストから外した。それはビン・ラディンに重大な被害を与える事なく関係のない人達を殺すことは、ほとんど益がないと見たためである。アルシーファについて最も心配した首脳はレノ司法長官だった。彼女は二つのイスラム国家を同時に攻撃することに懸念を表明した。彼女は振り返って「前提が絶えず変っている」と感じたと語った。
820日遅く、アラビア海の海軍艦艇は巡航ミサイルを発射した。その大部分は予定の目標に着弾したが、ビン・ラディンどころか、その他のテロリスト指導者も誰ひとり殺されなかった。バーガーが我々に語ったところでは、テネット長官による作戦後の検討会では、キャンプにいた二、三十人を殺したが、ビン・ラディンはおそらく二、三時間の差で取り逃がしたとの結論を出したという。アフガニスタンに向かうミサイルはパキスタンを横断せざるを得ないので、統合参謀本部副議長が派遣されてパキスタン軍参謀長に会い、ミサイルはインドからのものではないことを保証した。ワシントンの当局者は、パキスタン職員の誰かが、タリバンかビン・ラディンに警告を送ったかもしれないと推察していた。
 空からの攻撃は48時間に及ぶクライマックスを形成した。その中でバーガーは議会のリーダーたちに通知した。長官たちは外国の同職位者に電話をした。クリントン大統領は執務室(オーバルオフイス)から国民に演説するため、マーサズ・ウィニヤード島の休暇からから飛び帰った。大統領は議会の指導者たちに、エアーフォース・ワンから話しをした。また、英国のトニー・ブレア首相、パキスタンのナワズ・シャリフ首相、エジプトのホズニ・ムバラク大統領にホワイトハウスから電話をした。下院議長ニュート・ギングリッチと、上院の多数派リーダー、トレント・ロットは、最初大統領を支持した。次の月、ギングリッチのオフイスは、巡航ミサイルの攻撃を「いやがらせ」だと片づけた。
 当時、クリントン大統領はルインスキー・スキャンダルに巻き込まれていた。この件は、その年[1998年]の残りから19911月まで、大衆の注意を惹き続けた。たまたま1997年の大衆映画「ワグ・ザ・ドッグ」(Wag the Dog)が、国内のスキャンダルから民衆の注意をそらすため、戦争をでっち上げる大統領を描いていた。議会の何人かの共和党員たちは、攻撃のタイミングについて疑問を呈した。バーガーは、特に「エコノミスト」[誌]の論説に苦しめられた。そこには「今は誰もいないが、合衆国のミサイル攻撃によって、新たに一万人の狂信者が生み出されるかどうかは、未来のみが語るだろう」とあった。(Note 49 )
 世論の大半は作戦行動が攻撃的過ぎるとの非難に直ちに転じた。スーダンはシーファが神経ガスを製造したことを否定し、残された一見無害な施設の残骸をジャーナリスト達が訪れることを許した。クリントン大統領、ゴア副大統領、バーガー、テネット、クラークは、土壌試料の証拠を示しながら、彼らの判断は正しかったと我々に強調した。CIAの査定を補強するような個別の証拠は出現しなかった。
もちろん、決定に関与した誰もが大統領の問題(*)に気付いていた。大統領は彼らにそれらを無視するようにと言った。バーガーは大統領が「どちらにしろ、そんなことはゴミ屑になる。だから君たちは正しいことをするべきだ」と彼に言ったのを思いだした。彼の助力者たちはすべて、自分たちの助言はひたすら 国家の安全保障の観点からなされたと我々に証言した。彼らの言い分に投げかける疑問は何もなかった。
  (*)修習生モニカ・ルインスキーとの「不適切」な関係(訳註)
 攻撃の失敗、「ワグ・ザ・ドッグ」の中傷、この時期の激しい党派対立(partisanship)、そしてアルシーファの証拠の性質は、ビン・ラディンに対して戦力を使用するかどうかの将来を決定する上で、累積的な効果を持った。バーガーは我々に何の束縛も感じなかったと述べた。
 19988月の大使館爆破の後の時期は、ビン・ラディンに対する合衆国の政策を形成する上で、決定的な時期であった。1996年のコバルタワー攻撃では多くのアメリカ人が殺され、また1983年のベイルートではさらに多くが殺されていたが、(大使館爆破による)全体の人命の損失は、記憶の中で最悪の攻撃に匹敵するものだった。異なる国の二つの合衆国大使館を、ほとんど同時に攻撃するように調整した作戦能力の高さが、これ見よがしに示されたことが、いっそう不吉に感じられた。
 アルカイダが世界的ネットワークであるという情報を利用することができたにもかかわらず、1998年、政策立案者たちはこの組織についてほとんど知らなかった。CIAのビン・ラディン班が1996年以来集積してきた大量の新情報も、政府の残りの部署を協力させ、同調させるには至らなかった。実際、班の分析官ですら、自分たちはCIA内においても心配性と見られていると感じていた。1997年のテロリズムに対する「国家情報評価」はビン・ラディンについて簡単に触れただけで、それ以後は、9/11が起きるまで、テロリズムの危険性について権威ある評価はなされなかった。政策立案者たちは、ウサマ・ビン・ラディンという危険人物がいることを知っており、彼を逮捕し裁判にかけようとしてきた。当時の文書は、ビン・ラディンとその「仲間たち」あるいはビン・ラディンとその「ネットワーク」として言及している。しかし、何千人ものテロリストの訓練を加速している世界規模の組織が存在することを力説した記事は皆無だった。
 19988月の攻撃以後の騒然たる日々、または週において、クリントン政権の上級政策立案者たちは、ビン・ラディンによって引き起こされた危機を見直す必要に迫られた。それはアメリカが何十年にもわたって共存してきた一般的なテロリストの脅威の新しい特別に有害なバージョンにすぎないのか、それとも極度に新しく、今まで経験したことの無い危険を提示しているのか?
 大使館攻撃以降でさえ、ビン・ラディンには五十人たらずのアメリカ人の死に責任があった程度であり、その大部分は海外においてだった。リチャード・クラークの下で働いていたNSCスタッフが我々に語ったところによれば、その脅威による死傷者は数千人ではなく、数百人と見られていた。重大な脅威を[感覚的には]理解していた当局者達さえ、そのような考えに従って、巨大なコストと高いリスクを伴う行動の準備をすることは無かったのかもしれない。
 それゆえ、ビン・ラディンとそのネットワークが、新しい危険を提示していると信じていた政府の専門家たちは、彼らの見解に対して広い支持を得る方法、あるいは少なくとも論議のその部分にスポットライトを当てる手段を必要とした。「大統領日報」[PDB]や政府高官を対象としてより広く配布されている日報[SEIB]はそのような媒体として適当ではなかった。それらは主に情報関係の「ニュース」の概要報告で、それ以上の分析や前後関係の説明は無かった。「国家情報評価」はしばしばそのような役割を果たしたが、また正にそれ故にさまざまな論争を生んだ。それは1998年にも、それ以降にも、アルカイダによって提示された脅威を見極める点で、何の役割も果たさなかった。
 1998年の晩夏から秋にかけて、合衆国政府は二つの進行中の紛争に戦力を展開することで悩まされていた。バルカンでの多年の戦争の後、1995年から1996年にかけて合衆国は重要な軍事介入に踏み切った。すでにNATO主導の平和維持軍がボスニアにいたが、合衆国当局者はコソボのムスリム系市民を民族浄化から保護するため、セルビアに対するより大規模な戦闘作戦を考え始めていた。199810月、空からの攻撃が迫っていた。セルビアに対するNATOの全面的空爆作戦が、19993月に開始された。
 さらにクリントン政権は、イラクに対する、より大規模な作戦の可能性に直面していた。1996年以来、国連の査察体制はサダム・フセインによってますます妨害を受けるようになっており、合衆国は、束縛のない検査を再開できなければ攻撃すると脅していた。クリントン政権は結局199812月、イラクに対し大規模な空爆攻撃「デザート・フォックス(砂漠の狐)」作戦を開始した。こうした軍事介入が背景となって、クリントン政権は、アフガニスタンに基地を置く新たなテロリストの脅威に対し、もう一つの戦線を開くことを熟慮せざるをえなかった。
 
後続作戦?

 クラークは1998年8月のミサイル攻撃が、保留されている対ビン・ラディン作戦の端緒となること望んだ。後に認めているように、クラークはビン・ラディンに「取り憑かれて」いた。そして大使館爆破は、彼にその執念を追及する新たな展望を与えた。テロリズムは大統領の関与する高度な問題となり、それによってクラークの地位も上がった。CSGは、他の常設の省庁間委員会とは異なり、次官級会議を通じて[長官たちに]報告する必要は無かった。このような[次官級会議を経由する]報告方法は、19985月の大統領指令(とりわけ、レノ司法長官が関心を表明したのち)に規定されていたが、この指令は、もしバーガーが選択するならCSGは直接長官たちに報告することが許されるという例外規定を含んでいた。実際、CSG全長官級会議のみならず、バーガーの招集したいわゆる「小グループ」会議でも報告していた。「小グループ」とは、ビン・ラディンやコバルタワーの調査に関する対テロリズム活動の微妙な問題について良く知っている長官たちによって構成されていた。
 この小グループに向けて、クラークは「政治・軍事デレンダ」なるものを書き上げた。デレンダとはラテン語で「破壊されるべきもの」といった意味で、ライバルのカルタゴを打ち破るためのローマの有名な誓文からの引用である。クラークの報告の総体的結論は「ビン・ラディン・ネットワーク」の「アメリカ人に対するいかなる脅威も直ちに取り除け」ということだった。その報告は、ビン・ラディンの保護区を否定する外交;テロリストの行動を破壊する秘密活動(covert action)、そして、何にもましてビン・ラディンとその副官を逮捕し、裁判にかけることを求めていた。またビン・ラディンの資金源を枯渇させる努力と、追い打ちをかける軍事行動の準備を求めていた。この書類の地位は当時も現在も不確実である。それは正式に首脳達に採用されることは無かったし、小グループの参加者達も今では殆んど、あるいは全くそれを思い出すことは無い。しかし、それがクラークの努力の指針だったことは明らかだ。
 クラークの計画の軍事部門は、最も明晰な要素である。彼はターゲットの情報が十分に得られた時には、アフガニスタンその他どこでも、ビン・ラディンの基地を攻撃する継続的な作戦を構想していた。個々の攻撃目標は価値がないと認められても、彼はバーガーに、テロリストのリーダー達が、彼の照準の中で再び会合することを期待するべきでないと警告した。連続攻撃がビン・ラディンを引き渡すよう、タリバンに迫る事になり、ともかく8月の攻撃が「一過性」のイベントではないことを示す事になるとも論じた。それは合衆国がビン・ラディンのネットワークを分断するために、仮借ない努力を行っていることを示すだろう、と。
 「小グループ」のメンバー達は、連続攻撃の利点を納得するにはいたらなかった。国防長官ウイリアム・コーエンはビン・ラディンの訓練キャンプは原始的で「縄梯子」製だと我々に語った。シェルトン将軍は、それを「ジャングル・ジム」キャンプと呼んだ。どちらも、それが非常に高価なミサイルにふさわしい標的となるとは考えられなかった。クリントン大統領とバーガーも、もしこの攻撃でビン・ラディンを殺し損ねたら、彼の地位は一層強化され、新兵の募集にも有利になるだろうという「エコノミスト」誌の視点にも憂慮していた。合衆国が1998年末にイラクに、1999年にセルビアに対して空爆を開始したことは、どの場合についても世界的な批判を引き起こした。国家安全保障担当補佐官代理のジェイムス・シュタインベルグも、アフガニスタン攻撃は「利益は殆ど無く、爆弾好きの合衆国bomb-happy)に大きな吹き返し(反発/報復)をもたらす」と議論に付け加えた。
 19988月の最後の週、当局者たちは可能な追加の攻撃を検討し始めた。クラークによれば、クリントン大統領は次の攻撃は、遅いよりは早いほうが良いとの考えに傾いていた。827日、政策担当国防次官のウオルター・スロコムは、コーエン長官に、手ごろなターゲットはあまり期待できないと助言した。先週の経験から「軍事行動には、はっきりした理論的根拠を説明することが重要」で、それこそが有効であり正当化されるものだと彼は書いた。だが、スロコムはこれらの手ごろなターゲットのいくつかを攻撃するだけでは、戦略的効果は挙げることにはなるまいと憂慮した。
 特別作戦・低強度紛争担当次官補事務所に属する国防総省の下級職員が、スロコムの異議に反駁しようと試みた。彼らは、クラークとは違って個々の攻撃を求めることはせず、代わりに国家戦略の広範囲な変更と国防総省の組織的取組みを求めた。それは合衆国の軍事力の全領域を通じ、大規模な作戦が必要となる可能性を含んだもので、国防総省が国家の対テロリズム戦略を推進する主導的官庁となるべきであり、「国際的テロリストの挑戦に応じて、国をあげての奮闘の先頭に立つ」ことを促した。執筆者達は、テロリストの脅威が増大しているものの「我々は基本的に、我々の哲学や取組方法を変えたわけではない」と立場を表現した。彼らは「より行動的で意欲的な」八つの戦略を概説し、「未来は、我々が選択どころか、不幸なことには計画すら持っていない『恐ろしい攻撃』をもたらすかもしれない」と警告した。次官補アレン・ホルムスは論文をスロコムの主席副長官(chief deputy)ジャン・ロダルに提出した。しかしそれ以上は何も進まなかった。ロダルがそれは意欲的過ぎると考えているとホルムズに言われた、と主執筆者は回想している。ホルムズは何を言ったか思いだせないと言い、ロダルはそのエピソードや論文について全く覚えていないと言っている。

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4・3 外交     (原文p.121  
 8月のミサイル攻撃以後、タリバンに圧力を加える外交の選択肢は、軍事的選択肢同様、あまり期待出来そうには見えなかった。合衆国はタリバンとスーダンに公式の警告を出した。彼らがビン・ラディンに保護区を提供し続けるかぎり、それがどこで起きようとも、ビン・ラディン・ネットワークによって実行されたアメリカ人に対する攻撃に直接の責任を持たされるであろう。
 一寸の間、8月の攻撃でタリバンがひるんで、ビン・ラディンの放棄を考え始めたかに見えた。822日、隠者ムラー・オマールは国務省の実務級職員に、攻撃は逆効果だったと話したが、ビン・ラディンのアフガニスタンでの存在について、合衆国との対話を開始する用意があると付け加えた。合衆国パキスタン大使、ウイリアム・ミラムとのイスラマバードでの会談で、タリバンの代表は保護区を求めているものを追放することは彼らの文化に反すると述べた。だが、ビン・ラディンがサウジアラビアに送られるとすれば何が起きるかを尋ねた。
 しかし、19989月、サウジアラビアの特使、ターキ王子が、ムラー・オマールにビン・ラディン追放の先の約束を守るかどうかと尋ねたところ、タリバンのリーダーは否定した。両者は互いに怒鳴り合い、ムラー・オマールはサウジ政府を非難した。リヤド[サウジ]はタリバン体制との外交関係を一次停止(suspended)した。(タリバンをアフガニスタンの合法政府として認めていたのは、サウジアラビア、パキスタンおよびアラブ首長国連邦のみだった)。 アブダラー皇太子は、9月末にワシントンを訪問した際、クリントン大統領とゴア副大統領にこのことを話した。彼の話は、合衆国政府が独自に受け取った報告書で確認されている。
 サウジ政府との他の協力は、情報の共有の改善と、サウジで留置されている容疑者を合衆国の捜査官が直接尋問することの許可に集中していた。このような協力についての経歴は、1997年から1998年にかけて緊張を伴って続けられた。特に、1997年サウジ政府によって拘束されていた重要なアルカイダの財務担当者、マダニ・アル・タイーブには合衆国は接触できなかったと数人の職員は我々に語った。合衆国の職員は繰り返しこの問題を取り上げていたが、アラブ側は限られた情報しか提供しなかった。ゴア副大統領は1998年9月にアブダル皇子と会談した時、サウジ政府の対応に感謝しつつ、再度タイーブに対する合衆国の直接の接触を要望した。だが、合衆国政府はこの接触を得ることは出来なかった。
 199811月、NSCスタッフが率いるテロリスト財政問題の作業グループは、CIAに再度タイーブに接触するよう要望し、さらに、「ウサマ・ビン・ラディンとサウジアラビア在住の有力者たち、特にビン・ラディンの親族との間にもっと親密な関係を築き上げることが可能かどうか」を探ってくれと頼んだ。一つの結果は、1999年から2000年に、NSCの主催で関係省庁がペルシャ湾岸諸国を二度訪問したことだ。この旅行中、NSC,財務省および情報関係の代表者たちは、サウジ当局者と話し合い、後にはビン・ラディン一族の人たちと、ウサマの相続財産についてインタビューすることが出来た。サウジ当局とビン・ラディン一族はこの特別な努力に協力した。合衆国当局者は、ビン・ラディンはアルカイダの資金を個人的相続財産で賄っているのではないことを最終的に知った。しかし、クラークはCIAが殆ど何も知らないことに不満で、バーガーに「我々は、まずCIAに(ビン・ラディンの)資産を追及しろ」と頼んでから四年たち、CIAにビン・ラディン班が作られて二年経ったというのに、CIAはビン・ラディンがテロリストグループにどれだけ資金援助をしているか、彼の主な資金源は何なのか、どうやって金を動かしているのかといったことを推量することしかできない、と不満を述べた。 
 ビン・ラディンをアフガニスタンで捕まえるもう一つの外交ルートがイスラマバード[パキスタン]で進んでいた。大使館爆破の前の夏、国務省は緊張が増してきたインドとパキスタンの関係に大きな重点を置いていて、アフガニスタンとビン・ラディンについてパキスタンを追求することはなかった。しかし国務省の対テロリズム職員は、より強い立場を求めた。省のテロリズム対策調整官代理は、オルブライト国務長官に、パキスタンをテロ支援国家と指定するように助言した。彼は、パキスタン高官の保証にも拘らず、軍の情報機関はカシミールで一般市民を対象とした攻撃を支持し「国際テロリズム活動の支援」を続けていると指摘していた。この勧告は国務省の南アジア局に反対された。同局は、19885月のパキスタン、インド双方の核実験により発生し、すでに微妙になっているパキスタンとの関係を損なうことを心配していた。オルブライト長官は、199885日、この勧告を退けた。大使館爆破の二日前であった。彼女は、一般的には、パキスタン人をテロリストのリストに載せれば、彼らに対する合衆国のいかなる影響力も取り除かれてしまうだろうと我々に語った。10月、NSCのテロリズム対策職員の一人は、カシミール聖戦主義者の訓練を行ってきたタリバン支持の軍情報機関のキャンプの一つが、合衆国のミサイルで攻撃され、パキスタン人が命を落としたと書いている。
 ナイロビ[ケニア]に飛んでアメリカ人の死者たちの棺を持ち帰ってから、オルブライト長官はこれまでより、テロリズム対策に国務省の重点を置くようになった。ミラム[駐パキスタン]大使よれば、爆破は「モーニング・コール」だった。それ以後、彼は仕事の時間の45ないし50%をタリバン-ビン・ラディンの関係の文書に費やすようになった。しかしISIDInter-Service Intelligence Directorate)として知られるパキスタン軍の統合情報本部が、タリバンの第一の支援者だったせいで、事はなかなか進捗しなかった。
 さらなる圧力をパキスタン人たちにかけること ―ビン・ラディンについてタリバンに圧力をかける以上の要求をすること― は、大部分の国務省職員たちにとって気の進まない事のように見えた。核兵器の保持についてパキスタンを罰する制裁措置を議会が決めたため、[合衆国]政府がイスラマバードを報償金で鼓舞することがやり難くなった。国務次官ストローブ・タルボットによれば、ワシントンのパキスタン政策は「重い圧力」(stick heavy)だった。タルボットは残された最後の圧力は追加制裁だと感じていた。しかし、それはパキスタンの破産をもたらすかも知れず、相当数のイスラム過激主義者を抱える核武装国家に「全面的混乱」をもたらしかねない危険な動きだった。
 パキスタンと長く親しい関係にあり、石油を気前の良い条件で提供してきたサウジ政府も、すでにシャリフ[パキスタン首相]を通じてビン・ラディンとタリバンの関係に圧力をかけてきた。サウジのアブダル皇太子は199810月のパキスタン訪問の期間中「膨大な量の熱」をパキスタン首相にかけたと国務省のある上級職員は断言した。
 国務省は、クリントン大統領に、パキスタン問題に従事するように迫った。この助言を受け、クリントンはシャリフをワシントンに招いた。そこで彼らは多くはインドについてであったが、ビン・ラディンについても討議した。シャリフが帰国した後も、大統領は彼に電話して再びビン・ラディン問題をとりあげた。その結果、シャリフからタリバンと話し合うとの約束を引き出した。
 ムラー・オマールの姿勢は、一向に軟化しなかった。NSCスタッフによってバーガーまで上げられた諜報報告は、ビン・ラディンの言葉を引用し、ムラー・オマールは彼にどの国での行為であれ、完全なフリーハンドを与えているが、パキスタンもしくはサウジアラビアでの攻撃については犯行声明を出さないよう要求されていると述べている。ビン・ラディンは、ひげを掴みながら「アラーにかけて、神にかけて、アメリカ人どもは、なお一層驚かされるだろう。いわゆる合衆国なるものは、ロシアと同じ運命をたどるだろう。奴らの国もまた崩壊するのだ」と感情的に言っていると描写されている。
 マイケル・シーハンがテロリズム対策調整官となった199812月以降、国務省内の討議が激しくなった。かつて特殊部隊士官だった彼は、オルブライトが国連大使だったとき彼女と共に働いており、またクラークと同じNSCのスタッフでもあった。彼はテロリズムに対する執念をクラークと共有し、地方支局と共に[テロリストの]角を抑え込むことについて殆どためらいを持たなかった。すべての可能な回路を通じて、タリバンに対する早期の警告、もしビン・ラディンが彼らの客としてとどまり、次の攻撃を行なうなら、軍事攻撃を含む、恐ろしい結果が起こりうると繰り返した。部内では、タリバン体制をテロリズムの支援国家と定義するよう主張した。これは技術的に難しかった。それを国家と呼ぶことは外交的承認に等しい。それは合衆国がずっと控えてきたことであった。しかしシーハンはタリバンに対していかなる可能性のある武器も使うべきだと論じた。彼は省内で「一本調子の変人ジョニー」と見なされていると思ったと我々に語った。
 1999年早く、国務省のテロリズム対策局は、アフガニスタン問題に巻き込まれているパキスタンを含む、すべての国に対する包括的外交戦略を提案した。そこには、ニンジンと強いムチの双方が明確に記載されていた ―その中では、パキスタンをテロリズムに非協力的であると保証していた。オルブライトは、長官たちの討議書類にリストアップされたオリジナルなニンジンとムチは、決定文書への記載は無かったかもしれないが、それは他の方法または異なる程度で使われたと付け加えた。しかし、書類の著者、シーハン大使は失望させられ、オジナル・プランは「そこから何も行われないところまで薄められてしまった」と我々に不満を述べた。  
 南アジア局の用心深さは、19995月、パキスタン軍がカシミールの特に急峻な山岳地帯に浸透していることが発見された時に、いっそう強まった。インドとパキスタンの間で婉曲に「カーギル危機」と呼ばれる限定戦争が始まった。インドはパキスタンの軍隊を追い出そうとした。国務省とNSC双方で、パキスタンに対する忍耐は擦り切れかけていた。パキスタン担当のNSCスタッフ、ブルース・リーデルは、イスラマバードは「二つの分野、かたやタリバンとウサマ・ビン・ラディンのテロに加担し、もう一方でインドとの戦争を挑発して、ならずもの国家のように振舞っている」とバーガーに書いている。
 クリントン政権内のアフガニスタン問題の討議は、二つの選択肢に集約されていった。第一は、リーデルと国務次官カール・インダーファスによって支持されたもので、アフガン内戦の終結と国家統一政府の建設に主な外交努力を傾注するというもの、第二は、シーハン、クラークおよびCIAの賛同を得たもので、タリバンをテロリストと表示することを要求し、究極的にはその主要な敵、北部同盟に秘密の援助を集中させる。この議論は1999年を通じて行ったり来たりし、結局は北部同盟を極秘活動の同盟者としてリストに上げる議論へともつれこんだ。
 他の外交的選択肢も可能だった:アフガンの脱出者グループをタリバンに代わる、中庸な統治者として育てることである。1999年遅く、ワシントンはアフガン脱出グループの指導者達 ―そこには追放されローマに住んでいるザヒル・シャー国王やハミド・カルザイなども含まれていた― の話し合いに援助の手をさしのべた。彼らはアフガン内の反タリバン勢力の強化と、北部同盟とパシュトン人グループの連携などについて話し合った。しかし、ある合衆国外交官は、脱出グループは前進の準備が出来ておらず、ローマ、ボン、キプロスに住む各派閥の協力は極度に困難なことが判ったと、後に我々に語った。
 タリバンの抵抗にいらだった二人の国務省上級職員は、ビン・ラディンに、二億五千万ドルの懸賞金を掛けることをタリバンに約束してくれと、サウジに頼んでみてはどうかと提案した。クラークは、合衆国が「憎むべきタリバンのような体制」に巨大な交付金を与える仲介者になることに反対した。そしてこのような考えはオルブライト長官にもファースト・レディーのヒラリー・ロダム・クリントンにも、アッピールしないだろうと示唆した。二人とも女性の権利について、タリバンを非難していた。この提案はひっそりと葬られたようだ。 
 国務省内では何人かの職員達が、タリバンが支配するアフガニスタンをテロリズム支援国家と指定するか、あるいは[タリバン]体制を外国のテロリスト組織と認定する(これによればタリバンがアフガニスタン国家かどうかの認定を避けることになる)という、シーハンとクラークの働きかけへの決定を先送りしていた。19997月、クリントン大統領が、タリバン体制をテロリズムの国家スポンサーと実質的に宣言する大統領令EO)を発した時、シーハンとクラークは勝利した。10月、国連の安全保障理事会は、合衆国の主導下に経済および旅行の制裁を決議Note 88 した。 
 国連の制裁は11月に発効した。クラークはバーガーに「タリバンはなにかをたくらんでいるように見える」と書いた。ムラー・オマールは彼の「内閣」を改造し、ビン・ラディンの出発の可能性を暗示した。クラークのスタッフは、最もありそうな彼の目的地はソマリアだと考えた。チェチェンはロシアが攻撃しているので、気に入らないだろうと見られた。クラークは先にイラクとリビアがビン・ラディンの受け入れを検討したと説明した。しかし彼とそのスタッフは、ビン・ラディンがサダム・フセインやママール・カダフィーのようなアラブの世俗的独裁者を信頼するか、疑問を持っていた。クラークはまた「遠い可能性」としてイエメンを挙げた。そこは広大な未開発地区の提供を申し出ていた。11月、CSGは制裁がタリバンを揺さぶっているかを討議した。彼らはビン・ラディン問題から抜け出す“面目の立つ方法を探している”ように見えた。
 実際には、外部の圧力の何ひとつとしてムラー・オマールに目立った影響を与えなかった。彼は外界の交渉には無関心だった。オマールは非ムスリムと会うことを拒否していたので、事実上、西側社会と外交上の接触を持っていなかった。1999年末、合衆国は、タリバンの閣僚評議会が彼らの体制はビン・ラディンを固く守るだろうと一致して再確認したことを知った。ビン・ラディンとタリバン指導部の関係は、時には緊迫したこともあったが、その基礎は深く個人的なものであった。実際、ムラー・オマールは、彼のビン・ラディン寄りの政策に反対した部下の少なくとも一人を死刑にしている。
 2000年に合衆国はさらに強い制裁を試みた。200012月、合衆国はロシアと共同で(ロシアはチェチェン分離派との戦闘を実施中だったが、分離派の一部はビン・ラディンの支援を得ていた)国連に安全保障理事会決議1333号の採用を説得した。それにはタリバンに対する武器輸出禁止が含まれていた。決議の目的は、最も敏感な部分、 ―北部同盟に対する戦場― で、タリバンに打撃を与え、またこれまでパキスタンが行ってきた軍事「顧問」の提供と武器の供与を法的に規制する事にあった。しかし、決議の通過はオマールに目に見える何の効果も与えなかったし、パキスタンのタリバンに対する軍事援助の流れを止めることも出来なかった。
 合衆国の当局者たちは、ビン・ラディンをかくまうことを止めるようタリバンに圧力を加えることについて、パキスタンの協力を得ようとの試みを続けていた。19996月、クリントン大統領は再びシャリフと接触した。目的の一部はインドとの危機について話し合うことだったが、ビン・ラディンの追放をタリバンに説得するよう「私の出来る最強の方法」で、シャリフを促すためであった。また大統領はパキスタンに、カラチを経由して輸入する石油供給のコントロールを、タリバンおよびアフガン全体のコントロールに利用することを提案した。それに対して、シャリフはパキスタン軍が彼ら自身でビン・ラディンを逮捕することを提案した。ワシントンでは誰もそのようなことが起きるとは考えなかったが、クリントン大統領はこの提案に賛意を示した。
 7月初め、大統領はワシントンでシャリフに会った。会合の主目的は、カシミールのカーギルから撤退するというパキスタン首相の決定に調印することだったが、クリントン大統領はタリバンとビン・ラディンに関して、パキスタンが効果的な行動をとるのに失敗していることに不満を述べた。シャリフは彼の初期の提案に後戻りし、ビン・ラディン作戦のためのパキスタン特殊部隊の訓練について合衆国の援助を受ける了承を得た。だが、199910月、シャリフはペルベズ・ムシャラフ将軍[のクーデター]によって退けられ、この計画は終わった。
 最初、クリントン政権はムシャラフのクーデターがビン・ラディンに対する戦闘の始まりとなることを望んだ。軍歴のある士官であったムシャラフは、タリバンを援助しているパキスタン軍情報機関に対抗し、影響を与えるだけの政治力を持っているものと考えられていた。バーガーは新政権がビン・ラディンをワシントンからの譲歩を得るために使うのではないかと予想していた。しかし双方とも、そのようなイニシアティブを進めようとはしなかった。
 大使館爆破から一年以上たった1999年末、パキスタンとの外交は、タリバンに対する努力と同じく、国務次官のトーマス・ピッカリングによれば「ほとんど実を結ばなかった」 
                      
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4・4 極秘活動(Covert Action)   (原文p126
 大使館爆破への対応策の一つとして、ビン・ラディンとその一味の逮捕のため、クリントン大統領はCIAの部族[協力者]に武力を用いることを認めた通告メモMON に署名した。CIAの職員たちは、三か月前から停止されていたビン・ラディン捕捉計画が、元に戻ることを部族民たちに告げた。通告メモはCIAに他の方法によるビン・ラディン攻撃も認めていた。また、ある大統領令executive orderNote.101はビン・ラディンに関連すると思われる資産を凍結した。 
 CIAのテロリズム対策職員は、ビン・ラディンとそのネットワークについて、より理解が得られたと考えた。92日の上院特別情報委員会でのブリーフィングの準備の中で、テネットは、情報社会は「いかなる他の名だたるテロリスト組織についてよりも」ビン・ラディンのネットワークについて良く知っていると言った。
 CIAはこの知識を多くのビン・ラディン組織の細胞を壊滅させるのに使ってきた。アルバニア当局と共同で、CIA工作員はアルカイダの文書偽造工作(forgery operation)および他のティラナのテロリスト細胞を襲った。これらの作戦は計画されたティラナの合衆国大使館への攻撃を防ぎ、また多くのアルカイダに関係した工作員の本国への引渡しにつながった。大使館爆破の後、アゼルバイジャン、イタリア、英国で逮捕が行われた。何人かのテロリストはアラブに送られた。CIAは、FBIの工作員と共同でウガンダの合衆国大使館の爆破計画を防止し、かなりの容疑者を拘束したと記述している。916日、スーダンでのビン・ラディンの代理人の一人で、コンピュータ作戦と武器調達の責任者であるアブ・ハジェール(*)がドイツで逮捕された。彼はこれまで逮捕された中で最も重要なビン・ラディンの副官だった。クラークはバーガーにこの8月と9月は「我々がこれまでに準備し、あるいは促進した短い期間の中で、最も多数のテロリストの逮捕をもたらした」と満足げにコメントした。  (*)2章3節参照(訳注)
 8月に大統領から与えられた「通告メモ」により、CIAはアフガンの部族をビン・ラディン逮捕に使う新しい計画を作り始めていた。部族たちは、9月から10月の間に少なくとも四回、ビン・ラディンの待ち伏せを試みたと主張した。CIAの上級職員たちは、この待ち伏せが一回でも行われたのかと疑った。しかし部族民たちは、ビン・ラディンの所在の報告には成功しているように見えた。
 その情報は過去のものより有効だった。8月のミサイル攻撃以後、ビン・ラディンはその寝所をしばしば、また予測できないように変え、新しいボデイーガードを増やしていた。とりわけ悪いことには「ワシントン・タイムス」への漏洩Note 105以後、アルカイダ上部の指導者たちが、ほとんどすぐに個々の連絡手段を使うことを止めてしまったことだ。このため「国家安全保障局:NSA」が彼らの会話を傍受するこがより困難になった。しかし部族民がビン・ラディンの所在と行き先を知るようになったことから、ビン・ラディン捕捉の代替手段は、彼の位置を示し、ミサイルの攻撃に踏み切ることになりそうだった。
 113日、「小グループ」は、他の問題と共に、この問題を討議するために集まった。11月中旬、テネット長官のための準備をしながら、対テロリスト・センターは「今のところ、我々の資産[部族民]が、捕獲作戦を実行するかどうか、それがいつかは予言できない」と強調した。

 合衆国のテロリズム対策職員たちは、国内の攻撃をも心配していた。数件の情報報告は ―その一部の情報源は疑わしいものだったが― 可能性のある目標としてワシントンを挙げていた。1026日、クラークの CSGは「ウサマ・ビン・ラディンのネットワークによる合衆国内でのテロリスト攻撃の脅威の評価」のために、わざわざ会議を招集するという尋常でない手法を取った。CSGのメンバーは、合衆国領域内でのビン・ラディンの攻撃を防ぐため「出来るだけ創造的な考え方をするよう強く求められた」。参加者は、FBIがこの努力に追加の資源を投入しているが、彼らもCIAも問題を持っていることを書き留めている。すなわち、国内の電話番号を追跡して糸口を得ることや、外国の崩壊した細胞から得た文書の翻訳することなどについてである。司法省は、最近の司法長官のガイドラインは、国内の捜査と監視について充分な法的権限を与えていると報告した。
 情報は何が進行しているか 明瞭な指摘は与えなかったが、いくつかの報告は化学兵器がアフガニスタン南部のデルンタと呼ばれるキャンプで製造中だと指摘していた。1998114日、連邦検察庁ニューヨーク南部支局はビン・ラディンの起訴を開示し、彼を合衆国の国防施設に対する攻撃の謀議の罪で起訴した。この起訴状は、アルカイダがスーダン、イランおよびヒズボラと同盟していることでも告発していた。当初秘密とされた起訴状には、アルカイダは「イラク政府に反対することをせず、特別の問題、特に兵器の開発についてアルカイダはイラク政府と協力することで合意に達した」と付記されていた。この文章によって、長年にわたりイラクとスーダンが化学兵器の分野で協力しているという報告を読み続けてきたクラークは、バーガーに熟考を求めた。クラークはハルツームの化学工場にイラク人が大勢いたことは「おそらくイラクとアルカイダの合意の直接の結果」であるとの推測をバーガーに告げ、アルシーファ付近で発見されたVXガスの前駆物質は「イラクによって使われたまさにその製造方法」だと付け加えた。しかしこのアルカイダのイラクとの「合意」に関する言葉は、199811月、新しい起訴状がファイルされた時、落とされてしまった。
 1998124日、金曜日、CIAは、友好国政府から得た合衆国内でのハイジャックの脅威について「大統領日報」(PDB)に一章を設けた。この文章は、我々の要求により開示された。

 以下は、ウイリアム・J・クリントン大統領が1998124日に受け取った「大統領日報」の項目の文章である。編集された部分は括弧の中に示してある。

  題目:ビン・ラディンは合衆国航空機のハイジャックその他の攻撃を計画している

.ビン・ラディンとその同盟者は,シャイフ‘ウマル’アブデル・ラーマン、ラムジ・ユセフおよびムハンマド・サディク・アウダの解放を得るため、航空機のハイジャックを含む合衆国内での攻撃を準備していると、報告[―]は示唆している。ある情報源は、ジャマ・アル・イスラミア(IG)の上級メンバーが、10月末、IGはビン・ラディンの支持を得て合衆国内での作戦計画を完成したが、作戦は保留状態にあると言ったとの引用をしている。その直後サウジアラビアからきたビン・ラディンの幹部工作員が合衆国のIGの同位者を訪問し、その直後に選択肢について協議することになっていた。 選択肢には、おそらくハイジャックも含まれる。 

  ・おそらく他の情報源によると、IGのリーダー、イスランブリは9月遅く、アブデル・ラーマンその他の拘留者の解放のため次の2週間のうちに合衆国航空機のハイジャックを計画していた。

  ・同じ情報源が先月末語ったところでは、ビン・ラディンは1220日に始まるラマダンの前に合衆国航空機のハイジャック計画を実行するかもしれない。また作戦チームの二名は、調査飛行の際、ニューヨークのある空港で、セキュリティーチェックを免れることが出来た。[―]

2.さまざまな情報源によれば、ビン・ラディンのネットワークの数人がハイジャックの訓練を受けた。しかしビン・ラディンのアルカイダ組織に直接関係するグループが、航空機のハイジャックを実行したことはない。ビン・ラディンは合衆国航空機に対する別のタイプの作戦を検討しているかもしれない。[――]によれば、IG10月にSA7ミサイル(*)を入手し、それをイエメンからサウジアラビアに移動して、エジプト航空機、もしうまくゆけば、合衆国の軍用機または民間機を撃墜しようとしている。

 ・ある[――]は10月、イエメンの特定されない「過激な一団」がSA7を入手したと語った。

3, [――]は、ビン・ラディンとその同盟者が特定できないある地域で、反合衆国の 攻撃の実行に近づいていることを示すが、それが航空機に対する攻撃に関係が有るか、我々は知らないと示唆した。スーダンのビン・ラディンの仲間は、先月末アフガニスタン向けに一群のコンテナを輸出したと語った。またビン・ラディンの仲間達は、東アフリカの爆破の前にもアフガニスタンにコンテナを移動したと語った。

  ・他の「―」ビン・ラディンの仲間は先月マレーシアでの荷物の受け取りについて討議した。その一人はマレーシアの仲間たちに、「彼らは[妊娠]九ヶ月」だと話した。

  ・イエメンのビン・ラディン支持者といわれる人物は、先月末、彼の母親に彼が外国との「商売」を計画していると言い、彼の差し迫った「結婚」は驚くような「商売」となるだろうと言った。「商売」や「結婚」はしばしばテロリストの攻撃の隠語である。[――]

 

  (*)ソ連製携行型地対空ミサイル。(訳注)
 同じ日にクラークはハイジャック問題と対空ミサイルの脅威の双方について討議するためCSG会議を招集した。出席者たちは、ハイジャック警報に対処するため、ニューヨークの空港は週末から最高度のセキュリティー体制に入ることに同意した。彼らはまた他の東部海岸の空港でセキュリティー体制を増強することにも同意した。CIAは、FBIFAA向けの報告書を、ニューヨーク警察と航空会社に配布することに同意した。FAA128日、ニューヨーク市域の三空港で、乗客に対するより強力な選別と、その選別プロセスのより強い監視を含む特別の要求を発表した。
 情報社会は情報源について殆ど知らされていなかった。12月遅く、また再び19991月早々、同じ情報源からより多くの情報が到着した。それらは、計画されたハイジャックが立ち往生させられたことを報告していた。その理由は似顔絵が配布されていた二人のハイジャック工作員がワシントンD.C.あるいはニューヨーク近くで拘束されたためだった。調査の後、FBIはハイジャックの脅威を裏付けるいかなる情報も発見できなかった。また、いかなる逮捕も報告書の記載を立証できなかった。ニューヨーク地域の空港でのFAAの警報は、1999131日に終わった。
 合衆国と英国が、イラクに対する「デザート・フォックス(砂漠の狐)」空爆作戦を開始した翌日の1217日、カタールとエチオピアの合衆国大使館に対し、近日ビン・ラディンの攻撃がありそうだという情報について討議するため「小グループ」が集まった。翌日テネット長官は、ビン・ラディンがまもなく、多分ラマダンの始まる前のここ二、三日の間に、合衆国の標的を攻撃する計画があるという内容のメモを、大統領、閣僚および政府全体の幹部職員に対して送った。テネットは「非常に心配だ」と語った。
 警報が鳴るとともに、「小グループ」のメンバーはこのような攻撃にいかに対処するか、いかに防ぐかのアイデアを考えた。シェルトンとジニ将軍は、軍の選択肢を持ってきた。後に語ったところでは、特殊部隊が非常に危険な侵入・脱出作戦をハルツームとカンダハルで命じられるかもしれなかった。それは、ハルツーム[スーダン]ではビン・ラディンの幹部工作員で、いくつかの計画の技術面を担当したモーリタニア人アブ・ハフスを、またカンダハルではビン・ラディン自身を逮捕する試みであった。シェルトンは1993年のモガディシオでの大失敗の記憶「ブラックホーク・ダウン」を引き合いに出しながら、このような作戦はリスクがつきものだと語った。
 1218日、CIAはビン・ラディンがカンダハルに旅をするので、そこで巡航ミサイルの標的に出来るかもしれないと報告した。トマホーク巡航ミサイルを積載した艦艇はアラビア海にあり、標的のデータ受領後、数時間で発射可能だった。
 1220日、ビン・ラディンがカンダハルの知事の屋敷の一部であるハジ・ハバシュハウスで夜を過ごすという情報が入った。ビン・ラディン班主任の「マイク」は、即座にテネットと彼の次官ジョン・ゴードンに概況を報じたと我々に語った。現地からはCIAのガリー・シュローエンが助言した。「今夜、彼を撃て。我々には他の機会はないだろう」緊急の長官級電話会議が設定された。
 長官達は、ビン・ラディン殺害を試みるための巡航ミサイル攻撃について検討した。彼らの討論の問題の一つは、起こりうる随伴被害 ―殺され、傷つく無実の部外者の数― であった。ジニ将軍は、それは200名を越え、さらに被害は近くのモスクにも及ぶと予測した。統合参謀本部の先任情報官の予想数値は異なっていた。彼は、随伴被害者は多くとも[ジニの予測の]半分で、モスクには被害が及ばないだろうと推定した。会議の終了時、長官達は大統領に攻撃の命令を勧告しないことに決めた。首脳たちは情報に半信半疑で、おそらく300人を殺傷すると懸念したと、数週間後の19991月、クラークは書いた。テネットは情報源の信頼性を疑っていたこと、モスクの破壊を心配したことを覚えていると語った。「マイク」は、テネットが、軍はビン・ラディンが目撃されてから数時間が経過していることを懸念しており、失敗の可能性が高すぎると誰もが思ったのだと語ったことを覚えている。
 幾人かの下級職員は怒った。「マイク」はシュローエンにこの決定の後、眠ることが出来なかったと報告した。「我々は昨晩行動しなかったのをきっと後悔することになるだろう」と彼は書いた。そして「流れ弾の迷走した破片がハバシュ・モスクに当たり、それがムスリムの感情を害することを懸念した」と長官達を批判した。彼はイラクのムスリムの空爆決定に当たっては、同等の気配りを示さなかったとコメントした。彼は、長官達は、他者 ―サウジ人、パキスタン人、アフガン部族民― に「我々がしたくないことをさせようとしている」との思いに「取り憑かれている」と語った。シュローエンもまた落胆し、記している。「我々は昨夜それをするべきだった」「我々は先に進まないという決定を充分後悔することだろう」。統合参謀本部の副作戦局長も同意した。ただ、その後の情報では、攻撃前にすでにビン・ラディンは彼の宿舎を離れていたことが判っていたらしいと語った。「撃ち損ねたたビン・ラディンは」と彼は語った。「我々に地獄のような厄介な問題を味あわせるだろう。我々がするべきことは発射だった。それをしなかった代償を、我々は支払わされることになるだろう」。
 長官達は、部族民を使った、より積極的な他の極秘活動を検討し始めた。CIA職員は、部族民たちは、待ち伏せより襲撃を選ぶだろうと示唆した。そのほうがより統制がとれ、安全であり、彼らの技術と経験をより多く使うことが出来るからだ。しかし、部族民たちがこのような行動をとれば、銃が火を噴くことを誰もが知っていた。当時の「通告メモ」は、CIAにビン・ラディンの逮捕を指示しており、また致命的な武器の使用は自衛のためのみとしていた。新しいメモによって始まった仕事は、部族民にさらに自由度を与えていた。その意図は、もし逮捕の試みが達成不可能なら、致命的武器を使用出来るというものだった。
 この高度に機密な文書の初期草案は、逮捕作戦のみが認可されると強調している。部族民たちは、彼を逮捕した場合のみ支払いを受ける。もし殺してしまった場合には支払いは無い。政府の全職員はこの案を承認した。しかし1221日、首脳部がカンダハルに巡航ミサイルを発射しないと決めた翌日、CIAのリーダーたちは、ビン・ラディンの生死にかかわらず、部族民は支払を受けるべきだと、強い言葉で主張した。バーガーとテネットも、この考えに沿って、すでに共同で作業していた。
 最終的に彼らは合意し、バーガーはクリントン大統領に特別の手段が必要だと報告した。新しいメモは、もしCIAと部族民が逮捕の可能性がないと判断した場合は、ビン・ラディンの殺害を認めるものだった。(そのような判断に達することはすでに明らかだと思われた) 草案の作成に関わった司法省の法律家は、想定していたのは部族グループが現場を襲撃し、銃撃戦に持ち込むことだったと我々に語った。ビン・ラディンとその仲間は、逮捕される可能性も皆無ではないが多分殺されるだろう。政府の立場は、武装抗争の法の下では、合衆国に差し迫した脅威をもたらす人物を殺すことは、暗殺ではなく、自衛行為となるというものだった。1998年のクリスマス・イブにバーガーはクリントン大統領に最終草案を説明メモと共に送った。大統領はこの書類を承認した。
 ホワイトハウスがこの作戦を非常に微妙な問題だと判断したため「通告メモ」の内容はごく少ない者しか知らなかった。バーガーはNSC法律顧問に、オルブライト、コーエン、シェルトン、レノに通知するよう手配した。誰もコピーを持つことは許されなかった。法に従い、議会指導者たちは要旨説明を受けた。レノ司法長官は、大統領に彼女の関心を表明する手紙を送っていた。彼女はターゲットとして合衆国職員を含む報復の可能性を警告した。彼女はいかなる法的異議も提出しなかった。最終案のコピーが、注意深く仕上げられた部族に送る指示書と共にテネットに渡された。
 テネットからCIAの現地職員へのメッセージは、大統領の認可した指示を部族に伝えることを命じていた。指示では、合衆国はビン・ラディンとその副官たちの逮捕を望んでいるが、もし逮捕作戦成功の可能性がない場合、部族民たちは彼らを殺すことが許可される。指示は、部族民は他の者を必要性なく殺してはならず、またビン・ラディンとその副官たちが降伏した場合は殺したり、虐待してはならないと追加していた。最後に、これらの一連の要求を満たさない場合、部族民は支払いを受けられないとあった。
 現地職員はこの指示を部族民たちに一語ずつ伝えた。ただし彼は指示に次のメッセージを前置きした。「アメリカでは大統領から、道を歩いている普通の人まで、みな彼(ビン・ラディン)が止められることを望んでいる」もし部族民がビン・ラディンを捕まえたら、彼は合衆国の法律で公正に裁かれ、人間的に扱われると職員は部族民に保証した。CIA職員は、部族民は「内容と意味、メッセージの精神を完全に理解した」といったと報告している。そして彼らの反応は、「我々は彼を生きて捉えることに最善を尽くす。故意に彼を殺したり、傷つけたりする意図は全く無い」と言うものだった。部族民たちは彼らの行動の規範は、ビン・ラディンとその仲間のテロリストよりはずっと文明的であることを証明したいと望んでいると説明した。シュローエンに宛てた追加の文書で、もし彼らがビン・ラディンの倫理に従っていたら「我々はとっくに目的を達していた」と部族民は注釈している。しかし彼らはその能力と「我々[部族民]が尊重するべき信義と法律」に制約されていた。
 シュローエンと「マイク」は部族民の反応に感銘をうけた。彼らは金のためでなく、アフガニスタンの将来に投資しているとシュローエンは通信した。「マイク」は、彼らが殺すことに気が進まないのは「受けねらい」ではないことを理解した。「我々の見解では、それは性格によるもので、充分フェアなものだ」と彼は書いた。
 大統領と国家安全保障担当補佐官を含むクリントン政権の政策決定者たちは、対ビン・ラディン極秘活動に対する大統領の意志は明瞭だと我々に語った;大統領は彼の死を望んでいた。この意志はCIAには決して充分に伝えられることはなく、理解されることもなかった。テネットは委員会に語ったように(後に検討する)特別の場合を除いて、CIAは、ビン・ラディンを捕捉作戦の背景の中でのみ殺すことが認められていた。CIAの上級マネジャー、作戦実行者、法律家はこの理解を確認した。「我々はいつも、彼を殺すだけなら、事態はどんなにか簡単だったろうに、と話し合っていた」と「ビン・ラディン班」の前班長は言った。
 19992月、別の「通告メモ」の草稿がクリントン大統領にもたらされた。それは、CIAが部族民たちに与えたものと全く同じ指示書を、北部同盟にも与える許可を求めたものだった。つまり捕獲作戦成功の可能性がない場合に、ビン・ラディンを殺しても良いということだ。しかし、この場合ではクリントン大統領は彼が12月に承認した重要な言葉を抹消し、よりあいまいな言葉を挿入した。なぜ大統領がそうしたかは、我々がインタビューした誰もが明らかに出来なかった。クリントン大統領は、委員に対して、なぜ言葉を大きく変えたか覚えていないと語った。
 1999年終わり、さらに他の協力者を求め、より広範な不測の事態にも対処できるようにする上で法的権威が必要とされるようになると、法律家たちは19988月に用いられた文書に立ち帰った。そこでは、捕捉作戦の中でのみ武力行使を認めていた。199812月に承認された文書の非公開性や、その後同年8月の文書に立ち返ったことを考えると、そもそそも大統領がCIAにビンラディン殺害の許可を与えるかどうかについて、元政府高官やCIA高官の間に異論があった可能性を理解することが出来る。適用可能な法的権限の限界を試す機会は無かったので、この論争はいささか机上の空論となってしまった。
 クラークはバーガーに「直接行動にたずさわるCIAの[部族]工作員の権限が『拡大』されたにもかかわらず、彼らはそうしたがらない」と言った。そしてクラークは、部族民はビン・ラディンに敵対行動をとることを好まないから、彼らに頼るのは「非現実的」だとCIAは考えているようだと彼の感想を付け加えた。1999年の間、部族民はビン・ラディンとその仲間への攻撃を企てなかったので、事実が彼を証明しているように見えた。
 とはいえ、部族民たちは依然として活発な情報収集者であることに変わりなく、ビン・ラディンの所在について、予報ではなかったが良い情報をもたらした。CIAもまた、ビン・ラディンについての報告の精度を高めようと頑張っていた。その様子を、テネットの次官assistant director)である「疲れ知らずの」チャールス・アレンでさえ「役所の内と外での週に七日」の奮闘努力と呼んだ。そうした努力が実を結んだのかもしれない。1999112日、クラークはバーガーに、部族の報告に対するCIAの信頼は増加していると書いた。それは1220日には、かつて無かったほどに高まった。
 19992月、アレンは部族がカバーしている地域外での情報の基準データを作るため、アフガニスタン上空でU2[偵察]機の特別な任務の飛行を提案した。クラークはビン・ラディンが接近困難な地域に逃れることを恐れていたため、このような計画には神経をとがらせた。彼は国家安全保障補佐官代理(Deputy National Secyrity Advisor)のドナルド・ケリックに、信頼すべき情報によると、ビン・ラディンは「彼に隠れ家を提供するかもしれない」イラクの職員と会っていると書いている。他の情報は、ムラー・オマールではない他のタリバンの指導者たちが、ビン・ラディンにイラクに行くよう促したと述べていた。もしビン・ラディンが本当にイラクに移動するとなれば、彼のネットワークはサダム・フセインの庇護を受けることになり、そうなれば彼を発見することは「実質的に不可能」になるだろうとクラークは書いている。ビン・ラディンをアフガニスタンで捕まえるほうがずっと良いとクラークは明言した。バーガーはU2機の特別任務の飛行を主張したが、クラークはこれにすら反対した。それにはパキスタンの承認を必要とする;パキスタンの情報サービスは、ビン・ラディンと同じベッドにいるので、彼らは合衆国が爆撃作戦を準備していると彼に警告するだろう、とクラークは書いている。「それを知った、ずる賢いウサマおやじは、バクダットにトンズラするだろう」NSCスタッフのブルース・リチャードから、サダム・フセインはバクダットでビン・ラディンを欲しがっていると聞かされてはいたが、バーガーは条件付でU2機の一回の飛行を認めた。一方、アレンは彼が必要とする情報を入手する別の方法を見つけた。そのためU2の飛行は行われなかった。 

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4・5 新しい選択肢を探す    (原文p.134
 「ブーツ・オン・ザ・グラウンド?」
 19988月のミサイル攻撃以後、シェルトン将軍は追加攻撃計画の立案を命令した。彼は巡航ミサイル以上のことを考えていた。最初の攻撃は「無限の到達作戦」(Operation Infinite Reach)と呼ばれていた。追加攻撃の作戦の暗号名は「無限の解決作戦」(Operation Infinite Resolve)とされた。
 このとき、アフガニスタンでのすべての軍事作戦はジニ将軍の「中央軍司令部」によって実行されることになっていた。したがってこの司令部は、ほとんどの軍事計画の中心だった。ジニ将軍はミサイルによる追加攻撃についてはコーエンやシェルトンほど熱心ではなかった。彼はトマホーク[ミサイル]が常に彼らの目標を攻撃するとは限らないことを知っていた。820日の攻撃以後、クリントン大統領は迷走したミサイルがパキスタンの村で数人の人々を殺したことを、パキスタン首相シャリフに謝らなければならなかった。シャリフは、アメリカは「殺しすぎる」と言ったが、理解はしていた。
 ジニは、将来ビン・ラディンが市街地に住むことを恐れていた。そこではミサイルは何千人ものアフガン人を殺すことになるかも知れない。また彼は、パキスタンの当局者たちが充分な警告を与えられなければ、ミサイルはインドから来たと考え、誰もが後に後悔するような事態を引き起こすかも知れないと懸念していた。軍事的に彼の責任の下にある地域への影響を検討して、ジニは言った。「ワシントンから発射させて、そこから立ち去ることは簡単だ。しかし我々はそこで生活しなければならない」。
 ジニの明瞭な好みは、ウズベキスタンのような周辺国に対テロリズムの勢力を作りたいという事だった。しかしそうした目的のために、大騒ぎして興味をかき立て、ワシントンから人や資金を引き出したりは出来なかった。これらの国々が独裁的な政府を持っていたからだと彼は語った。
 随伴被害を恐れて、カンダハルに対してミサイルを使用しない決定が199812月になされたのち、シェルトンとペンタゴンの士官たちは、巡航ミサイル攻撃のかわりに、ガンシップ:AC130攻撃機を使用する計画を進めた。特殊な用途のため特に設計されたAC130「スプーキー」[幽霊]は、高速で高々度を、レーダに発見されることなく飛行することが出来た;特別に複雑な電子機器によって目的地に導かれ、高速で正確に誘導される2540105ミリ砲弾を発射することが出来る。このシステムは、巡航ミサイルの一斉発射より正確に照準できるため、随伴被害の危険をより少なくすることが出来る。クラークに概要の説明をし、進めるように励まされた後、シェルトンはジニと特殊部隊を率いるピータ・シューメーカー将軍に、ビン・ラディンの司令部とアフガニスタンのインフラ施設に対し、AC130を使用する計画の立案を正式に指示した。統合参謀本部は、特殊作戦用航空機の配備の決定書を準備した。 
 バーガーとクラークはこの選択肢に関心を示し続けていたが、AC130は配備されることは無かった。クラークはこのときジニは使用に反対だったと書いている。統合参謀本部の作戦副官ジョン・マールも、ジニの見解だった。ジニ自身はこの選択に反対したことを思い出せない。特殊作戦部隊はAC130配備のための移動を正当化する充分な情報を持っていなかった。そのことを、ジニは理解していたと我々に語った。一方、シューメーカーは、AC130は実現可能な選択肢だったと言っている。
 二人の将軍の記憶の違いについての最もありそうな説明は、二人とも、このような作戦の真剣な準備には、中東あるいは南アジアへの特殊作戦部隊の長期にわたる配置換えが必要となると考えていたことだろう。AC130の無給油範囲は2,000マイルちょっとだったため、基地が必要となるだろう。さらに彼らは捜索と救助のための支援チームが必要で、[そのために使われる飛行機の]航続距離はさらに短くなるだろう。こんな訳で、AC130の配備は、基地の設定や上空通過について、パキスタンや周辺諸国に文書を送る必要があり、より広い政治的、軍事的なコンセプトの中に取り込まれなければならなかった。かつて、このような新しい構想のイニシアティブを取ろうとしたものは誰もいなかった。そのためジニは急襲のためにAC130の配備を簡単に命令する事を警戒した。シューメーカーは、彼が現実的な攻撃の選択肢と思う方法を計画した;そして根本的な問題は十分には考慮されなかった。統合参謀本部の決定書が、省庁間の政策文書になることは無かった。 
 特殊作戦部隊の地上部隊を使う選択肢についても同様だった。特殊作戦部隊の中で、シューメーカーを含む一部士官は、ビン・ラディンとアルカイダに遭遇するための地上軍の派遣:「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」を望んでいた。当時、「特殊作戦部隊」は「支援される部隊」ではなく「支援する部隊」として計画されていた:すなわち、戦域指揮官を支援するのであってアルカイダに対処する独自の計画は用意していなかった
(At that time, Special Operations was designated as a "supporting comand":that is , it supported a theater commander and did not prepare its own plans for the dealing with al Qaeda.)

シューメーカーは、シェルトンとコーエンに「特殊作戦部隊」は支援される部隊が適していると提案したが、これは受け入れられなかった。彼は、もし受け入れられていたら、アルカイダ作戦をジニに譲ったりせずに、自分が引き受けていただろうと語っている。デルタ・フォース[陸軍特殊部隊]の創設メンバーで、国防長官の下で現役の情報担当次長を務めるウイリアム・ボイキン中将は「危険を犯すことへのためらいと、視野や理解の不足によって、機会が失われた」と語った。
 クリントン大統領はシェルトン将軍の助言を信頼していた。将軍は、ビン・ラディンの所在地についての情報無しでは、特殊部隊の急襲は失敗の可能性が大きいと大統領に告げていた。シェルトンは、もし大統領の命令とあれば「靴を踏み込む」作戦を推し進めるだろうと大統領に告げた;しかし彼は大統領が軍の作戦に固有の膨大な輸送の問題を完全に認識しているかどうか、確かめなければならなかった。
 特殊作戦計画は、明らかにもう一つの急襲案として考えられていた。つまり合衆国が実行可能な情報を受け取ったのち、戦力を投入する案である。クリントン大統領は、「もし『ウサマ・ビン・ラディン』がどこにいるか、我々が真に良い情報を持っていたら、私はそれをしただろう」と委員会に語った。ジニとシューメーカーは、テロリストたちを逮捕または殺害するため危険性の高い「侵入・脱出」作戦を準備した。コーエンは、ビン・ラディンの居場所を特定する、相当の根拠による確信なしに兵士を地上に投入することは、使命の失敗と、無駄な努力での人命の損失を招いただろうと委員会で語った。これら当局者たちは、だれ一人、国防総省の下級の職員たちによって数か月前に計画された、より野心的な計画について気付いていなかった。
 我々のインタビューのとき、何人かの将校たちは、イランでの「デサート・ワン」および1980年の人質救出ミッション失敗との類似点をしばしば引き合いに出した。「特殊作戦部隊」による迅速な打撃という手段には懐疑的だった。彼らには複雑で危険だと思われた。そうした作戦にはその地域での基地が必要だろう。だがどの案であれ、これぞというものは無かった。パキスタン軍の中の親タリバン派が、ビン・ラディンやその仲間に、差し迫った作戦を密告するかもしれなかった。近接した基地の選択肢は限定されており、これに変わるものは、9/11以後行われたようなアラビア海にある艦船またはペルシャ湾岸の地上基地からの飛行であった。このような作戦は長距離の支援を必要とした。多くの国の上空を飛ばなければならず、中には合衆国の取り組みに賛同しない、あるいは気付いている国もあるかもしれない。
 とはいえ、もしこの障害が除去され、軍がこの地域で長期間おそらく秘密裡に、定常的に活動出来るとしたら、情報収集を試み、好機の到来を待っただろう。ある特殊部隊指揮官によれば、彼にとって利用できる情報とは「行動させてくれ。そうすれば情報を提供しよう」というものだった。(One Special Operations commander said his view of actionable intelligence was that if you "give me the action, I will give you the intelligence")
しかしこの方法はすでに述べられた危険性の面と、また合衆国の作戦が惨憺たる結果に終わるかもしれないという二つの面での危険性を持つものだった。特殊作戦部隊をこの地域で、これほど長期間、政治・軍事目的で使う案
―たとえその能力を国防総省内で少なくとも10年にわたって鍛え上げて来たにせよ― が「小グループ」に提案され、あるいは分析されたという証拠は全くみつけられなかった。それゆえ、このような討論は、文民の会議からの大胆な提案とみなされ、軍からは特別に警戒された。クラークはこんな風に考えていた。軍について彼は我々に言った。「彼らはとても、とても、とても嫌がっている」。視点を変えれば、貧弱な情報に基づく大胆な作戦提案が、経験豊かなプロエッショナルの判断の前に屈服させられた、ということだ。それがコーエン国防長官の見方だった。彼は我々にこう言った。「私の判断根拠は、統合参謀本部議長―前特殊部隊指揮官― はこの計画の実現可能性を判定するのに、たとえばクラーク氏よりふさわしい立場にあると自分が信じているか、という点だ」。
軍とCIAのアメリカ人によって組み上げる、秘密あるいは隠密の大規模な、長年検討されてきたさらに大きな選択肢があった。アフガニスタン自体への侵攻である。我々がアフガニスタン侵攻の可能性について質問したすべての職員は、軍人であれCIA職員であれ、それは9/11のような挑発がなければ殆ど考えられなかったと言った。なぜならパキスタンや他の国の支援は見込み薄だったし、大衆は支持しないだろうと彼らは信じていたからだ。巡航ミサイルが唯一の軍事的選択肢として机上に残された。


砂漠のキャンプ・19992
 1999年早く、CIAは、ビン・ラディンがカンダハル南部のアフガン砂漠のキャンプの一つで多くの時間を過ごしているとの報告を受けた。2月初め、ビン・ラディンはシェイク・アリ・キャンプの近郊にいるらしいとの知らせが入ってきた。そこは、これまで湾岸諸国からの訪問者が砂漠の狩猟キャンプとして使ってきた場所である。公式筋は、これらの訪問者はアラブ首長国連邦からだと発表していた。
 CIA情報員からの報告は、狩猟キャンプについて、その大きさ、位置、施設および警備について、また、隣接したビン・ラディンのそれより小さなキャンプについて詳細に説明していた。そこは居住地区ではなかったので、発射されたミサイルが随伴被害を生む危険は少なかった。28日、軍は攻撃の準備を始めた。翌日、国家技術情報 (national technical intelligence)は大規模キャンプの位置と外観を確認した。その近くには、アラブ首長国連邦の公用機の存在も認められた。しかし、ビン・ラディンの宿舎の位置をピンで刺すように正確に特定することは出来なかった。CIAは、軍の緊急事態計画を支援するため、大型キャンプとその住人、ビン・ラディンの一日のスケジュールと定常的な日課など大量の質問に答えるため最善を尽くした。部族民たちの報告によればビン・ラディンは近隣の彼のキャンプから大型キャンプに規則的に行き首長たちと会っていた。部族民たちはそうした訪問の際、彼が狩猟キャンプにいることが、少なくとも211日の午前中まで続くと予想していた。クラークは、バーガーの次官補に宛てて、210日、軍は巡航ミサイルにより主要キャンプを攻撃するための照準作業を行い、翌朝には攻撃位置についているべきだと書き送った。下院の広報官デニス・ハスタートは、こうした状況説明を受けていた模様だ。
 発射は行われなかった。212日以前に、ビン・ラディンは明らかに居所を移しており、当面の攻撃計画は無に帰した。CIAと国防総省の職員によれば、政策決定者たちは、この攻撃でビン・ラディンと一緒に、または近くにいた首長国の王子やその他の上級職員たちが巻き添えになることを懸念していた。クラークは、情報が疑わしかったので、テネット長官に相談した後、攻撃は中止されたと我々に語った。またクラークにとっては、あたかもCIAが湾岸諸国の中の、テロリズム対策でアメリカの最良の同盟者を攻撃するという選択肢を提示しているように思われたとも語った。現地のCIA指揮者、ガリー・シュローエンはこの場合の状況報告は非常に信頼性があると感じており、ビン・ラディン班の主任「マイク」も同意見だった。シュローエンは今でもそれは9/11以前にビン・ラディンを殺すための失われた機会だったと信じている。
 この地域からビン・ラディンが出発した後でさえ、CIAの職員達は彼が戻ってくるかもしれないと望んで、あたかも彼を引き寄せる磁石のようにキャンプを監視していた。軍は次の機会に備えて攻撃態勢を維持していた。199937日、クラークは、UAEの職員に電話をし、首長国職員とビン・ラディンの間の提携の可能性について、彼の関心を表明した。クラークは後に、この電話は省庁間会議で承認されておりCIAの承認も得ていると会話のメモの中に記している。ビン・ラディン班の前主任はクラークの電話[記録]を発見した時、CIAの職員に質問した。CIA職員はこの承認を否定した。
 クラークの電話後 一週間以内にキャンプが急いで取り払われ、その場所が放棄されたことが映像上で確認された。作戦部長パビットを含むCIA職員達は怒った。「マイク」はキャンプの撤去によって、ビン・ラディンを標的とするサイトの一つが消されたと考えた。
 アラブ首長国連邦[UAE]は、合衆国の対テロリズムの重要な同盟国であると同時に、頑固なテロリズム対策の問題となりつつあった。1999年から2001年初めにかけて、合衆国およびクリントン大統領個人はUAEに圧力をかけた。UAEはタリバンの数少ない外部世界との人的経済的窓口の一つだが、その結合を断ち切り制裁を強めること、特にアフガニスタンとの航空路による往来を禁止することを求めたが、こうした努力は9/11以前には殆んど効果がなかった。
 1999年7月、UAEの外務担当国務大臣ハムダン・ビン・ザイードは、タリバンにビン・ラディンとの関係を絶つよう脅した。しかし、タリバンは彼の脅しを本気にしなかった。ビン・ザイードは後に合衆国外交官に、UAEはタリバンとの関係を重要だと評価していた、なぜならアフガン過激派はこの地域における「イランの危険」への平衡勢力になるからだと語った。また彼は、UAEは合衆国を覆す事を望んではいなかったと付け加えた。

新しいパートナー探し

 すべてのCIA職員が部族民たちの能力を信用しなくなったわけではかったが ―その多くは彼らを良き情報提供者であると見ていた― 彼らがビン・ラディンの待ち伏せを実行すると考えていた者は殆どいなかった。対テロリスト・センターの主任は、部族に頼ることは、ロト籤を引くようなものだと言った。彼とその仲間たちは、クラークの支持を得て、北部同盟との協力関係を発展させようとした。その行為が長年におよぶアフガニスタン内戦において、合衆国をはっきりと一方の側に置くことになると言うことは判っていたが。
 北部同盟はタジク族の支配下にあり、その勢力を主にアフガニスタンの北部と東部から引き出していた。これに対し、タリバンは基本的には最大部族であるパシュトン族からなり、彼らはアフガニスタン南部に集中し、さらにパキスタンの北西国境からバルチスタン州に拡がっていた。
 タリバンの行動とパキスタンとの提携の結果、北部同盟はイラン、ロシア、インドなどから、しばしば援助を受けてきた。同盟の指導者は、アフガニスタンで最も有名な軍指揮官、アーメド・シャー・マスードだった。思慮深くカリスマ性のある彼は、対ソビエト戦争において真のヒーローといえる一人だった。しかし彼の部隊は一つ以上の虐殺で告発されており、また北部同盟はその財政の一部をヘロインの貿易によっていると広く考えられてきた。マスードは冷酷な軍閥の将軍であることを除いては、統治の才能を示したことは無かった。しかし、テネットは我々にマスードはビン・ラディン対策の新しい同盟者として、最も興味深い人物のようだったと語った。
 19992月、テネットはマスードと彼の部隊を協力者とする件について、クリントン大統領の認可を求めた。それに応じ、大統領は一部を自身の言葉で変更した上で、「通告メモ」に署名した。テネットは大統領の変更に重要性は認められなかったと言っている。彼に関するかぎりでは、それは19988月の言い方であって、逮捕が望ましいが、ビン・ラディンが生きて連れ出されることが無い可能性も受け入れると表明していた。「我々は同じ地面を耕している」とテネットは言った。
 CIAの職員たちは、合衆国がビン・ラディンを逮捕することを望んでいると聞いた時のマスードの反応を記述している。一人は彼のボディーランゲージは、身体をすくめる様(wince)だったと言っている。シュローエンは「バカじゃないか。あんた達、ちっとも変わってないんだな」と言ったマスードの反応を思い出している。シュローエンの意見では、逮捕の条件は、マスードとその兵士たちにとって、ビン・ラディンの追跡を制約したが、彼らを完全に止めることはなかった。しかしそれは遠距離射撃だった。ビン・ラディンの活動拠点はカンダハル近郊で、タリバンの北部同盟に対する前線から遥かに離れていた。
カンダハル・19995  
 9/11以前にビン・ラディンを巡航ミサイルによって狙い撃ちにするおそらく最後の、そして最良の機会が生じたのはカンダハルにおいてだった。19995月、アフガニスタンのCIA諜報員は、カンダハル内外での五昼夜にわたるビン・ラディンの所在を報告してきた。報告は詳細で、複数の情報源からもたらされた。実務レベルの職員は、もしこの情報が「行動可能」なものでないとするなら、アフガニスタンでのビン・ラディン情報の何が基準を満たすのかを思い描くことは難しいと、その時も今も語っている。通信は良好だった。巡航ミサイルは準備されていた。「我々にとって、これはストライクゾーンだった」と軍の士官は言った。「すばらしい球だ(fat pitch。ホームランだ」。彼はミサイルが飛ぶものと思っていた。待機を解除、発射なしとの決定が来た時「我々は一人残らず、がっくりした」と士官は言った。ペンタゴンやCIAのだれ一人、これが悪い賭け(bad gamble)だと思ってはいないことを知っていたと士官は我々に語った。「あの晩、ビン・ラディンは死体になっているはずだったんだ」と彼は言った。
 CIAの実務レベルの職員たちも同意見だった。ビン・ラディンの所在については、まちまちの情報が有ったが、専門家達はこれを度外視した。その晩、実務レベルの職員達は、軍は情報を疑っており、随伴被害も懸念されるので、発射命令が出ないのだと上司から説明された。失望した現地職員に対して、ビン・ラディン班の主任は書き送った。「過去36時間以内に、ビン・ラディンを仕留める3回の機会があった。それを、むざむざ見送るたびに私は怒りにかられた。・・・長官[DCI]は、「我々はあなたの決定にしたがいます、長官殿」と表向きではこう言いながら、首脳たちが暗に「この攻撃でビン・ラディンを仕留められなけりゃ、CIAは吊し上げを喰うだろう」と言っているうちに、DCIは作戦テーブルに一人取り残された自分に気付くだろう」。だが、先に引用した軍の士官は、ペンタゴンは行動を起こす気だったという事を思い出した。そして、クラークが彼とその仲間たちに「テネットはこの情報の正確さは5050だと見ている」と言ったことを我々に告げ、テネットのこの見積もりが決定の鍵となったのだと思うと語った。
 テネットは、情報はただ一つの不確実な情報源から来たもので随伴被害の危険性があったこと以外、このエピソードについての詳細は全く記憶していないと我々に語った。この話は、緊急の首脳会議にテネットが不在だったことにより、ますます混乱してくる。(彼は市外にいたらしい)彼の次官、ジョン・ゴードンがCIAを代表していた。ゴードンは、この情報を肯定的観点で説明し、適当な但し書きを付けたものの、この情報は入手できる中で最良のものだと述べたことを回想している。
 バーガーはこうした中で、ただテネットから電話が掛かって来たことだけを覚えている。テネットはビン・ラディンを捕らえるのに熱心だとバーガーは感じた。彼の考えではテネットは彼の任務を、責任を持って果たしていた。ジョージ[テネット]は電話してきて「我々はやらないことになった」と告げたとバーガーは述べている。
 19995月の、攻撃しないと言う決定は今では理解し難いように見える。公平のために二つの点を指摘しておく。第一に、199812月の首脳達の攻撃命令についての懸念は、その正当性が今でも立証されているように見える:ビン・ラディンが、たまたま部屋を離れた時に攻撃が命令されたとすると、彼が打撃を受けることはないだろう。第二に、19995月には、政府特にCIAは厳格な調査と批判の中にあった。それはNATOの対セルビア戦争において、誤った情報によって合衆国がベオグラードの中国大使館を誤爆していたからである。この事件は、当局者をより用心深くしていた。 
 19995月から20019月のあいだ、政策担当者たちはビン・ラディンに対するミサイル攻撃を再び積極的に検討することは無かった。1999年、首脳達はより一般的な攻撃、アルカイダ組織の崩壊のためにキャンプやインフラ施設を攻撃するという、クラークの「デレンダ」の再現のような見解による攻撃を検討していた。1999年1月、統合参謀本部はビン・ラディン・ネットワークのインフラ施設に対する「集中的作戦」実施のため広範囲な対象目標のリストを作り上げ、タリバン政府の施設についても同様のことをした。シェルトン将軍は、タリバンの目標は攻撃が容易で、またより重要だったと語った。
 1999年夏の広範囲な攻撃の文脈の一部は、ビン・ラディンの大量破壊兵器獲得の野望を懸念して改定された。5月から6月にかけ、政府は突風のように不吉な報告を受けた。報告には、デルンタ・キャンプにおける化学兵器に対する訓練と製造について、またヘラートでの核物質集積の可能性について多くの情報を含んでいた。

 6月遅く、合衆国その他の情報機関は、アルカイダは攻撃の準備態勢に入ったと結論した。おそらく再びモーリタニアのアブ・ハフスも加わるだろう。625日、クラークの要請をうけて、バーガーはビン・ラディンのWMD[大量破壊兵器]計画に対する警告と、彼の所在を討論するため「小グループ」を彼のオフイスに招集した。「我々はUBLの施設を攻撃することで先手をとるべきではないのか」クラークはバーガーに、彼の同僚に尋ねるように強く言い張った。
 バーガーは彼の手書きのノートに、タルナック農場の施設には7ないし11家族が存在しており、これは60から65人の犠牲者の発生を意味すると書き留めている。バーガーはUBLにとっては起こりうる「僅かな打撃」であり、「彼がそれに反応すれば我々は非難されるだろう」と付け加えている。NSCスタッフは、テロリストの攻撃を待ち、その後で攻撃するという選択肢をあげた。そこにはタリバンへの攻撃も含まれる。しかしクラークは、ビン・ラディンは攻撃の後はキャンプを空にすると見ていた。
 軍事的手段は行き詰まりに達したように見えた。199912月、クラークはバーガーに、長官達が自問するよう強く求めた:「なぜ最近まで合衆国軍隊を指揮するという現実的選択肢がとられなかったのか」この質問が討議されたか、また討議されたとしても、どのような回答があったかについての記録はない。 
 1999年を通じて、ビン・ラディンによる攻撃の可能性についての報告は入手され続けた。そこにはワシントンのFBIビル[D.C.]の爆破も含まれていた。9月には、CSGはロサンゼルスかニューヨークを出発する航空便に対して起こりうる脅威についての再調査を始めた。これらの警報は、あふれるように多くの報告書の中にあった。
 1999年夏までに軍事的、外交的選択肢を実際に試し尽くした結果、政府は1998年夏の時点に立ち返って、CIAに頼って、何か他の選択肢を見つけようとしたらしい。この方式も、はかばかしい結果を生まなかった。アルカイダの、より広汎なネットワークに対して、分断と[メンバーの出身国への]引き渡しが何度か行われた。しかし、アフガニスタンでの極秘活動は、実を結ばなかった。
 1999年中頃、テロリスト対策センター(CTC)とビン・ラディン班に新しい指導者がやって来た。「ジェフ」と交代したCTCの新しいセンター長はコファー・ブラックだった。ビン・ラディン班を含むセクションの新しい班長は「リチャード」だった。ブラック、「リチャード」と彼等の仲間は、アルカイダ攻撃の新しい戦略作業を開始した。彼らの出発点はより良い情報を得ることだった。それはこれまでよりも多くCIA自身の情報源に頼り、現地部族への依存度を少なくする方法だった。
 19997月、クリントン大統領はCIAがビン・ラディン逮捕のために複数の国々の政府と協力することを認可し、その対象をビン・ラディンの主要な副官にまで拡大した。大統領は、伝えられる所では、注意深く限定された条件下での極秘作戦(ca)を承認した。それは、もし成功すればビン・ラディンに死をもたらすものだった。レノ司法長官は再び政策面からの懸念を表明した。彼女が心配したのは、報復の危険性だった。CIAは、我々が過去に討議した、パキスタン・チームとの短期間の作業の構想をも練り始めていた。またウズベキスタンとの共同作業の構想も進めていた。ウズベク人達には、基礎的な装備と訓練が必要だった。最も早くても、20003月以前にはいかなる行動も期待出来なかった。
 1999年秋、DCIのテネットはCIAの新しいビン・ラディン戦略を公表した。それは、ただ単に「計画」と呼ばれた。「計画」は分断と引き渡しの作戦を世界中で続行することを提案していた。それは対テロリズムの技術を持つ優れた職員を雇用し訓練する計画、さらに多くの諜報員を募集しアルカイダの兵士として送り込む試みなどを公表していた。「計画」は、また技術面での情報収集(信号と映像)におけるギャップを埋めることも目指していた。その上、CIAはタリバンと戦っている北部同盟の反乱者達との接触を増やそうとしていた。
 新しい戦略に基づいて、CIAは捕捉作戦の選択肢について評価を行った。高得点となった案は皆無だった。CIAはパキスタン人達の努力を信頼していなかった。ビン・ラディンが南部アフガニスタンのカンダハルに旅行する際、厳重に警護されたビン・ラディンを部族の現地ネットワークが攻撃することは有りそうもなかった。テロリスト対策センターは、成功のチャンスは10%以下と見ていた。北西部については、ウズベク人たちが六か月以内に越境攻撃の準備ができるかと思われたが、その成功のチャンスは、同じく10%以下と見積もられた。
 北東部にはマスードの北部同盟の部隊があった。おそらくCIAの最良の選択肢であった。十月遅く、テロリスト対策センターの職員グループがマスードに会うため、パンジール渓谷に飛んだ。それはふらつくヘリコプターによる危険な旅で、将来も数回にわたって繰り返されるはずだった。マスードは、ビン・ラディンの活動に関する情報と所在について、合衆国を助けると表明し、さらに機会が有れば彼の逮捕を試みることに同意したようだった。ビン・ラディン班はビン・ラディンについての報告が第二の情報源を持つことになると満足しだ。だが、マスードは彼自身の利益が合衆国のそれと一致する場合にのみ、ビン・ラディンに対して行動するだろうという事をビン・ラディン班は知った。12月初めの時点で、CIAはこの可能性を15%以下と見なした。
  最後にCIAは合衆国の職員をアフガニスタンの地上に配置する可能性を検討した。CIAはこの選択肢を特殊作戦部隊と検討し続けてきた。そして実務者レベルは、やる気満々だが、上層部は気乗り薄なことを知っていた。CIAはもし特殊部隊が配置されれば、ビン・ラディンを捕獲する確率は95%のチャンスがあるとみなした。しかし実際に配置されるチャンスは5%以下であった。CIA職員をアフガニスタンに送りこむのは「それによって得られる利益が、損失を上回る」と見なされる場合のみだった。だがこの時期、危険性を上回る利益は存在しなかった。
先にも述べたように、このような合衆国特殊作戦部隊のアフガニスタンへの長期間の派遣は ―多分CIAの職員との共同の派遣となる― 大きな政策的主導(二.三の周辺国の支持を得る努力を伴う。原註)その他が必要となるだろう。このような軍の計画は9/11以前に省庁間で検討されたことは無かった。
一九九九年末の時点で、ビン・ラディン捕捉について、CIAの新しい戦略的計画が成功する確率で、十五%を超えるものは無かった。

第4章Note

Note 49(一部) Economist Aug.29,1998,p16

Note 87. (一部)  大統領令:Executive Order 13129, July 4. 1999

Note 88,(一部)国連安保理決議: UNSCR1267, Oct.15,1999 

Note 93  UNSCR 1333.Dec.19.2000

Note101.(一部)大統領令:Executive Order 13099, Aug.20,1998 

Note 105, (一部) Washington Times, Aug.21,1998,p1

Note 166. (一部)UAE政府の最後通告に対し、タリバンはビン・ラディンの追放を拒否した。


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