第7章 攻撃は迫る            (原文p.215
7・1 カリフォルニアへの最初の到着   
  5章で、我々は20001月のナワフ・アル・ハズミ,ハリド・アル・ミダル、その他の東南アジア旅行を、「航空機作戦」の初めの部分として記述した。またその章の中で、ミダルがどのようにして、まだ特定されていない仲間と共にクアラルンプール[マレーシア]で発見されたか、そして、そのグループがバンコックを通過したときに見失われたかを記した。115日、ハズミとダルはロサンゼルスに到着した。彼らはサンディエゴに移動するまでの約2週間をそこで過ごした。
 ロサンゼルスの2週間 
 なぜハズミとミダルがカリフォルニアに来たのか、正確なところは判らない。航空機作戦の組織者、ハリド・シェイク・ムハンマド(KSM)は、カリフォルニアはアジアからの入り口として便利であり、また予定された標的の有る地域から、はるかに遠いというさらなる利点があったと説明している。
 ハズミとミダルは、合衆国内での任務について準備不足だった。この企てについて、彼らの資格といえるものは、ウサマ・ビンラディンに対する忠誠心と軍務経験が長いこと、それと合衆国ビザが合法的に取れることのみだった。彼らのうち誰一人、西側で充分な時間を過ごした事が無く、英語を話したとしても十分には話せなかった。
 したがって、彼らやKSMが前もって合衆国内で、自分たちに友好的な協力者を確保しようとしたことは考えられる。KSMは尋問において、南カリフォルニアにアルカイダの仲介者がいたことを否定しているが、我々はこれを信用していない。ハンブルク・ グループとは違って、西側で何の生活体験も無いハズミとミダルが、事前に到着を知らされた人物の受け入れ援助もなく、合衆国に来たとは信じられない。
 KSMは陰謀に関係する者たちに、モスクから離れ、個人的な関係を作ることを避けるように言ったと述べている。しかし、例外として、ハズミとミダルには、新しいサウジの学生で、地方モスクの助けを求めているふりをするように指示した。いったん彼らが東海岸に移りさえすれば、こうした関係はすべて断ちきれると考えていた。我々が、ハズミとミダルの合衆国での最初の2週間の活動を確認出来なかったのは、この期間、彼らを助けた人物を特定されないようにする、アルカイダのスパイ技術によるものかも知れない。
 ハズミとミダルは、飛行訓練を出来るだけ早く始めることが出来るよう、南カリフォルニアに到着後、英語学校に入学するよう指示されていた。KSMは彼自身の調査によって、二人にサンディエゴに行けと指示した。その調査には、カラチのノミの市で手に入れたサンディエゴの電話番号簿を繰った結果も有ったと思われる。これとは矛盾するが、一人は彼の指示で、ロサンゼルスの三つの語学学校を受験したとも言っている。
 二人組がロサンゼルス国際空港で入国管理と税関を通過したのち、何処に行ったかは不明である。彼らはムスリム社会、特に南カリフォルニアで最も著名なモスクである、カルバーシティーのファド王モスク周辺のコミュニティーから援助を受けていたと見られる。 
 ハズミとミダルがファド王モスクで時を過ごし、そこでいくらかの知り合いを作った事はかなり確かである。9/11以後、FBIのインタビューを受けたある証人は、2000年初めに、モスクで初めてハイジャッカーたちに会ったと述べている。さらに、彼らと友達になった一人 、モダル・アブドラーは、6月にハズミ、ミダルと3人でロサンゼルスに旅行した事を思いだした。到着後すぐに、三人はファド王モスクに行った。そこでハズミとミダルは彼らが以前から知り合いだったように見える、いろいろな人たちと挨拶していた。そこにはハラムと呼ばれる男もいた。アブドラーの話では、その夕方ハラムがアルカイダ工作員たちをモーテルに訪ねた際、三人だけで会うために、アブドラーは部屋を出るように求められた。ハラムという人物の正体と、ハズミ、ミダルとの会合の目的が何だったかは不明のままだ。
 ハズミとミダルが確かにロサンゼルスにいた最初の1週間、何をしたかを理解するために、我々は、ファド王モスクの関係者の誰かが彼らを助けたかどうかを調査した。のちに、この問題はメディアの大きな注意を惹いた。あるものは、ファド・アル・スマイリー ―このモスクのイマーム[礼拝指導者]で、1996年から2003年までサウジアラビア領事として信任された外交官― がロサンゼルス到着に当たってハイジャッカーの自立を助ける役割を果たしたのではないかと推測した。この推測の少なくとも一部は、このモスクの過激派に対してスマイリーがリーダーシップを取っているという噂から来ている。
 ロサンゼルスのムスリム社会では良く知られた、ファド王モスクのスマイリーは、イスラム原理主義者であり、正統ワッハーブ思想の厳格な支持者であると見なされていた。彼の説教を聞いた数人のムスリムは、彼は「ファド王モスクで、非イスラム的問題を彼の指導あるいは祈りの中に注ぎこみ、2001911日の出来事の支持者をその信奉者に持っていた」と言った。スマイリーは、地方の崇拝者の集団の中の特に過激な派閥と結びついて、合衆国内の他の都市と接触するネットワークも持っていたように見える。9/11以後、スマイリーの行動はサウジ当局者内部で議論の的となり、ファド王モスクでの地位を失った。これは彼の中庸を欠いていたという評判によるものだろう。200356日、スマイリーはサウジアラビアから合衆国への再入国を試みたが、彼がテロリスト活動と関係しているのではないかという、国務省の決定に基づいて入国を拒否された。
  FBIと調査委員会スタッフとのインタビューで、スマイリーは反西洋的説教などしていないし、まして凶暴なジハードなどそそのかしたことはないと否定した。更に重要な点は、彼がハズミともミダルとも会ったことは無いと言い張った事である。この否認はやや疑わしい。(彼は同様に、後に少々論じることになるサンディエゴから来た男:オマール・アル・バイオミ についても、証言と電話記録が接触を立証しているにもかかわらず、知らなかったと否定している。同様に、スマイリーのモダル・アブドラーを知らないとう主張は、アブドラーの逆の主張によって偽りだとされている。原注)一方、スマイリーは、彼のファド王モスクの在任期間中に数え切れない人々に会い、宗教的カウンセリングを与えてきたことは確かであり、ハズミやミダルのような一時的滞在者を、数年後には覚えていなかったのかも知れない。
 スマイリーは状況証拠からは必然的に、ハズミ、ミダルと接触した可能性がある人物ということになる。だが、利用可能な手がかりを調査し尽くした後でも、スマイリーが二人の工作員に援助を提供したという証拠を見つけることはできなかった。
 我々は、200121日まで、彼らの足取りを把握できなかった。この日、彼らは、オマール・アル・バイオミおよびケイサン・ビンドンと、カルバーシティー、ベニス大通りの[イスラム食を提供する]ハラルレストランで出会った。そのレストランはファド王モスクから23ブロック離れたところにある。バイオミとビンドンは、バイオミがビザの発行を申請し、サウジ領事館からいくつかの書類を受け取るために、その日早くサンディエゴから車で来たと我々に語った。バイオミは、ハズミとミダルが「湾岸アラブ語」で話しているのを聞き、会話を始めた。ビンドンはアラブ語を少ししか知らなかったので、会話の大部分はバイオミの通訳に頼った。
 ミダルとハズミは、自分たちはサウジアラビアからの学生で、英語を学ぶために丁度今、合衆国に着いたところだと言った。彼らは、レストランの近くのアパートに住んでいると言ったが、住所は明らかにしなかった。ロサンゼルスを好きになれず、辛い時間を過ごしている、特に知り合いが誰もいないのは辛いなどと言った。バイオミは、彼らにサンディエゴがいかに暮らしやすいところかを話し、彼らがそこに住めるように手助けしようと申し出た。やがて、二組のペアはレストランを出て別の道に分かれた。
 バイオミとビンドンは200021日のランチについて、何回もインタビューされた。その大部分で、それぞれの話は互いに裏付け合っている。しかし、バイオミは、ビンドンと昼食後にファド王モスクを訪ねようとしたが見つからなかったと言った。一方、ビンドンはその日,昼食の前と後に祈りのために2回モスクを訪れたことを思い出している。ビンドンの回想は断片的で一貫性がないが、バイオミの説明も同様に疑わしい。何故なら、モスクはレストランの近くにあり、バイオミは2月1日を含む6週間の内の二回も含めて、モスクとその周辺地区をたびたび訪れているからだ。ランチでの遭遇が偶然か、計画的だったかは分らない。我々は、このことをバイオミが法執行中に話したことで知った。
 当事42才だったバイオミは、職業学生として合衆国にいて、サウジ民間航空公社の個人契約者として20年以上働いていた。9/11以後、かなりメディアの観察対象となったため、彼は今サウジアラビアに住んでいるが、自分の不名誉な噂は良く承知している。我々とFBIは彼とインタビューし、彼に関する証拠も調べた。
 バイオミは熱心なムスリムで、親切で社交的だった。彼は、その余暇の多くを、宗教の学習に参加したり、サンディエゴから約15マイル離れたエル・カヨンのモスクの運営を助けたりして過ごしていた。彼が、おそらく疑惑に対抗するため、自分の話の幾らかの場面をごまかしていた可能性は確かにある。一方、彼が極端な過激主義を信じているとか、故意に過激主義グループを助けていたという確かな証拠は見つけられなかった。彼とじかに接触し、またその背景を調べた我々の調査員は、彼をイスラム過激主義の陰謀に加担するような人物とはとても思えないと見ている。

 サンディエゴへの移動 
 ハズミとミダルは、24日、多分モダル・アブドラーの運転によって、ロサンゼルスからサンディエゴにやってきた。20代始めにイエメン大学の学生だったアブドラーは、アラビア語と英語に堪能で、任務を果たそうとしているハイジャッカー達を助けるには、うってつけの人物だった。
 9/11以後、アブドラーは何回もFBIのインタビューを受けた。彼はハズミとミダルが過激主義を学んでいたことを認め、またミダルがイエメンに帰った時、アデン・イスラム軍(アルカイダと結びついたグループ)に関係していたことを認めた。アブドラーは明らかに、これら過激主義者の見解に同調していた。9/11以後、彼の所有物の捜査でFBIは (所有者不明の)一冊のノートを見つけた。そこには、空からの飛行機の墜落、大量殺人、ハイジャックなどが記されていた。さらに、9/11攻撃の後、重要証人として拘留されたとき、アブドラーは合衆国政府に対する憎悪を表明し、「合衆国は『これ[9/11]』を自ら招いた」と述べた。
 9/11以後、FBIにインタビューされたとき、アブドラーは攻撃について事前に知っていたことを否定した。しかしアブドラーが、カリフォルニア監獄の収容者仲間に、ハズミとミダルがテロリスト攻撃を計画していたことを知っていたと、2003年の9月か10月に自慢したという報告を、我々は20045月に受けた。アブドラーが語ったとされる話は、完全に一貫しているとは言い難い。特に、ある収容者によれば、アブドラーは、氏名不詳の人物から、ハズミとミダルが攻撃の実行計画を持ってロサンゼルスに到着するだろうと言われたと主張した。アブドラーは同じ収容者に、二人のアルカイダ工作員を、ロサンゼルスからサンディエゴまで車で連れてきたと言ったが、それがいつのことだったかは言わなかった。我々はこの話を裏付ける事はできなかった。
 また別の収容者は、アブドラーが、ハイジャッカー達からテロ計画について初めて聞いたのは、二人がサンディエゴに着いた後で、二人は飛行機をビルに飛びこませることを計画しており、彼にも一緒にやろうと誘った、と言ったことを思い出した。この収容者によれば、アブドラーはまた、9/11攻撃について3週間前に気がついていたと言い張っていた。この主張は、この頃アブドラーがハズミから、2001825日以降、彼[ハズミ]が電話するのを止めるという電話を受けたらしいという証拠や、それ以後異常な行動をするようになったという友人たちの証言とぴったり一致する。
 刑務所の収容者仲間の自慢話はしばしば信用できないが、この証拠は明らかに重要である。我々とFBIの調査努力にもかかわらず、今日まで、アブドラーが刑務所で語ったとされる話の真偽を確かめられずにいる。
 といった訳で、我々はハズミとミダルがいつ、どのようにして最初にサンディエゴに来たのかを知らない。我々が知っているのは、24日、彼らがオマール・アル・バイオミを探し、彼の手助けの申し出を受けるために、サンディエゴのイスラミック・センターに行ったことである。バイオミはアパートを決めただけでなく、リース契約書の記入を手助けし、共に署名した。不動産業者が現金の保証金を断った時、彼らのために銀行口座を開くことを助けた。(その口座に彼らは99百ドルを預金した)そして彼は自身の口座から裏書きされた小切手を提供し、それに対しアルカイダ工作員たちはその場で 彼の口座に返済した。後にも先にも、バイオミーはハズミとミダルに金を渡したことは無い。彼らはその金をKSMから受け取っていた。
 ハズミとミダルは、家具も事実上所持品も無い状態で引っ越した。その直後、バイオミは彼らのアパートをパーティーに使い、ムスリム社会の20名ほどの男性が出席した。バイオミの求めで、ビンドンがバイオミのカメラでビデオ撮影をした。ハズミとミダルは他の客とは混じらず、カメラを避けて別の部屋で、ほとんど二人で過ごしていたと報告されている。
 ハズミとミダルは、すぐに別の宿泊先を探し始めた。彼らは、最初のアパートは高すぎるとバイオミに言った。ある者は、彼らは金を倹約したかったのだろうと推測している。彼らは、生活上の知恵で、ビデオカメラを振り回すバイオミに近づくことを考え直していたのかもしれない。ハズミは彼をある種のサウジのスパイと考えたようだ。移転から1週間を過ぎた頃、ハズミとミダルは、退去の意思の30日前の通知を出した。バイオミは、彼らが新しい住居に移るための清算をするのに、彼の携帯電話を貸した。
 彼らの転居のための最初の努力はみじめな結果に終わった。ある知人が、彼のアパートをミダルが引き継ぐように斡旋した。ミダルは650ドルの保証金を払い、31日から有効なそのアパートの借用契約に署名した。数週間後、ミダルはアパートが汚すぎるのでもう引っ越そうと思はないと主張して、家主に保証金の払い戻しを請求した。家主が払い戻しを認めなかったことから、ミダルはけんか腰となった。家主は彼が大声でわめき、錯乱し、まるで「精神病者」のようだったと思い出している。
 ハズミとミダルは、結局サンディエゴのモスクで会った個人の家の部屋を借りることになった。家の持ち主によれば、将来のハイジャッカーたちは、2000510日に移ってきた。ミダルはたった約一月後にそこを出た。69日、彼はサンディエゴを去ってイエメンに帰った。一方ハズミは彼のカリフォルニアでの残りの日々を、12月中頃までその家で過ごした。それから、彼は新しく到着したハイジャッカーのパイロット、ハニ・ハンジュールと共にアリゾナに向けて移転することになる。
 サンディエゴに滞在中、ハズミとミダルは、到着したばかりの外国人学生の役を演じた。彼らはムスリム社会のメンバーの援助を求め続けた。少なくとも初めのうちは、彼らはサンディエゴのイスラミック・センターで新しい善意の知り合いを見つけた。それは彼らが最初に住んだアパートのごく近くにあった。例えば、彼らが中古車を(現金で)購入したとき、それをイスラミック・センターの向かいの通りの住人から購入し、その登録に「ムスリムの兄弟を助ける」ための親切として、その持ち主の住所を使わせてもらった。同様に4月、多分彼らの現金が減ってきたとき、ハズミは、アラブ首長国連邦のドバイの誰かから5千ドルの電信為替を受け取るのに、イスラミック・センターの管理者の銀行口座を使わせてくれと頼みこんだ。(この送金はKSMの甥のアリ・アブドル・アジズ・アリからだった。原注)
 ハズミとミダルは、同様に他のモスクも訪ね、祈りをささげる人たちと気楽に交わった。工作員たちのサンディエゴでの重要な最初の数週間、モダル・アブドラーが彼らを助けた。英語とアラビア語を訳しながら、彼はカリフォルニアの運転免許取得、また語学学校や飛行学校の申し込みなど手伝い、自分のサークルの友人たちに彼らを紹介してやったりした。彼はハイジャッカーたちの住まいから数マイル離れたラ・メーサのラバト・モスクの近くで、これらの友人と共同でアパートを借りていた。
 アブドラーは、サンディエゴでハズミとミダルの重要な協力者となっていった。9/11後に(最初は重要な証人として、後には移民法違反で)拘留されたが、合衆国検察庁のカリフォルニア南部支庁が、拘留中に9/11工作員との関わりを認めたことから生じる罪状で彼を起訴する事を却下した後、2004521日にイエメンへと追放された。司法省も、この新情報の調査のために、国外退去を遅らせることを拒否した。
 アブドラーの友人は、またハズミとミダルの友人でもあった。そして、彼らがサンディエゴでの生活に慣れるよう手助けした。ある者は過激主義の信条を持ち、また他の者は有名な過激主義者と親しく付き合っていた。例えば、9/11直後、その電話番号がワシントンのダレス空港に残されたハズミの「トヨタ」の中から発見されたイエメン人、オサマ・アワダラーは、ビン・ラディンに関係する、写真、ビデオ、文章などを所持していることが発見された。また、アワダラーの住居には、ビン・ラディンのファトワのコピーやそれに類したものが散らかっていた。サウジ人のオマル・バカルバシャも、ハズミとミダルにラバト・モスクで出会った。彼は、ハズミが英語を学ぶのを助け、サンディエゴの彼らの最初のアパートを、彼らが立ち去った後引き継いだことを認めた。バカルバシャは、耳障りな反米的ウエブ・ページを彼のコンピューターのハードディスクにダウンロードしていた。
 ハズミとミダルにとって、他の有力で重要な接触者は、[サンディエゴの]ラバト・モスクのイマーム、アンワル・オラキだった。彼はニューメキシコで生まれた合衆国市民だが、イエメンで成長し、イエメン政府の奨学金によって合衆国で学んだ。我々は、ハズミとミダルが初めてアラキに会ったのは、いつどのようにしてであったかは知らない。工作員たちは、彼らが最初にサンディエゴに移動した当日に会ったか、少なくとも話しをしたと思われる。ハズミとミダルはアラキを宗教者として尊敬していたと言われており、彼と親密な関係を築いた。
 9/11以後のインタビューで、アラキはハズミの名前には覚えがなかったが、その写真はそれと認めた。アラキはハズミと数回会ったことは認めたが、どんなことを話したか、具体的には何も覚えていないと言い張った。彼はハズミを、大きな友人のサークルは持っていない仲間とモスクにしばしば現れる、穏やかに話すサウジ人学生と表現した。
 アラキは2000年中頃、サンディエゴを離れ、2001年初めにバージニアに移転した。のちに論じるように、ハズミはやがてバージニアのアラキのモスクに顔を出すが、これは偶然の出会いではないように見える。ハズミ、ミダル、アラキの関係については、結論を出せるほどには十分に知ることはできなかった。 
 まとめると、動機を明らかにする特別の証拠に乏しいが、我々の全体的印象では、カリフォルニア到着後すぐに、ハズミとミダルはイエメンとサウジアラビア出身で、若くて思想的に同じムスリムのグループを探し、そして見つけ出した。彼らは主に、モダル・アブダラーやラバト・モスクに関係していた。アルカイダ工作員たちは、サンディエゴで公然と本名で生活し、ハズミは電話帳に番号を掲載していた。彼らはあまり周囲の目を惹かないように注意はしていた。

飛行訓練の失敗・ミダルの脱落 
 ハズミとミダルは、英語を学習し、飛行訓練を受け、可能な限り早くパイロットになるために合衆国に来た。しかし、彼らは英語に対する適性が無い事が判明した。モダル・アブダラーやその他のバイリンガルな友人の助けと指導にもかかわらず、ハズミとミダルの学習努力は無駄なことが判った。この言語能力の欠如が、飛行訓練の上で次々と乗り越えることの出来ない障害となった。
 彼らが相談した学校の一つ、サンディエゴのソルビ飛行クラブでは、一人のパイロットがアラビア語を話した。彼は、飛行訓練は小型機から始まるだろうと説明した。ハズミとミダルは、彼らの関心はジェット機、特にボーイング機だと強調し、直ちにジェット訓練を受けるには何処に入学すれば良いかを尋ねた。そのパイロットは、二人が冗談か夢を見ていると信じて、そんな学校は存在しないと答えた。ハズミとミダルを教えた他の指導員たちは、飛行中の機の制御に重点をおき、離着陸には興味を示さない、出来の悪い教習生として二人を記憶している。20005月末、ハズミとミダルは飛行訓練を放棄した。
 ミダルの気持ちは、彼のアパートからの電話によって証明されるように、イエメンに残した家族の上に有ったと思われる。最初の子供の誕生の知らせが来たとき、彼はもうカリフォルニアでの生活に耐えることが出来なくなった。20005月末から6月初めに、彼は銀行口座を閉じ、車の登録をハズミに移し、イエメンに帰る準備をした。KSMによれば、ミダルはサンディエゴにうんざりしていたが、ビザの滞在期限も切れていないので、合衆国に帰ってくるには何の問題も無いと思っていた。ハズミとモダル・アブダラーは、6月9日ロサンゼルスまで彼と同行して、友人たちと最後にもう一度ファド王モスクを訪れ、次の日ミダルは合衆国を去った。
 KSMはいろいろな手段を使って、工作員たちとかなり密接な接触を保っていた。2000年春、ビン・ラディンがKSMをパキスタンからアフガニスタンに呼び戻したとき、KSMは(第5章で紹介した)ハラドに合衆国のハズミとEメールの接触を維持しているかを尋ねた。サンディエゴでハズミを置き去りにしたミダルの決定は、KSMを激怒させた。彼は出発を認めていなかったし、それが計画を危うくすることを恐れた。KSMはミダルを航空機作戦から下ろそうと試みた。彼の言によれば、ビン・ラディンの反対が無ければそうしていただろう。
 ミダルの出発によってハズミは孤独になり、今後は自分一人で何とかやって行かねばならないのかと不安になった。彼は毎朝5時に同室者と共に祈り、それからイスラミック・センターの礼拝に出席した。彼はインターネットを見るために同室者のコンピューターを借り、チェチェンとボスニアの戦闘のニュースを追っていた。また同室者の助けを得て、(KSMの承認を得たのち)インターネットを妻探しにも使ったが、この検索は成功しなかった。彼は同室者と親しい関係を築いていたにも拘わらず、家の電話を使うことを好まなかった。彼とミダルは電話をするために、外に出る方法をとり続けた。
 ミダルが去ったのち、他の学生が家に入ってきた。彼らの一人、ヤジード・アル・サルミは目立っていた。20007月、サルミは、サウジアラビアのリヤドの銀行で4,000ドルのトラベラーズチェックを購入した。95日、ハズミは自身の銀行口座に1,900ドルのトラベラーズチェックを預金したのち、同じ額を現金で引き出した。ハズミが単に友人のためにトラベラーズチェックを現金化した事は有り得る。真相は不明だ;サルミはこの処理を記憶していないと言っている。9/11以後、サルミはモダル・アブドラーに、テロリスト・パイロットのハニ・ハンジュールを前から知っていたと打ち明けたといわれる。ハズミと同じ家に約一ヶ月住んだのち、サルミはラ・メーサのアパートに移り、アブダラーその他の人々と同居した。 
 2000年秋には、ハズミはもはや英語を学んだり、飛行訓練を受けているふりはしなくなった。アフガニスタンとパキスタンの彼の共謀者たちが、彼の新しい仲間をすぐに送ろうとしていることを知って、彼はその時を待ちながら、少しの間、ラ・メーサのガソリンスタンドで働いた。そこではアブドラーを含む彼の友人たちが雇われていた。あるとき、ハズミは仕事仲間に、もっと良い仕事を探そうとしていると言い、やがて有名になるだろうと口を滑らせた。
 2000128日、ハニ・ハンジュールがサンディエゴに到着した。ドバイからパリ、シンシナティを経由してやってきた。おそらくハズミが空港に車で出迎えたのだろう。我々は、ハンジュールが何処に泊まったかを知らない;23日後に二人はサンディエゴを去った。出発前に、彼らはラ・メーサのガソリンスタンドを訪れ、そこでハズミはハンジュールを「サウジアラビアから来た昔からの友人」として紹介した。ハズミは彼の同室者に、自分と「ハニ」は、飛行訓練のためにサンホセに向かうが、連絡は絶やさないつもりだといった。ハズミは、すぐにサンディエゴに戻ると約束し、ハンジュールと車で去った。
 ハズミはサンディエゴのすべての友人との接触を断ちはしなかった。アブドラーによると、ハズミは200012月にサンディエゴを去って以後、二回電話をして来た。200012月または20011月のことで、今サンフランシスコにいて、そこで飛行学校に出席するつもりだと言った。約二週間後、彼はアリゾナの飛行学校に出席していると言ってきた。のちに検討するいくつかの証拠から、ハズミが20018月、再度アブドラーと接触したことが判っている。さらに、彼はサンディエゴ出発の翌月、同室だった仲間に三回、Eメールを出している。そこには20011月の「Smer」とサインしたメールもあった。明らかに身元を隠そうとした試みだが、その時、同室者は奇妙に感じた。ハズミはまた同室者に電話で、彼と彼の友人がアリゾナで飛行訓練を受けることに決めたこと、ミダルは今、イエメンに帰っていることを告げた。これが彼らの最後の接触だった。同室者がハズミに20012月と3月にメールで様子を聞いたが、ハズミの返事は無かった。
 2000年の間、ハズミとミダルに部屋を貸していた同室者は、明らかに順法精神を持つ忠実な市民で、長い間地元警察とFBI職員との間に友好的な接触があった。彼は、ハズミとミダルの行動について、そうした法執行の連絡相手へ報告する必要があると思われるような不審な点には何一つ気付かなかった。またその連絡相手が、彼にその入居者や同居人について尋ねることもなかった。

                        
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7・2 合衆国での9/11パイロット  (原文p.223
ハンブルク・パイロットの合衆国到着 
 2000年初夏、ハンブルク・グループが飛行訓練を始めるために合衆国に到着した。マルワン・アル・シェヒは529日、ブリュッセルからの便でニューアークに到着した。彼はニューヨーク市に入り、そこでモハメド・アタの合流を待った。6月2日、アタは、ドイツからバスでチェコ共和国に行き、次の日、プラハからニューアークに飛んだ。ラムジ・ビナルシブによれば、アタはプラハでは誰にも会わなかった。彼は、プラハから飛ぶ方が、これまでの国際旅行の出発点だったハンブルクからよりも、作戦の安全確保に役立つと信じていた。
 アタとシェヒは何処で彼らの飛行訓練を受けるかを決めていなかっが、ジアド・ジャラーは、すでにフロリダ州ベニスのフロリダ飛行訓練センター(FFTC)での受講を手配していた。ジャラーは627日、ニューアークに到着し、それからベニスに飛んだ。そして直ちにFFTCで複数エンジン機の免許取得を目的とする、自家用パイロットのプログラムを始めた。ジャラーは、彼の学校と契約している飛行指導員と共に引越し、車を買った。
 ジャラーがフロリダで直ちに訓練に取組んだのに対して、アタとシェヒは飛行学校探しを続けていた。オクラホマ州ノーマンのエアマン飛行学校を訪れたのち(そこでは数ヶ月後にザカリウス・ムサウイが、さらに1990年代中頃に他のアルカイダ工作員イハブ・アリが訓練を受けている)アタはフロリダ州ベニスのホフマン航空で飛行訓練を始めた。アタとシェヒは引き続いてその学校でパイロット速習プログラムに受講登録した。7月末に二人は単独飛行を習得し、8月中旬には自家用パイロット試験にパスした。彼らはその夏の間中ホフマンで訓練し、ジャラーはFFTCで彼の訓練を続けた。
 ハンブルク工作員達は彼らの飛行訓練費を、初めはドバイのKSMの甥、アリ・アブドル・アジズ・アリから電信で送られる資金で支払っていた。2000629日から917日の間に、アリはシェヒとアタに総額114,500ドルを送っている。それは5,000ドルから70,000ドルの範囲で5回の送金であった。アリは彼の決済の目立たない性質を利用していた。それは、日々数10億ドルもの金が世界中を環流している中で、本質的に目に見えない取引であった。アリはこれらの送金に身分を証明する必要は無く、別名を使用しても問いただされる事も無かった。
 9月中旬、アタとシェヒは、20019月までホフマンで学ぶ意向を述べて、彼らの入国資格を旅行者から学生に変更する申請をした。9月下旬、彼らはベニスから20マイル北のフロリダ州サラソタのジョーンズ航空に入校することに決めた。ジョーンズの指導員によると、二人は攻撃的で、無礼で、しばしば飛行訓練中に操縦を引き継ごうとして彼らと争った。10月初め、彼らはジョーンズ航空の計器飛行検定の第1段階の試験に失敗した。大変うろたえて、彼らは故国で仕事が待っているので急いでいると言った。そして、ホフマンに帰った。
 一方、ジャラーは8月初めに、単発機自家用パイロット免許を得た。この一里塚に達して、彼は合衆国入国後の5回にわたる国外旅行の最初の旅行に出発した。10月に彼はガールフレンドのアイセル・センゲンを訪ねるためにドイツに帰った。そして、1029日にフロリダに帰る前に、二人はパリに旅行した。彼らの関係は、彼の合衆国滞在中も親密だった。旅行のほかにも、ジャラーは彼女に何百回も電話をし、頻繁にメールを交換した。
 ジャラーは、FFTCでラムジ・ビナルシブと合流することになっていた。ビナルシブはすでに学校に保証金を入金していたが、合衆国のビザを取得できなかった。20005月と6月の彼の最初のビザ申請は、彼の合衆国からの帰国を保証する、ドイツ側の明確な絆が無いとの理由で拒否された。9月に彼はビザを申請するためイエメンの家に行ったが、再びイエメンに十分な結びつきが無いとの理由で拒否された。10月、彼はベルリンで最後の試みをし「航空・語学学校」の学生ビザを申請した。しかし、以前の拒否が記録されていて、この申請も、同様に不完全として拒否された。
 作戦に直接参加することが出来なくなって、代わりにビナルシブはKSMと合衆国の工作員との間を取り持つ役割になった。2000年夏、総額約10,000ドルをアタとシェヒに電信送金したこととは別に、ビナルシブの陰謀調整者としての最初の仕事は、別のパイロット候補者、ザカリウス・ムサウイを手助けすることだった。
 2000年秋、KSMはムサウイを飛行訓練のためにマレーシアに送った。だがムサウイは、希望する学校を見つけられなかったので、代わりに別のテロリスト計画に従事した。例えば、合衆国向けの貨物機に搭載される、爆弾用の4トンの硝酸アンモニウムを購入する事などである。KSMはムサウイを発見してパキスタンに呼び戻し、彼に飛行訓練のために合衆国に行くよう指示した。10月初め、ムサウイはロンドンに行った(*)。ビナルシブが12月にロンドンを訪れたとき、彼はまだムサウイが住んでいた、同じ16室の寮に宿泊した。ムサウイはロンドンからオクラホマ州ノーマンのエアマン飛行学校に問い合わせを送った。
  (*)ムサウイは1992年、留学のため英国に渡り、卒業後もロンドンで暮らしていた。(訳註)
  ハズミ、ミダル、ビナルシブ、ムサウイの訓練や旅行での困難に直面して、アルカイダは他の可能性あるパイロット候補を探し始めた。ぴったりの背景を持つ新しい候補者が、アフガニスタンで都合よく自ら現れた。 

第4のパイロット:ハニ・ハンジュール 
 ハニ・ハンジュールはサウジアラビアのタイフ出身で、1991年、アリゾナ大学の「第二外国語としての英語センター」で学ぶために合衆国に来た。彼は厳格に教えを守るムスリムと見られていた。彼の兄によれば、ハニが初めてアフガニスタンに行ったのは、1980年代後半、まだ10代の時で、ジハードに参加するためだったが、ソビエト軍はすでに撤退していたので、その地の救援団体で働いた。
 1996年、ハンジュールは、サウジ飛行学校を断わられたのち、飛行訓練を続けるために合衆国に帰った。彼はフロリダ、カリフォルニア、アリゾナの飛行学校を清算し、そのうちの二つの学校で、サウジアラビアに帰る前に、簡単に[訓練を]始めた。1997年、彼はフロリダに帰り、二人の友人とアリゾナに行って彼の飛行訓練を熱心に始め、約三か月後、自家用パイロット免許を得ることが出来た。さらに数ヵ月の訓練を経て、連邦航空局(FAA19994月発行の営業用パイロット免許を取得し、サウジアラビアに帰った。
 ハンジュールは帰国後、ジッダの民間航空学校に応募したが、断られたと言われている。彼はしばらくの間、家に留まり、彼の家族にアラブ首長国連邦に行って航空会社で働こうと思っていると言った。この間、ハンジュールが実際にどこを旅行していたかは判っていない。彼がアフガニスタンの訓練キャンプに行った可能性はある。
 ハンジュールがアリゾナで多くの時間を過ごしたということは重要かもしれない。1980年代から1990年代初めに、アルカイダの多くの重要人物がトゥーソンのアリゾナ大学に出席し、あるいはトゥーソンに住んだ。1990年代末のハンジュールの飛行訓練時の、アリゾナの仲間の何人かが疑いを持たれた。FBI捜査官は、アルカイダが、フェニックス地区の他の過激主義ムスリム達に、飛行訓練への登録を指示したかもしれないと考えた。ハンジュールが1990年代にアリゾナに住んだとき、テロリズム対策の調査対象となっていた過激主義的信仰を持っている数人の人物と交際があったことは明らかだ。彼らのうちの何人かは、ハンジュールと共にパイロット訓練を受けていた。他の者は、アフガニスタンでの訓練も含んで、アルカイダと明らかに関係があった。
 2000年春、ハンジュールはアフガニスタンに戻った。KSMによると、ハンジュールは、アルカイダのファルーク・キャンプで提出した過去の経歴に基づいて、訓練済みのパイロットと認定されたのち、陰謀に加えるためカラチのKSMのところに送られた。
  ハンジュールは、アフガニスタンのキャンプに二、三週間滞在したが、その間に、ビン・ラディンかアテフが、彼が訓練済みのパイロットであることを確認した。それはKSMに報告され、彼はハンジュールに、二、三日の間暗号の使用法を教育した。
 6月20日、ハンジュールはサウジアラビアの家庭に帰った。925日、彼は合衆国の学生ビザを取得し、家族にはUAEでの仕事に帰ると告げた。ハンジュールはUAEには行ったが、これは計画推進者のアリ・アブドル・アジズ・アリに会うためだった。
 アリはハンジュールのためにドバイで銀行口座を開き、彼の旅行のために最初の資金を提供した。128日、ハンジュールはサンディエゴに向けて旅立った。サウジアラビアを発つ前に、彼が計画したであろう目的地はカリフォルニア州、オークランドの第二外国語としての英語[センター]だったが、出席はしなかった。その代わり、先に記したように、サンディエゴでナワフ・アル・ハズミと合流した。
 ハズミとハンジュールは殆どすぐにサンディエゴを去り、車でアリゾナに向かった。メサに住んで、ハンジュールは昔の学校、アリゾナ航空で再教育訓練を始めた。彼は複数エンジン機の訓練を希望したが、彼の英語力が十分でないために難航した。指導員は中止するよう奨めたが、ハンジュールは訓練を完了することなく、故国に帰ることは出来ないと言った。2001年初め、彼はメサのパンアメリカン国際飛行アカデミーで、ボーイング737のシミュレーター訓練を開始した。そこの指導員は、彼の技能が標準より低いことを知って、これ以上続けても無駄だと言った。ハンジュールは、またしても頑張って、ようやく彼の最初の訓練を20013月末に完了した。この時点でハンジュールとハズミは彼らのアパートを空にし「腕力ハイジャッカー」―操縦室を襲い、乗客を制圧する工作員― の到着を待つために、東にドライブを始めた。そして早くも44日に、ハンジュールとハズミはバージニア州フォールズ・チャーチに到着した。
 フロリダの三人のパイロットは、彼らの訓練を続けていた。アタとシェヒはホフマン校を終了し、11月にFAAから彼らの計器飛行終了証を手に入れた。200012月中旬、彼らは営業用パイロット試験に合格し、免許を得た。そして彼らはフライト・シミュレーターによる大型ジェット機の訓練を始めた。ほぼ同じ時期に、ジャラーはフロリダの別のセンターでシミュレーター訓練を始めた。合衆国に来て半年足らずの2000年末には、東海岸の三人のパイロットは、大型ジェット機のシミュレーター飛行訓練を行っていた。
2001年初めの旅行 
 飛行訓練で進歩を遂げたジャラー、アタ、シェヒは、2000年~2001年の休暇期間に全員外国旅行をした。ジャラーはドイツ経由でベイルートの家に帰った。二、三週間後、彼はドイツ経由でアイル・センゲンと共にフロリダに帰ってきた。彼女は彼とフロリダで十日間を過ごし、飛行訓練の授業にも同行した。アタや他のアルカイダの指導者が、ジャラーの旅行とセンゲンの訪問を知っていたかどうか,我々は知らない。他の工作員たちは彼らの家族との定期的連絡を絶っていた。20011月末、ジャラーは再びベイルートに飛び、彼の病気の父親を訪ねている。そこに数週間留まったのち、2月末、合衆国に帰る前に、ドイツにセンゲンを二、三日尋ねている。
 ジャラーが個人的旅行をしている間に、20011月初め、アタはラムジ・ビナルシブとの進捗状況打ち合わせのためにドイツに旅行している。アタは三人のハンブルク・パイロットが飛行訓練を完了し、指令を待っているとアフガニスタンのアルカイダ指導部に報告するよう、ビナルシブに告げたようだ。アタはまた、第四のパイロット、ハンジュールが、ハズミと合流したことを明らかにした。フロリダに帰るとすぐに、アタはビナルシブに旅行資金を電信で送った 。(Atta wired Binlshibh trabel money.)ビナルシブはアフガニスタンに行って報告し、引き続く数か月を、そこ[アフガニスタン]とパキスタンで過ごした。
 アタがフロリダに帰った時、シェヒはモロッコに去り、1月中旬にはカサブランカを旅行していた。彼からなんのたよりもないのを心配して、シェヒの家族は、UAE政府に彼の行方不明を報告していた。UAE大使館はハンブルク警察に連絡し、また、UAE代表者は彼をドイツで発見しようとして、ハンブルクでモスクとシェヒの最後の住所を尋ねた。家族が彼を探しているのを知ったシェヒは、120日に彼らに電話し、彼はなおハンブルクに住み、学んでいると言った。そこで、UAE政府はハンブルク警察に捜索の取り消しを伝えた。
 アタとシェヒは、それぞれ110日と18日に、合衆国へ帰ってきたが、二人とも再入国について、いささか難儀した。なぜなら学生ビザを提出しなかったので、飛行訓練を続けるために入国を許されるべきだとINS審査官を説得しなければ なならなかったのだ。他の工作員たちは税関通過に何ら問題はなかった。

 アタが行ったとされているプラハへの旅行

モハメド・アタは二度プラハ[チェコ]にいたことが知られている。最初は199412月、彼はトランジット客用のホテルで一泊した。次は20006月、合衆国に向かう途中だった。この時、彼はドイツからバスで6月2日に到着し、翌日ニューアークに向け出発した。

 20014月にプラハでアタがイラクの情報員と会ったという主張は、チェコ情報局の単一の情報源の報告によるものである。9/11直後にその情報源は、アタが200149日午前1100分に、プラハのイラク大使館で、イラクの外交官、アーマド・ハリ・イブラヒム・サミル・アル・アニと会っているのを見たと報告している。この情報はCIA本部に通知されている。 

 合衆国の在プラハ法務官(Legat)はFBIの代表者で、チェコ情報局の情報源に会った。会議のあと、法務官および同席したチェコの職員は、情報源はまじめで、彼の会議での話は信頼でき、70%は正確だと評価した。引き続いてチェコ情報局は、アタとアニの会合が行われた可能性の評価は、70%だと公表した。チェコの内相は、その会議が有ったという彼の信念を、数回にわたり新聞向けの声明として発表し、広く報道された。

 FBIは、アタが44日にバージニアビーチにいたことを示す証拠を集めていた(証拠は、銀行の監視カメラの写真)。また、彼とシェヒがアパートを借りているフロリダのコーラル・スプリングスには411日にいた。4月6,9,10,11日に、アタの携帯電話は、フロリダの電話サイトから、フロリダのさまざまな宿泊施設に、何回もかけられた。我々は通話をしたのが彼であるとは確認できなかった。しかし、アタがこの期間、国を離れていた事を示す合衆国側の記録は無い。チェコ職員も、自国のフライトと国境通過記録を点検し、アタがチェコ共和国に20014月にいたか、アラブ人らしき人物が国境を越えた記録があるかを調べ、またイラク大使館周辺の監視カメラの画像も確かめたが、アタに似た人物を発見できなかった。20014月にアタがチェコ共和国にいたということを示すものは何一つ無かった。

 チェコ政府によると、アタと会ったとされているイラクの外交官アニは、48,9日には、プラハから約70マイル離れたところにいて、9日の午後まで帰らなかった。一方、情報源は[9日]午前1100分に目撃したと主張していた。伝えられる20014月の会合について質問されたとき、現在留置中のアニは、会合だけでなくアタとの如何なる接触も持ったことは無いと否定した。9/11の直後に、アニは、こうした根も葉もない会見記事で自分の経歴に傷がつくことを恐れて、チェコ政府に記事の撤回を求めてくれと上司に頼んだ。彼はまた、アタと関係のあるイラク吏員の誰とも、知り合いではないと主張した。

 こうした申し立てや調査結果は、アタが200149日にプラハにいた可能性を完全に否定するものではない。彼は旅行に偽名を使ったかもしれないし、偽名のパスポートを持っていたかもしれない。だが、それは彼の慣習に反している。彼は旅行の際は本名を用いた。(彼は1月にも、次に海外旅行をした7月にもそうした)FBICIAもアタが偽造パスポートを持っていた証拠は全くつかんでいない。

 KSMとビナルシブは、二人ともアタとアニの会合を否定している。このような会議が持たれる理由は何も無い。特に、作戦に拘わる危険が引き起こされるかもしれないと考えればその通りである。20014月には、全四名のパイロットは彼らの訓練をほとんど完成し、腕力ハイジャッカーたちは合衆国に入国を始めようとしていた。

 アタとアニの会合に関するチェコの報告を、支持するような証拠は存在していない。

 
 旅行からフロリダに帰ったのち、アタとシェヒはジョージアを訪れ、ノークロスとデカツールに短期間滞在した。ローレンスビルでは指導員付で飛ぶために単発機を借りた。
219日にはアタとシェヒはバージニアにいた。彼らはそこでメールボックスを借り、小切手を現金化し、それから直ちにジョージアに帰ってストーンマウンテンに滞在した。我々はこの旅行の目的を説明することが出来ない。3月中旬、ジャラーもまたジョージアにおり、デカツールに留まった。ジャラーとアタは電話で話していたようだが、三人のパイロットが会ったという証拠は無い。その月の終わり、ジャラーは再び合衆国を離れ、2週間にわたりセンゲンをドイツに訪れた。4月初め、アタとシェヒはバージニアビーチに帰り、2月に開いたメールボックスを閉じた。
 アタとシェヒがジョージア旅行からバージニアビーチに帰ったとき、ハズミとハンジュールもバージニアのフォールズ・チャーチに到着した。彼らは4月初めのいつか、そこの大きなモスク、ダル・アル・ヒジュラに向かった。
 先に述べたように、このモスクのイマームの一人は、サンディエゴのラバト・モスクでハズミと時を過ごしたアンワル・アラキその人であった。アラキは20011月にバージニアに移転していた。彼はサンディエゴ以来、ハズミを忘れてはいなかったが、バージニアでハズミやハンジュールと何らかの接触を持ったことは否定している。
 ダル・アル・ヒジュラ・モスクで、ハズミとハンジュールはイアド・アル・ラババという名前のヨルダン人と会った。ラババは仕事探しについてアラキ・イマームと話すため、モスクに行ったと言っている。ラババの言うところでは、通常400から500人が出席する礼拝が終わった時、たまたまハズミとハンジュールに出会った。彼らはアパートを探していた。ラババは、彼らに一人の友人が貸しアパートを持っていると言った。ハズミとハンジュールは、アレキサンドリアにあるそのアパートに引っ越した。
 FBI調査官の中にはラババの話を疑っている者もいる。何人かの捜査官は、アラキがラババに、ハズミとハンジュールを助ける任務を与えたのではないかと疑っている。アラキのハズミのこれまでの関係との注目すべき符合から見て、我々はこの疑いを支持する。先に書いたように、委員会はアラキの居場所を突き止めてインタビューすることはできない。ラババは、9/11以後、運転免許証偽造の企みで有罪となり、ヨルダンに国外追放になっている。
 コネチカット、ニューヨークおよびニュージャージーに住んだ事のあるラババは、ニュージャージー州のパターソンを、ハズミとハンジュールの住むのに良いアラブ語社会のある場所として推薦したと捜査官に語っている。彼らはパターソンのアパートに住むために彼の手助けを求めた。ラババは、やってみたがうまく行かなかった。そこで彼はハズミとハンジュールに、彼とコネチカットに旅行し、住む場所を探してはどうかと提案したと言っている。
 58日、ラババはコネチカットへの旅行のためにハズミとハンジュールを乗せようと、彼らのアパートに行った。彼が言うには、そこで彼らが新しい同室者、アーメド・アル・ガムディーおよびマジェド・モケドと一緒にいるのを見つけた。これら二人の男は「腕力ハイジャッカー」としてアメリカに送られて来たもので、ダレス空港に52日に到着していた。ラババはハンジュールとコネチカット州のフェアフィールドにドライブした。ハズミがモケトとガムディーを乗せ、そのあとをついて行った。コネチカットでの短い滞在で、彼らは地区の飛行学校や不動産業者に電話したようだ。ラババは四人を夕食のためパターソンに連れて行き、彼らに周囲を見せた。ラババは、その夜 彼らと共にフェアフィールドに帰り、それから後は一度も会っていないと言っている。
 二、三週間以内に、ハンジュール、ハズミその他の何人かの工作員はパターソンに行き、ワンルームのアパートを借りた。後に家主が訪問したとき、彼はそこに六人の男が住んでいるのを発見した。 ナワフ・アル・ハズミ、合流した彼の弟サレム、ハンジュール、モケト、おそらくアーメド・アルガムディー、アブドル・アジズ・アル・オマリである。そしてハズミの古い友人、ハリド・アル・ミダルもまもなく合流することになっていた。
 アタとシェヒはすでにフロリダに帰っていた。411日、彼らはコーラル・スプリングスのアパートに移った。アタはフロリダに滞在して「腕力ハイジャッカー」の第一団の到着を待っていた。
 一方シェヒはカイロ行きのチケットを購入し、418日、マイアミから飛んだ。我々は、彼の1月のモロッコの旅行について知っている以上には、彼のエジプト旅行の理由を知らない。シェヒがアタの父親に会ったのは事実だ。父親は9/11後のインタビューで、シェヒはアタの国際免許証と、いくらかの金をほしがったと言っている。この話は信じ難い。アタはすでにその免許を持っており、シェヒがまだ外国にいた426日の交通検問でそれを提示している。シェヒはエジプトで約2週間を過ごした。アタの父親に会うだけに必要な時間より明らかに長い。シェヒはこの期間にどこかに旅行したかもしれないが、追加の旅行の記録は見出されていない。
 シェヒは52日、マイアミに帰った。この日、アタとジャラーは共に、30マイル北のフロリダ州ローダーデール・レークの自動車局(Department of Motor Vehicles)を訪れ、フロリダ州の運転免許を得ている。バージニアに帰ると、ハズミとハンジュールはコネチカットとニュージャージーに別れた。夏が近づくと主要工作員はフロリダとニュージャージーに住み、残りの別働隊の参加を待っていた。

                          
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7・3 チームの集合     (原文 p231)
 2000年夏から初秋にかけて、ビン・ラディンと古参アルカイダたちは、アフガニスタンで「腕力ハイジャッカー」たちの選定をはじめた。彼らは、操縦室を襲い、乗客を制圧する工作員たちである。彼らを表現するのに広く使われている文言(*)と異なり、いわゆる「腕力ハイジャッカー」は肉体的に堂々としているわけではなかった。大部分は身長5フィート5インチから7インチだった。 (*)直訳では「筋肉ハイジャッカー」muscle hijacker (訳註)

 9/11への募集と選定 
 13人の腕力ハイジャッカーのうち、12人(ナワフ・アル・ハズミとミダルを除き)は、サウジアラビアから来た:サタム・アル・スカミ、ワイル・アル・シェリ、ワリード・アル・シェリー、アブドル・アジズ・アル・オマリ、アーメド・アル・ガムディー、ハムザ・アル・ガムディー、モハンド・アル・シェリ、マジェド・モケド、サレム・アル・ハズミ、サイード・アル・ガムディー、アーメド・アル・ハズナウイそしてアーメド・アル・ナミである。残りの応募者はファエツ・バニハマドで、UAE出身である。彼は腕力ハイジャッカーの中で特殊な役割を演じたように見える。なぜなら彼は陰謀の財政担当者であるムスタファ・アル・ハザウイと共に働いていたからである。
 サウジ当局は[事件後]、彼らの親戚にインタビューし、彼らが知り得たことの概要を我々に知らせてきた。腕力ハイジャッカーたちは、さまざまな異なる学歴と社会的背景の出身だった。全員20歳から28歳で、大部分は高校卒以上の学歴は無く、無職の未婚者だった。
 彼らのうち、四人、アーメド・アル・ガムディー、サイード・アル・ガムディー、ハムザ・アル・ガムディーおよびアーメド・アル・ハズナウイ は、アルバハ地区の周辺の三つの集落から来た。そこはサウジアラビアの孤立した未開発地区で、同じ部族の関係者に分割支配されていた。大学卒業者は誰もいなかった。彼らの旅行形態と家族たちからの情報は、四人が1999年初秋から互いに接触していた事を示している。
 他の五人、ワイル・アル・シェリ、ワリード・アル・シェリ、アブダル・アジズ・アル・オマリ、モハンド・アル・シェリそしてアーメド・アル・ナミは、アシル地区から来た。そこはイエメンに国境を接するサウジアラビアの南西の貧しい地域で、この警察力の弱い地域は「野蛮なフロンティア」と呼ばれていた。ワイルとワリード・アル・シェリは兄弟だった。このグループの五人全員は、大学の学習を始めていた。オマリは高校を優等で卒業し、イマーム・ムハンマド.イブン・サウド・イスラム大学で学位を得、結婚しており、娘も一人あった。
 残りの三人のサウジアラビア出身の腕力ハイジャッカーは、サタム・アル・スカミ、マジェド・モケドおよびサレム・アル・ハズミである。スカミはリヤド出身、モケドはメジナの西のアナキルという小さな町で声をかけられた。スカミは殆ど教育をうけていなかった。またモケドは大学を中退していた。おそらく1999年に過激主義者に取り込まれる前は、スカミもモケドも他の工作員と結びつきを持っていなかったように見える。
 ナワフの弟、サレム・アル・ハズミはメッカに生まれた。サレムの家族は、彼をケンカ早いティーンエイジャーとして思い出している。おそらく彼の兄のナワフが、彼をアルカイダに応募するよう推奨した。彼らを知るアルカイダ・メンバーの一人は、弟のサレムが9/11作戦に参加できるよう、ナワフがビン・ラディンに懇願したと言っている。
 拘留者たちは、多くのサウジ人工作員が使われたことについて、異なる理由を述べている。ビナルシブは、アルカイダが、サウジアラビア政府に合衆国との関係について、メッセージを送ることを望んだからだと論じている。しかし、数人のアルカイダの人物はそれが安全や作戦上の理由で重要で無ければ、民族は一般的には工作員選定の要素ではなかったと述べている。
 例えば、KSMは、合衆国とサウジアラビアの間に楔を打ち込むために、9/11の陰謀にサウジ人が選ばれたことを否定し、工作員を選ぶ際に民族的背景を考慮するのは、実際的な理由からだと強調している。彼は多くがサウジ人だったのは、アルカイダ訓練キャンプの新兵のプールで、サウジ人が最大の構成割合だったからだと述べている。KSMは、どのキャンプをとっても、ムジャヒディンの70%がサウジ人、20%がイエメン人で、10%はいろいろな所からだと推定している。サウジ人とイエメン人の訓練生がしばしば自殺作戦に喜んで志願していたにも拘わらず、9/11以前は、サウジ工作員が合衆国に入るのは容易だった、
大部分のサウジ人腕力ハイジャッカーたちは、攻撃前の二、三年間に過激主義者との結びつきを作り上げた。彼らの家族は、しばしばこれらの若者を宗教的狂信者とは見なしていなかった。ある者は信仰深いと見なされ、またある者は信仰心に欠けるとされた。たとえば、アーメド・アル・ガムディー、ハムザ・アル・ガムディー、ザイード・アル・ガムディーは祈祷集会にいつも出席し、オマリはしばしば彼のサウジアラビアのモスクでイマーム[礼拝指導者]として奉仕した。スカミとサレム・アル・ハズミは、宗教とは係りがないように見え、イスラム法に反して、アルコールを飲むことが知られていた。
 他のアルカイダ工作員と同じように、腕力ハイジャッカーとなったサウジ人たちは、アフガニスタンの外 ―おそらくサウジアラビア本国― で勧誘対象とされた。アルカイダの新兵勧誘者は、特定のクレリック[礼拝指導者]や、まれには家族だったりするが、おそらく全員が候補者を見つけ出す役割を演じたのであろう。腕力ハイジャッカーの数人は、地方大学かモスクでの接触により募集されていたようだ。
 アフガニスタン訓練キャンプの幹部の一人によれば、何人かは、アルカイダと接触のあった不特定のサウジの族長によって選ばれた。例えばオマリは急進的なサウジのクレリック、スレイマン・アル・アルワンの生徒だったと信じられている。彼のモスクは、アル・カシム地区にあり、中庸なクレリックの間で「テロリスト工場」として知られている。この地区は、サウジアラビアの厳格なワッハーブ運動の、まさに中心部にある。サイード・アル・ガムディとモハンド・アル・シェリもアル・カシムで過ごした。二人とも家族とは決裂している。彼の父によれば、モハンド・アル・シェリは、この地区への頻繁な訪問の結果、リヤドの大学の試験に失敗した。サイード・アル・ガムディーはアル・カシムの大学に移ったが、家族と話すことをやめ、彼らに告げずに大学を中退した。
 これらサウジの新兵たちは、1999年から2000年初めにかけて、彼らの家族と離れ始めた。親族によれば、新兵の中には、長期間の不在の手筈をととのえ始めていた者もいた。他の物は、失踪する前に挙動を明らかに変えた。サレム・アル・ハズミの父親は、アルコールと小さな盗みで問題のあったサレムが、失踪の三か月前から、飲酒を止め、きちんとモスクに出席するようになったことを思い出した。
 ジハード、特にチェチェンのジハードに参加したがっていたことを思い出した家族もあった。アフガニスタンに行くと言ったものは無かった。これらの発言は真実かもしれないし、見せ掛けかもしれない。たとえば、ガムディ部族からの四人の新兵は皆、家族にチェチェンに行くつもりだと告げていた。アーメド・アルガムディーとサイード・アルガムディーの二人だけは、ロシア共和国に旅行することを示す文書を持っていた。
 幾人かの意欲的なサウジ・ムジャヒディンは、チェチェンに行こうとしたが、途中で困難にあい、行き先をアフガニスタンに変更した。1999年、チェチェンのアラブ民族総指揮官、イブン・アル・ハタブは大部分の外国人ムジャヒディンを、彼らの経験不足と地域環境に馴染めないことから、追いだし始めたと言われていた。KSMは、9/11腕力ハイジャッカーの何人かは、チェチェンへの旅行で問題に直面しアフガニスタンに向かい、そこでアルカイダに引き入れられたと言っている。
 ハラドは、こうした方向転換が起きた経緯を、さらに詳しく話している。彼によると、1999年、ロシア人と戦うためにチェチェンに向かったサウジのムジャヒディンの多くが、トルコとジョージアの国境で止められていた。トルコに着いた彼らは、イスタンブールやアンカラのゲストハウスで、ジョージア経由のチェチェン行きルートが閉鎖されているという電話を受けた。それで、これらのサウジ人たちは、アフガニスタンに行き、2000年夏の間に訓練を受けながら、チェチェンに入る次の機会を待つことにした。アルカイダのキャンプで訓練中に、ビン・ラディンの演説を聞いて、自殺工作員に志願する者が十数名出た。そして、結果的に、飛行機作戦の腕力ハイジャッカーに選ばれた。ハラドは彼らの多くにカンダハル空港で会ったと言う。そこで彼らは警備の助手をしていた。ハラドはビン・ラディンに彼らを使うように勧めた。そして、中でも一番親しいサイード・アル・ガムディに、殉教者になるように説得し、その友人のアーメド・アルガムディも同じ目的に誘い込むよう頼んだ。ハラドは、後に9/11作戦に選ばれる事になるこのグループのすべてを思い出すことは出来ないが、スカミ、ワリードとワイル・アル・シェリの兄弟、オマリ、ナミ、ハムザ・アル・ガムディ、サレム・アル・ハズミおよびモケドは含まれていたと言っている。
 KSMによれば、自殺作戦に応募した工作員は、ほとんどの場合 殉教を強制されたわけではなかった。アフガニスタンに到着すると、応募者は標準的な質問の申請書を書き込む。たとえば、あなたがアフガニスタンに来た動機は? どのようにここまで旅してきたか? 我々についてどのように聞いているか? あなたが大義に惹かれた理由は? あなたの教育的背景は? 以前どこで働いていたか? 申請書は新しい到着者の潜在能力を決定するため、また彼らの間にいる可能性があるスパイを取り除くため、また応募者の特殊技能を認定するために有益だった。例えば、前述したように、ハニ・ハンジュールは飛行訓練で注目された。見込みの有る工作員は、彼らが自殺作戦に奉仕する用意が出来ているがを聞かれた。肯定的に答えた者は、アルカイダの上級副官、モハメッド・アテフの面接をうけた。
 KSMは、アルカイダ工作員は誰であれ自ら殉教する意思をもつことが最も重要な資質だと主張している。ハラドも同意し、航空機作戦参加者の選定に当たって、この基準は最も重要なものだと言っている。次いで重要なものは、明白な忍耐力だとハラドは言う。なぜならこのような攻撃計画には何年かを要するからだ。
 ハラドは、9/11以前には、合衆国当局はこのような作戦を予期していないので、ハイジャッカーたちが、前もってジハードを戦ったか否かは問題にならないと主張している。しかし、KSMは、旅行中に警戒されることが無いように、[パスポートの]まっさらな記録の若いムジャヒディンが選ばれたと断言している。アルカイダ訓練キャンプの所長は、保安当局に知られていそうな国際的な活動にこれまで参加したことが無い工作員が、9/11攻撃のために意図的に選ばれたと付け加えている。
 大部分の腕力ハイジャッカーは、他のアルカイダ応募者と同じ基礎訓練を最初に体験した。そこには火器、重火器、爆発物、地形図学などが含まれていた。応募者は、規律と軍隊生活を学んだ。彼らは、精神的適応性とジハードへの献身を測るため、人為的なストレスにもさらされた。サウジの腕力ハイジャッカーのうち、少なくとも七名がカンダハル近くのアル・ファルーク・キャンプで基礎訓練教程を受けた。この特別のキャンプは、将来の腕力ハイジャッカーの調査と訓練に適当な位置にあると思われた。なぜなら、ビン・ラディンと古参アルカイダ指導者に近い場所だったからである。他の二人、スカミとモケドは、カブール近くの大きなハルダン複合訓練施設で訓練された。そこは1990年代中頃にミダルが訓練を受けた所だった。
 航空機作戦の工作員が選定された2000年中頃には、アフガニスタンですでに数か月の訓練を受けた者たちもいれば、初めて到着した者も、最初の滞在を終えてキャンプから戻りつつあった者もいたようだ。KSMによれば、ビン・ラディンはキャンプへ行って彼らに出張講義し、訓練生に個人的に会ったりしたらしい。訓練生のうち、この特殊作戦に有望だとビン・ラディンに見込まれた者は、さらに突っ込んだ討議のため、タルナック農場にあるアルカイダ指導部の施設に招かれた。
 KSMによると、ビン・ラディンは新しい訓練生を、非常に素早く、ものの10分ほどで査定でき、9/11ハイジャッカーの多くがこの方法で選ばれたという。ビン・ラディンは、アテフの助けを得て、航空機作戦のためにすべての腕力ハイジャッカーを、主として2000年夏から20014月の間にみずから選んだ。訓練生の選出にあたり、ビン・ラディンは自殺作戦に忠誠を誓うかを尋ねた。選出と宣誓の後、工作員はKSMのもとに送られ、訓練と殉教ビデオの撮影を行った。この手法を、KSMはアルカイダのメディア委員長として管理していた。
 KSMは、腕力ハイジャッカーの新兵たちを、合衆国のビザ取得のためサウジアラビアに送った。彼は金(各自に約2.000ドル)を渡し、ビザ取得後はさらに訓練するためアフガニスタンに帰ってくるよう指示した。この初期段階で、工作員たちは作戦の詳細について話されてはいなかった。サウジの腕力ハイジャッカーの大部分は、2000年の9月から11月の間に、ジッダかリヤドで合衆国のビザを取得した。
 KSMは、ハイジャッカー候補たちに、合衆国ビザ申請前に彼らの母国で新しい「きれいな」パスポートを取るように指示した。これはアルカイダが現在活動中の国を訪れていることで疑いが生じるのを避けるためだった。サウジの腕力ハイジャッカー9人を含む、19人のハイジャッカー中、14人が新しいパスポートを得た。これらのパスポートの何通かは、カンダハルにあるアルカイダのパスポート部によって修正され、入出国スタンプを追加または抹消された。これはパスポートの中に「抜け道」を作り出すためだった。
最終的に9/11に加わった腕力ハイジャッカーに加えて、どうやらビン・ラディンは少なくとも9人の他のサウジ人も選んでいたようだ。彼らは、いろいろな理由で作戦に参加出来なかった:モハメド・マニ・アーマド・アル・カタニ、ハリド・サイード・アーマド・アル・ザラニ、アリ・アブダル・ラーマン・アル・ファカジ・アル・ガムディ、サイード・アル・バルチ、クタイバ・アル・ナジディ、ズヘイル・アル・ツバイティ、サイード・アブドラー・サイード・アル・ガムディ、サウド・アル・ラシド、そしてムサビブ・アル・ハムラン。10人目の人物、カナダ市民権を持つチュニジア人、アブデラウフ・ジェディは、9/11の参加候補だったかもしれないが、あるいはその後の攻撃の候補だったかもしれない。これらのハイジャッカー候補者は、尻込みしたか、旅行に必要な書類を得る上で問題があったか、あるいはアルカイダ指導部によって作戦から外された。ハラドは、KSMが一機あたり4ないし6人の工作員を望んだと信じている。KSMは、アルカイダは当初[全体で]25ないし26人のハイジャッカーを計画していたが、結局は19人だけになったと述べている。
最終訓練と合衆国への配備 
 サウジアラビアで合衆国のビザを得た腕力ハイジャッカーたちは、2000年末から2001年初めに、特別の訓練のためアフガニスタンに帰ってきた。その訓練は、アル・マタル複合施設で、アブ・トラブ・アル・ヨルダニによって実施されたと報告されている。彼は、KSMによると、多くのアルカイダ工作員の中で、航空機作戦計画の詳細を知るごく小数の工作員の一人で、いかに航空警察官を武装解除するか、いかに爆発物を扱うかなど、ハイジャックの実行方法を工作員たちに教えた。またボディービルを訓練し、彼らに数少ない基礎的な英単語とフレーズを教えた。
 KSMによれば、アブ・トラブは、ハイジャックに際してナイフを使用する時のため、羊や駱駝の屠殺まで訓練したと言われる。新兵たちは、ドアが開く最初の機会に操縦室を襲うことに集中し、飛行機の他の部分の制圧は後回しすることを教え込まれた。工作員たちは、同様に、自動車爆弾など別の種類の攻撃についても教えられた。これは、もし彼らが逮捕された場合、作戦の真の性質を明かすことが無いようにするためだった。KSMによれば、腕力ハイジャッカーたちは、ハイジャック機がビルに突入することを含む詳細な全貌を、合衆国に着くまで知らなかった。
 アフガニスタンでの訓練の後、工作員たちは、KSMによって維持されているカラチの隠れ家に行き、UAE経由で合衆国に配置されるまでの間、一時的にそこに留まった。隠れ家はアルカイダの工作員、アブ・ラーマとしても知られるアブダル・ラヒム・グルム・ラバニによって運営されていた。ラバニはKSMに近い仲間で、三年間にわたってアパートを見つけたり、KSMが送り込む工作員に対する兵站面での手助けをしてきた。
 アルカイダの協力者によれば、工作員たちは信頼できるパキスタン人のアルカイダ連絡員、アブドラ・シンディによって隠れ家に連れてこられた。彼はまた、KSMのためにも働いていた。将来のハイジャッカーたちは、通常二、三人のグループで到着し、その家に約二週間滞在した。その協力者は、2001年春、KSMの指示に従って各々の工作員を確認した。工作員たちはパキスタンを去る前に、今後の費用としてKSMから各自10,000ドルを受け取った。
 工作員たちはパキスタンから、UAEを経由して合衆国へ向かった。エミレーツ[UAE]で、彼らは初めアルカイダの工作員アリ・アブドル・アジズ・アリと、ムスタファ・アル・ハザウイの援助を受けた。アリは20014月から6月にかけて、未来のハイジャッカー達9人がドバイを通過したとき、彼らを手助けしたようだ。飛行機のチケット、トラベラーズチェック,ホテルの予約などで彼らを助け、また西側での日常生活、たとえば衣類の購入や食べ物の注文などについても教えた。主要空港へのアクセスが容易なこと、旅行社、ホテル、西側の商業施設などがある近代都市・ドバイは理想的な乗り継ぎ地点だった。
 アリは、彼が援助している工作員たちが、合衆国内での大きな作戦に参加する事は予想していたが、その詳細は知らなかったようだ。彼がKSMに助手を送ってほしいと頼んだとき、KSMはカンダハルのアルカイダのメディア委員会で働いていたハザウイを送った。ハザウイは(ミダルを除く)最後の四人の工作員をUAEから合衆国に送る手助けをし、アタと彼らの合衆国への渡航スケジュールを相談し、その後、めいめいが到着したことを確認した。また、腕力ハイジャッカーたちに、アタが空港で出迎える事を伝え、作戦の資金面の一部を調達した。
 腕力ハイジャッカー達は20014月末から合衆国に到着し始めた。多くの場合、彼らはペアで、旅行ビザで旅し、フロリダ州のオーランドまたはマイアミ、ワシントンD.C、ニューヨークなどから合衆国に入った。フロリダに到着したものはアタとシェヒの援助を受け、ハズミとハンジュールは残りの[空港到着者の]面倒を見た。6月末までには15名中14名の腕力ハイジャッカーが大西洋を越えた。
 腕力ハイジャッカーたちは、資金の提供を受け、それを現金と、UAEやサウジアラビアで購入した旅行小切手を取り混ぜて持ち歩いた。七人の腕力ハイジャッカーたちは、合計で50,000ドル近い旅行小切手を購入し、それを合衆国で使ったことが判明している。さらに、他の腕力ハイジャッカーの入国直後に、相当額の預金が工作員の合衆国の銀行口座に入った事から、これらの新人たちも資金を持って来たことが判る。おまけに、腕力ハイジャッカーのバニハマドはUAEに銀行口座を開き、約30,000ドルを2001625日に預金したのち、合衆国にやってきた。そして、627日の合衆国到着の後、VISA[カード]を作り、彼のUAE口座からATMで引き出しを行った。 
 ハイジャッカーたちは、大手の国際銀行の支店と、それより小さな地方の銀行を選んで、合衆国でおおいに銀行を利用した。彼らは自身の顔写真付きで真正と思われるパスポートや証明書類を提示し、全員が実名で口座を開いた。一方、彼らが偽の社会保険番号を使って銀行口座を開いたという多くの報告が刊行されているが、そうした証拠は全く無い。ハイジャッカーたちは合衆国の金融システムの使用について、通暁していたわけではなかったが、大量の殺人テロ行為をたくらんでいたなどは無論のこと、銀行側に何らかの犯罪行為を疑わせるようなことは全く無かった。
 最後に到着した腕力ハイジャッカーはハリド・アル・ミダルだった。先に述べたように、彼は20006月にサンディエゴでハズミを見捨て、イエメンの実家に帰っていた。報告によれば、ミダルは、ハラドにアフガニスタンに帰るよう説得されるまでの約一か月、イエメンに留まっていた。ミダルは合衆国での生活に不満を漏らし、そんな彼に会ったKSMは、AWOL[無許可離隊]を決意した彼にいらだっていた。KSMは、彼をこの作戦から外したかったが、ビン・ラディンが引きとめておけと言い張ったので、やむなくそれに従った。
 2000年末から、20012月まで、ミダルは彼のいとことメッカにいた。それから、アフガニスタンに帰る前に家族を訪ねた。20016月、ミダルはもう一度メッカに帰り、いとこの家に翌月まで留まった。ビン・ラディンは合衆国に五回の攻撃をたくらんでいる、とミダルは言った。出発する前に、自分にはやらなければならない務めがあるので、自分に代わって彼の家庭の面倒をみてやってくれ、といとこに頼んだ。
 200174日、ミダルは合衆国に帰るために、サウジアラビアを去り、ニューヨークのジョン・F.ケネディー空港に着いた。ミダルは彼の予定の住所をニューヨーク市のマリオット・ホテルとしていたが、市内の別のホテルで一晩を過ごした。それから、パターソンのハイジャッカーグループに合流した。ナワフ・アル・ハズミとは、一年以上たっての再会だった。二か月を残して19名のハイジャッカーは全員合衆国にあり、攻撃実行に向けて最終段階に入る準備をしていた。
写真:ハイジャック犯19名 (ここでは、便名別に氏名のみを掲載する)   原文 p238,239

 American Airlines

Flight 11
 United Airlines

Flight 175
 American Airlines 

Flight 77
 United Airlines

Flight 93
 Mohamed Atta (Pilot)
  Waleed al Shehri
 Wail al Shehri 
 Satam al Suqami
 Abdulaziz al Omari
 
 Malwan al Shehhi (Pilot)
 F
ayez Benihammad
 Ahmed al Ghamdy 
 
Hamza al Ghamdi
 
Mohand al Shehri
 Hani Hanjour  (Pilot)
 Nawaf al Hazmi
 Khalid al Mihdhar
 Majed Moqed
 Salem al Hazmi
  Ziad Jarrah (Pilot)
 Saeed al Ghamdi
 Ahmad al Haznawi
 Ahmed al Nami


ヒズボラとイランからアルカイダへの援助  
 第2章に述べたように、スーダンでアルカイダの上級幹部は、イランとイランに支援された世界的テロリスト組織、ヒズボラとの接触を維持していた。その組織は、主に南部レバノンとベイルートに基地を置いていた。アルカイダのメンバーは、ヒズボラから助言と訓練を受けていた。
 情報は、イラン保安当局職員とアルカイダの上級幹部との接触は、ビン・ラディンのアフガニスタン帰国後も継続していたことを示している。ハラドによれば200010月の合衆国艦船コール攻撃以後、イランはアルカイダとの関係を強化する積極的な努力を行ったが、ビン・ラディンによって、それは拒絶された。彼がサウジアラビアの支持者を遠ざけることを望まなかったためである(*)。ハラドはじめ、他の拘留者は、当時アルカイダ・メンバーが、アフガニスタンへ往来するためにイランを通過することを、イラン当局者は好意を持って協力したと記述している。例えば、イランの国境監視員は、これらの旅行者のパスポートに機械印を押さないように指示されていた。このような配慮は、アルカイダのサウジメンバーに対する特別の恩恵であった。
  (*)アルカイダへの資金供給者が多かったサウジ社会はワッハーブ派(スンニ派系)で、シーア派のイランとは 宗派上の対立関係にあった (訳注) 
 9/11に選ばれたアルカイダ工作員の国際的な旅行について、我々の知識は断片的なままである。しかし我々は今14名中の8ないし10名の腕力ハイジャッカーが200010月から20012月の間に、イランを出入りしたことを示す証拠を持っている。
 200010月、ヒズボラの上級工作員が、その地での活動に協力するためサウジアラビアを訪れている。彼はまた、11月の間、イランに旅行する個々のサウジアラビア人の援助を計画していた。ヒズボラの最高指揮官と、サウジ・ヒズボラとの接触も含まれていた。
 また、200010月、将来の腕力ハイジャッカー2人、モハンド・アルシェリとハムザ・アルガムディがイランからクウェートに飛んだ。11月にはアーメド・アル・ガムディがどうやらベイルート[レバノン]に飛んでいる。おそらく偶然の一致であろうが、同じ便にヒズボラの幹部工作員が搭乗していた。また、11月にはサレム・アルハズミが、サウジアラビアからベイルートに飛んだようだ。
 我々が信じるところでは、11月中旬に、腕力ハイジャッカー候補の三人、ワイル・アルシェリ、ワリード・アルシェリ、およびアーメド・アルナミが,10月下旬に合衆国のビザを得たのち、グループでサウジアラビアからからベイルートへ行き、さらにイランに進んだ。その時、幹部ヒズボラ工作員も、イランに向かう腕力ハイジャッカー候補たちと同じフライトに乗っていた。ベイルートとイランのヒズボラ当局は、同じ時期にグループの到着を予期していた。このグループの旅行は、ヒズボラの幹部が注目するに足る重要性を持ったものだった。
 11月下旬、二人の腕力ハイジャッカー候補、サタム・アル・スカミとマジェド・モケドは、バーレーンからイランに飛んだ。20012月、ハリド・アルミダルはシリアからイランに飛び、さらにイラン国内をアフガン国境の近くまで行っていたようだ。
 KSMとビナルシブは、9/11ハイジャッカー数人(ビナルシブによれば少なくとも8人)が、アフガニスタンへの出入りにサウジ人のパスポートに押印しないイランの慣習を利用して、イランを通過したことを確認した。ハイジャッカー達がイランへ行くのは、それ以外の如何なる理由[スタンプ免除]もないし、ハイジャッカーとヒズボラとは何の関係もない、と2人は断言している。
 要するに、9/11以前、アルカイダのメンバーがアフガニスタンに出・入国するための通過にイランが便宜をはかったことおよび、その中には9/11の腕力ハイジャッカー候補が含まれていたことに関しては強固な証拠が存在する。また、200011月、幹部ヒズボラ工作員が将来の腕力ハイジャッカーたちをイラン国内まで密着して追跡した状況証拠がある。とはいえ、稀に見る偶然の一致という可能性 ―すなわちヒズボラが密着追跡していたのは、これら腕力ハイジャッカー候補ではなく、たまたま同じ時期にサウジアラビアから旅行していた別のグループだった― ということもあり得る。
 我々は、イランまたはヒズボラが、後に9/11となる計画を予知していたという証拠を発見できていない。同様に、アルカイダ工作員自身も、イラン通過の際、自分たちの今後の作戦について細部まで知ってはいなかっただろう。
 9/11以後、イランとヒズボラは、アルカイダと連携したスンニ派のテロリストとのいかなる過去の協力の証拠も秘匿したがった。幹部級ヒズボラメンバーは、ヒズボラは9/11に全く関与していないと否認した。
 この問題は合衆国政府の更なる調査を必要とすると、我々は信じている。

                          
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7・4 最後の戦略と戦術  (原文 p.241
合衆国での最後の準備 
  2001年の初夏、アタはシェヒに助けられながら、南フロリダで殆どの腕力ハイジャッカーの到着の調整に忙しかった。彼らを空港に出迎え、その宿泊場所を見つけ、彼らが合衆国に定着するのを助けた。
 大部分はフロリダに住みついた。ある者は銀行口座を開き、メールボックスを得、また車を借りた。数人は、作戦に要する身体能力を維持するため、地方のジムに加入した。到着した当初、大部分はホテルかモーテルに泊まったが、6月中旬には彼らはお互いに比較的近く、またアタとも近い共用アパートに住んだ。これらの腕力ハイジャッカーたちは、合衆国到着後はあまり旅行することは無かったが、彼らのうちの二人、ワリード・アル・シェリとサタム・アル・スカミは例外的な旅行をした。
 519日、シェリとスカミは、フォート・ローダーデールからバハマのフリーポートに飛んだ。そこで、彼らはバハマ・プリンセスリゾートを予約していたが、到着すると、バハマ当局に追い返された。彼らがビザを持っていなかったためである。彼らはその日のうちにフロリダに帰ってきた。多分この旅行は スカミの合衆国の法的滞在が521日で切れるので、在留資格を更新するためだったらしい。
 730日、シェリは一人で、フォート・ローダーデールからボストンに行き、翌日サンフランシスコに飛んで一泊し、ラスベガス経由で帰った。この旅行はおそらく調査飛行だったのだろう。シェリは911日のハイジャックを手助けすることになる同型機(ボーイング767)のファーストクラスを利用した。そして旅行はラスベガスでの途中下車を含んでいた。シェリはパイロットでも陰謀のリーダーでもなかったし、同じ調査飛行をした他のハイジャッカーたちも、その点では同様だった。
 三人のハンブルク・パイロット、アタ、シェヒ、ジャラー は、夏の初めに最初の[北米]大陸横断調査飛行を行った。5月下旬、シェヒはニューヨークからサンフランシスコ経由でラスベガスへ飛んだ。6月初め、ジャラーは、バルチモアからロサンゼルス経由でラスベガスに飛んだ。6月末、アタはボストンからラスベガスへサンフランシスコ経由で飛んだ。それぞれ、ユナイテッド航空のファーストクラスだった。東部から西部への大陸横断便で、各工作員は911日に操縦する予定の同じ機種で飛んだ。(アタとシェヒはボーイング767、ジャラーはボーイング757だった)後に記すように[本章次々項「攻撃準備」]ハンジュールとハズミは同じ大陸横断調査飛行を8月に行った。
 ジャラーとハンジュールは、追加訓練と飛行実習を夏の初めに受けた。ジャラーは大陸横断調査飛行に出発する二、三日前、フォート・ローダーデールからからフィラデルフィアに飛んだ。彼はそこのホートマン航空で訓練を受けたが、ハドソン回廊を飛びたいと頼んだ。そこはワールド・トレードセンターのようなニューヨークのランドマーク近くを通過する、ハドソン川に沿った低高度の「回廊」である。この地域の航空路は混雑が激しいので、未経験なパイロットにとっては、危険なルートである。ホートマンは、ジャラーの単独飛行は不適当とし、指導員同乗でのみこのルートを飛ぶことが出来ると考えた。
 ハンジュールもまた、ほぼ同じ時期に,ニュージャージー州テテルボロの編隊飛行訓練システムで、ハドソン回廊の飛行を希望していた。彼はこの地域にハズミと住んですぐに、地上訓練を開始していた。ハンジュールはハドソン回廊を飛んだ。しかし彼の指導員は、ハンジュールの貧弱な操縦技術を考慮して、2回目の希望を断った。そのすぐ後、ハンジュールはニュージャージー州フェアフィールドのコールドウエル飛行アカデミーに切り替えた。そこで彼は6月から7月にかけて数回小型機を借りた。そうした折りの一つ、720日にハンジュールは ―ハズミを伴っていたようだ― コールドウエルから飛行機を借り、フェアフィールドからゲイサーズバーグ(Gaithersburg)(メリーランド州)に実習飛行を行った。その航路はワシントンD.C.の近くを飛ぶことが出来る航路だった。ほかにも、ハンジュールが6月初めに、フライト・シミュレーター訓練のためアリゾナに帰ったことをうかがわせる証拠もある。
 アタとシェヒが6月にこれ以外の飛行訓練を受けた兆候は無い。二人は新しく到着した腕力ハイジャッカーたちを編成したり、大陸横断調査飛行に連れ出したりで、あまりに忙しかったようだ。おまけに、アタは、副指揮官のナワフ・アル・ハズミと協議する必要があった。   
 アタとハズミは、4月初めのほぼ同じ時期にバージニアにいたようだが、その時は、おそらく会ってはいなかった。KSMに関する通信の分析によると、彼らは4月に集まりたかったが、調整がつかなかったことがわかる。アタとハズミが合衆国で初めて会ったのは、719日から25日にかけて、ハズミがニューアークからマイアミへ周回旅行を行った時だと思われる。
 ニュージャージーに帰った後、ハズミの行動は他のハイジャッカーたちと殆ど同じものとなった。例えば、彼とハンジュールはすぐに銀行口座を開き、メールボックスを得、車を借り、ジムに通い始めた。ニュージャージーで一緒に住んでいた他の4名も同様だった。また、数人は新しい写真つき身分証明書を、最初はニュージャージーで、次にバージニア自動車局で得た。そこは数ヶ月前にハズミとハンジュールが、ヨルダン人の友人、ラババの助けを借りて同様の証明書を得たところだった。
 7月初めに、アタは再びハズミと会ったようだ。彼の最初の大陸横断調査飛行から帰って、アタはニューヨークに飛んだ。フロリダに直接帰ることなく、彼はニュージャージーのホテルにチェックインした。そして、7月4日フォート・ローダーデールに出発する前に、パターソンの旅行社でスペイン行きのチケットを手に入れている。いまや腕力ハイジャッカーは到着し、彼はラムジ・ビナルシブと最後に会う用意ができた。

     スペインでの会議  
  20011月、ベルリンでアタと会ってから、ビナルシブは2001年の春のほとんどを、カラチを通過する腕力ハイジャッカーの移動を助けながら、アフガニスタンとパキスタンで過ごした。ベルリンでの会合の間、二人は作戦を親しく協議するため、その年の内にクアラルンプールで会うことで合意した。5月下旬、ビナルシブは、カンダハル近くの「第6コンパウンド」として知られるアルカイダの施設にいたビン・ラディンに直接報告した。
 ビン・ラディンは、ビナルシブを通じて、アタとその他の者に、彼ら自身と作戦の安全確保に集中するよう指示し、またアタには、彼がアフガニスタンを去る前の2000年初めに討議した標的、ワールド・トレードセンター、ペンタゴン、ホワイトハウス、議事堂などについての作戦を計画通り進めるように伝えた。ビナルシブによれば、ビン・ラディンは議事堂よりホワイトハウスが望ましいと言い、そのことをアタが知っているか確認するよう、ビナルシブに命じた。ビナルシブは、ビン・ラディンが同じメッセージをこの春の初めにワリード・アル・シェリにも与えたと言っている。ビナルシブはまた、アタとマレーシアで会う許可を得た。アテフがこの旅費を提供した。それはKSMがカラチで手配し、ビナルシブに渡したものと思われる。
 6月初め、ビナルシブはタクシーでカンダハルからパキスタンのクエッタに行った。そこでアルカイダの連絡員アブ・ラーマンが彼をKSMのところに連れていった。ビナルシブによれば、KSMはマレーシアへの航空券とサウジの偽造パスポートをこの旅行用に与えた。KSMは、彼に、アタに攻撃の日を選定したかを尋ねるように命じた。ビナルシブはドイツに帰ってから、KSMにその日を伝えることにした。KSMはまた、将来の接触のためにザカリウス・ムサウイのメール・アドレスを与えた。そして、ビナルシブはクアラルンプールに向かった。
 ビナルシブはマレーシアに到着するとすぐアタに連絡し、計画の変更を知った。アタは新しく到着した者たちを合衆国に住まわせることに忙殺されて、旅行することが出来なかった。マレーシアに約3週間とどまった後、ビナルシブはドイツに帰る前にバンコックに数日行った。彼とアタは、また会う約束をしたが、その場所はまだ決めていなかった。
 7月初めに、アタはビナルシブに電話をして、マドリッドで会うことを提案した。ビナルシブは、その理由は知らないと言っている。彼はベルリンの方が良いと思ったが、彼とアタはドイツに多くの知人がおり、一緒にいる所を見られることを恐れた。旅行シーズンの最盛期だったため、ビナルシブはマドリッドへのチケットを買うことが出来ず、翌日、バルセロナ近くのルースへの便を予約した。アタはすでにマドリッドに向かっていたので、旅程の変更を知らせるため、ビナルシブは合衆国のシェヒに電話した。
 アタは78日にマドリッドに着いた。彼はホテルで夜を過ごしながら、部屋から3回電話をした。おそらくビナルシブとの調整であろう。翌日、彼は車を借り、ビナルシブを拾うためルースにゆき、さらに二人でカンブリルス近くの町にドライブした。ホテルの記録は、アタが同じ地区で部屋を719日まで借りたことを示している。その日、彼はマドリッドで車を返し、フォート・ローダーデールに帰った。ビナルシブは、716日、すでに事前にアタが購入したチケットを使ってハンブルクに帰っていた。ビナルシブによれば、彼らはスペイン滞在中、誰にも会わなかった。
 ビナルシブは、アタにビン・ラディンは可能な限り早く攻撃を実行することを望んでいると告げたと言っている。ビナルシブは、ビン・ラディンが合衆国内にかなり多くの工作員がいることを心配しているとアタに伝えた。アタは、到着するハイジャッカーを組織化するのにあまりに忙しいことと、さらに衝突が同時に起こるようにフライトのタイミングを調整する必要があることから、まだ日付を決めることが出来ないと答えた。彼は攻撃の日付の決定まで、5ないし6週間を要するといった。ビナルシブはアタに、他の工作員には最後の瞬間まで日付を知らせるなというビン・ラディンの指示を伝えた。アタは、ビナルシブがアフガニスタンに行き、ビン・ラディンに直接に日付を報告できるよう、少なくとも1,2週間前に彼に予告することにした。
 標的として、ビン・ラディンがホワイトハウス攻撃に関心があることをアタも知っていた。アタはこの目標は難しすぎると思っていたが、ハズミとハンジュールにその可能性の評価を命じて、彼らの回答を待っているところだった。二人の工作員は小型機を借り、ペンタゴン近くを偵察飛行したと言った。ハンジュールはペンタゴン攻撃を命じられ、ジャラーは議事堂、アタとシェヒはワールド・トレードセンターを攻撃することになるだろうとアタは説明した。もし、誰かがその設定目標に到達できなかった場合には、飛行機を墜落させなければならない。アタはもしワールド・トレードセンターに衝突できなければ、その飛行機を直接ニューヨークの街路に衝突させるつもりだった。アタは、ビナルシブに、各々のパイロットはその設定目標を志願したが、その割り当ては変更する可能性があることを条件としていると告げた。
 スペインでの討議中、アタはまた核施設を標的とすることも考慮したと言った。その施設を、彼は慣熟飛行の時、ニューヨーク近くで見ており、それを呼ぶのに「電気施設」という言葉を使った。ビナルシブによれば、他のパイロットたちはこのアイデアを好まなかった。彼らは、核[施設]の標的は困難と考えていた。なぜならその周囲は飛行制限空域で、偵察飛行は不可能だったうえに、どんな飛行機でも衝突前に撃墜される可能性が大きかった。さらに、すでに承認された標的とは異なり、この選択はアルカイダ指導部で検討されたことが無く、したがって必要不可欠な祝福を与えられていなかった。おまけに、核施設にはこれという象徴的な価値はなかった。アタはビナルシブに、このアイデアをビン・ラディン、アテフまたはKSMに伝えてくれとは頼まなかったし、ビナルシブも9/11が終わるまでその事を彼らに伝えなかったと言っている。
 ビナルシブは、スペイン滞在中に、ハイジャックをどのように実行するかについてもアタと討議したと主張している。アタは、彼とシェヒおよびジャラーが大陸横断調査飛行をしたとき、カッターナイフの持ち込みは何の問題も無かったと言った。コックピット:操縦室を襲う最良の時間は、離陸後10ないし15分の間で、はじめのこの時間には、一般的には操縦室のドアは開けられている。アタは、何か他の武器が必要だとは考えなかった。予想に反し、操縦室のドアが閉じられた場合についての明確な計画はなかった。彼は人質を使うとか、爆弾を持っていると主張するなどの一般的なアイデアについて語ったが、操縦室のドアは開かれるだろうから、それを破壊するというのは現実的な考えだとは思っていなかった。アタは、ビナルシブに燃料を多量に搭載している長距離便が好ましく、また操縦が容易なボーイングを望んでいると告げた。エアバスはオートパイロット機のため、それを墜落させるのは難しい事を彼は知っていた。 
 アタは腕力ハイジャッカーたちが事故も無く合衆国に到着したことを最終的に確認した。彼らは、その英会話能力に応じてチームに分けられることになった。こうすれば、彼らは作戦前に互いに助け合うことが出来、各チームは乗客を英語で指図することが出来るだろう。ビナルシブによれば、アタはハイジャッカーの一部が、別れを告げるために家族に連絡したいと言っているとこぼした。これは彼が禁じていたことだった。アタはまた、今後のビナルシブとの連絡についても神経質になっていた。彼には、ドイツに帰ったら新しい電話を買うように指示してあった。ビナルシブはスペインを去る前、アタに八個のネックレスと八個のブレスレットを渡した。これは、彼が最近バンコックに行った際、アタに買うように頼まれたもので、ハイジャッカーが髭をそり、良い身なりをしていれば、他人は彼らを裕福なサウジ人と思い、あまり注意を払わないだろうと信じていたからだった。
 ビナルシブは,スペインから帰ると,指示された通り、二つの電話を買った。一つはアタとの連絡用、もう一つはKSMその他、例えばザカリウス・ムサウイなどとの連絡用だった。ビナルシブは直ちにKSMに連絡し、暗号を使ってアタとの会議の結果を報告した。この重要な交信は7月中旬に行われた。
 会話は多くの話題に及んだ。例えば、ジャラーは、ハイジャッカーたちの何か個人的な品物を、彼らのパスポートのコピーと共に、ビナルシブのもとに送り、これらをビナルシブは、順にKSMに転送することになっていた。おそらく、引き続いて行われるアルカイダのプロパガンダ[ビデオ]に使うためだろうと思われる。
 7月中旬の会話で最も重要な部分は、ジャラーのアタとの不和に関したものだった。ジャラーがアタの支配下にあることに苛立っているのを、KSMもビナルシブも、知っていた。ビナルシブは、この不和の一部は、ジャラーの家族訪問から起きたと信じている。おまけに、ジャラーは殆どの時間一人で合衆国にいた。それはビナルシブのビザの[取得困難という]障害のせいで、二人が同時に訓練を受ける事ができなかったためだ。そのため、ジャラーは意思決定に加われなかったと感じていた。ビナルシブはジャラーとアタの間の取り持ち役として働かなければならなかった。
 こんなに押し迫った段階へ来で、ジャラーが作戦から手を引きかねないと心配して、KSMはアタとジャラーが和解することがいかに重要かを力説した。ビナルシブはそんな心配は不要だと言い、7月半ばの討議の際、KSMに,アタとジャラーは和解し、ジャラーの家族訪問後、一月の内に[計画実行に向けて]前進するだろうと請け合った。KSMは彼の心配と、遅延の可能性に気付いて、ある時点でビナルシブに「サリー」に「スカート」を送れと指示した。これは、資金をザカリウス・ムサウイに送れという暗号指示だった。ビナレシブはKSMがムサウイに資金を送るよう7月中旬の会話の中で指示したことを認めているが、なぜこのような指示を受けたかは知らなかったと言っている。しかし彼は、この金は9/11作戦の「枠組み内」で提供されると考えていた。
 KSMがムサウイへの送金をビナレシブに指示したのは、ジャラーの代役となるパイロットとして、ムサウイに用意させるための資金だったのかもしれない。2001720日、ジャラーのガールフレンド、アイセル・センゲンがジャラーのためにマイアミからデュッセルドルフまでの片道チケットを購入した。これまでジャラーは、合衆国からセンゲンやレバノンの彼の家族に会うために4回旅行しているが、彼はいつも周遊チケットを使っていた。ジャラーがマイアミを離れた725日、アタは彼を空港まで車で送ったようだが、これは特別な状況である。
 725日、ビナルシブはジャラーをデュッセルドルフの空港に出迎えた。ジャラーはセンゲンに一刻も早く会いたがったので、彼とビナルシブとは23日後に会うように手配した。そうしてから、ビナルシブは計画全体を見通せとジャラーを励ましたが、二人の会話は感情的なものとなった。
 ジャラーがドイツにいる間に、ビナルシブとムサウイは、資金の移動について調整するため連絡をとった。ビナルシブはUAEのハザウイから、2回の電信送金で総額15,000ドルを受け取り、数日の内にこの金のほとんど全部を2回に分けてムサウイに転送した。
 ムサウイは2月から、オクラホマ州、ノーマンのエアマン飛行学校で操縦訓練を受けていたが、5月末に中止した。この時点で彼は約50時間の飛行時間を持っていただけで、彼の単位には単独飛行はなかった。ムサウイはフライトの機材とボーイング747のシミュレーター訓練について調べはじめた。710日、彼はミネソタ州、イーガンのパンナム国際飛行アカデミーでのシミュレーター訓練のために1,500ドルを預金から引き出し、その月末に、813日から20日までのシミュレーター訓練の予定表を受け取った。ムサウイはさらに2本のナイフを購入し、2か所のGPS製造所に彼らの製品が航空機用に変更できるかを問い合わせている。この行為は、9/11ハイジャッカーの攻撃の最終準備期間のものと非常に類似している。
  810日、ビナルシブから金を受け取った直後、ムサウイは一人の友人とオクラホマを離れ、車でミネソタに向かった。3日後、ムサウイは、パンナムでの彼のシミュレーター訓練のための残額6,800ドルを現金で支払い、訓練を始めた。しかし、彼の行為は指導教官に疑いを持たせた。パイロット免許の取得とか、それ以外のこれといった目的もなしに、研修時間もこれほど少ない訓練生が大型ジェット機の飛行訓練を希望するというのは尋常ではなかった。指導教官がその疑惑を当局に報告するや否や、816日、ムサウイは移民法違反でINSに逮捕された。
 KSMはムサウイを航空機作戦に考えたことは一度もなかったと言っている。その代わりに、ムサウイは第二波攻撃に参加することになっていたと主張している。また、ムサウイはアタとは接触が無かったと主張しており、我々には、これに対する反証が無い。
 しかしKSMは、2001年夏は目前の航空作戦にあまりに忙しく、第二波攻撃の計画どころでは無かったとも言っている。おまけに、いわゆる第二波攻撃については、それまでにリクルートしたパイロット候補は たったの三人で、ムサウイと他の二人は、2001年夏の中ごろには陰謀から手を引いていたことを認めている。従って、我々は、20018月にムサウイを押し出そうとした努力は、彼が目前の航空機作戦のパイロット候補として用意されていたのではないかという疑いに、信憑性を与えるものと信じている。
 ビナルシブは、ムサウイが9/11作戦において、もう一人のパイロットの席を占めるものと推測していたと述べている。 9/11後のカンダハルでのKSMとの討議を詳述すると、KSMは、ムサウイを9/11作戦の一部だと言ったとビナルシブは主張している。KSMはムサウイの名前を出したわけではないが、ビナルシブが電信で送金した工作員のことを言っているのだと、ビナルシブは理解していた。KSMはムサウイに賛成したわけではないが、彼を作戦から除外しなかった唯一の理由は、彼がビン・ラディン自身によって選抜され、任命されていたからだと思うとビナルシブは言っている。 
 KSMが、ムサウイの逮捕を知ったのは、911日以後のことである。もし9/11以前に知っていたら、ビン・ラディンとKSMは作戦を中止したかもしれなかったとビナルシブは言っている。911日以後に、ビナルシブがムサウイの拘留についてKSMと討議した時、KSMはムサウイに他の工作員と連絡を取らせなかったことを喜んでいた。もしそうしていたら、この作戦を危険にさらしていただろう。もちろん、ムサウイはビナルシブとは連絡があったが、それが発覚したのは9/11以後だった。
 結果的に言えば、ムサウイをジャラーに置き換える必要は無かった。ムサウイが逮捕された8月中頃には、アタとの確執は解消したらしく、ジャラーはドイツへの最後の旅行から合衆国に帰っていた。工作員たちは、攻撃に向けて最後の準備を始めた。

攻撃準備 
 スペインでのビナルシブとの会合から帰って一週間後、アタはニューアークに行った。多分、ハズミと調整し、彼に追加の資金を与えるためだった。そしてこの地区で2, 3日滞在したのち、730日にフロリダに帰った。8月が忙しい月だったことは、911日以後に再生されたアタとビナルシブの一連の交信が示している。
 例えば、83日には、アタとビナルシブは、工作員たちの航空券を購入する最も良い方法や、また腕力ハイジャッカーの各々のチームへの割付けなど、いくつかの問題について相談している。また、ホワイトハウスを標的とするかどうかについても再考した。彼らは、さまざまな分野の研究を討議する学生を装って、標的を暗号化して検討していた。「建築」はワールド・トレードセンター、「芸術」はペンタゴン、「法律」は議事堂、「政治学」はホワイトハウスという具合だ。
 ビナルシブは、アタにビン・ラディンがホワイトハウスを標的に望んでいたことを思い出させ、アタは又もやそれは困難だろうと警戒した。それでもビナルシブが言い張ったため、アタはホワイトハウスを含めることに同意したが、それがあまりにも困難と分った場合の代替の標的として、議事堂を保留することを提案した。アタはまた攻撃は議会が再開される9月の第1週以後になるだろうと言った。
 また、アタとビナルシブは「旅行者としてやってくる友人」―これは(先に述べた)ハイジャッカー候補、モハメド・アル・ハタニを指す隠語― についても相談した。ハザウイは、彼を次の日に「グループを完成する最後の一人」として送ろうとしていた。84日、アタはハタニを出迎えに、車でオーランド空港に向かった。だが、到着したハタニは、移民局職員に入国を拒否された。片道切符しか持たず、所持金も僅かで、英語を話せず、合衆国で何をしようとしているかを、適切に説明できなかったためである。彼はドバイに送り返された。ハザウイから連絡をうけたKSMは、彼にハタニがパキスタンに帰る手助けをするよう命じた。
 87日、アタはおそらくハズミと調整するためだろうが、フォート・ローダーデールからニューアークに飛んだ。2日後、ニュージャージーでハズミ、ハンジュールと共に住んでいたアーメド・アル・ガムディーとアブドル・アジズ・アル・オマリはマイアミに飛んだ。4組のハイジャックチームがついに任命されたものと思われる。アタがニュージャージーにいる間に、彼とハズミ、ハンジュールは、もう一度調査飛行のためにそれぞれの航空券を買った。彼らは先行した、シェヒ、ジャラー、アタおよびワリード・アル・シェヒと同じく、ハズミとハンジュールも、9/11でハイジャックする予定の同じ機種(ボーイング757)のファーストクラスを使って、ラスベガスに接続する大陸横断便で飛んだ。この時、アタは直接ラスベガスに飛び、そこで三人とも813, 14日滞在した。この時も、また別の時も、何故工作員たちがラスベガスで落ちあったかは、そこが旅行者を歓迎することで有名だという以上の信頼できる理由を掴めていない。
 8月を通して、ハイジャッカーたちはジムでのトレーニングに忙しく、パイロットたちは、小型レンタル飛行機でたびたび実習飛行を行った。工作員たちはまた、計画が終わりに近付きつつあることを示す買い物を始めた。例えば、8月中旬、彼らは実際に攻撃に使用されたと思われる小型のナイフを買った。さらに822日に、ジャラーはマイアミのパイロット用品店で4組のGPSセットを購入しようとした。1セットしか買えなかったが、23日後にそれを受け取り、さらにその時、3枚の航空図を購入した。
 しかし、おそらく最も重要なのは911日当日の航空券の購入だった。823日、アタは再びニューアークに飛び、おそらくハズミと会って、フライトを選んだ。全19枚のチケットは、825日から95日の間に予約され、購入された。
 したがって、攻撃の日付は、8月の第3週に選定されたと見られる。このタイミングはビナルシブによって確認された。彼は、日付について、アタは8月中旬に電話してきたと言っている。ビナルシブによると、アタは「なぞなぞ」を使って、日付を暗号化したそうだ。 枝が二本、スラッシュが一本と棒付きキャンディーというメッセージだった。(非アメリカ人には、119911日と解釈されるだろう。原注)[文意不明。訳者]ビナルシブは、日付をKSMに伝える前にアタに確認の電話をしたと言っている。
 KSMは、ビナルシブの古いハンブルクの仲間、ザカリヤ・エッサバルを通じて送られたメッセージで、ビナルシブからの日付を受け取ったようだ。ビナルシブもKSMも、エッサバルはメッセージが何の意味かを知らず、また攻撃についても何も知らなかったと主張している。ビナルシブによると、日付が決まった直後、彼はエッサバルとハンブルクの他の仲間サイード・バハジに、もし彼らがアフガニスタンに行きたければ、今がその時で、まもなくそれはもっと困難になるだろうと助言した。エッサバルは822日に予約し、830日、カラチに向けてハンブルクを去った。バハジは彼のチケットを820日に購入し、93日にカラチに向けてハンブルクを発った。
 ビナルシブも、攻撃前の9月初めにパキスタンを離れるように手筈を整え、陰謀の推進者でUAEにいたアリとハザウイもそうした。この最終的な日々、ビナルシブとアタは、電話やEメール、あるいはポケット・ベル(instant messaging)で連絡を保っていた。アタはハイジャッカーたちに家族との連絡を禁じていたにも拘わらず、自分は明らかに9月9日に父親に最後の電話をしている。アタはまた、ビナルシブに、あるハイジャッカーの家族への連絡と、他の者からの別れの言葉を伝えるよう、またKSMに敬意を伝えるよう頼んだ。ジャラー1人だけが別れの手紙を残した。アイセル・センゲン宛ての感傷的な手紙だったようだ。
 だが、ハズミはそんなに慎重ではなかった。彼は、かつてのサンディエゴの仲間、モダル・アブドラーに8月末に電話したようだ。アブドラーのサークルの何人かが、何か大きなことが近々起きるとの言葉を受け取った形跡がある。前述したように、アブドラーの挙動が明らかに変わったことが報告されている。911日に先立って、彼とヤジード・アル・サルミの両人は、不意に彼らの予定された結婚計画の進行に熱心になった。一人の証人は、サルミが9/11攻撃の後「彼らが何かをしようとしているのを知っていた。だから、結婚したんだ」と言ったと証言している。さらに、20018月の時点で、イアド・クレイウェシュその他のハズミが働いていたテキサコ・ガソリンスタンドの従業員たちは、不意に法執行当局から近々目をつけられそうな予感を抱いていた。そして、ついに910日の早朝、アブドラー、オサマ・アワダラー、オマール・バカルバシャットその他は、ガソリンスタンドで疑わしい行動に出た。その証人によると、グループが集まったのち、アワダラーが「いよいよはじまるぞ」と言い、他のものたちは互いにハイタッチで祝福しあったというが、この証言の確証は取れていない。
アルカイダ指導部内の異議 
 攻撃の戦術的準備が完了目前となる一方、アルカイダとタリバンが2001年の戦略を論議する中で、作戦全体が指導部で問題となっていた。我々の焦点は当然のことながら航空機作戦の細目に合わされる。しかし、ビン・ラディンとアテフの視点からは、この作戦は、明らかに重要項目ではあるが、彼らのこれから展開するこの年の計画の単なる一つにすぎない。アフガニスタンに住み、常にタリバンと相互に交流しているアルカイダの指導部は、この国の状況についての視点を決して失ってはならなかった。
 ビン・ラディンの一貫した優先事項は、直接合衆国に向けて一大攻撃をしかけることだった。彼は航空機作戦を一刻も早く進めたがっていた。伝えられるところでは、2001年夏の間に、ミダルがいとこに言ったことによると、ビン・ラディンは「たとえ私自身でやるとしても、絶対、事を起こして見せる」と述べたとのことだ。
 KSMによると、ビン・ラディンは攻撃を早くするようせきたてていた。例えば、2000年には、KSMは、ビン・ラディンが当時のイスラエルの野党党首のアリエル・シャロンがエルサレムの山上神殿を訪れた後の紛争の最中に、攻撃を始めるよう強いたことを記憶している。KSMは、ビン・ラディンが、ハイジャックした飛行機を特定の標的に突入させるより、単に墜落させるだけで十分だと圧力をかけたが、KSMはその圧力に抵抗したと言っている。
 KSM2001年には同様の圧力にさらに2回直面したと言っている。彼によると、ビン・ラディンは2001512日に作戦を実行することを望んでいた。それは「コール」爆破の日のちょうど七カ月後にあたる。KSM9/11攻撃は当初20015月に想定されていたと付け加えている。2回目は、20016月または7月の初めに攻撃を開始するよう促された。これはビン・ラディンがメディアからその頃シャロン(*)がホワイトハウスを訪問すると聞いたからだと思われる。どちらの場合も、KSMはハイジャック・チームの準備が整わないことを強く主張して抵抗した。だが、ビン・ラディンは後の日付については、早い攻撃の必要性を強調する2通の手紙によって、特に強い圧力をかけた。2通目は、ビン・ラディンの義理の息子、アウス・アル・マダニによって届けられたと報告されている。                    (*)この時シャロンは与党党首で、首相となっていた(訳註)
 KSMの言葉は、他の証拠によっても裏付けられている。たとえば、ミダルは彼のいとこに攻撃は5月に起こるだろうと告げていたが、それは最初は6月、次に9月と二度にわたって延期された。また、あるハイジャッカー候補は、アルカイダ・キャンプで二度、7月と8月初めに一般警報が発せられたのを記憶している。ちょうど「コール」爆破の2週間前と、現実の9/11攻撃の10日前に発せられたものと同じだった。真夏の警報の間、アルカイダのメンバーは家族と共に分散し、保安は強化され、ビン・ラディンは警報が取り消されるまで、約30日間、行方をくらました。
 作戦の詳細は全体像を見えなくするため厳密に細分されていたが、警戒が発せられた頃には、合衆国に対する攻撃が間近に迫っているという噂が広がり始めていた。KSMが合衆国への作戦を計画中だということは、2001年夏には一般に良く知られていたと、彼自身が書きとめている。彼が工作員を合衆国に行かせる手配をしていたことに気付いていた者も多かったし、そこから、アルカイダによる合衆国本土攻撃も間近だと結論づける者もいた。おまけに、ビン・ラディンは、その夏に、近く起きる攻撃をほのめかす所見を何度か出して、世界中のジハード主義社会にうわさを広めていた。また彼は、重要な訪問者に対しては、いつも合衆国施設に対する重大な攻撃が近いことを期待するように告げ、ファルーク・キャンプでの演説の際には、訓練生たちに、20名の殉教者を含む攻撃の成功を祈るよう雄弁をふるった。他の者たちは差し迫った攻撃の暗示を聞いて確信し、詳細をはっきりとは知らなかったにも拘わらず、このニュースはアルカイダ中に広まった。
 ビン・ラディンの最優先課題は合衆国の攻撃であったが、異なる考えを持つ者もいた。タリバンの指導部は、その年の彼らの主要課題を北部同盟に対する攻撃に定めていた。そうした攻撃は、晩春から夏に始まるのが常だった。彼らはこの年の攻撃で仇敵・北部同盟にとどめを刺し、アフガニスタンから追い出したいと願っていたに違いあるまい。タリバンの視点からすれば、合衆国に対する攻撃は反撃を作り出す逆効果となりかねなかった。それは、最終的勝利を掴みかけているまさにその時、アメリカ人を自分たちに対する戦争に引き込む恐れが有った。
 ムラー・オマールが、2001年に直接合衆国に敵対するというアルカイダの重大な作戦に、最初は反対したという証拠がある。さらに、7月には、来たるべき攻撃という言葉が広がる中で、アルカイダの上層指導部の間に分裂が現れた。幾人かの上級幹部は、ムラー・オマールに合意していたと報告されている。ビン・ラディンの側についたとされている者には、アテフ、スレイマン・アブ・ガイス、およびKSMなどがいた。一方、反対した者には、組織内の重要人物 モーリタニアのアブ・ハフス、シェイク・サイード・アルマスリおよびサイフ・アル・アドルを含んでいた。アルカイダ古参工作員の一人はビン・ラディンのリコールを要求し、合衆国に対する攻撃に反対し、イスラエル占領地区の反乱の即時支援と、サウジアラビアでの合衆国軍隊の駐留に抗議することが必要だと論じた。こうした修辞効果を狙った弁論以上に、合衆国に対する直接攻撃を行なえば、さらに多くの自殺作戦の工作員を誘引し、寄付金の額を増やし、兵站支援を申し出る同調者を増大させることで、アルカイダの利益にもなるとビン・ラディンは考えていたようだ。
 ムラー・オマールは、合衆国の報復を恐れるというよりは、むしろイデオロギー的な理由から上記の行動方針に反対したと言われている。彼は、アルカイダが、合衆国ではなく、ユダヤ人を攻撃するほうを望んだとされている。KSMは、オマールはアルカイダをアフガニスタン以外での作戦には従事させるなという、パキスタン当局からの圧力を受けていたと主張している。アルカイダの財務主任のシェイク・サイードは、アルカイダはタリバンの意向に従うべきだと論じた。他の情報源は、シェイク・サイードは、オマールへの敬意と、攻撃に対する合衆国の反撃を恐れる二つの理由で、作戦に反対した。モーリタニアのアブ・ハフスは、ビン・ラディンに当ててコーランに基づく攻撃反対のメッセージさえ書いたと言われている。
 KSMによれば、作戦計画が完了した8月下旬には、ビン・ラディンはアルカイダのシューラ委員会に、合衆国に対する大きな攻撃が二、三週以内に実施されるであろうと正式に通知した。何人かの委員会メンバーが反対したとき、ビン・ラディンは、ムラー・オマールにはアルカイダがアフガニスタン以外でジハードを行うことを妨げる権限はないと反論した。聞くところでは、シューラ委員会の大部分は不同意だったが、ビン・ラディンは言い張ったという。攻撃は前進した。
 9/11攻撃についてのアルカイダ内部の不一致の話は、多分不完全である。その報告は、アルカイダとタリバンの計画の全貌に関係していない通報者から来た情報に拠っている。しかし、ビン・ラディンとアテフは、少なくとも次のことを知っていたと思われる。

・北部同盟に対するタリバンの一般的攻撃は、アルカイダの軍事的支援に頼っている。
・また、別のアルカイダの重要な作戦が、この夏の間に進行中である。それは、北部同盟の指導者、アーメド・シャ  ー・マスードの 暗殺計画である。ジャーナリストと偽った工作員たちが、マスードのキャンプにいて、8月のい  つか、彼を殺す準備をしている。彼らの会見の予定は延期されている。
 しかし、9月9日、マスード暗殺は実行された。遅れていた北部同盟に対するタリバンの攻撃は、彼が殺されるやいなや始まるように調整されていたらしく、それは910日に開始された。
 この年の早い時期に慎重に討議したように、ムラー・オマールがマスード暗殺とタリバンの軍事作戦における強力な支援をアルカイダに依存していたことを、ビン・ラディンとアテフは覚えていたであろう。KSMは、アテフが彼に話したこと ―アルカイダがマスードを排除し、そののちタリバンがアフガニスタンを乗っ取るための攻撃を始めることに、アルカイダとタリバンが合意したこと― を覚えている。アテフは、9/11攻撃が起きたとき、マスードの死もまたタリバンをなだめるだろうと期待していた。オマールは、9/11が起こった時、この攻撃について満足していたようだ。
    出発地点への移動  
 9/11直前の日々、ハイジャッカーたちは使い残りの資金をアルカイダに返し、それぞれの出発する都市に集合した。電信でUAEのハザウイに送った残金は、合計で約26,000ドルだった。
 アメリカン航空77便を目標とするハイジャッカーたちは、ダレス空港から出発するために、ニュージャージーから、ワシントンD.C.より約20マイルのメリーランド州、ローレルに移動した。彼らは9月の第1週をモーテルに宿泊し、ジムで時間をすごした。攻撃の前夜、彼らは空港に近いバージニア州ハーンドンのホテルに宿泊した。
 さらに北の、ニューアークから出発するユナイテッド航空93便を目標とするハイジャッカーたちは、彼らが基地とするフロリダの町から9月7日に集合した。98日の真夜中すぎ、ジャラーはメリーランドでインターステーツ95号線を北に向かっていた時、スピード違反チケットを切られた。彼は、ホテルで残りの仲間と合流した。
 アタはなおチームの調整に忙しかった。97日、彼はフォート・ローダーデールからボルチモアに飛んだ。おそらくローレルの77便チームに会うためだったと想像される。さらに彼は、9月9日、ボルチモアからボストンに飛んだ。その時、シェヒはすでにそこに到着していた。アタは、シェヒのホテルで一緒にいるところを見られている。次の日、アタは別のホテルでオマリを車に乗せ、二人はメーン州ポートランドに向かった。その理由は不明のままであるNote 191911日の朝早く、彼らはアメリカン航空11便に接続するボストン行き近距離便に乗る予定だった。二人は、最後の夜を普通の生活で過ごした。ATMで金を引き出し、ピザを食べ、コンビニエンス・ストアで買い物をした。彼らの仲間である三人のアメリカン航空11便のハイジャッカーたちは、ボストン郊外のマサチューセッツ州ニュートンのホテルに一緒に泊まっていた。
 ローガン空港を出発するユナイテッド175便を目標とするシェヒと彼のチームは、彼らの最後の時間をボストンの二つのホテルで過ごしていた。KSM1996年の提案によって開始された計画は、多くの障害に打ち克って展開していた。いまや、19名の男たちが、翌朝 四機の飛行機に乗るために、目立たないホテルの部屋で待機していた。


第7章 Note

Note 191. (要旨)FBIは、「アタは地方空港の方が、セキュリティー・チェックが緩やかだと信じていたのだろう」と記している。


 

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