6章 相次ぐ脅威   (原文 .174
 3および4章では、現れ始めていたウサマ・ビン・ラディンとその仲間の脅威に取り組むために、合衆国政府がその官庁とその能力をどのように適応させて来たかを記した。1998年のケニアとタンザニアでのアメリカ大使館爆破以後、ビル・クリントン大統領とその主要な補佐官たちは、ビン・ラディンをアフガニスタンから追放させ、逮捕あるいは殺害する方法を探していた。世界中での[末端組織]破壊の努力はある程度成功したが、ビン・ラディンの組織の中核は無傷で残っていた。
 クリントン大統領は、ビン・ラディンについて非常に懸念していた。彼とその国家安全保障担当補佐官サミュエル「サンディー」バーガーは、ビン・ラディンの最新所在地を毎日更新して教える特別のパイプライン[情報ルート]を持っていると請け合った。クリントン大統領は公式には盛んにテロの脅威とその訓練キャンプについて述べたが、ビン・ラディンについては殆ど語らず、またアルカイダについては全く話さなかった。大統領は、我々にこれは故意にしたことだと語った。すなわちビン・ラディンに不必要に言及することで、彼の知名度を高めることを避けようとしたというのである。大統領の演説は、主に国外の活動家や、生物・化学兵器の危険性に焦点が当てられていた。
 ミレニアム[西暦2000年]が近付くにつれ、最も喧伝された懸念はテロリズムではなく、Y2K問題と言われるコンピュータ[プログラム]の故障についてだった。一部の政府職員は、このようなコンピュータの故障が、テロリストに利用されはしまいかと心配していた。 
61 ミレニアム危機       (原文 p.174
 
「袋に入った遺体が積み上げられるだろう」
 19991130日、ヨルダンの情報機関が、ビン・ラディンの昔からの同盟者であったアブ・ズバイダとパレスチナの過激主義者ハズル・アブ・ホシャルの間の電話を傍受した。アブ・ズバイダは言った「訓練期間は終わった」。これはホシャルに対するテロ作戦の開始の合図だと疑って、ヨルダン警察はホシャルほか15名を逮捕し、ワシントンに連絡した。
 16人のうちの一人、レド・ヒジャジは、カリフォルニアでパレスチナ人の両親の間に生まれた。子供時代を中東ですごした後、北部カリフォルニアに戻った。そしてイスラム過激主義の信仰の中にどっぷり浸りこんだ。次いでアフガニスタンのアブ・ズバイダのハルダン キャンプへ向かい、そこでゲリラ戦闘の基礎を学んだ。アブ・ホシャルが彼とその弟をリクルートしたのは、ヨルダンで、ユダヤ人とアメリカ人を攻撃対象にした、結束の緩い陰謀に加担させるためだった。1996年末に、アブ・ホシャルが逮捕、監禁された後、ヒジャジは合衆国に帰り、ボストンでタクシーの運転手をしながら、彼の陰謀仲間に送金していた。アブ・ホシャルの釈放後は、ヒジャジは、ボストンとヨルダンの間を行き来して資金と備品を集めていた。またアブ・ホシャルと一緒に、トルコ、シリアおよびヨルダンで新兵の募集を行った。アブ・ズバイダの助けを借りて、アブ・ホシャルはこれら新兵を訓練のためアフガニスタンに送った。
 1998年遅く、ヒジャジとアブ・ホシャルは一つの計画を作り上げた。彼らはまず四つの目標 ―アンマン[ヨルダン]の下町にあるSASラディソンホテル、ヨルダンからイスラエルへの国境検問所、二ヶ所のキリスト教聖地などをアメリカ人その他の観光客でごった返す時期に攻撃することにした。次いで彼らは、地方空港や宗教、文化施設などを目的とした。ヒジャジとアブ・ホシャルは狙いをつけた目的を下見し、報告をアブ・ズバイダに送り、彼はその計画を承認した。最後にヒジャジはボストンからアンマンに帰り、硫酸、5,200ポンドの硝酸を含む爆弾製造用の材料を徐々に集め始めた。これらの材料は陰謀者たちが、2ヶ月以上かけて借家の地下二階に掘った巨大な穴の中に貯蔵された。
 1999年初頭、ヒジャジとアブ・ホシャルは、ハリル・ディークと連絡を取った。彼はアメリカ市民で、パキスタンのペシャワールに住んでいるアブ・ズバイダの仲間だった。ディークはアフガニスタン基地の過激派と共にテロリスト・マニュアルの「聖戦百科事典」電子版を作り出していた。ヒジャジとアブ・ホシャルは、この「百科事典」のCDROMをディークから入手した。6月に、ディークの助けを借りて、アブ・ホシャルはアブ・ズバイダと共に、ヒジャジと他の3人をアフガニスタンに行くように手配した。 爆発物の取り扱いについて、さらに訓練を受けさせるためだった。199911月末、ヒジャジはアブ・ズバイダの前でビン・ラディンに忠誠を誓い、ビン・ラディンのいかなる命令にも従うことを誓約したと言われる。その後、彼はヨルダンに向かい、途中のシリアについた時、アブ・ズバイダがアブ・ホシャルに送ったメッセージがきっかけとなって、ヨルダン当局が全細胞の摘発にとりかかった。
  アブ・ホシャルと他の15名を逮捕した後、ヨルダン当局はディークをペシャワールまで追跡し、パキスタンに対し彼の身柄の引渡しを求めて、逮捕人に付け加えた。アンマンの貸家が捜索され、酸が詰まったドラム缶71個と、サウジの偽造パスポート数枚、起爆薬およびディークの「百科事典」が発見された。共犯者のうち6人には死刑が宣告された。拘留中のヒジャジの弟は、グループのモットーは「時来たれり。死体袋が山をなす」と言うものだったと述べた。 
外交とその失敗
  1999124日、ヨルダンでの謀略発覚のニュースが入ってきた時、国家安全保障会議(NSC)対テロリズム調整官のリチャード・クラークはバーガーに書き送った。「もしジョージ(テネット)の言う、UBL[ウサマ・ビン・ラディン]のミレニアム連続攻撃計画が本当なら、我々は今すぐ、なんらかの決断をしなければならないだろう」クラークは危機の間中、何度かクリントン大統領と話し合ったと述べた。そして、世界のどこであれ、合衆国の権益にビン・ラディンが攻撃を仕掛けた場合には、アフガニスタンのタリバンに報復攻撃を掛けるぞと威嚇しようと示唆した。そして、さらに1999年の最後の週に、アフガニスタンのアルカイダ・キャンプを攻撃しようとバーガーに持ちかけたが、この案は採用されなかった。
 CIAは、ヨルダンでの失敗した計画は、一連のさらに大規模なミレニアム攻撃 ―化学兵器を含む可能性もある― の一部だと警告した。これを受けて、長官級会議128日夜会合し、クラークの対テロリズム・グループ(CSG)にアルカイダの陰謀を阻止し、壊滅させる計画の開発を命じる事を決定した。
 CSGの国務省メンバーだったマイケル・シーハンはタリバンに連絡し、彼らは将来のアルカイダの攻撃について責任を取らされることになるだろうと警告した。クラークはバーガーに「マイクは駆け引きがまずかった」と報告した。タリバンの反応は事実上無かったので、パキスタンに対して新しいアプローチがなされた。中央軍(CENTCOM)指揮官のアンソニー・ジニ将軍は大統領特使として「ビン・ラディン問題の一刻も早い解決のため、何であれ必要とみなす手段をとる」ことを要求するため、[パキスタンの]ムシャラフ将軍のもとに送られた。しかしジニは手ぶらで帰ってきた。ウイリアム・ミラム[パキスタン駐在]大使はイスラマバードから「ムシャラフは何らかの政治熱が国内で発生することには、乗り気ではない」と報告した。
 CIA海外安全保障局(foreign security service )と共に、ビン・ラディン関係者の留置、もしくは少なくとも監視を熱心に行った。テネットは20の外国の同職位者と話しあった。8つの国のテロリストに対し、検挙と逮捕作戦が実施された。12月中旬、クリントン大統領は、CIAの権限を拡大する「通告メモ」(MON)に署名した。それはCIAの外国の代理人に、合衆国の管理下に移送することなくビン・ラディンの副官たちを拘束する権限を与えるものだった。これは逮捕の権限のみで、殺すことではなかったが、必要なら致命的な力の行使が有り得るものであった。テネットは後に、すべての海外のCIA局員宛てに「脅威がこれ以上に明確になったことはない。・・・UBLの計画を打破するためなら何でも行え。・・・アメリカ市民はこの時期、自分たちを守るために、あなた方と私があらゆる適切な方法をとるだろうと期待している」とのメッセージを送った。国務省は世界中の海外公館に警告を発した。 
 そして
1214日、合衆国に爆発物の荷物を持ち込もうとした、一人のアルジェリアの聖戦主義者が逮捕された。
レザムの逮捕 
 アーメド・レザム(23歳)は、1994年、不法にカナダに移住していた。偽造パスポートと、アルジェリアで迫害を受けたという話をでっち上げてモントリオールに入り、政治亡命を求めた。続く2, 3 年の間、彼はケチな犯罪を犯すことで生計を立てた。アブ・ズバイダのハルダン・キャンプの卒業生にリクルートされ、1998年、レザムはアフガニスタンで訓練を受けた。さまざまなこと、とりわけ自己の安全を保ちながら、最大の致死性を発揮するように青酸化合物をビルの吸気口に置く方法などを学んだ。合衆国の空港や領事館への攻撃を計画している他のアルジェリア人たちと一緒に、化粧瓶にみせかけた爆発物の前駆物質と、爆発物の組み立て方を記したノートおよび12,000ドルを持って、レザムは1999年初めにアフガニスタンを発った。カナダに帰ると、彼は武器、化学品、偽造書類の調達に奔走した。
 1999年の初夏、仲間の一部にしか入国の旅行書類を得ることができなかったので、レザムは計画を一人で実行することに決めた。夏の終わりまでに、彼はロサンゼルス地域の三つの空港を攻撃可能な目標として選んだが、結局最も大きく、かつ作戦がもっとも容易な空港としてロサンゼルス国際空港(LAX)に的を絞った。彼は3人のアルジェリアの友人の助言を得て、爆弾のための化学薬品を購入し、あるいは盗んだ。この3人はかつてフランスでのテロ攻撃に加担したため、フランス当局から手配されていた。レザムはまた、新しい共謀者仲間を手に入れた。彼は、ニューヨーク育ちのパートナー、アブデルハニ・メスキニに、もし合衆国内での自分の策謀に手を貸してくれるなら、アフガニスタンで訓練を受ける手助けをしようと約束した。
 199912月、レザムはその最終準備にとりかかった。彼はアフガニスタン基地の指導員に電話して、ビン・ラディンがこの攻撃を彼[UBL]の行為とすることを望むかどうか信用を与えるか否かを問い合わせたが、回答はなかった。彼は親しい友人と爆発物の準備をするため、バンクーバーで1週間を過ごした。化学薬品は、アルカリ性の強いもので、外気が氷点下の寒さであるにも拘わらず、窓を開けっ放しにしておかねばならず、ひりつく喉の痛みを鎮めるため、彼らは咳止めドロップをなめていた。バンクーバーでレザムは合衆国への旅に使うクライスラーセダンを借り、トランクのスペアタイヤ用のくぼみに爆発物を詰め込んだ。
 19991214日、レザムはカナダのビクトリアから合衆国、ワシントン州のポートエンジェルス行きのフェリーにレンタカーを乗り入れた。レザムはシアトルに行き、そこでメスキニと落ち合い、ロサンゼルスまで行って空港を下見するつもりだった。爆発させるのは、200011日か、その近くを予定していた。ビクトリアの移民帰化局(INS)の事前審査で、レザムは真正であるが不正取得したカナダ旅券を係官に示した。旅券から彼はアフガニスタンの入出国スタンプを消去してあった。当直のINSの職員は各種のデターベースを調べたが、旅券に記さていたのは彼の名前ではなかったので、手配中のカナダ人として検出されずに済んだ。車をざっと検査したのち、INSはレザムのフェリー乗船を認めた。
 1214日午後遅く、レザムはポートエンジェルスに到着した。彼はすべての他の車がフェリーを離れるのを待った。最後の車のセキュリティーチェックは厳しくはないだろうと(誤って)決めこんでいたためだ。港に配置された税関職員はレザムの神経質な挙動に気付いて、彼に二次検査を命じた。さらに身元確認を求められて、レザムは税関職員に旅券と同じ偽名を記したコストコ[スーパー]の会員証を渡した。職員が[衣服の上から]手で叩く、最初の身体検査を始めると、レザムはパニック状態となり、逃げ出そうとした。 
 調査員はレザムのレンタカーを調べ、スペアタイヤ用のくぼみに隠された爆発物を発見した。当初、彼らは、白色の粉末と粘り気のある液体は麻薬関係のものと思ったが、検査官がのぞき込んで、黒い箱の中に隠された四個の時限装置のうちの一個を発見し、確認した。レザム現行犯として逮捕された。捜査員は彼の標的はシアトルだろうと推察した。2000年にモントリオールで押収された証拠品を再検査するまで、彼らはロサンゼルス空港計画について知らなかった。さらに詳しいことが判明したのは、20005月にレザムが協力的になってからだった。

テロリストの旅行の事例研究

 一般的なテロリストのやり方に従って、レザムと彼の仲間は、旅行のために、偽造パスポートと虚偽の入国理由(immigration fraud)を使った。レザムの場合、フランスとモントリオールの間は、写真を貼りかえた偽名のパスポートを使ったフライトだった。尋問されてレザムは、パスポートは偽造だと白状し、政治亡命を求めた。彼は審問までは未決として釈放されたが、審問に出頭しなかったので、彼の政治亡命は却下された。そして再び逮捕され、別の審問日を指定されて釈放された。そして、またもや姿を見せなかった。彼は主に旅行者からの窃盗で4回逮捕されたが、収監されることも、国外追放されることも無かった。彼は盗んだ書類をイスラム主義テロリストで書類ブローカーの友人に売ることで生計を立てていた。 

 レザムはやがて、カトリック教会から白紙の洗礼証明書を盗んだ書類販売業者のおかげで、ついにカナダの正式パスポートを入手した。その証明書によって、彼はベニ・アントニ・ノリス名義のカナダ人パスポートを得た。おかげで、彼はパキスタンへ行き、そこから訓練のためにアフガニスタンへ行くことも、カナダに帰ってくることも出来た。アブ・ズバイダは感心し、レザムにもっとカナダの本物のパスポートを入手して、他のテロリストに使わせるために届けてくれと頼んだ。

 別の陰謀家、アブデルガニ・メスキニは、別の陰謀家モフタル・ハウアリの求めに応じて、19991211日にシアトルへ旅行する際、盗んだ身分証明書を使った。ハウアリはレザムとメスキニに、偽造パスポートとビザを提供した。二人はそれを使って合衆国を出、アルジェリア、パキスタン、アフガニスタンへ向かった。メスキニの仲間の一人、アブデル・ハキム・チゼガも政治亡命を求めて申請していた。彼も審問を待つ間、釈放されていたが、審問は5回にわたって延期され再指定されていた。彼の要求は、結局初めの申請から2年後に却下された。彼の弁護人はその裁定に対して上訴し、チゼガは上訴の間、国内滞在を許可された。9ヶ月後、彼の弁護人が、依頼人は所在不明だと法廷に告げたため、国外追放の令状が発行された。


 
緊急時の協力 
 アンマンの陰謀が崩壊した後、ヒジャジがかつてカリフォルニアに住み、ボストンでタクシーの運転手をしていたこと、またディークは ―バーガーがクリントン大統領に報告したように― 帰化した合衆国市民で、国外同様、合衆国内の過激主義者とも接触していたことは、ワシントンの注目から逃れることはなかった。FBIは全支局に警報を発していたが、バーガーはレザムの逮捕までは、本土の一般警戒レベルを上げる必要はないと見ていた。 
 レザムの逮捕に続いて、FBIは前例が無いほど多くの特別通信傍受許可を求めた。バーガーとテネットも、ミレニアム特別警戒の期間中、外国諜報活動監視法(FISA)による通信傍受の要請が、これまでに無かったほど多かったように感じたと我々に語った。
 次の日、バーガーは大統領に、レザムの逮捕とモントリオールの細胞との連携について知らせ、FBIに合衆国内の警察官に活動を強化するよう勧告するが、政府が攻撃計画について特別な情報を持たないことを強調して、現時点では過度の公開警報は避けるようにすると大統領に告げた。
 1222日、首脳部の「小グループ会議」で、FBI長官ルイス・フリーは、NSCスタッフ,CIAおよび司法省の職員に対して、合衆国内での傍受と調査について概要を報告した。そこにはレザムの逮捕に関係したブルックリンの実態から、合衆国の7つの都市に対する攻撃という一見信頼しがたい海外の情報、カナダ国境での2人のアルジェリア人の逮捕、およびモントリオールでの聖戦主義者の細胞に関係した調査などが含まれていた。司法省は同日、警戒声明を発表した。
クラークのスタッフは「合衆国内に外国人テロリストの休眠細胞があり、合衆国内での攻撃がありそうだ」と警告した。クラークはバーガーに、国内諸官庁が警戒態勢を維持するよう、しっかり確認してくれと頼んだ。彼は「民間航空機に対する脅威が有るのではないか?」とも書いていた。また12月末、クラークは首脳たちに、ビン・ラディンが大西洋横断線の航空機に爆弾を仕掛けることを計画しているとの海外情報機関の報告について討議するよう求めた。
 CSGは毎日会合を持った。バーガーは、首脳たちは絶えず会っていたと言った。後に、レザムの2次審査にあたった税関審査官ダイアナ・ ディーンは、レザムに車から出るように言ったのは何故かと尋ねられたとき、それは彼女の「訓練と経験」だったと証言した。それは国家レベルでの高い警戒感覚は、レザムの発見に何の役割も果たさなかったことを示している。
 警戒の機運は国民の間でも高まりつつあった。それ以前のヨルダン人の逮捕は新聞によって報道され続けていた。レザムの逮捕は、クリスマスのシーズン中、夕方のテレビ放送の特ダネ番組となった。
 ミレニアム警戒の期間中、FBIはこれまでに無く積極的に広報活動を行った。FBIテロリズム対策上級職員デール・ワトソンはCSGの常任委員だった。クラークは彼とFBIのアルカイダ関係の捜査官 ―ニューヨークのジョン・オニールを含む― の双方と良い関係を保っていた。しかし、規則上、ワトソンもその他の捜査官も、多くの情報をCSGにもたらすことはなかった。FBIは他の機関が日常的に書き、また配布しているような種類の情報報告をただ単に発表したりはしない。法執行職員として、FBI職員が記すのは、おおむね証人尋問についてだけだった。事件の分析が書かれるのは、調査の開始や拡大の認可を監督者に求める場合のみで、単なるメモの形で提出された。
 しかしミレニアム警戒の期間中は、ヒジャジ、ディーク、レザムが合衆国と直接つながっていたことから、FBI職員は、これらの人物の進行中の調査について、文書の配布はせず、自らブリーフィングを行った。バーガーは、FBI職員にとって、閣僚級のグループの前で情報を出し惜しみすることは困難だったと語った。バーガーとNSCスタッフによれば、[ミレニアム]警戒の後、FBIは文書の保持について通常の状態に戻り、また調査や証人尋問の内容についてほとんど言わなくなった。そして、調査実施中のいかなる情報も大陪審に提出されるべきであり、現行の連邦法によって開示することは出来ないという立場をとった。
 1999年末に発覚したいろいろなテロ計画は、間接的ではあったが、アルカイダに結び付けられそうなものだった。ヨルダンの細胞は緩く提携していた。いまでこそ我々はそこがアフガニスタンの承認と訓練を得ようとしていたこと、そして少なくとも一人の中心人物はビン・ラディンに忠誠を誓っていた事を知っている。しかし細胞の行なった計画と準備は自発的なものだった。レザムとアルカイダの関係はさらに緩やかなものだった。彼は組織とその支持者が提携しているネットワークの中で、リクルートされ、訓練され、準備されたが、レザム自身の計画は、それにもかかわらず本質的には独立したものだった。
 アルカイダとビン・ラディン自身は、少なくとも一つの彼ら自身のミレニアム作戦を考えていた。第5章で、アルカイダの工作員の1人、ナシリを紹介した。彼はビン・ラディンと共同でイエメン近海の船舶を襲撃する計画を進めていた。13日、アデン湾で合衆国艦艇「サリバン」に対する攻撃が試みられた。この試みは、爆薬を積みすぎて小さなボートが沈没したことで失敗した。工作員たちは、彼らの試みが知られないようにボートを引き揚げ、計画を別の日に延期した。
アルカイダの「航空機作戦」もまた近づきつつあった。20001月、合衆国はその準備の予兆を掴んだ。 
東南アジアでの失われた足取り
 1999年末、国家安全保障局(NSA)は、中東のテロリストと疑われる施設と結び付けられる通信を分析した。それは20001月初め、数人の「工作幹部」がクアラルンプール[マレーシア]に行く計画があることを示していた。当初、三人のファーストネームだけが判っていた。ナワフ、サレム、ハリドだった。NSAの分析官が、サレムはナワフの弟だと推定したのは正しかった。アルカイダのみならず、1998年の大使館爆破とも関連があると見て、CIAのある職員は「なにか、より不法な事態が進行している」と推測した。
 第5章で、我々は二人の工作員 ―ナワフ・アル ハズミとハリド・アル・ミダル―が航空機作戦に参加するため、合衆国に向けて出発したことを論じた。さらに二人、ハラドとアブ・バラは、作戦の一部となるはずだったフライトの調査のため、東南アシアに向かった。しかし、その作戦は実施されなかったことが立証されている。イエメンから出発したミダルを除いて、全員がアフガニスタンとパキスタンから出発した。
 ナワフの足取りは一時的に消えたが、CIAは、まもなくハリドはハリド・アル・ミダルと認定した。彼はイエメンを離れるとき見つけ出され、200015日のクアラルンプール到着まで追跡されていた。他のアラブ人たちは、その時点で認定されていなかったが、彼と共にマレーシアの首都[クアラルンプール]に集まるのが認められた。
 18日、監視チームはアラブ人のうち三人が、不意にクアラルンプールを去って、バンコック[タイ]への短いフライトをしたと報告した。その一人は、ミダルだと確認された。監視チームは、その後、彼の同行者の一人はアル・ハズミと呼ばれていたことを知るのだが、このときはまだ彼がナワフであるとは知らなかった。ただ一人の認定担当者が第三の人物に当てはめたのは名前の一部だけで、サラーサであった。バンコックで、CIAの職員が、彼らが来るという連絡を受けた時は、三人を追跡するには遅すぎた。そして旅行者たちはバンコックの街路に消えた。
 テロリスト対策センター(CTC)は、クアラルンプールでの集合についての概要をCIA指導部に報告した。その情報は[国家安全保障補佐官]バーガーとNSCスタッフ、フリーFBI長官、その他のFBIの者に伝えられた。(しかしFBIは、主導権はCIAが握っており、なにか国内関係の問題が発生すれば、FBIに知らせてくれだろうと書き留めた)ビン・ラディン班の班長は最新情報を伝えるべく心掛けていたが、当初アラブ人たちがクアラルンプールを立ち去ったことに気付かず、さらにバンコックでその足取りが消えるにまかせた。この悪いニュースが着いた時、彼らの氏名はタイの監視リストに記載され、もし彼らの内の誰かがタイを離れた時には、タイ当局からその旨、合衆国に通知が来る手筈になっていた。
 数週間のち、クアラルンプールのCIA職員は、バンコックの仲間に三人の旅行者に関する追加の情報を催促した。20003月初め、バンコックはナワフ・アル・ハズミ―最初はファースト ネームだけだったが、いまやフルネームが明らかになっていた―が115日にユナイテッド航空でロサンゼルスに向け出発していたことを報告してきた。ハリド・アル・ミダルは、ハズミと共にロサンゼルス行きのユナイテッド航空に搭乗していたはずなのに、その出発について何の報告もなかった。CTCの職員以外は、誰一人この件について何も知らされていなかった。CIAはミダルとハズミを国務省のTIPOFF監視リストに登録しようとしていなかった。ミダルのビザについての報告が来た1月にも、ハズミがビザとロサンゼルス行きの航空券を取得したとの報告が来た3月にも、そうしなかった。
 この情報 ―ミダルの合衆国ビザ取得と、ハズミの合衆国行き― は、どちらもFBIに届かなかった。そして20011月まで、三人の内の誰についても、さらなる追跡は行われなかった。ようやく、20011月になって、合衆国艦艇コール爆破についての捜査が、ハラドについての関心を再燃させた。この事については第8章で述べる。

                       目次へ  
62 危機後の反省:2000年の予定表     (原文p.182
 ミレニアム警戒の後、合衆国政府の中枢機関は彼らの業務の検証を行なった。CIA指導者たちは、いくつかの策謀は食い止めたが、ミレニアム危機は引き続く攻撃の「キックオフ」(*)にすぎないだろうと言われた。2000111日、クラークはバーガーに、CIAFBI,司法省およびNSCのスタッフは二つの主要な結論に達していると書き送った。第1は、これまでの合衆国の[末端組織]破壊の努力は、ビン・ラディンのネットワーク組織に対して「そんなに多くの打撃を与えてはいない」ことである。もし合衆国が脅威の「巻き返し」を望むなら、これまでとは「明らかに異なるテンポ」で、破壊を続けなければならない。第2は、「休眠細胞」や「多様なテロリスト・ グループ」が本土内にあることが明らかになったことである。クラークのスタッフが書いているように、合衆国税関での「たまたまの発見」で、以後の攻撃を防ぐことが出来たのだ。バーガーは、NSCのスタッフに対し「行動後の再検討」の開始を承認した。彼は、新しい予算要求を予期していた。彼はまたDCIテネットに対し、CIAの対テロリズム戦略の再検討と「これからどこに向かうべきか」と言う計画の提出を要求した。 
  (*)フットボールの試合開始(訳註)
 NSCのスタッフは、これまで合衆国は、単にビン・ラディン・ネットワークの「末端に噛み付いてきた」だけであること、テロリストのさらなる攻撃は「もし」ではなく、「いつ」「どこで」だと、バーガーに忠告した。2000310日、長官級会議が開かれ、今後の展開予想を再検討した。首脳たちは、政府が三つの主要な手段をとるべきだということで合意した。第1、アルカイダを「壊滅させる」まで活動を強化するように、CIAにより多くの資金を廻すこと、第2、合衆国内の外国人テロリスト組織を厳しく取り締まること、第3、移民法の実施を強化すること、そしてINSはカナダ国境の管理を強化すること(これには合衆国とカナダの協力向上を含む)である。長官たちは提案されたプログラムに署名した。合同テロリズム作業班JTTF]の数の増加などは前進したが、アラビア語や他の言語の自国内での情報を傍受するために、翻訳機構を中央に集中することなどは実施されなかった。
 
パキスタンへの圧力 
 このプロセスが進められている間、外交の面でも駆け引きが続けられていた。タリバンへの直接の圧力は成功しないことが判っていた。あるNSCスタッフの覚書にあるように「タリバンの支配下でのアフガニスタンは、テロリズムの支援国家と言うよりは、テロリストに支援される国家だ」。2000年初め、合衆国はパキスタンがその影響力をタリバンに及ぼすよう説得する高位者レベルでの努力を始めた。
 20001月、国務次官補カール・インダーフス、国務省のテロリズム対策調整官マイケル・シーハンは、イスラマバード[パキスタン]でムシャラフ将軍に会い、パキスタンの協力に対する報酬として3月の大統領の訪問の可能性をちらつかせた。ムシャラフは、自分の政府の正統性を証明するものとして、こうした訪問を切望していた。彼は二人の特使にムラー・オマールと会って、ビン・ラディンに圧力をかけさせると請け合った。だが、特使たちは帰国して、パキスタンは「タリバンのアフガニスタン支配を利益と見なしている限り」事実上何もしそうにないとワシントンに報告した。
 クリントン大統領はインドに行くことになっていた。国務省は、インドに行くならパキスタンにも行くべきだと思っていた。しかし、シークレット・サービスとCIAは、パキスタン訪問は大統領の生命を危険にさらすことになると最も強い口調で警告した。対テロリズム・センターの職員も、パキスタンは大統領の訪問に値するよう事をなにもしていないと言って同調した。しかしクリントン大統領は、南アジア旅行の日程にパキスタンを入れるように言い張った。2000325日の一日の滞在は、合衆国大統領にとって1969年以来のことであった。ムシャラフその他との会議において、クリントン大統領はパキスタンとインドの緊張についてと、核の拡散問題に集中したが、ビン・ラディンについても討議した。クリントン大統領は、ムシャラフを脇に誘って短い間、一対一の会談を行ったと我々に語った。そして将軍に、ビン・ラディンに関しての手助けを求めた。「私が彼[ムシャラフ]を訪問した時、もし彼がビン・ラディンの逮捕その他一、二の問題について対処してくれるなら、合衆国とのよりよい関係の証しとして、『素晴らしいものを提供しよう(I offered him the moon)』」と説得した。
 合衆国の努力は続いた。5月初め、クリントン大統領はムシャラフに対し約束に従ってアフガニスタンに行き、ムラー・オマールにビン・ラディンを追放するよう圧力をかけるよう促した。その月末にはトーマス・ピッカリング国務次官がパキスタンへ行って、追い打ちをかけた。6月には、DCIテネットが、同様の一般メッセージを持って同国を訪れた。9月、アフガニスタンの完全な征服を目的として武力攻勢を行っているタリバンを支持しているとして、合衆国はパキスタンを公然と批判するようになった。
 12月には、数か月前に国務省によって提案された手順に従って、合衆国は新しい国連制裁のためのキャンペーンを推し進めた。その結果、国連安保理決議1333号が議決された。それは、再度ビン・ラディンの追放を求め、いかなる国に対してもタリバンへの武器及び軍事援助を禁止するものであった。これもまた殆ど効果はなかった。タリバンはビン・ラディンを追放せず、パキスタンの武器は国境を越えて流れ続けた。 
 国務長官マドレーヌ・オルブライトは我々に語った。「私達はパキスタンと駆け引きする強力な手段を持ち合わせなかった。合衆国の法による制裁のため、我々には提供する『ニンジン』が殆んどなかった」核武装計画と、ムシャラフのクーデターのため、議会はパキスタンに対する経済的、軍事的支援を拒否し続けてきた。ムシャラフに批判的だったシーハンは、パキスタン指導部は「国を再生するチャンスを吹き飛ばした」と我々に語った。 
新たな能力の建設: CIA 
 作戦後の再検討に於いて、CIAはいかなるアルカイダに対する攻撃についても、主導的官庁として扱われてきた。そして、長官たちは310日の会議で、CIAのこの部門の役割を強化することを承認した。テロリスト対策センター(CTC)にとっては、半年前から提案してきた「計画」を推進することを意味した。さらなる事件担当官の採用と訓練、海外連絡官からの情報提供による国外の安全保障業務能力の強化などである。時には、199912月のヨルダンの場合のように、これらの連絡官部門は、アルカイダ細胞に対して直接行動に出ることもあった。
 CTCとその上司のCIA監督官manager)たちは、彼らが現在のテロリズム対策活動を続けるためには、絶対的に資金が不足していると信じていた。彼らはミレニアム警戒によって、センターの今年度の会計予算のすべてを使ってしまったと見なしていた。ビン・ラディン班は割当の140%を使っていた。テネットは、首脳会議の2日後にバーガーに会い、テロリズム対策資金について討議したと語った。
 クラークはCIAにさらに対テロリズム資金を提供することに熱心だったが、どこからその金を出すかについてはCIAのマネジャー達とは鋭く見解が異なっていた。マネジヤーたちは、冷戦終了以来、CIAは[予算を含むあらゆる面で]不当に扱われてきたと主張した。彼らは、テロリズム対策を含むいかなる任務の遂行も、彼らの持っていたものを保持し、彼らが1990年代初めから失ってきたものを回復し、さらにそこから立ち上げる ―新しい事件担当官を、全面的に組織を横断して募集し、訓練し、さらに閉鎖された支局を再開する― ことが出来るかどうかにかかっていると主張した。テロリズム対策の取り組みに予算をつけるため、テネットは1998年の大使館爆破の後、議会のリーダー達のところに行き、CIAに特別の追加支出を説得していた。いまやミレニアム警戒の余波の中で、テネットはCIAの全予算とその他の補足的な支出、特にテロ対策予算の押し上げを望んでいた。
 クラークにとっては、これはCIA指導部が、ビン・ラディンとアルカイダとの戦いについて、充分な優先性を与えていない証拠のように見えた。
 クラークは我々に次のように語った。CIAの工作本部長ジェイムス・パビットは「もし、ビン・ラディンを追跡するための資金があるというなら、自分に与えられるべきだ。」と言っていたが、私の見るところでは、彼[パビット]にはそのための金も時間もこれまで十分にあった。成果が見られないままこれ以上無駄な資金を注ぎ込みたくはなかった。(if there's going to be money spent on going after Bin Ladin,it should be given to him,
・・My view was that he had had a lot of money to do it and long time to do it, and I didnt want to put more good money after bad.)
 CIAは全く異なる姿勢だった。パビットは我々に語った。CIAのビン・ラディン班はビン・ラディンとアルカイダに対して「特別な価値ある仕事」をしたが、ロンドンの支局長も「(ビン・ラディン班で)座っている職員と同様に、アルカイダとの戦いの大きな一部だ」。
 この論議は大きな運営上の命題であった。クラークは行政管理予算局(OMB)の中に同盟者をみつけた。彼らが提供した数字を使って、クラークはCIAのテロリズム対策支出額が、基準予算額からほとんど増加していないと論じた。
 この論争にけりをつけるため、バーガーは4月にテネットと2回会った。その月遅く、次官級会議(Deputies Comitee) は2000会計年度支出の審査と2001年度予算の優先度、およびCIAと他の省庁との収支の調整のための会議を行った。最後にテネットは控えめな追加支出を得た。それは基本予算をたいして修正することなく、テロリズム対策のために予算化された。しかしCIAはテロリズム対策のためには、それでもなお不十分だと思っていた。

 テロリストの資金調達 
 長官たちが310日に合意した第2の主要な点は、テロリスト組織の分解と彼らの資金調達の抑制が必要だということだった。
 1998年の大使館爆破はアルカイダの財政に注目を集めた。一つの結果はテロリストの資金調達に対して、NSC主導の省庁間委員会を設立することだった。その勧告により、大統領はビン・ラディンとアルカイダを国際緊急経済権限法の制裁対象に指定した。この指定は、財務省の海外資産管理局OFAC)に、合衆国の金融システムに関連するビン・ラディンとアルカイダの資産を調査し、凍結する権限を与えた。しかしOFACにはそれを実施するための情報が少なく、凍結された資産はほとんど無かった。

  19997月、大統領はビン・ラディンを保護しているタリバンに対して同様の決定を適用した。ここではOFACはより多くの成功を収めた。それは合衆国内の銀行が保有していた3,400万ドルのタリバンの資産を封鎖した。このほか21,500万ドルの金塊、200万ドルの当座預金、アフガン中央銀行に属し、連邦準備銀行ニューヨーク支店が保管するすべての資産が凍結された。国務省が公式にアルカイダを「外国テロリスト組織」と指定した199910月以降、合衆国の銀行はその決済を阻止し、その資金を差し押さえることが義務となった。しかしこの指示も国連制裁も、たいして実質的な効果を持たなかった;制裁は容易に迂回され、他の国の金融機関がテロ資金の抜け道として使われないようにする多角的なメカニズムは無かった。
 組織の資金を攻撃することは、タリバンであっても、アルカイダのような世界的な秘密組織の資金を発見し押収することよりは容易であった。 CIAのビン・ラディン班には、テロリストの財務上のつながりを調査するという構想が最初から有ったが、その仕事についた者の中に資産調査の経験を持った者は殆んどいなかった。何らかのテロ資金情報は、他の情報収集の結果、副次的に集められたものらしかった。こうした傾向は、この班の主任によるところが大きかったようだ。彼は単に金がAからBに移ったことを追跡しても、それでテロリストの計画と意図が暴かれるとは思っていなかったので、CIAは結果的にテロリストの資金調達に、ほとんど重点を置いていなかった。
 それでも、CIAはアルカイダがどのように資金を調達していたかについて、一応の知識は得ていた。たとえば、財務組織や諸企業間の緩い提携や、イスラム過激派の活動を支援する財団やビジネスおよび裕福な個々人などについては、比較的早い時期から知っていた。初期のアルカイダの財務状況とその構成についての報告の多くは、ジャマル・アーメド・アル・ファドルから来た。彼についてはこの報告書の初期[24節]で述べてある。1998年の大使館爆破以降、合衆国政府はビン・ラディンの資金について、よりはっきりした構図を得ようと努めた。ある省庁間グループは、1999年と2000年の2回、サウジアラビアに旅行した。[アルカイダの]資金について、サウジの人たちから情報を得るためだった。彼等は、結局 ビン・ラディンが彼の個人的資産からアルカイダに資金提供しているという、しばしば繰り返されてきた断定は、実際には真実では無いと結論した。
 当局者たちは次のような新しい説を作り出した:アルカイダは、その資金をあらゆるところから得ている。そこで合衆国は他の資金提供源に注目する必要がある。すなわち慈善資金、裕福な寄付者、そして資本調達者などである。情報社会はこの問題にさらに多くの人材を投入し、さらに多くの情報を生み出した。しかし、それによって、国際的な財政機構の中で動いている巨大な金額の中で、アルカイダの資金決済を見分けることはさらに困難となった。CIAはアルカイダの資金の流れを発見し、あるいは遮断することは出来なかった。
 NSCのスタッフは、このような情報部門の弱点についての一つの解決手段は、テロリスト資金の総合情報分析センターを創設することだと考えた。クラークは、財務省でこのようなセンターの資金調達を進めたが、財務省もCIAも進んで資源を投入しようとはしなかった。
 合衆国内ではFBIの様々な現場捜査官たちが、アルカイダや他のテロリスト・グループに資金提供を行っていると疑われる組織について情報を集めていた。9/11によって、FBIは、合衆国内にも世界聖戦運動を支持し、アルカイダに実質的に関係して活動している過激派組織があることを理解した。FBIは情報提供者のウェブサイトを活用し、電子的監視を行った。また、ニューヨーク、シカゴ、デトロイト、サンディエゴ、ミネアポリスの諸都市で、多くの現場捜査官による大規模な調査をやり始めた。だが、国家レベルでは、FBIはこうした情報を使ってアルカイダの資金獲得の本質やその規模を組織立てて、戦略的に把握しようとはしなかった。
 資産の監査人たちは、国の財務機関と同じく、通常麻薬取引や高度の国際的詐欺から生じる合衆国通貨の膨大な流れを発見し、阻止あるいは分断することに活動の力点を置いていた。財務省と議会の注意をひいたのは、例えば、ロシアの資金洗浄人たちが、ニューヨークの銀行を使って、数百万ドルもの大金を国外に持ち出すと言った大スキャンダルなどだった。9/11以前、財務省はテロリストの資金調達については、マネーロンダリング[資金洗浄]にあたるほどの国策上の重要事とはみなしていなかった。

 国境の安全保障
 310日に長官たちが一致して合意した第3の点は、アメリカの穴だらけの国境と執行力の弱い移民法について注意を払う必要があるということだった。政府職員の下書きをもとに、クラークの作業グループは、国境警備の強化案のメニューを作り上げた。いくつかは過去の大統領令の再稼動や繰り返しだった。その内容は、
不法入国と人身売買人(human traffickers)を対象とする省庁間合同センターの創設。
学生ビザに、より強い制限を課すこと。
  テロリストの合衆国入国を防ぎ、すでに在留するものを排除するための法的手段をとること。排除の手続きが 進められている 間、彼らを拘留しておくこと。
  テロリズムの疑いのある個人に対する出入国管理を強化するため、FBI合同テロリズム作業班(JTTF)の出入国管理官をさらに増員する。

  入国管理関連の国家安全保障事件において、秘密扱いの証拠を使えるようにして、特別法廷を活性化する。
  合衆国の旅券に対する新しい安全基準の履行と、国連および外国政府と共同して、旅行書類についての世界的な安全基準を引き上げる。
さらにクラークの作業グループは次のような新しい提案を行った。
  カナダと協力して、情報協力と法執行のための「合同周域防衛」プログラムを確立し、ビ ザと出入国  データの共有に基づく合 同作業と合同国境パトロールを実施すること  
  陸地の越境に対し常時:1日24時間、週7日間、警備員を配置し、彼らにビデオカメラ、 防護物、およ び大量破壊兵器(WMD)検出機材を装備すること。
   ・  出身国へ帰されないよう旅行書類を破棄している移民 ―テロリストを含んでいると思われる―     問題の取扱    い
 これらの提案は原則としては立派なものだったが、その実行には、弱体で慢性的に予算不足の行政官庁と、影響力のある各種議会委員会の活動が必要とされた。だが議会委員会は、行政部門の省庁間委員会よりも、組織化された利益団体に対応しがちだった。20003月に、首脳たちが追求した変化は、9/11以前にはまだ兆し始めたばかりだった。

 「アフガンの目」
 20003月始め、クリントンはビン・ラディンに対する合衆国の秘密作戦の最新情報を受け取った時、そのメモの余白に「合衆国はもっとうまく出来ただろうに」と書き込んだ。統合参謀本部の士官たちも、同じ欲求不満を持っていたと我々に語った。クラークは、CSGで新しいアイデアをひねり出すブレイン・ストーミングの最中に、この大統領のコメントを使った。案の一つとして北部同盟への援助も含まれていた。
 199912月にさかのぼるが、北部同盟の指導者アーメド・シャー・マスードはビン・ラディンのデルンタ訓練複合施設に対するロケット攻撃の計画を提案していた。CIAの職員は、彼に許可を与えることは、暗殺禁止の一線を越えることになるのではと懸念していた。したがってマスードは、明白な合衆国の承認がなければ、これに類したどんな行動もとらないよう説得されていた。2000年春、CIAがウズベクと北部同盟の双方に、もっと親しい関係を結べないかと職員を派遣したのち、ワシントンで合衆国職員と、マスードの代表団との間で討議が行われた。
 アメリカ人たちは、マスードが合衆国の優先事項 ―情報を収集し、アルカイダに対抗して行動するなど― のために働くことが出来るよう、穏当な技術的援助を与えるべきだという点で合意していた。しかしマスードは合衆国がタリバン打倒のために彼らと同盟すること、また彼らは共通の敵と戦っていることを認めることの二つを望んでいた。クラークとテロリスト対策センター長のコファー・ブラックはこの二つ目の方を望んだ。北部同盟を援助するという案は、合衆国政府内で1999年以来、論議されてきた。第4章に記したように、合衆国政府は、全体として、彼らを支持することに懸念を抱いていた。それは主に北部同盟のマダラ模様の歴史によるもので、彼のアフガニスタンの大衆の限られた支持基盤、パキスタンの反対などによるものだった。
 CIA当局も、彼らの北部同盟とのつながりを使うという提案を声高に主張し始めた。CIAは、それによってアフガニスタンの現地にアメリカ人の諜報員を長期にわたって置くことが出来、パンジール渓谷に彼らの情報収集と活動の秘密基地を設置して、外国の代理人への依存を減らすことが出来る。「顔を突き合わせている状態に勝るものはない」とある職員は私たちに語った。しかしこのような直接行動に対するCIAの組織的能力は弱かった。特にそれが軍との共同作業でない場合は、なおさらだ。このアイデアは危険すぎるとして却下された。
 その間、CIAはアフガニスタン南部で、部族の工作員との作業を続けていた。8月の始め、部族民たちはカブールとカンダハル間を移動するビン・ラディンの車列の待ち伏せを報告してきた。それはここ一年半以上禁止されていた試みについての、彼らによる最初の報告だった。だがそれは成功しなかった。部族民自らの報告によると、彼らが車の一つに近づくと、車の中には子供と女性がいたので、彼等は直ちに待ち伏せを取り止めた。この報告がNSCスタッフにもたらされると、CIAはこの事件に関与していないが、部族民はアフガニスタン国内のCIAの権限の範囲内で行動していると言った。
 2000年には、アフガニスタンでの軍事行動を想定した作戦が練られ続けていた。海軍の艦艇は、依然として北アラビア湾に待機中で、要請があり次第、アフガニスタンにミサイルを発射できる構えでいた。夏には陸軍は、「完全解決(Infinite Resolve)作戦」の中の13の選択肢からなる攻撃および特殊作戦リストの精度を上げていた。しかし、計画作りは1998年、1999年にもそうだったように、政策上、作戦上の懸念によってなお制約されていた。情報機関は時にはビン・ラディンの所在を知ったが、[ミサイル]発射に踏み切るだけの信頼性に富んだ情報を提供できなかった。何よりも、合衆国は標的上に「アメリカの目」を持たなかった。ある陸軍士官はそれをこう表現した。「我々はドアに手をかけたが、ドアを開けて中に入る事はできなかった」。
 この時期、クリントン大統領は、ビン・ラディンとアルカイダを取り除く軍事的選択肢に欠けることについて焦燥感を表明していた。そしてヒュー・シェルトン将軍に言った。「もし不意に彼らのキャンプのどまん中に、ヘリコプターから黒いニンジャの一群が懸垂下降したら、居座っているアルカイダは度肝を抜かれるだろうな」。シェルトンは「委員会」にこの発言を覚えていないと言ったが、クリントン大統領はこの言葉を「私が言った多くのことの一つだ」と思い出していた。しかし大統領は、もし彼が怒りにまかせて激しい言葉を吐いていたら、何も達成できなかっただろうと付け加えた。ウイリアム・コーエン国防長官は、大統領は仮想的な発言をしていたのだろうと思った。それでも彼はどのように「ニンジャ」を作戦の舞台の中心に降下させ、引き上げるかの問題が残ると言った。第4章に述べたように、この種の作戦は9/11以前には一度も実行されなかった。
 1999年末か2000年初め、統合参謀本部の作戦部長スコット・フライ海軍中将は、部下の情報作戦主任士官のスコット・グレイション准将にビン・ラディンの所在をつかむもっと良い方法を探せと指示した。グレイションとそのチームは、目視されてから攻撃に至る時間差を縮めるべく、ビン・ラディンの上に信頼できるアメリカの目を置くためのさまざまな案をひねり出した。
 選択肢の一つはプレレデターとよばれる合衆国空軍の小型無人機、ドローンを使うことだった。それは下の地域を偵察し、ビデオテープを送り返すことが出来た。もう一つの選択肢は ―それは結局実際的でないとして退けられたのだが― ビン・ラディンの訓練キャンプの範囲内の一つの山に、強力な長距離望遠鏡を設置するものだった。両案は合同参謀本部議長のシェルトン将軍と討議された。そしてCSGが新しいアイデアを求めていたので、ホワイトハウスのクラークのオフイスで概要報告された。2000年春、クラークはCIAの情報収集副局長としてチャールス・アレンを連れてきた。それはフライと協力して、クラークが「アフガンの目」と呼んだCIA‐ペンタゴンの共同作業を行うためであった。誰がこの計画に金を出すべきかについて、CIAとペンタゴンの間でたっぷり論議した後、ホワイトハウスは結局両者でコスト分担する合意を押し付けた。CIA60日間の「構想立証」試験のため、プレデター作戦費を受け持つことに同意した。
 20006月末「小グループ」が「アフガンの目」を支持した。7月中旬、試験は完了し資材は準備された。しかし法的発令がなお調整中であった。811日、首脳たちはプレデターの配備に合意した。NSCスタッフはドローンがアフガニスタンから送ってくる情報をどう使うかを検討していた。クラークの部下のロジャー・クレッシーは、プレデターのビデオがビン・ラディンの位置を捉えていた場合には、ビデオに基づいて行動するCSGと首脳委員会の緊急会議が必要になるとバーガーに書いた。メモの余白に、バーガーは行動を考える前に「正確な所在地以上のものがほしい。少なくとも彼がそこに留まっていることを確認できる行動パターンのデータが必要だ」と書いた。クリントン大統領には、逐一報告されていた。
97日、プレデターは初めてアフガニスタン上空へ飛びたった。クラークは試験飛行の間に撮られたビデオを見たとき、バーガーにその映像を「まことに驚くべきもの」と表現した。そしてビン・ラディンを探索し、巡航ミサイルの空からの攻撃目標とするために、さらに飛ばそうと言った。また、もしビン・ラディンが発見されなくても、プレデターは、アルカイダの他のリーダーや、化学・生物兵器の貯蔵所のような追加的な重要目標の特定にも役立つだろうと述べた。
 クラーク一人が熱狂したわけではない。CIAではコファー・ブラックとチャールス・アレンも彼に同調していた。プレデターのアフガニスタン上空試験飛行は、15回のうち10回が成功だったと評価された。最初の飛行で、プレデターは、カンダハル郊外のビン・ラディンのタルナック農場基地で、背の高い白いローブ姿の男とその周りの警護要員をビデオに捉えた。928日にも、同基地で「白い男」を再びとらえた。情報機関の分析官は、彼は多分ビン・ラディンであると決めつけたNote 118
 クラークは、各地でのアルカイダ細胞の壊滅の進行と同じように、プレデターについてもなお楽観的だった。バーガーはもう少し慎重で、NCSスタッフの仕事ぶりを賞賛しながらも、自己満足している時間はないと見ていた。「残念ながら」と彼は書いた。「トンネルの終わりの明かりの向こうに別のトンネルがある」 

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63 合衆国艦艇「コール」への攻撃          (原文.p190)
 5章の始めに、我々はアルカイダと共同作戦を行うようになったハリド・シェイク・ムハンマドと、アルカイダ作戦の責任者となる2人の男、ハラドとナシリを紹介した。そこで述べたように、2人は1998年と1999年、爆発物を積載したボートで、イエメン沖の船舶を攻撃する準備をしている時[アルカイダに]引き入れられた。彼らは最初商船、特にタンカーを攻撃目標としていたが、ビン・ラディンは、代わりに合衆国の戦闘艦を捜すよう促した。20001月、彼らはアデン港の戦闘艦を攻撃しようとしたが、自爆用の船が沈んで、その試みは失敗した。9ヶ月以上経った20001012日、アルカイダ工作員は、爆発物を積んだ小さなボートで、合衆国海軍駆逐艦「コール」を攻撃した。爆発が「コール」の側面に孔をあけ、乗組員17名が死亡、少なくとも40名が負傷した。
 この陰謀は、今では知られているように、ビン・ラディンの直接指揮による、完全にアルカイダが遂行した作戦だった。ビン・ラディンは目標を選定し、攻撃の場所を決め、自爆工作員を選んで、爆発物と装備を購入するのに必要な資金を提供した。ナシリは現地指揮官で、イエメンでの作戦を取り仕切った。ハラドはすでに述べたように、イエメンで[作戦を]助けていたが、身元確認の誤りによって逮捕され、その後、ビン・ラディンの助けで自由の身になった。アルカイダの地方責任者には、ジャマル・アル・バダウイとファド・アル・クソが含まれる。彼らは近くのアパートから攻撃の撮影を行なう手はずだった。自爆工作員に選ばれたのは、ハサン・アル・カムリと、ニブラスとしても知られるイブラヒム・アル・タワルだった。なお、ニブラスとクソは、20001月、ハラドのクアラルンプールとバンコック旅行の際、バンコックにいたハラドに金を運んでいる。
 20009月、ビン・ラディンはナシリにカムリとニブラスを配置代えしたいと話したとされる。ナシリは怒り、承諾しなかった。そして他の者に自分がアフガニスタンに行き、新しい工作員はすでに訓練されており、攻撃の準備が出来ているとビン・ラディンに説明するつもりだと言った。出発に先立ち、ナシリはニブラスとカムリに、アデン港に入る次の合衆国艦船に対して攻撃を実行するように指示した。
 ナシリがアフガニスタンにいる間に、ニブラスとカムリは機会を見つけた。彼らは爆発物を搭載したボートを「コール」に沿って航行し、乗員に対して友好的なジェスチュアを示した。そして爆薬を爆発させた。クソは攻撃を撮影する時間までに、アパートに到着しなかった。
 アフガニスタンに戻ると、ビン・ラディンは合衆国軍隊の報復を予期した。彼はカンダハル空港のアルカイダ複合施設をカラにするように命じ、逃れた。最初はカブール近くの砂漠地帯に、次いでコーストとジャララバードに行き、結局カンダハルに戻った。カンダハルでは彼は56か所の住居を巡り、そのそれぞれで一晩ずつすごした。さらに、彼は古参の補佐役モハメド・アテフをカンダハルの別の場所に、また副官アイマン・アル・ザワヒリをカブールに送り、一度の攻撃で3人すべてが殺されることのないようにした。
 アメリカの攻撃は無かった。20012月、ある情報源が、ある大物の指導者(おそらくビン・ラディンを指している。原注)が、合衆国が未だに攻撃してこないことに、しばしば不満を漏らしていると伝えてきた。その情報源によれば、ビン・ラディンは合衆国が攻撃することを望んでおり、もしそうならなければ、彼はさらに大きな事を起こすかもしれないということだった。
 「コール」に対する攻撃は、アルカイダの新人募集を活気づけた。攻撃に続いて、ビン・ラディンはハリド・シェイク・ムハンマドの率いるメディア委員会に、アルカイダの訓練キャンプと訓練方法の映像と共に「コール」襲撃の再現映像を含む宣伝ビデオの制作を指示した。そこではまた、パレスチナ、カシミール、インドネシアおよびチェチェンでのムスリムの苦しみが強調された。アルカイダの映像は、ビン・ラディンにとって重要であり、ビデオは広く配布された。その一部はアルジャジーラやCNNその他のテレビ局によって放映された。それは、サウジアラビアやイエメンの多くの若者の間で撒き散らされ、多くの過激主義者たちが訓練とジハードのためアフガニスタンを訪れるきっかけとなった。アルカイダのメンバーは、ビデオは他のイスラム主義者や聖戦主義者との主導権争いにとって、効果的な道具だと考えた。

攻撃の調査 
 FBI、海軍犯罪調査部およびCIAのチームが、攻撃について調査するため、直ちにイエメンに送られた。イエメンの合衆国大使バーバラ・ボーディンはイエメン政府がこれらの訪問者を受け入れ、かつ彼らに武器の携行を許すよう説得を試みた。しかしイエメン人たちはアメリカ人が長い銃(ライフル、猟銃、自動火器)を公然と持ち運ぶことに難色を示した。その間、ボーディンとFBIチームのリーダー、ジョン・オニールは繰り返し衝突した。ついには、オニールがイエメンを飛び出し、帰ることを望んだが、ボーディンはこれを拒否した。初めの緊張にもかかわらず、イエメン人とアメリカ人の調査は進んでいた。数週間のうちに事件の概要が浮かび上がった。
 「コール」攻撃の日には、容疑者のリストが集められていた。それにはアルカイダの支部である「エジプト・イスラム聖戦」も含まれていた。合衆国のテロリズム対策職員たちは、直ちにアルカイダの犯行だと思ったと我々に告げた。しかしDCI次官のジョン・マクローリンは、嗅ぎ、見て,味わうことでアルカイダの攻撃とするには、まだ十分ではないと我々に説いた。立件するには、CIAは推定だけでなく、アルカイダ工作員であることが周知の人物とのつながりが必要なのだ、と。
 攻撃直後の数週間のうちに、イエメン人[捜査官]たちはバダウイとクソの両人を発見し、逮捕していたが、FBIチームを尋問に参加させようとはしなかった。CIAは「コール」以後の当初のイエメンの援助を「遅く不適当」なものだったと述べている。クリントン大統領、オルブライト国務長官、DCIテネットも皆[このような状況に]介入の手をさし伸べなかった。情報は二次的なものだったため、合衆国チームは信頼性のある独自の評価が出来なかった。
 1111日、イエメン側はバダウイとクソの尋問で得られた新情報を、FBIにもたらした。そこには拘留者たちが作戦指示を受けた人物たちの容姿の描写も有った。その一人がハラドだという事は、片脚の男と記されていたために判った。ハラドは、コール作戦を、アフガニスタンもしくはパキスタンから、直接指示していたと拘留者たちは言った。ハラドと見られた人物が、実はタウフィク・ビン・アタシュであるとイエメン側は(正しく)判断していた。
 あるFBIの特別捜査官はハラドの名前に覚えが有り、このニュースを、定期的にCIAFBI職員に会っていた重要なアルカイダの情報源からの情報と結びつけた。その情報源は、ハラドをビン・ラディンの「使い走り」と呼び、数年前に訓練キャンプでの爆発事故で足の一本を失ったのだと説明した。この話を確認するため、FBIの捜査官にハラドの写真を求められたイエメン人[捜査官]は1122日に写真を提供した。ハラドが陰謀者とビン・ラディン間の仲介人であったという見解は再確認された。(数週間後の1216日、合衆国職員との会合で、情報提供者はイエメン人の写真からハラドを認定した。原注)。
 合衆国の情報機関は、すでにハラドを、1998年の大使館爆破事件を含むアルカイダのテロリスト作戦と結び付けていた。このときまでに、イエメン側もナシリを認定し、彼がアルカイダと1998年の大使館爆破に関係していたことが一層はっきりした。
 言いかえれば、イエメン側は11月の後半の間に、アルカイダへの所属が合衆国にも知られている個々の工作員を識別することによって、コール爆破とアルカイダを関係づける強固な証拠を提供したわけだ。12月中に合衆国はこれらの証拠を補強することが出来た。しかし合衆国は2002年と2003年のナシリとハラドの逮捕まで、ビン・ラディンのこの攻撃への個人的関与を示す証拠を持たなかった。


対応の検討 
 コール攻撃は、アルカイダについて何が出来るかを改めて考えるきっかけとなった。クラークによると、コール攻撃の後[国家安全保障補佐官]バーガーは、DCIテネットを激しく非難し、なぜ合衆国がこのような攻撃を我慢しなければならないかを知りたいと繰り返し要求した。そのためテネットは長官級会議の議場から出ていった。
 CIAはいくつか追加の極秘作戦(ca)を認可され、それにより、19997月の「通告メモ」 ―合衆国は異なる場所と状況下で、アルカイダの指導者たちに対する捕捉作戦の展開を認める― に数人の人名が追加された。テネットは、北部同盟およびウズベク人との関係を強化する、またレバノンでアルカイダ関連の当面の活動を遅らせるなど、追加の選択肢を明らかにした。
 外交路線としては、バーガーは20001030日、国務省がビン・ラディンの追放について、タリバンの外務次官アブダル・ジャリに、もう一度接触する許可を与えた。国家安全保障補佐官は、合衆国のメッセージは「厳しく、前兆を予感させるようなもの」とするように命じた。この警告は、1998年と1999年に出されたものと同じようなものだった。一方、政府はロシアと共同で、ムラー・オマール体制に対する新しい国連制裁を準備していた。
 クリントン大統領は、彼がアフガンのアルカイダにさらなる攻撃を開始するか、タリバンにもしビン・ラディンを直ちに追放しなければ恐ろしい打撃を与えるとの最後通告を送る前に、CIAFBIが「大衆の前に進み出て、彼(ビン・ラディン)の仕業だと信じる」と公言するだけの確信を持っているべきだと語った。大統領はまた「コール」攻撃について、どうすべきか明確な答えが得られないことに焦ら立っていたとも言った。同様にバーガーも当時を振り返って、戦闘状態に進行するには、情報機関と法執行機関の上級職員が、誰に責任があるのか結論を出したと大統領が言えることが必要だったと語った。彼は情報官庁が[アルカイダに対して]強い疑いを抱いてはいたが「我々がオフイスを去った時点では、アルカイダの仕業だと言う結論は出ていなかった」と回想している。
 このとき情報職員が何を考えていたかについての唯一の手がかりは、彼らが非公式のブリーフィングの中で言ったことである。「コール」攻撃の直後からクリントン政権の残りの期間にかけて、分析官たちは誰に責任があるのかについて文書の形での報告を出すのを止めていた。この問題は明らかに微妙なものだった。イエメンのボーディン大使も、ワシントンの分析官たちも、政府は報告が省庁間を回っている内に外部に漏れ、法の執行を妨げたり、大統領が窮地に立たされることを望んでいないのだと推測した。
 そこで、ホワイトハウスや他の首脳たちは、非公式な最新情報に頼っていたが、その間にも、さらに証拠がもたらされた。クラークはCIAがアルカイダに責任を負わせることを曖昧にしているのではないかと心配していた。彼は117日、バーガーに分析官たちは彼らの事件を「それは水かきの足を持ち、飛び、クッワ、クッワと鳴く」と描写していると書き送った。1110日、CIAの分析官たちは首脳部の小グループに、彼らの予備段階の発見を概要説明(ブリーフィング)した。それは、攻撃は国際的な聖戦機構になんらかの関係を持つ、イエメン人住民の細胞によって行われたというものだった。説明によれば、これら住民はアルカイダから何らかの支援を受けているようだとあったが、しかし外部の資金援助、支援および作戦の指揮については不明確だった。翌日バーガーとクラークは、クリントン大統領に、調査は継続されており、アルカイダが爆破を計画し指揮した事は、ますます明らかになって来ていると話した。
 11月半ば、アルカイダの関与の証拠が増大したので、バーガーはシェルトン将軍に早急にビン・ラディンに対抗する軍事計画を見直すよう頼んだ。シェルトン将軍は、中央軍司令部:CENTCOMの新しい指揮官、トミー・フランクスに、攻撃の選択肢を再検討せよと命じた。シェルトンは、軍にはどの案に沿っても動けるだけの知識と想像力が有り、どんな複雑な作戦でもこなせる事を誇示したかった。彼は、1998年以来開発してきた「完全解決」作戦の選択肢について、バーガーに概要を説明した。それは統合参謀本部とCENTCOMが夏の間に、13の実行可能な手段あるいは協同作戦のリストとして練り上げたものだった。CENTCOMはこれに、タリバンに対する攻撃を含む、より広範囲な攻撃の概念である新しい「段階的軍事行動」を付け加えた。この時初めて、これらの攻撃には、アフガニスタンに期間無制限の空爆を加えると言う構想が加わった。軍の作戦計画者はアフガニスタンへの偶発的侵攻は考慮していなかった。この考えは、1220日、国家安全保障補佐官代理のドナルド・ケリックその他の職員に概要説明された。
 1125日、バーガーとクラークは、FBICIAの捜査は公式の決定に至っていないが、その捜査はまもなく、攻撃はその上級メンバーがアルカイダに所属する大きな細胞によって実行されたという結論に達するだろうと信じていると、クリントン大統領に書き送った。[攻撃に]参加した彼らの多くは、アフガニスタンのビン・ラディン・キャンプで訓練を受けたとバーガーは続けた。これまでのところ、ビン・ラディンは個人的にはこの攻撃に関与していなかったし、さらに彼が直接それを命じるのを聞いたものはいなかったが、2通の情報報告が彼の関与を示唆していた。しかし、アルカイダの関与について、その可能性はあると論じながらも、バーガーはまだそれは「立証されていない仮定」だと言及した。
 同じ1125日のメモで、バーガーはクリントン大統領に真剣に考えているアイデア、タリバンに対する究極の最後通告の機会だと告げた。クラークは自らそのアイデアを特別の要求としてまとめた。すなわち、ビン・ラディンとその副官たちを直ちに合法的な政府に裁判のために引渡すこと、アフガニスタンでのすべてのテロリスト施設を監視下で閉鎖すること、90日以内にアフガニスタンからすべてのテロリストを追放すること等であった。これらの順守事項を無視すれば、合衆国が「タリバンそのものに武力を行使」し、タリバンの北部同盟撃破を不可能にするだろうというものだった。だがこうした最後通告は発せられる事はなかった。 
 約1ヶ月後の1221日、CIAは捜査チームの発見について、首脳部の小グループに対してさらに説明を行った。CIAの説明用スライドは、彼らの「予備的判定」は、ビン・ラディンのアルカイダグループが「コール」攻撃を支援したと言うもので、それは、攻撃の主犯たちをアルカイダとする強い状況証拠に基づいていた。CIAは、ナシリを含む主な容疑者のリストを作っていた。さらにCIAは作戦の時系列を詳細に記していた。それは1999年中頃の準備から、200013日の合衆国艦艇「サリバン」に対する失敗した攻撃、および攻撃前日の会合に至るものだった。
 スライドでは、CIAはまだ「誰がどうやって、外部から攻撃の指示を出したのかという重大な疑問に対する明確な答えを得ていなかった」ことが判る。CIAはハラドがアフガニスタンかパキスタンから、多分ビン・ラディンの代理人として、作戦の指揮を助けたというイエメン人[捜査官]の主張に注目していた。だがその主張には証拠がなかった。とはいえ、CIAは通報者と通信情報の両方から、ハラドがアルカイダにつながっている事を知っていた。用意されたブリーフィングの結論は、アルカイダの役割についてのいくつかの報告は価値があるものかもしれないが、これらの報告は明確な事実を何一つ言っていないというものだった。情報はアルカイダの攻撃指示について、ある程度のおぼろげな指針を与えた。
 クリントン大統領とバーガーは、戦争に突入するか、突入するという脅しの最後通告をタリバンに発するために必要としたのはこんな結論ではなかったと、我々に語った。選挙と権力の移行が問題だったのではないとクリントン大領は付け加えた。まだ充分な時間はあった。もし担当官庁が彼に決定的回答を与えていれば、彼は国連安全保障理事会に最後通告を求め、1ないし3日の猶予を与えたうえで、アルカイダとタリバンに対して次の行動を起こしただろうと語った。しかし彼は「予備的判定」に基づいて他国への侵入を発令することが、大統領の責任であるとは考えなかった。
 他の補佐官たちもこの懸念に同調した。オルブライト国務長官の顧問たちは、当時、何らかの対応、特に軍事的対応をとる前にビン・ラディンの「コール」への関与の決定的証拠を確認するよう警告した。なぜなら、このような行動はイスラム世界を憤慨させ、タリバンの支持を増加するに違いないからだ。コーエン国防長官は、アルカイダに責任があるとの単なる仮定の上にたって、市民を殺す危険を冒す事は、慎重とは言えないだろうと我々に語った。シェルトン将軍は誰に責任があるか、標的が何であるかという、未解決の問題があると付け加えた。
 ペンタゴンと国務省が報復を保留する一方、FBICIAは確固たる結論に至りはしなかったので、発令は遂にされなかった、とクラークは回想した。そして、彼らは「しり込み」していると思った。彼は、何故かは知らないがその感触から、おそらくテネットとレノは、ホワイトハウスは「知ることを本当に望んでいない」と考えているといった。それは11月の首脳の討議以来、ホワイトハウスは残りの政府の任期中に、アフガニスタンに対するこれ以上の軍事作戦に関心を持っていないことを示唆したからだった。その代わりにクリントン大統領、バーガー、オルブライト国務長官は、最後の一押しをパレスチナとイスラエルの和平合意に集中していると彼[クラーク]は考えた。
 クラークの仲間のテロリズム対策の職員たち、国務省のシーハン、FBIのワトソンなどは、この時期に軍の反応が無いことについての失望を共にしていた。クラークは最近、怒ったシーハンが「彼らの注意を引くために、アルカイダはペンタゴンを攻撃しなければならないのか」と大げさに国防総省の職員に言ったことを思い出した。
 証拠の問題について、テネットは、ホワイトハウスがアルカイダに対して行動を起こす前に、コール攻撃の責任について、彼からの結論を待っていたと聞いて驚かされたと語った。彼はバーガーであれ他の誰であれ、CIAFBIからの魔法の言葉を待っていると、彼に言うのを聞いた覚えはなかったし、バーガーや大統領と、報復攻撃について何らかの論議をした覚えもなかった。テネットはこの事件について報告するのは自分の責任だと信じていたと語った。次に報告は首脳部に上げられ、その事件に武力を使うことが充分正当化されるか否かを決定することになる。彼は捜査の比較的初期の段階で、知り得たことを開示したと信じている。そしてその証拠は、9/11以後も実際に全く変わらなかった。 
 あるCIA職員が語ったところによると、CIA分析官は「予備的判定(preliminary judgment)」という言葉を選ぶと我々に語った。これは証拠についての情報基準の観念が、法律的基準とは大いに異なっているからだという。[コール]攻撃は犯罪捜査の対象であるから、予備的という語を使うのは、後の法廷で被告側弁護人が入手するかも知れない陳述で、政府が窮地に陥ることの無いようにするためである。これを聞いてクラークは、情報事件と司法事件の区分の問題に気付かされた。合衆国の法執行職員に、その捜査の完了の前に情報事件について協力を求めたとすると、「政府が最終的な有罪判決が出る前に行動した」との非難を引き起こしかねない。 
 ペンタゴンの新しい「段階的軍事行動」であれ、長期に及ぶアフガニスタンの空爆行動であれ、軍事行動の実施はどのような様相を呈するかについて、省庁間で考察された事はなかった。ウオルター・スロコム次官、フライ准将のような国防総省職員によれば、軍事的報復の選択肢はなお限られていたと我々に語った。ビン・ラディンはいまだに捕まえられず、逃げ続けている。彼らは、過去2年間考え続けていたように、安っぽくてちゃちな訓練キャンプを高価なミサイルで攻撃するのはあまり効果的ではない。まして、もしビン・ラディン殺害に失敗すればアルカイダを助けることにもなりかねないと感じていた。
 2000年遅く、CIANSCスタッフは新しい政府に提出することになる、テロリスト政策の覚書を考え始めた。CTCは、いかなる先例にも、財政的束縛にもとらわれない、最良のアイデアと思われるものを書き記した。それは、非公式に「ブルースカイ」メモと呼ばれ、1229日、クラークのもとに送られた。メモが提案していたのは、
・情報共有と資金提供の増加によって、北部同盟を大いに支援する。それにより、タリバンを食いとめ、アルカイダの 戦闘員を縛りつけることが出来る。この努力はタリバンを権力から取り除こうとすることではない。そのゴールは実 際的ではないとされ、CIAが単独で達成するには費用がかかりすぎると判断された。
・ウズベクに対する支援を増加して、彼らがテロリズムと戦う能力を強化し、それによって合衆国を助けるようにする 。
・反タリバングループやその代理人を援助し、受動的にでもタリバンに抵抗するよう激励する。
 そのCIAメモには「アフガニスタンで増大している問題の対処に役立つ、単一の『銀の弾丸』[特効薬]は無い」と記されていた。変化をもたらすには、多面的な戦略が必要とされるだろう。
 クリントン政権の残りの数週間で、こうしたアイデアによる行動は何もとられなかった。バーガーは「ブルースカイ」メモを見直すことも、ブリーフィングされることもなかったと回想する。また新しくやってくるブッシュ政権の上級職員との間で、政権移行期間中にメモが討議されることもなかった。テネットとその次官は、新しいチームが就任した後、このアイデアを選択肢として示したと我々に語った。
 クリントン政権が終わりに近づくと、クラークとそのスタッフは彼ら自身の政策文書をまとめ始めた。それは1998年のデレンダ計画以来の、最初の包括的な取組みだった。最終的に文書は「アルカイダの聖戦ネットワークからの脅威を取り除く戦略:現状と展望」と名付けられた。そこでは、これまでの脅威を見直して日を追って記録し、さらに「ブルースカイメモ」からCIAの新しい考えを取り入れ、またいくつかの当面の政策の選択肢を提示した。
 クラークと彼のスタッフは、3ないし5年でのアルカイダ「巻き返し」を目標地点として示した。その期間内で、彼らのネットワークの社会的基礎を弱め、取り除き、かつては恐れられていたが、今はおおむね休眠中の1980年代のテロリストの組織のような「残党グループ」にするための政策が試みられねばならない。「現在のレベルでアルカイダ作戦を続ければ、ある程度の攻撃を防げるだろう」「だが彼らの攻撃を計画し実行する能力を大きく減退させはしないだろう」。その文書は北部同盟およびウズベキスタンへの秘密援助、新型プレデターによる20013月の飛行再開を支持していた。一つの文章は、アルカイダの指揮・管理施設、インフラ基盤、およびタリバンの軍と指導部の資産などを破壊するため、軍の行動を要求していた。文書はまた合衆国内のあるカイダ工作員の存在について懸念を表明していた。
64 変化と継続                     (原文p.198)
 2000117日、アメリカの有権者たちは、合衆国の歴史上もっとも接近した大統領コンテストの一つとなった選挙の投票に出かけた。その選挙期間中、アルカイダの脅威とテロリズムのまじめな討論は明らかに不在だった。選挙は、36日に及ぶ法律上の戦いとなった。126日の最高裁判所での54の判決および副大統領アル・ゴア[民主党候補:クリントン政権副大統領]の譲歩まで、2001年に大統領となるのが、ゴアか、あるいは彼の共和党の対抗馬;テキサス州知事ジョージ・ W.・ブッシか、誰も知らなかった。
 選挙をめぐる論争と36日の遅れは、通常の[政権]移行期間を半分にした。合衆国の大統領選挙は、職員の大規模な変化をもたらす。この時間の損失は、新しい政府の人選、募集、更迭および主要被指名者の上院での承認を妨げた。

 旧から新へ
 ブッシュのホワイトハウス・スタッフの主役は国家安全保障担当大統領補佐官[*]のコンドリーザ・ライスだろう。彼女は[先代:第四十一代]ジョージ・H.W.ブッシュ政府のNSCのメンバーだった。ライスの補佐官代理、ステファン・ハドリーは先のブッシュ政府の国防次官補だった。そして主席補佐官のアンドリュー・カードは同じ政府の主席補佐官代理で、運輸長官だった。ブッシュは国務長官にコリン・パウエル将軍を選んだ。彼はロナルド・レーガン大統領の安全保障担当補佐官であり、統合参謀本部議長だった。国防長官に彼はドナルド・ラムズフェルドを選んだ。彼は先に議会のメンバーであり、ホワイトハウスの主席補佐官だった。またジェネラル・フォード大統領のもとですでに国防長官を経験していた。ブッシュは、かなり早々とテネットを中央情報長官として留任することに決めた。ルイス・フリーはFBI長官として法的に10年の任期だったので、2001年夏の自然退職まで留まった。
 
 [*]これが正式名称だが、、以下「安全保障補佐官」と記載する。他の補佐官についてもこれに準じる。    (訳者)
 ブッシュと彼の上級顧問たちは全員、ビン・ラディンを含むテロリズムの概況説明(ブリーフィングを受けた。20009月始め[原文のママ]、CIAの中央情報副長官代行のジョン・マクローリンは、テキサス州クロフォードのブッシュの牧場にチームをつれて行き、4時間にわたり彼等に広範囲な極秘情報についての総括を行った。CIAのテロリスト対策センター次長のベン・ボンクは、4時間のうちのいくらかをテロリズムについて論じた。テロリストが化学、生物、放射性物質、核兵器などを得た危険性を強調するために、ボンクは終末カルト「オウム真理教」が1995年、東京の地下鉄で致死的神経性サリンガスを撒き散らした方法を再現するための模型のスーツケースを持ってきた(*)。ボンクはブッシュに次の四年の間にアメリカ人がテロリズムによって死ぬかもしれないと話した。

 選挙の日から後の長い抗争の期間中、CIAはブッシュと彼の主要な補佐官に情報を渡すための事務所をクロフォードに設立した。テネットは彼の工作本部担当次官ジェームス・パビットを伴って移行期間中に、迎賓館(ブレアハウス)で大統領当選者ブッシュに概況報告を行った。ブッシュ大統領は、テネットにCIAはビン・ラディン殺すことが出来るかと尋ねたと我々に語った。テネットはビン・ラディンを殺す事は一定の効果があるかもしれないが、脅威の終わりでは無いと答えた。ブッシュ大統領は、CIAは必要とされるすべての機能を持っているとテネットは答えたと我々に語った。
 12月、ブッシュはクリントンと会い、2時間にわたり一対一で国家安全保障と外交政策の課題について討論した。クリントンはブッシュに「ビン・ラディンとアルカイダが、何にもましてあなたの脅威であることがいずれ判るでしょう」と言ったことを回想した。彼はまた「私の大統領任期中に、彼(ビン・ラディン)をあなたのために捕らえられなかった事を、とても悔やんでいます。私はそうしようとしたのですが」と言ったと我々に語った。ブッシュは「委員会」に、クリントン大統領はテロリズムについて述べたが、アルカイダについて語ったかどうかはあまり覚えていないと言った。ブッシュは、クリントンはその他の、北朝鮮やイスラエル―パレスチナ間の平和プロセスなどの問題を強調したことを思い出した。
 1月初旬、クラークはライスにテロリズムについて概況報告を行った。彼は同じ説明 ―アルカイダは、聖戦組織の融通無碍な世界的ネットワークであり、また致死的な中核テロリスト組織でもある― を、副大統領当選者チェイニー、ハドリー、および国務長官被氏名者パウエルにも行った。説明スライドの一節では、アルカイダは休眠細胞を、合衆国を含む四十か国以上に持っていると告げていた。バーガーは、ライスに対するクラークの概要報告で、この問題の重要性を強調するために「割り込んだ」と我々に語った。同じ日遅く、バーガーはライスに会った。彼は、ブッシュ政権は何にもまして一般にはテロリズム、特にアルカイダに、さらに多くの時間を使うべきだと語った。ライスの記憶では、バーガーは、彼女がテロリズムに関わる時間は、予想をはるかに超えたものになるだろうと話した。たが、二人の話題のほとんどは進捗しない中東和平プロセスと北朝鮮についてだった。
 新チームは8年間野党の立場にあったが、アルカイダや超国家的テロリストの新たな脅威について、短期間で多くを学び理解していったとクラークは言った。
新しい政府の組織化
 短い政権移行の期間中、ライスとハドリーはNSCのスタッフ人事と組織作りに集中した。彼らの政策の優先順位はクリントン政府のそれとは異なっていた。優先政策には、中国、ミサイル防衛、中東和平プロセスの破綻、およびペルシャ湾などが有った。テロリズムが先代のブッシュ政権の時とは違ってきていることに、おおむね気付いていた。彼らは、対テロリズム政策をいかに調整するかに特別の注意を払った。ライスはバージニア大学の歴史学教授、フィリップ・ ゼリコウにその推移について助言を求めた。ハドリーとゼリコウは、クラークとその副官(deputy)ロジャー・クレッシーに、テロリストの脅威と、クラークの「超国家的脅威に関する部会」と「テロリズム対策安全保障グループ(CSG)」がどのように機能しているかについて、特別の概況報告を求めた。
 第1次ブッシュ政権下のNSCでは、多くの困難な問題が次官級会議に提出された。次官達が解決不能な場合以外は、問題が長官まで送られることはなかった。
 クリントン政権の大統領指令62号(Presidential Directive 62)は、クラークのテロリズム対策安全保障グループは、次官級会議を通じて報告すべきであり、直接長官に報告する場合はバーガーの決定によると明確に述べている。バーガーは、実際にはクラークのグループが次官級会議と同列のものとして機能することを許してきた。そして、特別の小グループに出席している長官級会議のメンバーに直接報告していた。そこでは、クラーク自身は事実上、長官のようだった。
 ライスは、対テロリズム政策を調整するために作られてきたこの特殊な構造を変えることにした。クラークの省庁間委員会も他のすべての委員会と同じく、次官を通じて長官に報告することが、健全な政策決定に重要なことだ、と彼女は感じた。
 ライスは、先ずクラークとそのテロリズム対策安全保障グループ全員の留任を決定した。これは、新政権としては異例のことだと彼女自身が言っている。彼女はまた、クラークはもはや長官級会議の事実上のメンバーではなかったが、彼に国家テロリズム対策調整官の肩書きを残した。ライスは、クラークの留任は論議が無かったわけではなかったという。彼は 欠陥のある人間(broken china)/「トラブル・メーカー」として知られていたからである。しかし、彼女とハドリーは、経験ある危機管理官を求めていた。バーガーのスタッフの中には、クラークのように政府の梃子となる、細部にわたる知識を持った者はいなかった。
 クラークは、この処置を降格と感じて失望した。彼はまた次官級会議を通じる報告が、テロリズム対策の政策決定を遅らせることになることを懸念していた。
 政権移行に伴いすべてが変化する中で、対テロリズム政策が継続性を持ったことは重要
であった。クラークと彼のテロリズム対策安全保障グループ(CSG)は協力を続けるだろ
う。テネットは中央情報長官(DCI)に留まり、ブラックと彼のテロリスト対策センターCTC)を含む主要な下部機構を保持した。シェルトンは、おおむね同じスタッフと共に
統合参謀本部議長に残った。FBIでは、フリー長官とテロリズム対策主席長官補佐:デー
ル・ワトソンも留任した。国務省とペンタゴンのテロリズム対策の実務級職員も、それが
当然の事のようにそのまま留まった。変化があったのは、閣僚とその下のレベルおよび
CSG内部の報告方法だった。次官レベルでは、主要な職員の決定にかなりの遅れがあっ
た。特に国防総省の遅れが目立った。
 ブッシュ政権のやり方は、前任者に比べると時にフォーマル、時にインフォーマルだった。クリントン大統領は貪欲な読書家で、大統領日報を文書で受け取っていた。彼はしばしば質問をなぐり書きし、余白にコメントを書き込み、文書による回答を引きだした。対照的に、ブッシュ新大統領は、DCIからの対面報告のやり方に戻した。大統領とテネットは、執務室(オーバル・オフイス)で午前8時に会い、そこにはチェイニー副大統領、ライス、カードもたいていは出席した。大統領とDCIは、共にこの毎日の協議は情報問題の交換に有意義な機会となったと我々に語った。
 大統領は毎日ライスと話し合い、彼女は毎日、少なくともパウエルとラムズフェルドと電話で話すことになった。その結果大統領は、公式の会議はあまり必要がないとしばしば感じた。とはいえ、あるイベントなり出来事で、行動を要すると彼が決断した場合には、ライスはハドリーに電話して次官級会議を開き、対策を検討するのが常だった。このプロセスは、しばしば忍耐力を試されたと大統領は語ったが、これが協調に必要なことは理解していた。

初期の決定

 ブッシュの就任から数日後に、クラークはライスに会った。それは彼女と、新大統領に、テロリズム対策に高い優先順位を与え、彼が前政権の最後の何か月かに進めてきた覚書に沿って行動するよう、努力して貰うためだった。ライスが全上級スタッフに、主な政策の再検討あるいは提案を明らかにするよう要求した後、クラークは2001125日、努力して作り上げたメモランダムを提出した。彼はそれに1998年のデレンダ計画と、200012月の戦略文書「我々は緊急に・・・アルカイダ・ネットワークについて長官級の再検討を必要としている」を添付したと書いている。
 彼[クラーク]は、長官級会議が、アルカイダが「第一級の脅威」なのか「臆病な」警告者たちによって言いふらされているだけの、控えめな心配ごとなのかを決定することを望んでいた。クラークは、ライスのために準備した政権移行時の概況説明を引用しながら、アルカイダは「広範囲な地域政策の中に含めるような、狭く小さなテロリスト問題ではない」と書いた。二つの重要事項が未決定のままだと彼は記した。それは春に戦闘が再燃した時、北部同盟を生かし続ける極秘支援と、ウズベクへの同じ支援である。クラークはまたタリバンとパキスタンに対して、アフガニスタンのアルカイダの保護区[廃止]について直ちにメッセージを送ること、新しい資金をCIAに作ること、および、合衆国艦船コール攻撃について、いつどのように反撃するかなどについて早急に決定されるべきだと提案した。
 国家安全保障補佐官ライスは、クラークのメモに直接は答えなかった。長官級会議は、200194まで、アルカイダについての会議を持たなかった。(だが、長官級会議は他の問題、中東和平プロセスや、ロシア、ペルシャ湾などについては、しばしば会っていた)。しかし、ライスとハドリーも、クラークがリストにあげた事項について取り組みはじめた。コールについて何をするか、何を言うかは、就任以来の明瞭な問題点だった。攻撃の起きた日、それは選挙の25日前だったが、ブッシュ候補はCNNに次のように述べた。「私は、誰の仕業か、十分な情報を集めて突き止め、必要な行動をとる積りだ。そしてしかるべき決着を付けなければならない」クリントン政権は軍事的対応をとらなかったが、ブッシュ政権は何をするだろうか?
 125日、テネットは大統領にコールの捜査について概況説明をした。新政権の首脳たちにも、文書による概要報告が繰返されたが、それはCIA11月に、ホワイトハウスでクリントンに口頭で行ったものと同じだった。そこには、アルカイダの犯行であると言う「予備的判定」が含まれていたが、ビン・ラディン自身が攻撃を指示したといういかなる証拠も、今のところ見いだされていないという但し書き付きだった。テネットは、このブリーフィングについて大統領と話したことは全く記憶にないと、我々に語った。
 この125日のメモの中で、クラークはライスにコール攻撃に対して政府は対応すべきだと助言していた。 ただし「その日時、場所、方法は我々が選択して優位に立ち、型にはまった対応を余儀なくされる事のないようにしなければならない」。2月中旬、チェイニー副大統領がCIAを訪問する前に、クラークは彼にメモを送った。 ―これはホワイトハウスの文書管理方式から外れていた― そこで彼は、CIA職員に「アルカイダはコール爆破の犯人であると最終的にCIAが決定するには、どのような追加情報が必要か」を尋ねてほしいと提案した。20013月、ライスに対するCIAのブリーフィング用スライドでは、アルカイダを指向する「強い状況証拠」はあるものの、CIAは依然として、攻撃が外部の指令とその管理下で行われたという決定的な情報を欠いたままである、という「予備的判定」のままだった。クラークとその補佐たちは、アルカイダについてのさらに強化された証拠をライスとハドリーに提供し、行動に駆り立て続けていた。
 大統領は、効果のない空爆は、ビン・ラディンのプロパガンダを助長するのではないかと心配していたと、我々に説明した。彼はクリントン政府からタリバンについての警告を聞いたことが無かったと言った。そして、このような事案には合衆国は地上戦力を使うべきだと決めていたとも語った。
 ライスはコールについて明確に復讐をしないと言う公的な、記録された決定は絶対に無かったと語った。[彼女と]大統領との、大統領とテネットの、彼女自身とパウエルおよびラムズフェルドとの意見交換で、「しっぺ返し」のように反応するのは逆効果になりかねないという合意が生まれた。彼女は、これは19988月の巡航ミサイル攻撃の場合と同じだと考えた。ペンタゴンの新チームは、あえて行動に出ようとはしなかった。一方、ラムズフェルドは時間が経ちすぎたと考えており、彼の副長官ポール・ウオルフビッツは、コール攻撃は「古くさい」ものと考えていた。結局、新政権のコールに対する真の対応は、アルカイダに対して新しい、より攻撃的な戦略になるだろうとハドリーは言った。
 政府は議会に対して、CIAFBIを含む国家安全保障機関のテロリズム対策予算を大幅に増加する提案を出すことに決めた。そこには、CIAのテロリスト対策予算の27%増額も含んでいた。

再検討の始まり
 3月初旬、政府は北部同盟とウズベクに対する援助の増加提案を先送りした。ライスによれば、当時、対アフガニスタン政策をより大幅に検討し直す必用があったし、彼女としてもそれを直ちにやりたかった。
 ライスその他の人たちは、大統領が「私は蝿叩きに疲れた」と語ったことを思い出した。大統領はまた「私は守備にはうんざりだ。攻撃に出たい。私はテロリストと戦いたい」と言ったとされている。ブッシュ大統領は、我慢ができなくなっていたと我々に説明した。彼はアルカイダを押し戻す提案をいろいろ聞かされてきたようだ。だが、テロリストを一人一人掴まえ、あるいは、細胞を一つ一つ潰す事は、長期的にみて有効な手段ではないと感じていた。同時に政策は、外交、財務、軍事手段が互いにかみ合うように、ゆっくりと展開させるべきだということを理解していたと彼は言った。
 37日、ハドリーが非公式な次官級会議を招集したとき、次官のうちの幾人かはなお正式に決定していなかった。クラークの様々な提案 ―北部同盟とウズベクへの援助、プレデターの特殊飛行― などが、この時、初めてグループの前に呈示された。ブッシュのNSCの中で、それらを行う事はもっとも政治的な作業だった。彼らはこれらの特別な提案について、何も決定を行わなかったが、ハドリーは、テロリズムに関する国家安全保障大統領指令NSPD)があるべきだと結論していた様だ。
 クラークは後に、アルカイダ相手の戦略は、地域政策の状況の中に組み込まれるべきだという次官たちの主張に、いら立ちを示した。彼はそのようにする利点が、時間の損失に釣り合うのかと疑っていた。政府は、事実、優先度を再検討することなく、イラクとスーダンを含む話題について長官級会議を進めており、クラークもまた同様に限られたテロリズム対策の覚書を進めたがっていた。だが、大統領の上級補佐官たちは、アルカイダ問題はアフガニスタンとパキスタンのピースを埋める事なしには、組み立てることができないパズルの一部だと見ていた。ライスは、次官たちが彼らの考えによる新しい政策をまとめるまで、アルカイダについての長官級会議の開催を延期する事にした。
 430日、全次官による会議は、アルカイダについて討議した。CIAの概況報告(ブリーフィング)のスライドは、その「指導力、経験、資産、アフガニスタン内の安全な聖域、そして合衆国攻撃に焦点を当てていること」などを引用して、「われわれが直面する最も危険なグループ」とアルカイダを描写した。「更なる攻撃があるだろう」とスライドは警告していた。
 この会議で次官たちはウズベキスタンへの秘密援助を支持した。北部同盟については「現時点では何も大きな関わりを持たない」ことで合意した。ワシントンは、この時初めて、他の反タリバン・グループへの援助案を検討することになった。その一方で、政府は「パキスタンについて合衆国政府の政策の広範囲な見直し」を始め、アフガニスタンに対する「体制の変更を支持する選択肢も含まれる」政策の探求に入ることになった。実務級の職員たちは、新しい段階でのテロリストの資金調達と、ムスリム世界で絶えず悶着を起こすアメリカの公的外交努力 ―これについてNSCスタッフは、「これまで世論という法廷の場で、アルカイダにおおむね譲歩して来た」と警告した― について、新たな手法を考察すことになった。
 なおも政策再検討がはかばかしく進まないことにこだわってきたクラークは、いまや、テロリズムの変質を次官たちに納得させる大きなチャンスを見た。この戦略を肉付けするプロセスが始まった。
      
                       
目次へ
65 新しい政府のアプローチ    (原文 p.203
 ブッシュ政権は始めの数ヶ月、テロリズム以外の多くの問題に直面した。そこには、中東和平プロセスの破綻、そして4月には合衆国のスパイ飛行機の中国領内での強制着陸についての危機などが含まれていた。新政権はまたロシア、ミサイル防衛の新核戦略、ヨーロッパ、メキシコ、ペルシャ湾などに強い焦点をあてていた。
 春になると、テロリズムに関する報告が次々と寄せられてきた。第8章で我々はこれらの報告と、省庁の対応方法について検討する。これら増加する警報は大統領と首脳たちに概況報告され、新政権がアルカイダに対する政策の選択肢を重視する背景の一部となった。
 CSGが検討し、明らかに信頼できないと判断した僅かな報告を除いて、アルカイダが合衆国内で何かやりそうだ、という事を特に指摘したものは1件も無かった。それでも、CSGは国内での脅威について引き続き懸念し続けた。海外で集められたものばかりだったが、寄せ集めの脅威の情報がテロリズム対策センターからもたらされた。その報告はFBIの報告によって補足されるものではなかった。クラークは合衆国内に存在するアルカイダについての懸念を表明した。そして、ヒズボラ、ハマス、アルカイダその他のテロリスト組織がホワイトハウスを攻撃するのではないかと心配していた。
 5月、ブッシュ大統領は、副大統領チェイニーみずから、起こりうる大量破壊兵器による攻撃に対する管理体制の準備、およびさらに一般的な諸問題の国としての準備についての取り組みを主導すると発表した。引き続く2、3か月は、主にその努力を組織化し、それを管理するため、第6艦隊の提督をワシントンに連れ戻すことに費やされた。副大統領の合同チーム(タスクフォース)が動きだそうとしていたまさにその時、9/11攻撃が勃発することになる。  
 529日、テネットの要請により、ライスとテネットは彼らの毎週の定例会議を、アルカイダについてのより広汎な討論に変更した。参加者は、クラーク、CTC局長のコファー・ブラック、ビン・ラディン班に権限を持つ主任「リチャード」などであった。ライスは「攻勢を取る」事についてと、ビン・ラディンやタリバンに影響を与える何かの方法をとることができるかについて尋ねた。クラークとブラックは、CIAが進めている破壊活動が「攻勢を取る」ことであり、それでもビン・ラディンを止める事はできないだろうと答えた。ビン・ラディンの組織の「背骨を砕く」ことについて、その後、広範な論議が続いた。
 テネットは、CIA200012月に開発した
極秘活動(ca)という野心的な計画を力説した。3月にこの計画の草案の認可を討議していたとき、CIAの職員はこの計画の予測支出レベルは、CIAの対テロリズ秘密活動の現行の全予算額より大きくなるだろうと指摘した。それは、このようなレベルの支出を約5年の間必要とする多年度計画となるだろう。

CIA職員「リチャード」は、ライスは「了解した」と言ったと、我々に語った。彼女は何をなされねばならないかと言う彼の結論に同意したのだと彼は言った。だが、その政策はすみやかには実施されなかったと我々にこぼした。クラークとブラックは、ビン・ラディンの組織を攻撃する、ごく些細なものから最も野心的な範囲に及ぶさまざまな選択肢の立案を求められた。

 ライスとハドリーは、クラークとそのスタッフに、新しい大統領指令(presidential directive)を書き上げるよう求めた。67日、ハドリーは、アルカイダに立ち向かう「かなり野心的な」プログラムと称する最初の草案を回覧した。その草案はNSPD[国家安全保障大統領指令]のゴールは、「合衆国と友好国政府の脅威であるテロリスト・グループのアルカイダ・ネットワークを根絶すること」であるとしていた。それには、外交、秘密活動、経済対策、法の執行、民間外交、そしてもし必要なら軍事行動を含む長い年月の努力が求められていた。国務省はすべてのアルカイダの保護区を終わらせるよう、諸外国政府と協調する。またテロリストの財源を遮断すべく財務省とも協同作業をする。CIAは、反タリバン・グループへのかなりの追加資金援助と、その他の支援を含む秘密活動の拡大計画を立案することになる。この草案は、さらに2002年から2006年に至る合衆国予算の中に、これらのプログラム実施に必要な十分な資金を確保する任務をOMB[行政管理予算局]に課していた。

ライスはこの大統領令の草案を、国力のあらゆる機能を駆使して、アルカイダの脅威を取り除く、包括的新戦略の具体化であると見なした。しかしクラークは、新しい草案は彼が200012月に立案し、新政府に20011月に提出した提案と基本的には同じだと見ていた。5月か6月に、クラークは彼のテロリズム対策の職務から、新しく設置される一連のサイバー安全保障の責任者への異動を求められた。彼は、自分の役割と、アルカイダを深刻に視ているとは思えない政府に、不満が貯まっていたと我々に語った。ライスは、もしクラークが不満を抱いていたとしても、それを一度として彼女に表したことは無いと語った。

袋小路の外交  
アフガニスタン新政権は、すでに先任者たちが辿った多くの小道を踏み返しながら、可能性のある外交上の選択肢を捜し始めていた。合衆国特使は、タリバンに、ビン・ラディンを「彼が裁かれる事になる国に引き渡す」よう、再び圧力を加え始めた。さらに、合衆国資産に対するいかなるアルカイダの攻撃にも、タリバンは責任があるとの警告を再び繰り返した。タリバンの代表者も彼らの古くからの理由を繰り返した。国務次官アーミテージは、2001年春から夏にかけて、アフガニスタンにおける合衆国外交官はより活動的になったが「この事を、前政権からの劇的な変化であるとは言い難い」と我々に語った。 
 6月末の次官級の会議において、テネットは、アルカイダ対策についてタリバンが合衆国と協力する可能性がどの程度あるかを見積もる任務を課せられた。NSCのスタッフは、タリバンを取り扱うための選択肢を具体化する任務を与えられた。これらの問題を再び見直すことは、すでにこの道を通ったことがあると感じている職員や、NSCのやり方は遅いと知った職員たちの忍耐力を試すことになった。「我々は十分早かったわけではない」アーミテージは我々に語った。南アジアでの合衆国の政策に大幅な手直しが有るからといって、そのためにタリバンとアルカイダに対する動きを何か月も手控えるべきではないとクラークは論じ続けていた。「政府としては」ハドリーは我々に語った。「出来る限り早くそれを動かした」。
 タリバンを動かす全ての望みが薄れた後[タリバンに]反対する組織に秘密の援助を与える論議が復活した。クラークとCIAのコファー・ブラックは北部同盟への援助推進を再度主張した。クラークは、援助にあたって、まず最初はタリバンを打倒する目的ではなく、北部同盟が戦闘を続け、アルカイダを縛り付けるのに丁度良い位の控えめな援助から始める事を提案した。
 ライス、ハドリー、アフガニスタン担当のNSCスタッフ、ザルメイ・ハリルザドらは、北部同盟のみに援助を与えることに反対だったと我々に語った。彼らはタリバンの対抗者であるパシュトン族の大部分を味方につける計画が必要だと論じた。そして、その計画はこれまで示唆されてきたものよりも、大きなスケールで実施されるべきだと考えた。クラークは大きな計画という点には同意したが、もたついていると、タリバンの手で北部同盟の息の根が止められる恐れがあると警告した。
 春の間に、CIANSCの求めに応じて、タリバンの敵に対する大規模な秘密援助の法的権限 ―大統領事実認定(findings)― の草稿を作成した。その草稿は、援助の目的はタリバンの打倒ではないと表明していた。しかしこの計画でさえ、非常に費用のかかるものであった。草稿はそれ以前の会談の文脈を背景とするもので、テネットは、3月にこうした大きな計画が、この地域の政治状況にもたらす衝撃を考慮する必要があると強調したし、5月にはライスに多年にわたる財政介入の必要性を説いていた。
 7月までには、次官たちは、タリバンに態度を変えるよう説得する最後の努力がなされるべきであり、それが失敗した場合に、政府は大幅に拡大した秘密活動プログラムを発動するべきだと言う合意に達していた。7月に大統領指令directive)の草案が回覧されると、国務省は、1996年以来の、ビン・ラディンについてタリバンと交渉しようとした合衆国の努力の長い歴史的回顧録を次官たちに送った。「これらの協議は実りが無かった」と国務省は結論した。
 夏の間の討議で、合衆国の秘密活動計画がアフガニスタン政権を一変させるために、断固として内戦に介入し、体制の打倒を求めるべきか否かという、より根本的な問題が表面化した。910日の次官会議の終わりに、職員たちは三層の戦略について公式に合意した。第1はタリバンに最後のチャンスを与える特使を送ることである。もしこれが失敗した場合、計画された極秘活動プログラムと結合して、外交的圧力を加え続ける。そのプログラムとは、すべての主要部族の反タリバン系アフガン人を励まして、内戦でタリバンを行き詰まらせ、アルカイダの基地を攻撃する。その一方 [第2段階]で、合衆国は体制を掘りくずす国際的な同盟を作り出す。第3段階では、それでもタリバンの政策が変わらなければ、合衆国はタリバンの指導部を内部から転覆させる極秘活動(ca)を行う、ということで次官たちは合意した。
 次官たちは、この戦略を追加するために、アルカイダについての大統領指令directive)を改訂し、大統領の承認を得るための最終案とすることに合意した。アーミテージは、前政権の政策を数か月間継続した後、パウエルと共に国務省をタリバン打倒政策へと引っ張り込もうとしていたと我々に語った。この見解では、ひとたび合衆国が北部同盟に加担すると、たとえ内密であっても、それは体制の変更に手をつける行動を取ったことになり、反体制派に完全な勝利をもたらす力を与えるに違いない。
パキスタン:合衆国がパキスタンとの連携の中で達成しようとした、さまざまな目標から生じた数々のジレンマに、ブッシュ政権はすぐさま直面することになった。20012月、ブッシュ大統領はムシャラフ将軍に多くのことを書き送った。彼は、ビン・ラディンとアルカイダは「合衆国とその権益に対する直接の脅威であり、それに対処しなければならない」と強調した。彼はムシャラフに、ビン・ラディンとアルカイダに対して、彼のタリバンに対する影響力を行使するよう説得した。パウエルとアーミテージは、パキスタンの鼻先にぶら下げるさらに多くの「ニンジン」を手に入れる可能性を再検討した。パキスタンについて、議会は一般的に否定的評価に傾いていたため、制裁の解除と言うアイデアは不自然なものに見えたかもしれないが、彼の政府と国民の中のイスラム主義者に敵対するようにムシャラフを説得することの方がもっと無理な話だろう。
 618日、ライスは来訪中のパキスタン外相アブドル・サターに会った。彼女は、アルカイダについて「思いのたけをぶちまけた」と我々に語った。彼女の言葉を裏付ける他の証拠もある。しかし、彼女がサターを非難していた時、パキスタンの外相はそれをすべて前に聞いていたように見えたとライスは回想している。サターは、合衆国の上級政策立案者がタリバンと接触してはどうかとそそのかした。それには時間が掛かるが、それなりの成果は上がるだろうと主張した。6月末に、次官たちは合衆国の目標を再検討することに合意した。クラークはハドリーに、合衆国―パキスタン間の他のすべての問題を振り捨てて、ひたすらパキスタンがテロリズム対策に精力的に取り組むよう要請することに的を絞るように、―[アルカイダが]攻撃した後で、ワシントンがパキスタンに要求するだろうことを、アルカイダが攻撃する前にやるよう、パキスタンに圧力をかける事を促した。彼[クラーク]は同様の要求をクリントン政権にも行っていた;彼はライスに対しても、バーガーに行った以上には成功しなかった。
 84日、ブッシュ大統領はムシャラフ大統領に、テロリズムに対処する上で彼の支持を要請し、パキスタンがアルカイダに対して活発に対抗するよう書き送った。新政権は、前の政権がそうだったように、再びその[アルカイダへの]懸念を明記した。しかし外交の機会を開くための新しい動機づけについては、なお模索中だった。その点について、パキスタンは殆ど何も行っていなかった。国務次官補クリスティーナ・ロッカは、この行きづまりを打破する政府の計画は「中途半端な関与」から「強化された関与」への移行だと表現している。政府は、イスラマバード[パキスタン政府]と対決する準備ができておらず、関係の断絶を恐れていた。アーミテージ国務次官は、9/11以前には、パキスタンに対する新しい接近の展望は、まだ試みられていなかったと我々に語った。

サウジアラビア:ブッシュ政権は 9/11以前、サウジ政府との間に、アルカイダについて新しい外交戦略を展開してはいなかった。200065日、チェイニー副大統領は、王国内のアメリカ施設に対して脅威となる攻撃の防止について、サウジの支援を要請するため、アブドラー皇太子に電話をした。パウエル国務長官は、9/11以前に二回、皇太子に会った。彼らは、アルカイダではなく、イラク問題などについて話し合った。2001年夏の合衆国―サウジ関係は、ビン・ラディンではなく、目下進行中のイスラエル-パレスチナ暴力紛争をめぐって、しばしば激論を交わしたことが特色である。
  軍の計画 
 ながながとした過程を経てペンタゴンの新たな指導部が形成された。ウォルフォビツ副長官の認定は、20013月、政策担当国防次官ダグラス・フェイスは7月だった。新しい職員達はテロリズムと「完全解決作戦」を含むいくつかの初期の計画について概要報告を受けたが、ラムズフェルドの言うところでは、彼らが焦点を合わせていたのは21世紀軍の創設だった。
 統合参謀本部において、シェルトン将軍は、アフガニスタンのアルカイダに対する軍事的選択肢について、新政権がより大きな関心を示した事は思い出さなかったし、長官からこの問題について特別に説明されたという記憶もなかった。ブライアン・シェリダン ―退職した特別作戦・低強度紛争(SOLIC)担当国防次官補。SOLICはペンタゴンの対テロリズム政策の中心的オフイス― は、ラムズフェルドに一度も概況報告をした事はなかった。彼は120日に離職したが、9/11までその席は空席のままだった。
 ラムズフェルドは彼のテロリズムに対する関心を書き留めている。それは彼のテネットとの定例会議でしばしば発生したものだ。9/11以前、彼は、国防総省はテロリズムのような新しい脅威に対して正しく組織化されておらず、準備も出来ていないと考えていた。だが彼の時間は、新しい職員の配置や新しい防衛政策の書類作成、四半期の防衛レビュー、防衛計画ガイダンスおよび当面の緊急計画の作成などに費やされていた。9/11以前に彼の関心を引いたのは、無人飛行システム:プレデターの開発だけで、それ以外にテロリズム対策関係での特別な出来事は何ひとつ思い出さなかった。  
 中央軍司令官、フランクス将軍は、存在する計画を真剣で重大なものとは見なさなかったと我々に語った。彼にとっての対アルカイダ戦の現実的軍事計画とは(どこに作戦基地を置くかの政治的、軍事的事項を含む。原注)、あらゆる軍事行動内容を細部にわたって検討し、周辺国の上空を飛行する権利をも確保した、完璧なものではならなかった。
 20016月、大統領指令の草案が回覧され、軍の討議が始まった。そこでは海外戦力の保護について国防総省の指導的役割が繰り返し述べられていた。草案は、ラムズフェルド長官に、アフガニスタンのアルカイダとタリバン双方の目標を攻撃する「偶発的計画の開発」を指示する項目を含んでいた。この新しい項目は、地上部隊を投入する計画を特に命令はしていなかったし、そのガイダンスが、現存する完全解決計画とどのように違うかについて、明らかにしてもいなかった。
 ハドリーは、この項目 ―[大統領]指令に対する草案の添付文書B― を回覧することにより、ホワイトハウスはペンタゴンに、この問題を処理するためには新しい軍事計画の策定が必要であろうとの注意を与えていたのだと我々に語った。「軍はこの任務を特に望んでいた訳ではなかった」とライスは我々に語った。
 この指令はブッシュ大統領の署名を待っていたが、ラムズフェルド長官は、9/11以前に、部下にアルカイダもしくはタリバンに対して新しい軍事計画の準備を始めるよう命じたことは無かった。
 ブッシュ大統領は、9/11以前に、ビン・ラディンに対する特別な軍事作戦に、これぞという選択肢が有るようには見えなかったと、我々に語った。周辺国の適当な基地は利用できそうに無く、もし合衆国の軍隊が送り込まれたとしても、彼らがビン・ラディンを見つけるためにどこに行けば良いのかは明らかでなかった。
 ブッシュ大統領は、9/11以前には、政府は戦争ではなく、ビン・ラディンを殺すことに意欲があったと我々に語った。2004年の時点で振り返ってみると、彼は大統領指令とアフガニスタン侵攻準備を同一視していた。問題は、もしアメリカに対して別の攻撃が無かった場合にどうするかだったと彼は言った。多くの人々がそれは究極的に一方的な行為と見なすだろう。だがそれについて、責任を負う覚悟はしていたと彼は言った。

国内の変化と継続性 
 移行期間に、ブッシュはミズーリ州選出の前上院議員ジョン・アッシュクロフトを司法長官に選んだ。アッシュクロフトは司法省に着任すると、スポットライトがあてられているFBIの改革について多くの問題に直面したと我々に語った。 
 2月に、クラークはアッシュクロフト司法長官に彼が管轄している事項の概況報告を行った。このとき、司法長官は「急な学習曲線(deep lerning curve)」を示し、「コール」捜査の進行について尋ねた。アッシュクロフトも彼の前任者も、大統領日報[PDB]を受け取った事は無かった。しかし、春から夏の間、彼のオフイスは上級職員用の情報日報[SEIBU]を受け取っていた。そこには、同じ脅威の情報が掲載されていた。
 FBI2000年夏に公開された「MAXCAP 05」と呼ばれる新戦略に基づいて、今までより以上にテロリズムに対する組織上の能力を練り上げるために奮闘していた。しかし、FBIの対テロリズム担当次長Assistant Director)デール・ワトソンは、新しい司法省の指導部は、この戦略に肯定的ではないと感じたと我々に話した。ワトソンは、司法省はFBIに基本的な捜査:銃、麻薬、市民の権利などに立ち返ることを望んでいると感じていた。新政権は、その最初の予算案となる2002会計年度において、全FBI予算に8パーセントの増加を要求した。そこにはFBIの対テロリズム計画としては、1997会計年度以来の最大のパーセントの増額要求が含まれていた。追加予算にはユタ州、ソルトレークシティーの2002年冬季オリンピックへのFBIの支援(一時的増額)、FBI施設の保安強化およびWMD[大量破壊兵器]事件に対するFBIの対応能力向上が含まれていた。
 5月、司法省は2003会計年の予算作成を具体化し始めた。このプロセスは、通常2002年初めの政府提案によって頂点に達する。59日、司法長官は連邦のテロリズムとの戦いについて、議会の公聴会で証言した。彼は「国家のもっとも基本的な責任は、その市民を・・テロリストの攻撃から保護することである」と言った。しかしながら翌日発表された予算のガイダンスは、優先権があるものとして、銃犯罪、麻薬の流通および市民権に光を当てたものだった。ワトソンはこのメモを見たとき、椅子から転げ落ちそうに感じたと我々に語った。なぜなら、それはテロリズム対策について全く述べていなかったからである。永らくFBI長官であったルイス・フリーは、20017月、その取得に努力してきたホバルタワー事件の起訴を告げた後、退職した。トーマス・ピッカードが夏の間、代理を務め、フリーの後任者ロバート・ミュラーが着任したのは、9/11の直前だった。
 司法省は、2003会計年度の概算予算を用意した。テロリズム対策の予算水準は2002会計年度の提案レベルに維持されたが、増加はしていなかった。ピッカードはテロリズム対策の強化を訴えたが、この訴えは司法長官によって910日に拒否された。
 アッシュクロフトは、FBIと司法省犯罪部との間の情報共有を統制する1995年の「手続き」をどのように修正するか、またはしないかの進行中の論議も引き継いでいた。しかし、20018月、アッシュクロフトの次官、ラリー・トンプソンは覚書を発行し、1995年の「手続き」を再確認した。そして「いかなる連邦の重罪人」の証拠も、FBIによって直ちに犯罪部に報告されなければならない事を明確にした。1995年の「手続き」は、9/11以後も有効であり続けた。
秘密活動とプレデター
 20013月、ライスはCIAにアフガニスタンでの秘密工作に関する新しい一連の権限書類を準備するよう求めた。ライスの記憶では、この着想はクラークとNSC上級情報局長(director)メアリー・マッカーシーから提出され、北部同盟とウズベクへの援助と結びついたものだった。ライスは文書の草案はクリントン政権の各種の文書を凌駕する「コンソリデーション・プラス」を補足するものだと形容している。事実、CIAは二つの文書を起草した。一つはタリバン体制の対抗勢力への援助に係わる調査結果で、もう一つは通告メモMON]の文案だった。それは、さまざまな状況下で起こりうる致死的行動を承認する、あいまいな言葉を含んでいた。328日、テネットは両方をハドリーに手渡していた。CIAのテネットに対する注釈は「政策立案者の選択肢の再検討を助ける草案を、というNSCの要求に応じて、各々の書類は、法的に許容される可能な限り大幅な自主裁量権をその官庁に提供するために書き上げられたもの」と通知していた。会議の際、テネットは、政策を実行する法的権限を決定する前に、政策を決定することが無いように説得した。ハドリーはこの論法を受け入れ、通告メモMON)の文案は保留された。
 政策の再検討が進む中で、アフガニスタンに対する極秘活動計画は、[国家安全保障]大統領指令[NSPD)草案の中に「アルカイダの脅威を取り除く」情報工作に関する「付録A」の一部として取込まれた。2001年夏の間の主な論議は、ビン・ラディンへの致命的攻撃の新しい取り組み ―プレデター・ドローンの武装版― に集中していった。
 新政権の初めの何ヶ月かの間に、プレデターに関する問題はますます論議の中心となっていった。クラークは気象条件が許す限り、なるべく早く、またアフガニスタン上空にプレデターを飛ばすことを望んでいた。それによって、ビン・ラディンを巡航ミサイルの目標とするための、捉え難い「行動可能な情報」が得られるだろうと期待していた。空軍がプレデターに弾頭を装備することを考えていると知って、クラークはさらに再配備に熱中した。
 CTCセンター長コファー・ブラックは、プレデターを偵察目的で再配置することに反対した。彼は、2000年秋にタリバンがプレデターを発見し、彼らのミグ戦闘機を緊急発進させたことを思い出した。ブラックは武装版が準備されるまで待つことを望んだ。「私は不確定な偵察の価値が、CNN[TV]の前を行進するタリバンの棒の先に黒焦げのプレデターが吊るされ、番組のラストとなる危険性より重要とは信じられない」と彼は書いた。統合参謀本部の士官たちも同感だった。2001430日の次官会議で、偵察飛行の再開が承認されたか否かについては、いくらか論争があるが、ともかくライスとハドリーはCIAとペンタゴンに同意して、武装プレデターの準備が整うまで、偵察飛行は、延期されることになった。
 CIAの上級指導部も、武装プレデターの問題点に着目していた。問題は、クラークとさらにブラック、アレンまでが縮小に傾いていた問題の第1は(それは偵察飛行にも当てはまるのだが:原注)費用だった。プレデター1機に約300万ドルかかった。CIAがその偵察や秘密活動の目的でプレデターを飛ばす場合、それを空軍から借りることは可能だった。だが、それが墜落した場合、空軍がその費用を負担するかどうかは、はっきりしなかった。ウォルフォビッツ国防次官は、それはCIAが支払うべきだとの意見だった。CIAは同意しなかった。
 第2に、特にテネットは中央情報長官として、武装プレデターを運用すべきかどうか、疑問を持っていた。「これは新しい分野だった」と彼は我々に語った。テネットは鍵となる疑問を一つ一つチェックした:指揮の系統はどのようなものか? 誰が発射するか? アメリカの指導者たちは、通常の軍の指揮・統制の外でCIAがそれをすることを気持ちよく思うか? チャールス・アレンは我々に次のように話した。これらの疑問がCIAで論議された時、彼と情報局の上級局長executive director)、A.B.「バジー」クロンガードは、彼らの内のどちらかが、引金を引けばいいじゃないかと言った。しかしテネットは、ギョッとして、彼らにも、彼にもそれをする権限は無いといった。
 第3にプレデターに運ばれる「ヘルファイアー」弾頭は改造が必要だった。それは対戦車用で対人用ではなかったので、別の方法で爆発するように設計し直す必要があった。おまけに極めて精密に目標を捉えねばならなかった。2001年中頃に空軍が計画した設定では、プレデターのミサイルを、移動中の車両に命中させる事はできなかった。
 ホワイトハウスの職員たちは、プレデターのビデオで「白い服の男」を見た。711日、ハドリーは武装システムの準備を急ごうとしていた。彼は、マクローリン、ウオルフォビッツおよび統合参謀本部副議長のリチャード・マイアースに武装プレデターを91日以前に配備するよう指示した。彼はまた、彼らに費用分担の調整を、きちんと81日までに済ましておくよう指示した。ライスは、ハドリーによるこの試みは失敗し、結局は彼女自身も介入しなければならなかったと我々に語った。
 81日、次官級会議は再び武装プレデターについて討議するために会合を持った。そしてCIAが、ビン・ラディンまたはその副官の1人をプレデターによって殺すことを合法であると結論を出した。このような攻撃は自己防衛のための行為であって「大統領令EO12333号」の暗殺の禁止命令を破ることにならない。大きな問題 ―誰が責任をとるか(who would pay for what)、誰が攻撃を権威付けするか、誰が引き金を引くか― などは長官たちに決定がゆだねられた。国防総省の代表はこれらの問題について態度を表明しなかった。
 CIAのマクローリンも口を閉ざしていた。ハドリーが、次官たちの合意を促そうとしてメモを回覧したとき、マクローリンは費用の共同負担について、手書きのコメントをつけて送り返した。「武装プレデターの飛行が決定される前に、このような投資を行うことが適当かどうか、我々は疑問がある」。クラークにとって、この言葉は忍耐の限界として作用した。彼は怒って、ライスにテネットに電話するように頼んだ。「アルカイダの脅威が、攻撃の対象に値するにしろ、しないにしろ、CIAの指導部はどちらかに決めなければならない。こんな風に両極端に振れる事は止めるべきだ」と彼は書いた。
 しかし、こうした討論は、プレデターの戦闘配備の促進にも遅延にも、殆ど影響をもたらさなかった。そうしたことは軍の士官と技術者の手中にあった。ヨーロッパで合衆国空軍の指揮官であったジョン・ジャンパー将軍は、プレデターがバルカンで偵察に使われるのを見ていた。彼は武装版の開発計画をスタートさせ、空軍戦闘部隊(Air Combat Command)を率いるために2000年に帰国したのち、それに直接たずさわった。
 そこには多くの技術上の問題が、特にヘルファイアー・ミサイルに問題があった。春に行われた空軍のテストは不十分だった。ミサイルのテストは継続が必要となり、修正は夏の間中行われた。それでも装置に関する問題が続いたとジャンパーは我々に話した。しかし、空軍は特別の速度で働いた。「現代、1980年台このかた」とジャンパーは我々に言った。「あなたがもしこれより早く動く何かを見つけたら、私はショックを受けるだろう」
20019 
 94日、長官級会議はアルカイダに関する最初の会合を持った。会議当日、クラークはライスに熱のこもった私的文書を送っている。彼は過去と現在の合衆国の対テロリズム活動を批判して「首脳部に提出される真の疑問は、我々はアルカイダの脅威を扱うことについて、真剣なのか、アルカイダは大きな問題なのか、ということだ」と彼は書いている。「政策決定者はいつの日か、CSGがアルカイダの攻撃を止めることが出来ず、何百人ものアメリカ人が合衆国を含むいくつかの国で、死んで横たわることを想像するべきだ」。クラークは書いた。「もっと早くしておくべきだったと言うこと以外に、政策決定者たちは何を望むだろう。将来のある日と言うのは、いつでもと言うことだ」。
 そしてクラークはコールに戻る。「合衆国艦艇コールが攻撃されたのは前政権中だったからといって、我々が攻撃に対処しない訳にはゆかない」。彼は書いた。「多くのアルカイダとタリバンがコールから悪い教訓を引き出しただろう:彼らは合衆国の反撃なしに、また代価もなしに、アメリカ人を殺すことができる。誰でも、駆逐艦に25千万ドルの孔をあけ、17名の水兵を殺せば、ペンタゴンは反撃するはずだと思っていたに違いない。それに引き換え、彼らはアフガニスタンには攻撃に値する何物もない、巡航ミサイルは、テロリスト・キャンプのジャングルジムや泥の小屋より高価だといったことをしばしば話しあっている。クラークは「なぜ我々は、そこで連中がアメリカ人を殺すための訓練を受けていると判っていながら、大規模なアルカイダ基地の存在を許し続けるのか」理解できなかった。
 CIAについて、クラークは、その「横柄で受動的攻撃態度」が、新しい国家安全保障大統領指令に予算をつけることに抵抗し、それを「行動を伴わない空虚な言葉」にしている、とその官僚主義に警告を発していた。CIAは他の優先権がより重要だと主張するだろう。クラークはブッシュ大統領自身の言葉を引用しながら書いている。「あなたは蝿を叩く控えめな取組みと共に残された。特別なアルカイダの攻撃を防ごうとするなら、彼らを発見するために情報を使い、彼らを止めるために友好国の警察と情報職員を使うことだ。あなたは、大きな攻撃を待ち受ける状態で残された。多くの死傷者を生じてから、何か大きな合衆国の報復が実施されるだろう」
 ライスはクラークのメモを、官僚的な無気力によって引きずり落とされるなという、一つの警告として受け取ったと我々に語った。彼の論議には力があったので、我々もクラーク流の悲憤慷慨か、何かそれ以上のものとして受け取った。NSCスタッフとして9年間、また大統領の国家調整官として3年以上、彼はしばしば、これらの省庁に彼の見解を採用するよう説得し、あるいは彼が望んでいるような、あるいは政府全体が支持出来るような覚書とするよう上司の説得を試み、そしてしばしば失敗してきた。
 一方、もう一人のテロリズム対策のベテラン、コファー・ブラックは彼の上司が長官級会議に出席するための準備をしていた。彼は、テネットに大統領指令の草案は野心的な極秘活動の計画を思い描いているが、その権限はいまだに承認されておらず、その予算もまだ設定されていないと忠告した。CIAはプレデターの使用に乗り気でなかったにしても、ブラックは、それについては言わなかった。彼は「長官たちのタイムリーな決定」を望んでいた。そして2001年以内という期限は厳しいと付け加えた。長官たちは、ライス、テネット、ラムズフェルドもしくは他の誰かを、発射の命令を下す者として決定しなければならないだろう。
 94日の会議で、長官たちは短い議論の後、大統領指令草案を承認した。ライスは、ある時点でブッシュ大統領に声をかけ、自分と他の補佐官数名は、アルカイダ作戦が動きだすまで、3年かそこら掛かるだろうと考えていると言った。そして彼らは武装プレデターについて論じた。 
 ハドリーはプレデターを即時には使用できないだろうが、有効な道具だと言った。部下から助言を受けて、武装プレデターがまだ配備の段階ではないと聞いていたライスは、実際に使えるようになるのは2002年の春頃だろうと説明した。
 国務省は武装プレデターを支持した。しかしパウエル長官は、ビン・ラディンは言われているほど容易な標的であるとは認めなかった。財務省のポール・オニールは、ある個人を殺そうと試みることの影響を考えて、尻込みしていた。 
 国防総省は強い行動を好んだ。ウォルフォビッツ次官は、ビン・ラディンの引き渡しを受け、裁判にかける力が合衆国にあるかを問うた。彼は、1986年にリビアに対して行ったように、大規模な空爆の一環として彼を追跡したがった。マイアース将軍は、監視手段としてのプレデターの価値を強調した。これを用いれば、おそらくビン・ラディンにとどまらず、アルカイダの訓練施設を攻撃するような、より広い空爆が可能になるだろうと考えた。
 長官たちはまたどの官庁 CIAか国防総省か― が武装プレデターからミサイルを発射する権限を持つべきかについて討論した。 
 最後にライスが会議の結論をまとめた。武装プレデターの能力は必要だが、まだ準備が出来ていない。他の選択肢も考えると、プレデターは軍が管轄するのが適当であろう。CIAは、偵察任務の飛行だけを使命として考えるべきだ。長官たち ―先には乗り気でなかったテネットも含めて― このような偵察飛行は良い考えだと思った。それは他の利用可能な情報獲得の努力に結び付く。テネットは偵察飛行の追加について解答を延期していたが、会議後スタッフと協議し、CIAにそれを進めるよう指示した。
 数日後に、大統領指令の草案最終版が回覧された。そこには長官たちによる二か所の小さな変更が付け加えられていた。
 99日、アフガニスタンから衝撃的なニュースが届いた。北部同盟の指導者アーメド・シャー・マスードは、タジキスタン国境近くの彼のバンガローで、二人の人物とのインタビューに応じていた。彼らはアラブのジャーナリストと説明されていた。レポーターとカメラマンと考えられていた二人 ―実はアルカイダの暗殺者― が爆弾を爆発させ、マスードの胸に散弾による穴を開けた。数分後、彼は死んだ。
 910日、ハドリーはタリバンに圧力をかけ、おそらく最終的にはタリバンの指導部を覆すことになる、彼らの三段の多年次計画を完成するため次官達を集めた。
 同じ日、ハドリーはDCIのテネットに、大統領指令案によって想定される「広域秘密活動プログラム」について、CIAが法的認可の新しい文案を用意するよう指示した。また、ハドリーは、テネットに分離したセクションを作るよう指示した。それは「逮捕あるいは致命的な力の使用の権限を含む、広範囲なその他の秘密活動に権限を与える」アルカイダに対抗する指揮と統制の要素となる部署であった。この部署は、ハドリーはその権限が「予想されるUBLに関する秘密活動のいかなる追加に応じられる」柔軟で十分広汎なものであることを望んでいた。
 予算の出所がなお未定だった。軍の構成要素は不明確なままだった。パキスタンは非協力的な状態に止まっていた。国内政策の機構は殆ど含まれいなかった/無関心だった。しかし、[パズルの]ピースは、アルカイダとタリバン、パキスタンを対象とする統一した政策に向かってまとまりつつあった。コールについて、何をするか、何を言うかは、就任以来の明瞭な問題点だった。攻撃の起きた日、それは選挙の25日前だったが、ブッシュ候補はCNNに次のように述べた。「私は、誰の仕業か、十分な情報を集めて突き止め、必要な行動をとる積りだ。そしてしかるべき決着を付けなければならない」。


   第6章Note

     Note 118(要旨)その身長も参考にした推定だった。




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