第5章 アルカイダ アメリカ本土を狙う 
5・1 テロリスト事業家  (原文 p.145
 1999年初頭、アルカイダはすでに合衆国の有力な敵対者であった。ビン・ラディンと彼の作戦主任、モハメド・アテフとしても知られるアブハフス・アル・マスリは、アルカイダの組織構造の頂点として誰もが認める指導部の地位を占めた。この構造の中で、アルカイダの世界的テロリスト作戦は、冒険的で強い意志の現地指揮官のアイデアと仕事に強く依存していた。また彼らはある程度の自治権も享受していた。いかにその組織が現実に働き、また9/11の陰謀の発端に導かれたかを知るため、我々はこれら次位の副指揮官三人について、簡単に検証しよう。ハリド・シェイク・ムハンマド(KSM)、ハンバリとして良く知られるリデュアン・イザムディン、およびアブダル・ラヒム・アル・ナシリである。とりわけ「航空機作戦」の首謀者、ハリド・シェイク・ムハンマドに最大の注意を払う事にしよう。
ハリド・シェイク・ムハンマド
 テロリスト事業家のモデルとして、ハリド・シェイク・ムハンマド(
Khalid Sheikh MohammedKSM)以上に適当な例は無いだろう。彼は9/11攻撃の主要な設計者である。KSMは、ついにアルカイダのメンバーとなるまで、かなり遠回りの路をたどった。高度の教育を受け、政府のオフイスでも、あるいはテロリストの隠れ家でも同様に快適な状況にいたKSMは、その想像力、技術力、管理手腕を駆使して、前代未聞のテロリスト陰謀を考案し、孵化させた。彼のアイデアには、従来型の自動車爆弾、政治的暗殺、飛行機爆破、ハイジャック、貯水池への毒物混入、そしてついには飛行機を自殺工作員に誘導されるミサイルに変える事などがあった。
甥のラムジ・ユセフ(KSM3歳年下)と同じく,KSMはクウェートで育った。しかし、彼の民族的家系は、イランからパキスタンに拡がるバルティスタン地域まで辿ることができる。信仰あつい家族の中で育てられたKSM16歳のとき「ムスリム同胞団」への加入を希望した。そして、砂漠の中のユースキャンプで過激なジハードに夢中になった。1983年、KSMは中学(secondary school)を卒業して、クウェートを去り、チョワン・カレッジに入学した。ノースカロライナ州、マーフェスボロの小さなバプテストスクールだった。チョワンでの1学期の後、KSMはグリーンスボロのノースカロライナ農業・工業州立大学に移った。彼は、そこに将来アルカイダのメンバーとなるユセフの兄弟と共に出席し、198612月、機械工学の学位を得た。
 合衆国にいる間は、KSMは過激イスラム主義の信条や活動に注意を惹かれてはいなかったが、カレッジ卒業直後から反ソビエト・アフガン聖戦に没入するようになった。1987年初め、最初にパキスタンを訪れ、ペシャワールに旅した。そこで彼の兄ザヒドが、彼をアフガン・ムジャヒディン[聖戦々士]として有名な、アブドル・ラスル・サヤフに紹介した。彼はヒズブル・イチハド・エル・イスラミ(イスラム連合党)の首領だった。サヤフはKSMの良い指導者となり、彼のサダ・キャンプで、KSMに軍事訓練を施した。KSMはソビエトと戦い、アブダラ・アザームのために管理の仕事に呼び戻されるまで、前線に3か月間留まったと主張している。次にKSMは、アフガングループの通信の業務に応じるため、電気会社で仕事をした。そこで彼はアフガニスタンで洞窟を掘るのに使われるドリルについても学んだ。

拘留者尋問報告   

第五章と七章は、逮捕されたアルカイダのメンバーの情報に大きく依存している。これらの「拘留者」は9/11計画について直接の知識を持っている。

 これらの証人 ―合衆国の敵と誓った― の証言の信憑性を検証するのは、難しい仕事である。我々が証言に接する方法は、実際に尋問が行われた場所から得た通信に基づく情報を再検討することに限定されてきた。我々は、尋問に際して使ってほしい質問を提出しておいたが、特に関心のある質問が、どこで、いつ、どのようにされるかを管理することは出来なかった。拘留者の言葉がどの程度信頼できるかをより良く判断したり、報告の中の曖昧な点をはっきりさせるために、尋問者と話したかったが、それも許可されなかった。そうした要求が、微妙な尋問プロセスを混乱させる恐れがあるからだ、と言われた。

 我々は、それにもかかわらず、捕らえられた9/11陰謀者とアルカイダのメンバーからの情報を、この報告書に取り入れることにした。彼らの陳述を注意深く評価し、それを他の書類や陳述で裏付けることを試みた。この報告の中では、どこで我々の記述の土台となる陳述がなされたかを明示してある。我々は合衆国政府によって拘留が正式に確認されている、10名の名前だけを記すことを許可されている。


 1988年から1992年の間、KSMはペシャワールとジャララバードで、非政府組織(NGO)の運営に手を貸した。それは、サヤフをスポンサーとして、若いアフガニスタンのムジャヒディンの援助を目的とする組織だった。1992年の一時期、KSMは時々ボスニアでムジャヒディンとして戦いながら、募金活動を支援していた。パキスタンへ短期間帰った後、カタールの前イスラム問題担当大臣のシャイフ・アブダラー・ビン・ハリド・ビン・アルタニ(*)の薦めによって、家族をカタールに移した。KSMはカタールで「カタール電力・水資源省」のプロジェクト技術者の地位を得た。その身分で、彼は広範囲な国際的旅行を行った。その多くはテロリズム活動の推進に関係するものだったが、彼はその地位を1996年初め、合衆国当局の逮捕を避けるためパキスタンに逃れるまで保持した。                  (*)シャイフとは、長老、集団の長などを指す(訳注) 
 KSMは、第1次ワールド・トレードセンター爆破での端役で、はじめて合衆国の法執行機関の注意を引くようになった。KSMによれば、彼は合衆国内で攻撃を始めるというラムジ・ユセフの意図を1991年から1992年の間に知った。この時、ユセフはアフガニスタンで爆発物のトレーニングを受けていた。1992年秋の間、ユセフが攻撃に使うつもりで爆弾を作っている間に、KSMとユセフは電話で何度も会話を行った。その中でユセフは彼の進み具合を話し、追加の資金を求めた。1992113日、KSMはカタールからユセフの共謀者モハムド・サラメの銀行口座に、660ドルを電信で送金した。KSMは、この作戦にこれ以外に実質的に寄与した形跡はない。 
 ユセフが1993年のワールド・トレードセンター爆破の首謀者として、たちまち悪名を上げたことで、KSMは合衆国攻撃計画に参加する気になった。彼自身の説明によれば、彼の合衆国に対する憎悪は、彼自身の留学での経験によるものではなく、むしろ、イスラエルに好意的な合衆国の外交政策に対する、彼の激しい反感に起因している。1994年、KSMはユセフと共にフィリピンに行き、今日「マニラ航空機」あるいは「ボジンカ」計画として知られる陰謀を計画し始めた。それは、二日間の間に、12機の合衆国の民間航空ジャンボジェット機を太平洋上で爆破しようとするものだった。これはKSMが、実際のテロリスト作戦計画へ最初に関与したものとして注目される。1994年の夏の間、マニラのアパートで同居しながら、彼とユセフは爆弾とタイマーを作るのに必要な、化学物質その他の材料を入手した。彼らはまた、合衆国に乗り継ぎのできる香港およびソウル便も目標に入れた。同じ時期、KSMとユセフは、クリントン大統領の199411月のマニラ旅行期間中の暗殺や、ニトロセルローズ入りジャケットを積み荷にまぎれ込ませて合衆国行きの貨物機を爆破する計画なども検討した。
 KSM19949月にフィリピンを離れた。そして、ユセフをカラチで出迎え、彼らの計画したフライトの下調べをした。その地で彼らは、ウサマ・アスムライとしても知られるワリ・カーン・アミン・シャーをマニラ飛行計画のメンバーに組み入れた。1994年秋の間に、ユセフはマニラに帰り、彼が考案したデジタル時計タイマーを、映画館と東京行きフィリピン航空便で爆破テストしNote 8成功していた。 
 この陰謀計画は、フィリピン当局がユセフのマニラでの爆弾製造を発見したことで解明された。しかし、その頃には、KSMは安全に彼のカタールの政府の仕事に戻っていた。 ユセフは彼の貨物機計画を実行しようと試みたが、199527日、共謀者の裏切りにより、パキスタン当局にイスラマバードで逮捕された。
 
  写真:ハリド・シェイク・ムハンマド  (2003年、拘束中の撮影) (原文p.148)  (省略)
  ユセフの逮捕後も、KSMは世界中の聖戦主義者の共同体を旅行して廻り、1995年にはスーダン、イエメン、マレーシア、ブラジルを訪れた。これらの場所で、彼をテロリストの活動に結びつけた明白な証拠はあがっていない。スーダンでは、ビン・ラディンに会おうと試みたが失敗したと伝えられる。しかし、KSMはブラジルで接触を認めたアテフに会っている。19961月、彼は合衆国当局により追跡されている事を充分承知していたので、カタールを永久に去り、アフガニスタンに逃れた。そこで彼はラスル・サヤフとの関係を復活させた。 
 ちょうどKSMがアフガニスタンで自身の建て直しをしていた1996年中ごろ、ビン・ラディンも彼の仲間とスーダンからの移住を完了しつつあった。KSMは、アテフを通じてビン・ラディンとトラボラで会う手筈を整えた。そこはアフガン戦争以来の山の砦だった。その会議でKSMは、アルカイダのリーダーにテロリスト作戦のさまざまなアイデアを開陳して見せた。KSMによれば、この会合は1989年以来、彼がビン・ラディンと会った最初の機会だった。1987年には、彼らは共に戦ったが、ビン・ディンとKSMは特に親しい関係にはなっていなかった。実際、KSMは、ビン・ラディンが彼に会うことに同意したのは、彼の甥、ユセフの名声があったからだったと認めている。
 この会合でKSMはビン・ラディンとアテフに、最初のワールド・トレードセンター爆破、マニラ航空機計画、貨物機計画その他のKSMと仲間たちがフィリピンで追求してきた活動についての概要を説明した。また、KSMはパイロットを訓練し、合衆国でビルに飛行機を突入させる作戦を提案したが、これが遂には9/11作戦につながってゆくことになる。 
 KSMは、このような攻撃を成功させるには、人材、資金、兵站援助が必要であり、それはアルカイダのような、広範で十分な資金源がある組織のみが提供出来ることを知っていた。そして、この作戦は合衆国を長年にわたって非難してきたビン・ラディンにアピールするはずだと思っていた。 
 KSMの見るところでは、ビン・ラディンは他者のアイデアも聞き取って、アフガニスタンでの彼の新たな立場を固める過程にあり、まだ将来の反米作戦を予定表の上に定着させていなかった。会合でビン・ラディンはKSMのアイデアを言葉少なく聞いていたが、彼に正式にアルカイダに参加し、家族をアフガニスタンに移すかと尋ねた。 
 KSMは断った。彼は独立状態のまま、旧師サヤフの指揮下にあるグループを含め、いまだアフガニスタンで活動中の他のムジャヒディン・グループと共に働く方を選んだ。サヤフは北部同盟のリーダー、アーメド・シャー・マスードと親しかった。したがって、ビン・ラディンと共に働く事はKSMには問題があった。なぜならビン・ラディンは、マスードのライバルであるタリバンとの絆を作りつつあったからだ。 
 ビン・ラディンとの会合の後、KSMによれば、彼はさらにインド、インドネシア、それからマレーシアに旅し、そこでジェマ・イスラミアのハンバリに会った。ハンバリはアフガン戦争のインドネシア帰還兵で、ジハードを東南アジアに拡げることを志向していた。KSMはイランで家族と再会し、彼らをカラチに移すよう手配をした。19971月までに転居を終えたと彼は言っている。 
 家族をカラチへ移住させたのち、KSMはチェチェン聖戦のリーダー、イブン・アル・ハタブと合流しようと試みた。アゼルバイジャンを通過して旅行することが出来なかったので、KSMはカラチに戻りさらにビン・ラディンとその仲間との接触を再構築するため、アフガニスタンに向かった。この時点でKSMはアルカイダのメンバーではなかったようだが、彼は1997年と1998年の前半にパキスタンとアフガニスタンの間をたびたび行き来したことを認めている。ビン・ラディンを訪ね、彼の副官のアテフとサイフ・アル・アドルに、コンピュータとメディア企画について手助けすることで、彼らとの関係を深めた。
 KSMによれば、1998年のナイロビとダルエスサラームでの合衆国大使館爆破は、9/11陰謀へと発展する分岐点となった。KSMは、ビン・ラディンが本気で合衆国攻撃に取組んでいると彼に確信させたのは、この爆破事件だったと言っている。彼は、時代遅れのコンピュータでニュース記事を集め、アルカイダのメンバーを助けることで、彼自身[アルカイダにとって]役立つ存在で有り続けた。ビン・ラディンは、アテフの説得もあって、ついにKSM9/11作戦の緑色信号:ゴーサインを出すことにした。それは1998年末から1999年初めの、いつかのことであった。
 KSMはカンダハルに移動し、アルカイダと直接働いてくれというビン・ラディンの丁重な招待を受け入れた。9/11作戦の計画と準備の指揮に加えて、KSMはアルカイダのメディア委員会と共に、そして最後にはそれを率いて働いた。しかし彼は、ビン・ラディンに対して正式に忠誠を誓うことを拒否していたと言っている。そうすることで、彼の何より大切な自主性の痕跡を保持したかったのだ。 
 1998年遅くから1999年初めにかけた時点で、9/11作戦の取り組みが熱を帯び始めた。だが、9/11KSMの意識の大部分を占めていた一方で、彼は別のテロリスト攻撃の可能性についても考え続けていた。例えば、彼は、ハンバリから東南アジアのジハードについて学ぶために、アルカイダの工作員、イサ・アル・ブリタニをマレーシアのクアラルンプールに派遣した。その後、KSMの主張するところでは、2001年初めに、ビン・ラディンの指示により、彼はブリタニをニューヨーク市に送って、[攻撃の]可能性がある経済および「ユダヤ」の標的を下見させた。さらに、2001年夏の間、KSMはサウジアラビア空軍の志願パイロットによってサウジのジェット戦闘機を略奪し、イスラエルのエイラートを攻撃するというアイデアをビン・ラディンに持ちかけた。聞くところでは、ビン・ラディンはこの提案を気に入ったが、KSMに先ずは9/11攻撃に集中するよう指示したと言われる。同様に、ほぼ同時期に、タイ、シンガポール、インドネシアおよびモルディブで攻撃すると言う、KSMのアテフへの提案もあった。ハンバリのジェマ・イスラミアの工作員が幾つかの可能な目標を下見したが、これは実行されなかった。
 KSMは、アルカイダの下級兵士の間で人気ある存在だったようだ。彼は有能なリーダーと見なされていたと言われる。特に9/11以後そうだった。彼の仕事仲間は、彼を評して、知的で、有能で、気質にむらの無い管理者と表現している。そして、彼はプロジェクトにひたむきに取り組み、同僚にもそうするように求めた。アルカイダの仲間、アブ・ズバイダは、能力がありながらも、他者が提案した改良案をどんどん取り入れる点を強調して、KSMの持って生まれた創造性を、より適切に表明している。ナシリの評価も似たようなもので、KSMはありきたりの攻撃案をたくさん持ち出すが、彼みずから、独特の作戦を案出することは稀だったと言っている。おそらくこれらの評価には、ちょっぴり妬みの勘定が含まれているのだろう。ともかくKSMは明らかに能力のある組織者で、何年にもわたってその技術を磨き、人間関係を築いてきた。

ハンバリ 
 アルカイダが東南アジアでテロリズムの育成に成功したのは、ジェマ・イスラミア(JI)と親密な関係にあったことが大きく働いている。この関係において、ハンバリ[リデュアン・イザムディン]は鍵となる調整者だった。インドネシアに生まれ教育を受けた後、ハンバリは仕事を見つけるため、1980年代初め、マレーシアに移転した。そこで彼はイスラム過激派の信奉者となるため、多くの宗教指導者の教えを求めた。その一人に、アブドラ・スンカーがいた。スンカーはまずハンバリを鼓舞して、東南アジアでの過激イスラム体制建設の構想を共有させ、次に1986年、彼をアフガニスタンに送り出して、ジハード教育を促進した。ラスル・サヤフのサダ・キャンプ(後にKSMもそこで訓練を受ける)での訓練を経た後、ハンバリはソビエトと戦った;彼はアフガニスタンには18か月いたが、結局マレーシアに帰った。1998年には、ハンバリはスンカーの新しく作られた組織、JIにおけるマレーシア・シンガポール地区の責任者を引き受けることになる。 
 また1998年までに、スンカーとJIの精神的指導者アブ・バカル・バシルは、キリスト教徒とユダヤ人に対して戦うことでJIとアルカイダが同盟するという、ビン・ラディンの提案を受け入れた。ハンバリはカラチでKSMと会って、JIのメンバーがアフガニスタンのアルカイダ・キャンプで訓練を受ける打ち合わせをした。KSMと密接なつながりを持った上に、ハンバリはすぐにアテフとも同様の間柄となった、アテフとKSMが拡大に努めていたJIの野心的なテロリスト計画に、アルカイダは資金供与を始めた。この取り決めのもとで、JIは必要な調査活動と、爆弾製造の材料その他の供給を実施することになった。アルカイダは作戦を下書きし、爆弾製造の技術を提供し、自殺工作員を手配した。
 アルカイダとJIの協力体制は、アルカイダの資金と技術力を、JIの資材や地元工作員の確保に結びつけ、そこから数多くの企てが生み出された。ここでハンバリは、用途の指定されたアルカイダの資金を共同作戦のために配るという、重要な調整役を演じていた。一つの特別に注目される例は、アルカイダが生物兵器計画を引き継ぐための科学者を必要としたとき、アテフはハンバリに助けを求めた。ハンバリは、合衆国で教育を受けたJIメンバーのヤジド・スファートをカンダハルでアイマン・アル・ザワヒリに紹介し、感謝された。2001年、スファートはカンダハル空港近くに彼が立ち上げを手伝った実験室で、アルカイダのために炭疽菌(anthrax)を開発する試みに数ヶ月を費やすことになる。 
 ハンバリは、もともとJIの作戦を合衆国の攻撃に向かわせる気は無かった。しかし、彼がアルカイダに巻き込まれたことが、彼にアメリカという目標の追跡を促したように見える。逮捕後の尋問によれば、この転向にはKSMの働きかけが大きかった。彼はアメリカ経済を傷つけるべく計画された攻撃に集中するよう、JIの作戦主任を説得したと主張している。合衆国を痛めつけると言うハンバリの新たな興味は、さながら洪水のように数々のテロ計画を生んだが、幸いなことにどれ一つ実現しなかったのは幸運だった
 ハンバリとJIは、アルカイダと協力して実際のテロリスト攻撃を企画するだけでなく、アルカイダ工作員のクアラルンプール通過を援助した。199912月から20001月にかけて、一つの重要な事件があった。KSMの求めに応じて、ハンバリが面倒を見た、カラチで訓練を終えたばかりの数人の帰還兵の中には、ハラドとしても知られ、後に合衆国艦船コール爆破に手を貸すことになるタウフィク・ビン・アタシュや、また将来9/11ハイジャッカーとなるナワフ・アル・ハズミとハリド・アル・ミダルも含まれていた(Note 25。ハンバリは彼らに宿を手配し、また次の旅行の航空券購入を手助けしてやった。その年遅く、ハンバリと彼のグループは、宿泊施設とその他の援助(飛行学校の情報と硝酸アンモニウム入手の手助けを含む)を、ザカリウス・ムサウイに提供した。彼は、アテフとKSMによってマレーシアに送られたアルカイダの工作員だった。 
 ハンバリはビン・ラディンのアフガンの施設を、JIの新兵訓練場として使った。彼は、アテフやKSMと親密な関係を持ってはいたが、JIはアルカイダからの組織上の独立性を維持していた。ハンバリは、ビン・ラディンとは作戦について討論した事は無く、また彼に忠誠の誓いをしたこともないと言い張っている。彼はすでにJI指導者としてスンカーの後継者であるバシルに忠誠を誓っていた。このように、自分の領域を守る強力な官僚主義者のように、彼はアルカイダ指導部が彼に通知することなく、JIのメンバーをテロリストのプロジェクトに割り当てようとした時、それに抗議した。
 
 アブダル・ラヒム・アル・ナシリ 
 KSMとハンバリは、二人ともアルカイダの勢力に合流することにした。なぜなら、彼らのテロリストとしての大望は資金と人員を必要とし、それはアルカイダのような強固な組織のみが提供することが出来たからである。一方、アブダル・ラヒム・アル・ナシリは、テロリストとしての経歴を買われ、ビン・ラディン自身がリクルートしたように見うけられる。彼はコール爆破の首謀者で、のちのアラビア半島におけるアルカイダ作戦の長となる人物である。 
 すでにアフガン聖戦に参加していたナシリは1996年、タジキスタンで聖戦を遂行するため、30名程度のムジャヒディンのグループに同行した。激しい戦闘を起こし損ねたため、グループはジャララバード[アフガニスタン]に移動し、最近スーダンから帰ったばかりのビン・ラディンに遭遇した。 ビン・ラディンは彼らに長々と演説し、グループに「アメリカ人に対する聖戦」中の彼に合流するよう促した。全員、ビン・ラディンに忠誠を誓うよう促されたが、ナシリを含む多くが不快感を抱いて拒否した。数日間、ニュースの切抜きとテレビのドキュメンタリーを嫌というほど見せられ、教化されたあと、ナシリはアフガニスタンを去った。そしてまず生まれ故郷のサウジアラビアに行き、それからイエメンの家を訪れた。その地で、アメリカやその他の外国船がイエメンの南西海岸を我が物顔で往き来しているのを見て、自分の最初のテロリスト計画がはっきり形をなしたと彼は言っている。
 多分1997年にナシリはアフガニスタンに帰り、まずそこで戦っている親族をチェックし、またタリバンについて学んだ。彼はなお「合衆国との来たるべき戦い」のために兵士を募っているビン・ラディンに再び遭遇した。ナシリは、より伝統的な軍事ジハードを追求し、アーメド・マスードの北部同盟と戦闘中のタリバン勢力に合流した。そして前線とカンダハルの間を行きつ、戻りつしている間に、たびたびビン・ラディンを見かけ、また他のムジャヒディンたちと会ったりした。この時期、1998年初め、ナシリはロシア製対戦車ミサイル4本をイエメンからサウジアラビアに密輸する計画の首謀者となり、また大使館爆破の工作員がイエメンのパスポートを取得するのに手を貸した。
いくつかの点でナシリはアルカイダと連合した。彼のいとこ、またの名をアザームとして知られる、ジハード・モハンマド・アリ・アル・マッキはナイロビ大使館攻撃の自爆者だった。ナシリは、イエメンとアフガニスタンの間を旅行した。1998年遅く、ナシリは合衆国船舶に対する攻撃を提案し、ビン・ラディンは承認した。彼はナシリに計画を開始することを指示し、工作員をイエメンに送り、後には資金を提供した。
 ナシリはビン・ラディンに直接報告した。ナシリによれば、この作戦のすべて知っていた他人はビン・ラディンだけだった。ビン・ラディンは、彼にイエメン西岸で攻撃する合衆国海軍の艦艇を発見することが困難だった時には、代わりに南部沿岸のアデン港を下見するよう指示したと言われている。その結果が20001月の合衆国艦艇「サリバン」への未遂に終わった攻撃と、200010月の合衆国艦艇「コール」への成功した攻撃だった。 
 ナシリの成功は、アルカイダの中で即座に彼に地位をもたらした。後に彼はアラビア半島の内部と周辺での、アルカイダ作戦の主任と認められた。ナシリはビン・ラディンと以後のテロリスト計画に関して相談を続けていたが、工作員の選択と攻撃の立案については決定権を保持していた。コール爆破から逮捕されるまでの2年間、彼は他にもアルカイダ作戦のいくつかを指揮していた。2002106日のアデン湾でのフランスのタンカー「リンバーグ」の爆破もまたナシリの手掛けた作戦だった。ビン・ラディンはナシリにペルシャ湾の合衆国財産に打撃を与える計画を続けるよう説得したが、ナシリはセキュリティー面の不安が有ったため、これらの計画の一つを実際に遅らせたと主張している。こうした懸念も、もっともだったと思われる。というのは、ナシリは200211月、アラブ首長国連邦で逮捕され、ついにそのテロリストとしての経歴を終えたからである。
                     
目次へ 
 5・2 航空機作戦   (本文 p.153) 
 KSMによれば、彼はユセフが1993年のワールド・トレードセンター爆破の後、パキスタンに帰ってから、合衆国攻撃を考え始めた。ユセフのように、KSMも合衆国の経済を攻撃目標とすることにより、その国の政策に最大の影響を与えることが出来ると考えた。KSMとユセフは何が合衆国経済を牽引しているかについて、一緒にブレーンストーミングを行ったと報告されている。その結果、KSMが合衆国の経済的首都だと見なすニューヨークが第一の標的となった。同じ理由で、カリフォルニアもKSMの標的となった。 
 KSMは、最初のワールド・トレードセンター爆破は、爆弾と爆発物に問題があり、さらに新しい攻撃形式に進化する必要があることを教えたと述べている。彼の主張によれば、彼とユセフはマニラ航空(ボジンカ)計画の作業中に、航空機を武器として使うことを考え始め、早くも1995年にはワールド・トレードセンターやCIA本部の攻撃を真剣に検討していたと主張している。
 確かに、新しい種類のテロリスト作戦を真剣に考えたのはKSM一人ではなかった。伝えられるところでは、アテフとビン・ラディンがまだスーダンにいた時、アテフによって一つの研究がなされた。そして、従来のテロリストによるハイジャック作戦は、アルカイダの要求に合致しないとの結論が出た。なぜなら、このようなハイジャックは、多数の死傷者を生むことより、囚人の解放交渉に使われることが多いからである。この研究は、飛行機をハイジャックし、それを飛行中に爆破する実行可能性を検討したもので、ボジンカ構想に相当するものだったと言われている。もし、このような研究が実際にあったとすれば、アルカイダの指導者たちの考え方について[次に示す]重要な見識を与える。 
1)彼らは収監中の仲間の解放を得ることを目的とするハイジャックは、あまりに込み入っているとして排除した。なぜなら、アルカイダには飛行機を着陸させて交渉する友好的な国がなかった。(2)彼らは、民間商用機の空中での爆破は、スコットランドのロッカビーでパンアメリカン103便に対して実行されたように、 大量の死傷者を与える将来有望な手段であるとみなした。(3)彼らはまだハイジャックした飛行機を他の目標に対する武器として使う事は考えていなかった。 
 KSMは、尋問者たちに大型民間機をハイジャックし、衝突させることをいつも考えていたと言い張った。実際KSMは壮大で独創的な計画を描写している。全部で10機をハイジャックする。内9機が[アメリカ大陸]東西両海岸の標的に突入する。標的は結局9/11で衝突されたもの以外に、CIAFBIの本部、原子力発電所、カリフォルニアとワシントン州の最も高いビルディング等々となる。KSM自身10機目の飛行機で合衆国の飛行場に着陸し、すべての成人男性の乗客を機内で殺害してメディアの注意を喚起し、イスラエル、フィリピン、およびアラブ世界の抑圧的政権を支持する合衆国を、激しく非難する演説を行う。KSMの合衆国経済を標的とすることの理屈付け以上に、この構想から、彼の真の野望が垣間見える。これは劇場である。超テロリストとして自分を主役に仕立てた、KSMによる破壊のスペクタクル劇である。 
 KSMはこの提案に対して、その規模と複雑性に半信半疑なアルカイダのリーダーたちから、どっち付かずの反応を受けたことを認めている。ビン・ラディンはKSMの提案を聞いたが、それが現実的であるとは思えなかった。前に記したように、ビン・ラディンは多数の有力な作戦の提案を受けており、合衆国の標的を民間機で攻撃するというKSMの提案は、その中の一つにすぎなかった。 
 KSMは彼自身を、ベンチャー資本と人材を探している事業家として提示している。彼は自分の独立性を維持した上で、アルカイダが攻撃に必要な資金と工作員を提供する事を単純に望んでいた。このような供述に疑問をもつ事は容易だ。資金の入手も容易ではないが、死をもいとわない熟達した兵員を獲得する困難さは、はるかに大きい。従って、KSMは似たようなテロリスト組織であれば、どことでも共に働いただろうと主張するが、彼はこのような特別な品目を提供できる他のどのグループも示すことができない。
 KSMは、1998年遅くか1999年、アルカイダに正式に参加したことを認めている。そしてその直後、ビン・ラディンもまた商用航空機を武器として合衆国を攻撃するという彼の提案を支持することを決めた。KSMは、彼が没頭してきたアメリカ攻撃に、ビン・ラディンがどうして参加するようになったかをあれこれ推測しているが、事実ビン・ラディンは、既に前から合衆国の敵対者だった。KSMはアテフがこの特別の提案を承認するよう、ビン・ラディンを説得してくれたのだろうと思っていた。作戦全体の中で、アテフの役割が非常に重要だったことは疑いようもないが、それは背景に消えて行きがちだった。その理由の一部は、アテフ自身が計画を説明出来ないことによる。彼は200111月、アフガニスタンでアメリカの空爆によって死亡した。
 19993月または4月、ビン・ラディンはKSMをカンダハルに呼びつけ、アルカイダは彼の提案を支持する旨を告げた。陰謀はいまやアルカイダの中で「航空機作戦」と呼ばれるようになった。
計画は発展する  
 ビン・ラディンは、1999年春、カンダハル近くのアルマタル複合施設で行われた一連の会議で、航空機作戦について、KSMやアテフと討議した。ハイジャック機の内の一機をメディア声明に使うという、KSMのオリジナルな構想は破棄されたが、ビン・ラディンは基礎的なアイデアは実行できると考えた。ビン・ラディン、アテフ、KSMは標的の最初のリストを再検討した。そこには、ホワイトハウス、U.S.キャピトル[合衆国議事堂]、ペンタゴン、ワールド・トレードセンターなどが含まれていた。KSMによれば、ビン・ラディンはホワイトハウスとペンタゴンの破壊を望み、KSMはワールド・トレードセンター攻撃を希望した。そして全員が議事堂攻撃を望んだ。最初の標的の選定で、これ以外のものは無かった。
 ビン・ラディンは、すぐに自殺作戦に奉仕する4人の候補を選定した:ハリド・アル・ミダル、ナワフ・アル・ハズミ、ハラド、そしてアブ・バラ・アル・イエメニである。アルマタルでの会議のあいだ、ビン・ラディンはKSMにミダルとハズミは合衆国に対する作戦に非常に熱心で、すでに合衆国のビザを取得していると言った。KSMは、彼らの友人のアザーム(ナシリのいとこ)がナイロビ自爆を決行したあと、自発的にそうしたと言っている。KSMは彼らに会ったことは無かった。ビン・ラディンからの唯一の指示は、二人をやがてパイロット訓練のため合衆国に行かせるべきだというものだった。
 ハズミとミダルはサウジ国民で、メッカに生まれた。最初に選定されたグループの他の者と同様、二人はすでにムジャヒディンを経験していた。1995年に、ボスニアで戦うために、一つのグループとしてバルカンを旅していた。1999年初め、ハズミとミダルは、飛行機の操縦者に任命された時には、既に何回かアフガニスタンを訪れていた。
 ハラドは、彼の家族と同様、古参ムジャヒディンだった。彼の父親は、その過激主義的見解によって、イエメンから追放されていた。ハラドはサウジアラビアで成長した。その地で彼の父親はビン・ラディン、アブドラ・アザーム、オマル・アブデル・ラーマン(盲目のシャイフ)と知りあった。ハラドは1994年、15歳のとき、アフガニスタンに向けて旅立った。3年後、彼は右足の下部を北部同盟との戦闘で失い、同じ戦闘で、兄弟の一人が死んだ。この経験の後、彼はビン・ラディンに忠誠を誓った。彼には子供の頃、ジェッダで初めて会っていた。そして自殺工作員になることを志願した。
 しかし、ハラドが合衆国のビザを申請したとき、その申請は拒否された。1999年初めビン・ラディンはハラドをイエメンに送った。これは計画中のイエメンの作戦で、ナシリを手助けして船舶爆破用の爆発物を入手するためと、ハラド自身が合衆国での作戦に参加するためのビザを入手することが目的だった。ハラドは別の名前でビザを申請した。そのために、彼は新しい足の補助具を得るためメディカル・クリニックを訪れるという、隠蔽の物語をデッチ上げた。他のアルカイダ工作員は、ハラドに彼がビザ申請の時の連絡先として使えるよう、合衆国に住んでいる人物の名前を教えた。ハラドは、合衆国のクリニックの予約を得るため、この人物に連絡した。だが、クリニックからの予約確認の手紙を待っている間に、イエメン当局に逮捕された。この逮捕は、人物確認の誤りのためだった。ハラドが、イエメン当局のお尋ね者なっていた船舶爆破計画の陰謀者の車を運転していたせいだった。
 1999年夏の間に、ハラドの父親とビン・ラディンの仲介により、ハラドは釈放された。これは、彼が尋問中にナシリの作戦を明かすのではないかと心配したアルカイダのリーダーが、イエメン当局と接触して、もし彼らが邪魔だてしなければ、ビン・ラディンが彼等に立ち向かうことは無いとほのめかして、ハラドの釈放を要求した結果だ、と後になってハラドは知った。この件は、他者の証言によって裏付けられた。ハラドは、合衆国が彼とアルカイダとの結びつきに気付いたらしいことを懸念して、合衆国のビザ入手を諦め、アフガニスタンに帰った。
 このように旅行の問題は最初からアルカイダの作戦計画の一部となっていた。1999年の春から夏の間、KSMはイエメン人であるハラドとアブ・バラは、サウジ工作員のミダルやハズミのように簡単には合衆国のビザを得ることが出来ないことを悟った。ハラドは合衆国のビザを取ることが出来ずにいたが、KSMはなおハラドとアブ・バラが、さらには他のイエメン人工作員も同様に、ビン・ラディン保証の選抜工作隊員として、航空機作戦に参加することを望んでいた。サウジのパスポートを持つ個人は、イエメン人より簡単に、―特に合衆国に― 旅行できたが、イエメン人にはほとんど殉教の機会が無かった。この問題を克服するため、KSMは航空機作戦を二つに分ける事を決めた。
 1部の航空機計画 ―ハイジャックした飛行機を合衆国の目標に衝突させる― は計画として残し、ミダルとハズミが主役を演じる。しかし、第2部は、自爆工作員を使って、飛行機を爆破するアイデアを採用する。これはKSMの昔のマニラ飛行計画を洗練したものである。工作員は、東アジアを横断して太平洋ルートを飛行中の合衆国国籍の民間機をハイジャックし、標的に向けて飛行するのではなく、多分「靴爆弾」により空中で爆破する。(代わりのシナリオとして,飛行機を日本、シンガポール、韓国に存在する合衆国の標的に飛びこませる。原注)作戦のこの部分は、ハラドによって確認された。彼は、タイ、韓国,香港、マレーシアを出発地とする数機の飛行機をハイジャックすることを予想していたと言った。工作員は、単に飛行機を墜落させるだけでパイロット訓練を必要としないので、イエメン人を使う。合衆国と東アジアでハイジャックされた飛行機はすべて、攻撃の心理的衝撃を最大とするため、ほぼ同時刻に突入または爆破されることになっていた。
クアラルンプールでの訓練と動員  
 1999年秋、航空機作戦のためにビン・ラディンによって選ばれた4人の工作員は、アフガニスタンのメザイナク・キャンプのエリート訓練コースに出席することになった。ビン・ラディンは、自らこの訓練を受けるベテランの闘士を選んだ。彼らのうちの数人は重要な作戦に割り当てられた。一つの例はイブラヒム・アル・サワルであり、あるいはニブラスである。彼らは20001012日の合衆国艦艇「コール」の自殺攻撃に参加することになる。KSMによれば、これは航空機作戦や他のアルカイダの特定の計画準備のための特別訓練ではなかった。KSMは訓練に関与もしなかったし、将来の9/11ハイジャック工作員にメサイナクで会うこともなかったと主張しているが、カンダハルからカブールへの旅行中にビン・ラディンや他のメンバーたちと共にキャンプを訪れたことは有るといっている。
 メサイナク訓練キャンプは、カブール近くの廃棄されたロシアの銅鉱山跡にあった。このキャンプは、19988月コウスト近くの訓練キャンプを合衆国が巡航ミサイルによって破壊した後、またタリバンがアルカイダにカンダハルのアル・ファルーク・キャンプを許可する前の1999年に開設された。したがって、1999年のごく短期間、メサイナクはアフガニスタンで運営される唯一のアルカイダ・キャンプだった。
 それは古参のアルカイダ・メンバー、サイフ・アル・アドルの指導による上級戦闘員コースを含み、すべての範囲にわたる訓練を行っていた。ビン・ラディンは、1999年の訓練期間に特別の注意を払った。この学期のトレーナーであったサラー・アル・ディンが、20人以上は一度に扱えないと言って受講性の人数に不平を言った時、ビン・ラディンは、自分が選んだすべての者に訓練を受けさせろと言い張った。
 メザイナクでの特別訓練の授業は、厳しくまた出費を惜しまないものだった。コースは、肉体訓練,火器、接近戦、バイクからの射撃、および夜間戦闘などに重点を置いていた。教えられる科目は、他のキャンプとほとんど差がなかったが、ここでのコースは、その参加者に特別の身体的、精神的要求を課した。彼等にはその強さと士気の向上のため、最良の食事と他とは異なった快適な環境が与えられた。
 メザイナクでの上級訓練完了後、ハズミ、ハラドおよびアブ・バラはパキスタンのカラチに行った。ここでKSMは彼らに、西側の文化と旅行について教えた。1999年半ばの彼の活動の多くは、航空機作戦参加者の訓練と情報資料の収集を軸に回転した。例えば、彼は西側の航空雑誌;アメリカの大都市の電話番号簿 ―カリフォルニア州のサンディエゴやロングビーチなど;学校の小冊子;航空路線の時刻表などを集めた。さらに彼は合衆国の飛行学校のインターネット検索も行った。彼はまたフライト・シミュレーターのソフトやハイジャックをテーマにした数本の映画ビデオなどを購入した。KSMは、彼の学生の宿泊のため、ビン・ラディンから提供された金でカラチに隠れ家を借りた。
 199912月初め、ハラドとアブ・バラはカラチに到着した。数日後、ハズミが彼らに合流した。ハズミは、カラチへの道でクエッタの隠れ家に一泊した。KSMによれば、モハメド・アタというエジプト人が、ジハード訓練のためにアフガニスタンへ向かう途中で同泊したそうだ。
 ミダルはカラチでの訓練に、皆と一緒には出席しなかった。KSM1999年にミダルに会わなかったが、ビン・ラディンとアテフがミダルに航空機作戦の概要を説明し、彼をカラチの訓練から免除したと推測している。
 カラチのコースは、12週間で終わったらしい。KSMによると、彼は三人の工作員に、基礎的な英単語とフレーズを教えた。彼は電話番号簿の読み方、航空便の時刻表の見方、インターネットや通信時の暗号の使い方、旅行の際の予約の仕方、アパートの借り方などを教えた。ハラドは訓練にはこれ以外にもフライト・シミュレーターのコンピューター・ゲームをしたり、ハイジャックの映画を視たり、世界各地で同時刻に飛行中の便はどれとどれかを決めるためフライト・スケジュールを読んだりすることなども含まれたと追加した。彼らは飛行機の型式と機能をもっとよく知り、客室の保安に付け入る隙を見つけるため、ゲームソフトを用いたりもした。カラチにいる間に、東南アジアでの飛行の下調べをどのように行うかを話し合った。KSMは、離着陸時の操縦室のドアを注視し、フライト中にキャプテンがトイレに行くかどうか、フライト・アテンダントが食事を操縦席に持って行くかどうかを観察するよう彼らに教えた。KSM,ハラド、ハズミたちは、アジア諸国へ行くには、ビザの申請が必要かどうかを聞きに旅行社を訪れた。
 4人の受講者たちはクアラルンプール(マレーシア)に旅行した。ハラド、アブ・バラとハズミはカラチから、ミダルはイエメンからやって来た。第6章でとりあげるように、合衆国の情報機関はミダルに関係する通信を分析して、この旅のあいだ、ミダルを認定していた。ハズミについても、やろうと思えば出来たはずだが、認定せずにいた。
 KSMによれば、4人の工作員は、彼らが合衆国かアジアのどちらかでの自殺作戦に志願したことを自覚していた。演じる役割も、果たすべき仕事も異なっていた。ハズミとミダルは最終目的地である合衆国に行く前に、クアラルンプールに送られた。KSMによれば、彼らはマレーシアに飛ぶのにイエメンの旅券を使い、そこからはサウジの旅券で合衆国に飛んだ。彼らのパキスタンへ行き来した前歴を隠すためである。KSMはハズミのサウジの旅券を、サウジアラビアからドバイ経由でクアラルンプールに旅行したように改ざんした。ハラドとアブ・バラは、空港の警備の下調べと調査飛行を兼ねて、クアラルンプールに行った。ハラドによれば、彼とアブ・バラは199912月中ごろ、マレーシアに向け出発した。ハズミは旅券の発行を待つため短期間アフガニスタンに帰ったのち、約十日後に彼らに合流した。
 ハラドは、エンドライトと呼ばれるクアラルンプールのクリニックで新しい義足を受け取るため、独自の小旅行のスケジュールを作っていた。そしてビン・ラディンは、彼にこの機会を、調査飛行に利用するよう勧めていた。ハラドによれば、マレーシアは理想的な目的地だった。なぜなら、その政府はサウジアラビアとその他の湾岸諸国の市民に対して、ビザを要求していなかったからである。マレーシアのセキュリティーはイスラム主義のジハード戦士に対して、厳しくないことで有名だった。また、聞くところでは、戦闘で負傷したムジャヒディンはエンドライト・クリニックで治療を受け、その傷を詮索されない。ハラドは義足の金を、彼の父親やビン・ラディンその他のアルカイダの仲間から得たと言っていた。
 ハラドによれば、彼とアブ・バラはクアラルンプールに着いて、宿泊場所を知るためハンバリと接触した。東南アジアのアルカイダの活動状況を絶えず知っておくように言われていたからだ。ハンバリは、ハラドとアブ・バラを車に乗せて自宅に連れて行き、アラビア語をうまく話す仲間の助けを求めた。ハンバリはそれから彼らをクリニックに連れて行った。
  1231日、ハラドはクアラルンプールからバンコック[タイ]に飛び、次の日、合衆国の航空便に乗って香港に飛んだ。彼はファーストクラスで飛んだが、失敗したことに気付いた。と言うのは、その指定席からは、コックピットを見る事が出来なかったのだ。彼はこの調査フライトで、自分に出来る限りの保安テストを実行したと主張している。カッターナイフを洗面用品キットに入れて香港行きに乗り、次の日、ハラドはバンコックに帰った。空港で保安職員は彼の機内持込み手荷物を調べ、洗面キットを開けさせたが、中身をちょっと見ただけで彼を通過させた。飛行中にハラドは大部分のファーストクラスの乗客が居眠りをするまで待ち、立ち上がって、持ち込みバッグから洗面キットを取り出した。フライト・アテンダントの誰一人、気付く者はいなかった。
 ハラドは調査の任務を完了して、クアラルンプールに帰った。ハズミはその直後にクアラルンプールに到着し、おそらく短期間、ハラドおよびアブ・バラと共にエンドライトに泊まった。ミダルは15日、多分ハズミの1日後に到着した。4人の工作員は全員、ヤジド・スファトのアパートに滞在した。スファトはJIのメンバーで、ハンバリに頼まれて彼の家を提供していた。ハラドによれば、彼とハズミは、飛行機をハイジャックし、それを衝突させるか、乗客を人質とする可能性について話し合ったが、それは単に思いつき程度の話だった。ハラドはその時、自分たち二人が合衆国内で飛行機に係る作戦に巻き込まれていることに気付いていたが、計画の細部については、知らなかったと言っている。
 クアラルンプールにいる間に、ハラドはシンガポールに行き、ナシリの船舶爆破の工作員、ニブラスとファド・アル・クソに会いたいと思った。合衆国艦艇「サリバン」攻撃の試みは、ちょうど23日前に失敗していた。ニブラスとクソは、イエメンからハラドに金を持って来ていた。だが、シンガポールのビザを持っていなかったので、バンコックで足止めをくらっていた。ハラドもまた、シンガポールに入る事ができなかったので、バンコックで会うことにし、ハズミとミダルも同様にそこに行くことにした。おそらく、タイのようなありきたりの観光地の旅券スタンプを入手すれば、ごく一般の旅行者だという隠れ蓑になる、と考えたからだろう。ハンバリの手助けで、三人はバンコックへの航空便のチケットを得て、一緒にクアラルンプールを去った。アブ・バラはパキスタンに帰るためのビザを持っていなかったので、代わりにイエメンへ行った。
 バンコックでハラドは、ハズミ、ミダルをあるホテルに連れて行き、その後、船舶攻撃計画の相談のため、別のホテルに行った。ハズミとミダルもすぐに同じホテルに行ったが、2組の工作員が互いに顔を合わせたり、また他の誰とも会ったりはしなかったとハラドは言い張っている。船舶爆破の工作員と話し合ったあと[彼等が持ってきた資金を受け取って]ハラドはカラチを経てカンダハルに帰り、ビン・ラディンに調査任務の報告を行った。
 2000年春、ビン・ラディンは航空機作戦の東アジア部分[第二部]をキャンセルした。この攻撃を合衆国内の作戦と同調させるのは、あまりにも困難だと考えて決めたのだろう。ハズミとミダルはと言えば、ハラドの出発より23日前にバンコックを去り、2000115日、ロサンゼルスに到着した。
 一方、航空機作戦に充当されるアルカイダ工作員の次のグループがアフガニスタンで出現してきた。ハズミとミダルがアジアから合衆国に配置されたので、アルカイダの指導部は、西側で教育を受け、最近カンダハルに到着した4名を徴募し、訓練していた。彼らは異なる四か国、エジプト、アラブ首長国連邦、レバノン、イエメンの出身だったが、ドイツ、ハンブルクの学生として、結束の固いグループを作っていた。新しい応募者は、チェチェンの聖戦に参加する意欲に燃えて、アフガニスタンにやって来た。だが、アルカイダは彼らの能力を直ちに認め、反合衆国聖戦にリストアップした。 

                                        目次へ
5・3 ハンブルク分隊  原文p.160
 当初、ビン・ラディン、アテフ、KSMは航空機作戦の実行に生え抜きのアルカイダ・メンバーを使うことを考えていた。だが、1999年遅く、ドイツからの4人の熱心なジハード戦士がカンダハルにやってきたことで、不意に別の、さらに魅力的な案が浮かんできた。ハンブルク・グループのこの作戦に対する情熱は、他の候補たちに劣らないだけでなく、4人ともドイツで暮らしていたので西側での生活になじみ、英語に堪能だという点で優位に立っていた。モハメド・アタ、ラムジ・ビナルシブ、マルワン・アル・シェヒ、ジアド・ジャラーたち全員が、9/11陰謀の中心的プレーヤーとなったのも驚くには当たらない。 
モハメド・アタ  
 モハメド・アタは196891日、エジプトのカフ・エルシェイクで、弁護士だった父親を長とする中流の家庭に生まれた。1990年、建築技師の学位を得てカイロ大学を卒業したのち、カイロで都市計画家として23年働いた。1991年秋、彼はカイロで会ったドイツ人家族に、ドイツで勉強を続ける援助をしてくれないかと頼んだ。彼らは、アタにハンブルクに来るよう言い、少なくとも最初はそこで彼らと共に住むよう招待した。ドイツ語コース終了後、19927月、彼は初めてドイツに旅した。シュツットガルトに短期間住んだのち、1992年秋、ホストファミリーと共に住むため、ハンブルクに移った。ハンブルク大学に入学したのち、さっさとハンブルク―ハールブルク工科大学の都市工学・計画コースに移籍していた。そこに彼は1999年秋まで学生として登録を残した。彼は勉強に、かなりまじめに取組んでいたように見える。(少なくとも、彼の仲間のジハード派の友人と比べて)そして実際に、アフガニスタンに旅行する少し前に学位を得ている。アタはドイツ語を自由にあやつり、非常に知的で、適度に陽気に見えた。
 アタがドイツに来たとき、信心深そうではあったが熱狂的というわけではなかった。だが、特に彼の指導力を発揮する傾向が次第に強まって来るにつれ、変化が見られた。ビナルシブによれば、早くも1995年には、アタはハンブルクでムスリム学生の会を組織しようと試みた。1997年秋、彼はハンブルクのクズ・モスクの作業グループに参加した。このグループは、ムスリムとクリスチャンの間に橋をかけようとしていた。しかし、アタの橋は、その人柄が次第に教条的で感じの悪いものになって来たせいで、貧弱なものとなった。それでも、彼と信仰を共にする者たちの間では、アタは決定権者として突出していた。この時期のアタの友人は、彼を、カリスマ的で、知的で、説得力が有ったが、見解を異とする相手に対しては容赦しなかったと記憶している。 
 他の学生とのやり取りの中で、アタは悪しざまに、反セム[反ユダヤ]、反アメリカの意見を表明した。それは、彼が世界ユダヤ運動と呼び、ニューヨークを中心に財界とメディアを支配しているかに見えるものに対する非難から、アラブ世界の政権に対する反論にまで及んだ。彼に言わせれば、サダム・フセインは、ワシントンに中東干渉の口実を与える存在で、アメリカの手先である。彼のサークルの中で、アタは激しくジハードを主張した。彼は、そのグループに近い人物に「信仰のために戦う覚悟」があるかを尋ね、その人物が否定すると、ジハードに対する熱意が弱すぎると言って、追い払ったといわれる。1998年にエジプトの実家を訪ねたとき、彼は学生時代の友人の一人に会った。この友人によれば、アタは見違えるようになっており、あごひげを生やし、その時点で「明らかに原理主義的雰囲気を身につけていた」

ラムジ・ビナルシブ  
 ラムジ・ビナルシブは、197251日、イエメンのガイル・バワジルに生まれた。その家族や初期の背景にはなんら際立ったものはない。イエメンの彼を知っている友人は、彼を「信心深かったが、度がすぎるほどでない」と記憶している。1987年から1995年まで、ビナルシブはイエメン国際銀行の事務員として働いていた。1995年、彼は初めてイエメンを離れようとして、合衆国のビザを申請したが拒否された。そこで彼はドイツに行き、スーダン人、ラムジ・オマルの名前で亡命を申請した。スーダン市民であれば、亡命を要求できた。亡命申請が保留となっていた間、彼はハンブルクに住み、その地の幾つかのモスクで、何人かの知り合いを作った。1997年、彼の亡命申請が拒否されたのち、ビナルシブは母国イエメンに帰ったが、すぐに今度は本名でドイツに戻った。この時は、ハンブルクで学生として登録した。ビナルシブはしばしば学業面の問題を起こした。試験に落ち、クラスを無断欠席し、1998年秋にはある学校から退学処分をくらった。
 ビナルシブによれば、彼とアタは、1995年に初めてハンブルクのモスクで会った。彼らは親友となり、二人ともいかにも原理主義者然とした外見をしていたので、すぐそれと見分けがついた。アタと同様、1990年代末、ビナルシブは彼が「ユダヤの世界的謀略」と感じたものを非難していた。彼は、全ムスリムの最大の義務はジハードの追求であり、ジハードの中で死ぬ事は最高の名誉だと公言していた。だが、その修辞的な弁論に係わらず、ビナルシブは厳格なアタに比べると、ずっと親しみやすい人柄で、仲間内では、社交的、外向的で、礼儀正しく、大胆だとして知られていた。 1998年、ビナルシブとアタはハンブルクのハーブルグ地区のアパートのシェア(共用)を始めた。アラブ首長国連邦からの若い学生、マルワン・アル・シェヒも一緒だった。
マルワン・アル・シェヒ 
 マルワン・アル・シェヒは、197859日、アラブ首長国連邦のラス・アルハイマに生まれた。父親は1997年に死んだが、地方モスクの祈祷指導者だった。1995年に高校を卒業したのち、シェヒは首長国軍に加入し、半年の基礎訓練を受けた。その後、軍の奨学金プログラムの認可を得て、ドイツで勉学を続けた。
 シェヒは19964月、初めてドイツに入った。他の3人の奨学生と2か月の間,ボンでアパートを借りてシェアした。それからドイツ人家庭に同居し、自分のアパートに引越すまでの数か月を彼らと共に過ごした。この期間、彼はたいへん宗教的に過ごし、一日に5回祈りを捧げた。友人たちは彼を、西側の衣服をまとい、時には車を借りてベルリンやフランス、オランダなどに小旅行する、陽気で「まっとうな奴」として記憶している。
 学生としては、シェヒはあまり優秀とは言い難かった。ドイツ語のコースを終えた後、彼はボン大学の工学、数学、および科学の学部に登録した。19976月、彼は母国での明記できない、ある「問題」に対処するため、休学を申請した。大学はこの要請を拒否したが、それでもシェヒは休学したため、学期を一学期からやり直さなければならなかった。この時期、学習上の困難に加えて、シェヒは彼の信仰の実践に、より極端になったように見える。たとえば、料理にアルコールを使ったり、出したりするレストランを明らかに避けた。1997年後半、彼はハンブルク大でコース学習を完了したいと許可を求めた。これは、明らかにアタやビナルシブと結び付きたいという願望がその動機となっていた。彼ら3人がどのように、いつ初めて会ったかは、いまだにはっきりしない。しかし1998年初め、シェヒがハンブルクに再移転したとき、彼らはすでに互いに知っているように見えた。アタとビナルシブは、4月に彼のアパートに移った。
 ハンブルクへの移転したものの、シェヒの学業が向上したわけでは無かった。彼は首長国大使館の奨学金プログラム管理官に、19988月から始まる彼の第2学期を繰り返すように、ただしボン大学に戻って、と指示されていた。シェヒは、初めこの管理官をばかにしていた。そしてボンの大学に次の1月まで登録をしなかったが、かろうじてそこでのコースにパスした。19997月の終わりに、彼はハンブルクに帰り、工科大学で造船を学ぶ申請をした。そしてさらに重要なことは、再びマリエン通り、54番地で、アタやビナルシブと住むようになったことである。
 アタやビナルシブと一緒になって以後、シェヒのイスラム原理主義への傾倒はより顕著になってきた。ハンブルクに来て、シェヒを訪れた首長国の学生仲間は、彼がもはや以前のように気楽に生活していないことに気付いた。シェヒは古いアパートをルームメイトと共に使い、テレビもなく、安物の服を着ていた。なぜ彼はそんなにつつましく暮らしているのかと問われて、シェヒは「預言者」が生きた道を生きているのだと言った。同じように、誰かが、なぜ彼とアタは全く笑わないのかと尋ねたとき、「パレスチナで人々が死んでいるとき、どうしてあなたは笑うことが出来るのか?」と言い返した。
ジアド・ジャラー  
 1975511日、レバノンのマズラで生まれたジアド・ジャラーは裕福な家族の出で、私立のクリスチャン学校に通っていた。アタやビナルシブ、シェヒと同様、ジャラーはドイツで高い教育を受けたいと思った。19964月、彼といとこは北東ドイツにあるグライフスワルドの短期大学に入学した。そこでジャラーはアイセル・センゲンに会い、親しくなった。彼女はトルコ移民の娘で、歯科医になる勉強をしていた。
 後知恵の有利さをもってしても、ジャラーは、まるでイスラム過激主義者になりそうには見えなかった。初めてドイツに来た頃は、過激な信仰からは程遠く、ベイルートの何処に最上のディスコや海岸があるか知っているという評判と共にやってきて、グライフスワルドでは学生パーティーを楽しみ、ビールを飲んでいた。ジャラーはグライフスワルドでは、いとことアパートのシェアを続けていたが、ほとんどセンゲンのアパートにいた。だが、9/11以後ドイツ当局にインタビューされた証人は、1996年の末には、早くもジャラーは過激化の兆候をみせ始めたと回想している。レバノンの実家への小旅行から帰ったのち、ジャラーはより厳格にコーランに従った生活を始めた。アラビア語で書かれたジハードについての小冊子を読み、友人との話題にしきりに聖戦を取り上げた。そして自分のこれまでの生活を嫌悪し「自然な死に方」でこの世を去りたくないと、胸の内を語った。19979月、ジャラーは、ハンブルク工科大学の勉学予定コースを、突然、歯科医から航空工学に切り替えた。彼のこの決定の動機には不明確なものが残る。彼がセンゲンにした説明―子供の頃、飛行機の玩具で遊んで以来、航空に興味を持っていた― は、何かうつろに響く。ともかく、この頃には、すでにハンブルクで連絡員との接触が出来ていて、その誰かに会うために、どの行事にも現れた。そのうちの誰かが、彼をイスラム過激派に舵を切らせたのかもしれない。
その秋、ハンブルク移転すると、彼は週末にグライフスワルドのセンゲンを訪れるようになり、彼女がドイツの都市ボッフムの歯科学校に一年後に入学するまで続いた。同じ頃、彼は宗教について語ることが多くなり、センゲン訪問が次第に少なくなった。そして、彼女が信仰心にそれほど厚くなく、衣服が刺激的過ぎると文句を言い始めた。彼は完全にひげを生やし、定期的に礼拝するようになった。彼女をハンブルクの友人に紹介したくない、友人たちは信仰厚いムスリムだからと言い、もっと戒律を守るようになれと言う彼の言葉を拒否されると、当惑したように見えた。1999年のいつか、ジャラーはセンゲンに、聖戦に身を投じるつもりだ、アラーのために死ぬほど名誉なことは無いと言った。ジャラーの変化は、多くの口喧嘩を起こしたが、二人は決裂のあとで必ず和解した。 


細胞の結成  
 ハンブルクで、ジャラーはたびたび転居したが、将来の共謀者と同居することは1度もなかったようだ。彼が、いつどのようにしてアタのサークルの一員となったのかは明らかでない。1997年後半から、ハンブルクのクズ・モスクに定期的に通い始め、そこで出会ったビナルシブと特に親しくなっていた。そのモスクの礼拝指導者(worshipper)は、激しく、率直な物言いで知られるイスラム主義者で、モハンムド・ハイダル・ザマールと言った。ムスリム社会では良く知られた(そして1990年代後半には、ドイツと合衆国の情報機関にも知られた)人物で、アフガニスタンで戦っており、機会があれば激しいジハードの徳を讃えることを楽しみにしていた。実際、ある証人は、ザマールがビナルシブにジハードを戦い、彼の義務を果たすよう、しきりに勧めるのを聞いたと報告している。9/11の後、ザマールはビナルシブだけでなく、残りのハンブルク・グループにも影響を与えていたと報告されている。1988年、ザマールは彼らをジハードに参加するよう励まし、さらにアフガニスタンに行くよう説得していた。 
 ザマールの説得か、ほかに何らかのインスピレーションを受けて、アタ、ビナルシブ、シェヒ、ジャラーは、ついに彼らの極端な信心を行動に変える準備をした。1999年末には、激しいジハードのために、ドイツでの学生生活を捨てる覚悟ができていた。彼らがイスラム過激主義を受け入れるまでになった最終段階では、周囲の人々の注意を完全に免れた筈はなかった。四人組は、過激派ムスリムの中核メンバーとなり、マリエン通りのアパートでたびたび会合を持ち、極端な反米討論を行った。週に34回集まっているうちに、そのグループは「セクト[分派]」めいたものになり、参加者の一人によれば、自分たちだけで取決めをする排他的な傾向を帯びていた。アタのアパートの借用小切手は、アパートがグループのセンターだったと見なされる重要な証拠となる。彼は小切手の上に「信者の家」(ダル・エル・アンサール)と書いたからだ。
 アタ、ビナルシブ、シェヒ、ジャラー以外にも、このグループは他の過激主義者を含んでおり、そのうちの幾人かはアルカイダの訓練キャンプに参加し、ある場合には9/11ハイジャッカーが計画を実行するのに手を貸すことになる。
・ザイド・バハジは、モロッコ移民の息子で、グループで唯一のドイツ市民だった。モロッコで教育をうけたのち、ハ ンブルク-ハールブルグ工科大学で電気工学を学ぶために、ドイツに帰って、医療除隊となるまで、ドイツ陸軍で5 か月をすごした。そしてマリエン街54番地に、199811月から19997月まで8か月間、アタ、ビナルシブと共に住 んだ。個性のない、またイスラムの知識も限られた不安定な信奉者と見られていたが、それにも拘らずバハジはいつ でも暴力行為に加担すると公言していた。アタとビナルシブは、バハジのコンピュータをインターネット検索に使った。 9/11後に、ドイツ当局によって文書とディスケットは証拠として押収された。
・ザカリヤ・エッサバルはモロッコ市民で、19972月にドイツに移住し、1998年にハンブルクに移って、そこで医療 工学を学んだ。ハンブルクに移住直後、エッサバルはビナルシブとその他の者に、トルコ人モスクを通じて出会った 。エサッサバルはかなり不意に、おそらく1999年に過激主義者となった。そして、報告されるところでは、知人の 一人に、暴力に訴えて、もっと信心深くなれ、ひげを生やせ、妻をイスラム教徒に改宗させろと迫ったという。エッ サバルの両親は、息子のこうしたライフスタイルを変えさせようと度々試みたが、効果は無かったと言われている。 9/11攻撃直前、彼は攻撃の日をアルカイダの指導者に伝えるため、アフガニスタンに旅行している。
・ムニル・エル・モタサディクはもう一人のモロッコ人で、1993年にドイツに来た。二年後に工科大学で電気工学を 学ぶため、ハンブルクに移住した。ある証人は、信仰心の命令とあらば、家族を皆殺しにすることも辞さない、と彼 が言ったことを覚えている。モタサディクの同室者の一人は、彼がヒトラーを「良い男」といったこと、ビン・ラデ ィンの演説を含む映画会を企画したことなどを思い出した。モタサディクは、1999年遅く、ハンブルク・グループ のアフガニスタン旅行を隠す手助けをした。
・アブデルハニ・ムゾディもモロッコ人で、1993年夏、物理と化学の大学コースを完了したのち、ドイツにやってき た。ムゾディは1995年にハンブルクに移る前、ドルトムント、ボッフムおよびムエンスターで学んだ。ムゾディは モロッコの家にいたときは信仰に薄いムスリムだったが、ハンブルクに帰った時にはずっと熱心な信者になっていた と、自分自身について語っている。19964月、ムゾディとモタサディクは、アタの遺言書作成の立会人となった。 

 1999年の間、アタと彼のグループはより極端で秘密主義となり、話の内容を隠すためにアラビア語のみで会話するようになった。その年遅く、ハンブルク細胞の4人のメンバーがドイツを去ってアフガニスタンに向かった時、彼らがすでに航空機作戦について知っていたようには見えなかった。また、それ以前に彼らをアルカイダに結びつける証拠はない。しかし証人たちは、彼らの見解は合衆国に対して何かの行動をとるというはっきりした傾向が認められたと証言した。要するに、彼らはビン・ラディン、アテフ、KSMの書いた筋書きにぴったりだったのだ。
 
 
アフガニスタン行き
 信用できる証拠から、1999年、アタ、ビナルシブ、シェヒ、およびジャラーはチェチェンでロシアに対して戦うと決めていた事が判る。ビナルシブによると、彼らはドイツでたまたま同じ列車に乗り合わせたが、偶然のきっかけで、アフガニスタンに行き先を変更することになった。ある集会でハラド・アル・マルシという人物が、ビナルシブとシェヒに近づき(髭を蓄えたアラブ人だからだとビナルシブは考えている)チェチェンでのジハードについて話しかけて来た。後にビナルシブがマルシに電話して、チェチェンに行く事に関心があると言ったとき、彼はドイツのデュイスブルクにいるアブ・ムサブに接触しろと言った。アブ・ムサブとはモハメドウ・オウルド・スラヒであることが判った。彼は重要なアルカイダ工作員で、当時でさえ、合衆国とドイツの情報当局に良く知られていた。しかし両政府とも1999年末に彼がドイツで活動していた事は知らなかったようだ。ビナルシブとシェヒの電話を受けたとき、スラヒはこれらの有望な新兵候補にデュイスブルクに来るように招いたと言われる。 
 ビナルシブ、シェヒ、およびジャラーは、それに応じた。彼らが到着したとき、スラヒは、多くの旅行者がジョージアで足止めされており、今チェチェンに行く事は難しいと説明した。、かわりに、アフガニスタンに行った方が良い、そうすればチェチェンに行く前に、聖戦の訓練が受けられる、と薦めた。そして、パキスタンのビザの取り方を教え、ビザをとったらもう一度ここへ戻ってこい、アフガニスタンへの行き方を詳しく教えるから、と言った。アタはこの会合に出なかったが、他の三人のこの計画に加わった。必要なビザ取得後、彼らは、まずカラチへ行き、さらにクエッタに行って、そこでタリバンのウマル・アル・マスリという人物と接触しろというスラヒの最終的指示を受けた。 
 スラヒの助言に従い、アタとジャラーは199911月の最後の週に、ハンブルクを去り、カラチに向かった。シェヒもほぼ同じ頃、アフガニスタンに向かった。ビナルシブは約2週間後だった。ビナルシブは、クエッタのタリバン事務所に着いた時、そこにウマル・アル・マスリという人物はいなかった。明らかにその名前は暗号だった。事務所にいたアフガン人グループが直ちに彼をカンダハルに連れて行き、ビナルシブはアタとジャラーに再会した。彼らはすでにビン・ラディンに忠誠を誓っており、彼にもそうするよう促した。彼らはまた、シェヒもすでに同じ誓いを立て、任務の準備ため、アラブ首長国連邦に向けて出発したと言った。ビナルシブはその直後、個人的にビン・ラディンに会い、アルカイダのリーダーの招きに応じて、彼の下で働くことになった。そしてハンブルク大学の仲間の誓いに、彼自身の誓いを付け加えた。この頃までに、殉教作戦に志願する気持ちは固まっていたと思う、とビナルシブは断言した。
 アタ、ジャラー、ビナルシブはアテフに会った。アテフは、彼らに極秘の任務を遂行しようとしているのだと言った。ビナルシブによれば、アテフは三人にドイツに帰り、飛行訓練に従事するよう指示したという。ビン・ラディンがこのグループのリーダーに選んだアタ は、追加の指示を受けるため数回ビン・ラディンと会った。指示には標的として合意された第一次リストも含まれていた:ワールド・トレードセンター、ペンタゴン、合衆国議事堂(キャピトル)であった。ラビア・アル・マッキ(ナワフ・アルハズミ)として知られる新人もこの作戦に加わった。
 思い返すと、アタ、シェヒ、ジャラーおよびビナルシブが9/11陰謀の中核メンバーとなった速さは、 ―アタが作戦のリーダーに割当てられた事と共に― 目覚しいものだった。こうした事すべてが起きたとき、彼らはまだKSMに会っていなかった。したがって、ビン・ラディンとアテフがこの作戦に大きな責任があった事は明らかである。これらの候補が、訓練キャンプでの、あるいは作戦での広範囲なテストを受ける前に、 素早く選定されたというのは、ビン・ラディンとアテフが、おそらく彼らの選んだ最初のチーム、ハズミとミダルの欠点にすでに気付いていたことを示している。ドイツからの新しい戦士は、技術的能力と知識の理想的な組み合わせを持っていた。それは、従前の9/11工作員 ―ベテランの戦士ではあったが― には欠けていたものだった。ビン・ラディンとアテフは、時を失することなく、これまでにアルカイダが計画した中で、最も野心的な作戦にハンブルク・グループを起用した。 

 ビン・ラディンとアテフは、アタがこの作戦の戦術的指揮官として、最も適任であるとはっきり判断していた。こんなに早く重大な決断を下したのは、彼らがいくつかの先立つ会合で、すでにアタの力量を理解していたからではないかと推測される。確かに、それ以前の何年かについて、アタの所在の記録にはいくらかの間隙が有る。その一つは、1998年の2月から3月にかけてで、この期間、彼がドイツにいた証拠はない。ひょっとすると、彼はアフガニスタンにいたのかもしれない。しかし、今のところ、KSMやビナルシブだけでなく、9/11陰謀について尋問された他のアルカイダの誰ひとり、アタや他のハンブルクのメンバーで、1999年末以前にアフガニスタンに来たものはいないと述べている。
 4人のハンブルク細胞の中核メンバーがアフガニスタンにいた間、ハンブルクに残った彼らの仲間は、彼らの旅行の秘密が保たれるよう、彼らの日常の仕事に対処していた。モタサディクは最も働いたように見える。彼はシェヒのアパートの借用を終わりにし、家主には家庭の事情でシェヒはUAEに帰ったと話した。そして、シェヒの銀行口座から請求を支払うために、弁護士を頼んだ。モタサディクも、ジャラーの不在の間、アイセル・センゲンの面倒を見ることで、彼のために役立った。サイド・バハジはアタとビナルシブのために日常の仕事を引き受け、彼らが海外にいる間、その不在が気付かれないようにした。
作戦準備 
 2000年初め、アタ、ジャラー、ビナルシブはハンブルクに帰った。ジャラーがまず2000131日に到着した。ビナルシブによると、彼とアタは共にカンダハルを去ってまずカラチに向かい、そこでKSMに会った。そして、彼から合衆国での安全確保や生活上の指示を受けた。シェヒは、明らかにUAEに帰る前にKSMに会っていた。アタは2月末にハンブルクに帰り、ビナルシブは少し遅れて到着した。シェヒはUAE(そこで彼は、新しいパスポートと合衆国のビザを得た。原注)、サウジアラビア、バーレーンその他一、二の目的地に旅行をした。シェヒも多分3月にドイツに帰った。
 アフガニスタンを離れたのち、ハイジャッカーたちは過激と見られないように努力した。ハンブルクに帰ってからは、彼らはザマールのような目だった過激主義者からは距離を置いた。ザマールが、当局の望ましくない注意を惹いていたことは、十分承知していた。彼らはまたその外見と行動も変えた。アタは西側の衣服をまとい、髭をそり、もはや過激主義のモスクには出席しなくなった。ジャラーもまた、もはや顔全体を髭で覆うことはせず、センゲンによれば、彼女が最初に彼に会ったときのように振舞った。シェヒがまだUAEにいた20001月、遅ればせの結婚式をしたとき(彼は、実際は1999年に結婚していた)彼の友人の一人は、彼が髭をそり落とし、昔の彼のように振舞っているのを見て驚かされた。
 しかし、ジャラーの過激でないように見せようとする努力も、その変貌をレバノンの家族から完全に隠しおおせはしなかった。家族は、彼がますます狂信的になったのを心配した。ジャラーがドイツに帰ってすぐ、彼の父親は、子供の頃からの親しい友人だったジャラーのいとこに、とりなしを頼んだ。ジャラーを「彼がたどっている道」から離れるよう説得しようという、いとこの努力は空しく終わった。しかし、ジャラーは自分の家族と前にもまして密接な関係をもち、センゲンとも親密な関係を保っている点で、他のハイジャッカーとは明らかに異なっていた。このようなつながりは、第7章で論じるように、2001年夏のような、ぎりぎりの時点で、なお陰謀の遂行について、いくらかの疑念を彼の心に抱かせたかもしれない。
 アフガニスタンを離れてから、4人は飛行学校と飛行訓練のリサーチを始めた。20001月初め、アリ・アブドラ・アジズ・アリ UAEに住むKSMの甥で、陰謀の重要な進行役となる― は、シャヒのクレジットカードを使って、ボーイング747-400のシミュレーター・プログラムとボーイング767の操縦室ビデオ、客室乗務員の手引書などを注文し、アリはこれらを彼の雇用主の住所宛に出荷させた。ジャラーは、間もなくドイツの学校では満足出来ず、合衆国で飛行を学ぶべきだと決めた。ビナルシブもヨーロッパで飛行学校を探し、オランダの飛行学校の校長に会った。彼は、授業料が少なく必要な訓練期間も短い合衆国の飛行学校を推薦した。
 20003月、アタは、異なるアラブの国からドイツに留学していて、初歩的訓練に欠けるが、合衆国で飛行を学びたいと考えている小さなグループの代表として、合衆国の31の異なる飛行学校に電子メールを送った。そして、訓練の費用、融資の可能性、宿泊施設などについての情報を要求した。
 合衆国の入国ビザを得ようとする前に、アタ、シャヒ、ジャラーは、新しいパスポートを得た。各々、古いパスポートは無くしたと言った。おそらく彼らは、古いパスポートの中のパキスタンのビザが、アフガニスタン旅行の疑いを生じるかも知れないと心配したものと思われる。シェヒは彼のビザを2000118日に得た;アタは518日;ジャラーは525日だった。ビナルシブのビザ請求は、拒否された。以後3回、申請したが、どれも結果は同じだった。ビナルシブがビザを得ることは、不可能なことが証明された。イエメンからのビザの申請 ―特に若い男の外国での申請(ビナルシブは最初ベルリンで申請した)― は、 合衆国で仕事を探している入国書類を持たない外国人の集団と同格に扱われると言う、一般的な疑惑の犠牲者となったのだ。9/11以前には、申請者がテロリスト監視リストに無ければ、セキュリティー上の懸念はビザ発行の主な要因では無かった。そして4人の男たちの誰も、リストに載ってはいなかった。ビナルシブが合衆国に入国し、移民を目論んでいるのではないか、という懸念によって、9/11攻撃に直接関与する機会は失われた。彼は背後にとどまらざるを得なかったが、以後も共謀者たちに、国外から作戦遂行に不可欠な支援を与えることになる。
 またしても、旅行書類の欠如がアルカイダの計画に影響した。
 旅行 
 いまやアルカイダのように遠くまで旅行するテロリスト組織が計画を実行する上で、旅行がいかに重要なことかが明らかになった。この陰謀の筋書では、何十もの国際的な旅行が関わってくる。作戦は、その基礎となる交流と、資金の移動のためにも旅行を必要とする。電子的通信が危険と見られるところでは、アルカイダの連絡員への依存度はさらに大きくなった。
 KSMとアブ・ズバイダは、それぞれアルカイダの工作員の旅行の便宜をはかる重大な役割を担っていた。さらにアルカイダは、その安全委員会の下に、パスポートと、受け入れ国発行書類のための事務所がカンダハル空港にあり、アテフによって運営されていた。その委員会では、パスポート、ビザ、IDカードを含むさまざまな書類の変造を行なっていた。
 さらに、特定のアルカイダ・メンバーは、不正な書類の流通ルートを維持するため、パスポート収集計画の組織化を命じられていた。そのため、ジハード戦士はアフガニスタンの前線に行く前に、アルカイダによってパスポートの提出を要求された。もし彼らが戦死すれば、彼らのパスポートはリサイクルして利用される。作戦任務の訓練コースでは、工作員に書類の偽造方法を教えた。いくつかのパスポートの変造方法としては、写真の入れ換え、旅行印の抹消と追加なども教えられた。聞くところでは、ビザの「クリーニング」技術を示したマニュアルが工作員の間で回覧されていた。モハメド・アタとザカリヤ・エサバルもパスポートの変造を訓練されたと言われる。
 こうしたすべての訓練には二つの目的があった。組織の書類偽造能力を向上させるためと、工作員が現地で必要に応じて調節できるようにするためである。例えば、もしサウジ人がパキスタン経由でアフガニスタンに旅行し、それからサウジアラビアに帰ると、パキスタンのスタンプが有る彼のパスポートは没収されるだろう。そこで工作員は彼のパスポートからパキスタンのビザを抹消するか、あるいはイランを通って旅行する。イランは、パスポートにビザ印を直接押さないからだ。

                                            目次へ
5・4 資金の足取り?   (原文p.169
 ビン・ラディンとその助手たちは、彼らの計画したアメリカ攻撃に、それほど多額の資金を必要としなかった。9/11の陰謀家たちは、結局40万から50万ドルを彼らの攻撃の計画と実行に使った。プロジェクトの重要性に応じて、アルカイダは陰謀家たちに資金を提供した。KSMは彼の工作員たちに、彼らが合衆国へ旅行し、訓練し、生活するのに必要な殆どすべての資金を与えた。陰謀家たちの秘匿技術はそれほど洗練されてはいなかったが、それで十分だった。彼らはその金を普通のやり方で動かし、貯え、使った。当時設置されていた探知機構を容易に打ち負かした。資金の出所は、依然として不明のままだが、9/11にいたるこの時期、アルカイダがどのように資金を調達していたかについて、我々は大まかな考えは持っている。
一般的資金調達  
 2章で説明したように、ビン・ラディンは、個人的財産からもスーダンのビジネス網からもアルカイダに資金を提供していない。その代わりとして、アルカイダは、多年にわたって開発してきた資金調達ネットワークに依存してい た。CIAは、9/11以前にアルカイダはその活動を維持するのに年間約3千万ドルを必要としたが、この金はほとんど大部分が寄付によって集められたと推測している。
 永年、合衆国はビン・ラディンが、その巨大な相続財産によってアルカイダに資金提供してきたと考えてきた。ビン・ラディンは彼の父親が死んだとき、約3億ドルを相続したと噂されている。そして、スーダンとアフガニスタンでジハードを戦うため、またアルカイダの中で指導的地位を得るために、これらの資産を利用したと噂された。2000年初め、合衆国政府は別の事実を発見した。ほぼ1970年から1994年にかけて、ビン・ラディンは年間約100万ドルを受け取っていた ―かなりの額である事は確かだが、ジハードの資金に使われたかも知れない3億ドルの資産ではない。そのころ、一部は1990年初めのサウジ政府の厳しい取締りもあって、1994年にはビン・ラディン一族は、ファミリー企業のウサマの持分の買取先を見つける必要に迫られた。サウジ政府はそこでこの販売の手続きを凍結した。この措置は、それが無ければビン・ラディンが持ち続けたであろう大きな財産を剥奪する効果を持った。
 アルカイダの資金源は、スーダンのビン・ラディンの資産でもなかった。ビン・ラディンが1991年から1996年までスーダンに住んだ時、彼は多数の事業とそれ以外の資産を所有していたが、これらは重要な収入を生むものでは無かった。その殆どは小さく、経済的に成功しそうなものでは無かった。1996年にビン・ラディンが去ったとき、スーダン政府は彼の全資産を没収した。彼はスーダンに実質上、何も残さなかった。ビン・ラディンがアフガニスタンに到着したとき、1980年代のアフガン戦争の間につちかった裕福なサウジの人々とのつながりに頼った資金調達の取り組みが再び活発になるまで、さしあたってタリバンに頼っていた。
 アルカイダは、多種多様な献金者や、主として湾岸諸国、特にサウジアラビアで募金活動をする基金調達団体の中核グループに資金を依存していたようだ。献金者の中には、自分たちの金が最終的にどこへ行くのかを知っている者もいれば、知らない者もいた。アルカイダとその支援者たちは、慈善チャリティー「ザカート」の要請を資金調達に利用した。これらの調達者たちは、モスクの特定のイマーム[説教者]に強く頼っていたように見える。彼らは、ザカートをアルカイダの目的に喜んで転用した。
 アルカイダはまた、腐敗した慈善団体の職員からも金を集めた。義捐金を資金調達に使うには、二つの方法があった。ひとつは、アルカイダに同調的な、大きな国際的慈善団体の、特定の海外支部事務所を使うことである ―特に、外部からの監視が甘く、内部の統制が効いていない、例えばサウジに本部を置く「アル・アラメイン・イスラム財団」のようなところである。地球上の様々な部分の小さな献金は、これらの湾岸の大きな慈善団体によって蓄積され、そこには資金をアルカイダのために注ぎ込む職員がいる。 さらに、アルワファ機構のようところは、すべての慈善団体が意識的にアルカイダへ資金を流し込む活動に関与していたかもしれない。こうしたケースでは、アルカイダの工作員は銀行口座の取り扱いを含むあらゆる組織全体を管理していた。慈善活動は資金源であると共に、重要な隠れ蓑となった。博愛主義組織のために働いているとの偽装のもとで、工作員たちは全く怪しまれずに旅行することが出来た。
 9/11以前に、タリバン以外のどこかの政府が、アルカイダを財政的に支援していたようには見うけられない。ただし、一部の政府には、アルカイダの資金調達活動に目をつぶり、見て見ないふりをしたアルカイダ同調者がいたかもしれない。サウアラビアは長い間アルカイダの資金調達の第一の源と見られてきた。だが、我々はサウジ政府が、組織としても、サウジ高官個人としても、その組織[アルカイダ]に資金提供したという証拠は何も発見できなかった。(この結論は、サウジ政府が重要なスポンサーとなっている慈善金が、アルカイダの資金に転用された可能性を排除するものではない。原注)。
 それでも、アルカイダは肥沃な資金調達の大地をサウジアラビアに見つけていた。そこでは、極端な宗教見解が一般的であり、また慈善寄付は文化の本質であると共に、非常に緩い管理下にある。アルカイダはまた、他の湾岸諸国の裕福な寄付者たちからの資金も得ようとしていた。
 アルカイダはしばしば「ハワラ」 Note 124によってかき集めた資金を動かしていた。「ハワラ」とは資金を移動するための、非公式で伝統的な信託システムである。
 幾つかの理由で、アルカイダは1996年にアフガニスタンに移動後は、ほかに方法は無かった;第1に、そこの銀行システムは古臭く、信頼できないものだった;第2に、正式の銀行は、19988月の東アフリカ爆破以後、アルカイダが受けていた警戒 ―そこにはタリバンに反対する国連決議も含まれる― のために危険性があった。ビン・ラディンはパキスタン、ドバイ、および中東地域で運営されている常設のハワラのネットワークに頼って効率よく資金を移動していた。アルカイダと関係したハワラ加入者たちは、銀行を利用して金の移動や貯蓄をしていたかもしれない。アルカイダの資金募集者や工作員たちの多くも、アフガニスタンの外ではそうしていた。だが、ビン・ラディンとアルカイダの中核メンバーたちが、アフガニスタン滞在中に銀行を利用していた形跡はほとんど無い。
 9/11以前、アルカイダは基金を受け取るやいなや、さっさと使っていた。アルカイダの推定年間3千万ドルに上る予算の中で、実際のテロリスト作戦は比較的小さな部分を占めるに過ぎない。アルカイダは、ジハード戦士の給料、訓練キャンプ、飛行場、乗り物、武器および訓練マニュアルの改訂などに資金を出していた。ビン・ラディンは、安全な保護地帯提供の見返りとして、年におよそ1千ないし2千万ドルをタリバンに提供していた。ビン・ラディンは、他のテロリスト組織との同盟創出のためにも資金を使っていたかもしれない。だが、アルカイダがジハード計画全体の資金を出していたとは考えられない。むしろビン・ラディンは、新しいグループ創設と、特定のテロリスト作戦のために、選択的に資金を提供していたのだろう。
 アルカイダは、自身の財政のために、さまざまな非合法手段、特に麻薬取引やダイアモンド紛争を使ってきたと言われている。麻薬取引はタリバンにとっては収入源であったが、アルカイダにとって同じ目的で役立つことはなかったし、ビン・ラディンが麻薬取引に携わったとか、それによって資金を作ったという信頼すべき証拠は無い。同じように、アルカイダがアフリカの紛争地帯で採掘された違法ダイアモンドの取引を資金源にしていたという信頼すべき証拠も得られていない。また、アルカイダは9/11攻撃の事前情報による株式市場の操作によって資金を得たとも言われてきた。証券取引委員会、FBIその他の機関による徹底的な調査により、誰かが攻撃の事前情報に基づく株取引によって利益を得たという証拠は無いことが明らかになった。
 今日まで、合衆国政府は9/11攻撃に使われた資金の出所を突き止められずにいる。結局、この問題は実際にはたいして重要ではない。アルカイダは、資金調達の多くの手段を持っていた。もしある資金源が枯渇しても、約2年以上にわたって、40万から50万ドルを要する作戦に資金提供するために、アルカイダは容易に他の資金源を開発したり、あるいは他のプロジェクトから資金を転用することが出来た。
9・11計画の資金提供  
 先に書かれたように、9/11陰謀者はその攻撃を計画し実行するために、およそ40万から50万ドルを使った。入手できた証拠によると、19名の工作員が、電信為替か、KSMからの現金提供によって、アルカイダから資金提供を得ていたことが判明した。それは彼らが合衆国に持ち込んだか、あるいは外国の口座に預けて、この国で引き出したものである。我々の調査では、合衆国内の誰かが、ハイジャッカーにかなり多額の資金援助を与えたという信頼すべき証拠はなに一つ見つからなかった。同様に、我々はどこかの外国政府、または外国政府の職員の誰かが、何らかの資金を提供したと言う証拠も見つける事はできなかった。
 我々はハンブルク細胞のメンバー(アタ、シェヒ、ジャラー、ビナルシブ)が1999年末以前にアルカイダから資金を得ていたという証拠を発見できなかった。どうやら、彼らは自活していたようだ。KSM、ビナルシフ、それともう一人の陰謀加担者ムスタファ・アル・ハザウイなどは、この計画におけるそれぞれの役割を果たすために、金を受け取っていた。1万ドル以上の資金を受け取っていた者もいた。
 ハンブルクの応募者が9/11計画に加わったのち[1999年末以後]、アルカイダは彼らに資金提供を始めた。しかし、彼らが合衆国に入国する以前の時期に、資金提供はどうだったかについてはあいまいな情報しか得ていない。KSMによれば、ハンブルク細胞のメンバーは、陰謀実行者に選ばれた後、アフガニスタンからドイツへの帰国費用として、めいめい5千ドルを受け取り、ドイツから合衆国への旅費として、さらに支払いを受けたと言う。陰謀の財務処理については、第7章でもっと詳しく取り上げることにしよう。 
攻撃成功の必要条件 
 何人かの中核工作員が合衆国に向かう準備を始めた頃、アルカイダのリーダー達は、壊滅的な損害を与える、複合的、国際的なテロリスト作戦を組織し、実行するために、彼らに何が必要かをじっくり考えることができた。必要条件のリストには、下記のようなものが上がっていたと思われる。
* 作戦の計画と実行を評価し、承認し、監督できるリーダー。
 工作員と彼らを助ける者の間に、計画と指令を可能にする十分な交流。
  応募志願者を審査し、彼らを教化し、必要な訓練を与える人事システム
  必要な情報を集め、敵の強さと弱点を評価する情報面の取組み
  人々を動かす能力
  必要な資金を集め、動かす能力

 航空機作戦の進展について我々が提供した情報から、
2000年春から夏にかけて、どのようにしてアルカイダがこれらの要件を満たすことが出来たかが明示される。
 20005月末までに、航空機作戦に指名された2人の工作員は、すでに合衆国内にいた。ハンブルク細胞の4人中3人も、間もなく到着することになっていた。


 5章 Note

Note 8(一部)後者の爆発は乗客の死亡と飛行機の大きな損傷を引き起こした。このため、飛行機は沖縄に緊急着陸を強いられた。  

Note 25
(一部)52節に詳述されるように、ハラドは極東地区での航空機作戦(後にこの計画はキャンセルされる。訳註)の下調べのために  、ビン・ラディンによってクアラルンプールに送られた。一方、ハズミとミダルは、カラチからロサンゼルスに向かう最初の行程だった。  彼らは2000115日、ロスに到着する。

Note 124
(一部略)例えば、合衆国の居住者が、他国(例:パキスタン)に金を送る場合、彼女はその金を合衆国のハワラ取扱人(ハワラダー    )にドルで渡す。彼はパキスタンの相手方に接触し、その決済の詳細、金額、番号、そして多分受取人の身元などを知らせる。パキス   タンの最終受取人はパキスタ ンのハワラダーの手持金から、彼の金をルピーで受け取る。送金者と受取人二人はこのように関わり、決   済は完了する。二人のハワラダーは、彼らの負債 を清算する多くの手段を持っており(例えば、パキスタンの誰かが、同じ二人のハワ   ラダーを使って、合衆国に送金するとか)合衆国のハワラダーの銀行 からパキスタンのハワラダーの銀行に、精算のために定期的に電   信送金するなどである。  


                                                       

目次へ

次章へ