第8章 システムは赤で点滅していた    (原文 p.254
81 脅威の夏           
 2001年が始まると、テロリズム対策担当の職員たちは、脅威についての頻繁な、しかし断片的な報告を受けていた。実際、合衆国が利害関係を持つあらゆる場所で ―本土内においてさえ―脅威が現実化しそうな兆しがうかがわれた。
 脅威の報告の増加が、2001年夏にどのように扱われていたかを有効に理解するためには、脅威の情報がどのように集められ、伝達されていたかを知る事が役にたつ。情報は通信や、人材源からの聞き取りを含む幾つかの方法で集められ、報告書にまとめられた。情報源と報告の性質によって、情報には、高度の機密扱いになり厳密に保管されるものと、それほど機密でないものがあり、後者は国と地区の法執行官庁などに通達された。脅威の報告は、個別の報告か概況報告として配布されねばならない。このような報告書は、その受取人に警告しようとするもので、特別の脅威か、一般的な警告かが表書きされる。
 報告の数があまりに膨大なので、大統領と上級職員に概況報告するために、その一部のみが選出される。2001年の間、中央情報長官ジョージ・テネットは、ウサマ・ビン・ラディンに関する情報について、脅威と見なされるものとその他の業務上の報告について、定期的概況報告を受けていた。ブッシュ大統領は毎日「大統領日報」(President Daily BriefPDB)として知られる報告書によって、テネットからCIA概況報告を受けていた。PDBは、広い範囲のトピックスを扱った、6ないし8項目の比較的短い文章あるいは概説から成っている。CIAのスタッフは、その日のどの問題が最も重要かを決定する。2001年1月20日から9月10日までの間に、PDBの中には、40を越えるビン・ラディンについての情報があった。PDBは高度機密とされ、ひと握りの上級職員にしか配布されなかった。
 より広い範囲の職員に配布された「上級幹部情報概要」(Senior Executive Intelligence BriefSEIB)は、PDBと同じ様式で、一般的にはPDBと同じ問題を取り扱っていた。しかし、情報源と方法を保護するため、含まれた情報は[PDBに比べると]少なかった。前任者と同様、司法長官、FBI局長、および国家安全保障会議(NSC)対テロリズム調整官リチャード・クラークなどはすべて、PDBではなく、SEIBを受け取っていた。クラークと彼のスタッフは、テロリズムの報告には広範囲なアクセスが出来たが、彼らも国家安全保障局(NSA)、CIAFBIの内部情報または未配布の情報は見ることが出来なかった。

太鼓が鳴り始めた 
 2001年春になると、テロリストの脅威と攻撃計画の報告のレベルは、ミレニアム警戒以来の最高水準まで劇的に増加した。3月末、情報社会は、テロリストの攻撃についての報告書を配布した。 そこには、合衆国の施設、人物その他の資産に対するスンニ派過激主義テロリストの高まる脅威を含んでいた。、
 323日、ホワイトハウス前のペンシルバニア通りを再開するか否かの討論に関連して、クラークは国家安全保障補佐官コンドリーザ・ライスに、国内あるいは国外のテロリストがペンシルバニア通りで、お気に入りの兵器:自動車爆弾を使うかもしれないと警告した。それは[ホワイトハウスの]西翼と居住部分の破壊を引き起こしかねない。国内にはアルカイダを含むテロリストの細胞があると思うと彼女に告げた。
 次の週、ライスはアブ・ズバイダの活動と、彼の所在を突き止めるCIAの取り組みについて、概況報告を受けた。第6章で指摘したように、アブ・ズバイダはミレニアム陰謀の主要人物であった。これに続く数週間、CIAはアブ・ズバイダが近い将来、作戦を計画しているとの警告 DCIテネットからクラークへの電話を含む― を繰り返し発した。報告の一つは、アブ・ズバイダが、イスラエル、もしくはサウジアラビアかインド内のどこかで攻撃を計画しているとのある情報源の指摘を引用していた。クラークはこの報告をライスに引き継いだ。
 これらの脅威に対応して、413日、FBIは全現地支局に、当日までのすべての報告をまとめるよう指示を送った。また「スンニ派過激主義者の最近の作戦活動」に関係するなんらかの情報を求めて、人的資源から電子データベースを含むすべての情報源を利用するよう、各支局に依頼した。ただし、それは国内の脅威については想定していなかった。
 クラークが議長を務める省庁間のテロリズム対策安全保障グループ(CSG)は、419日、アブ・ズバイダの報告書について討議した。翌日、幹部職員に向け「ビン・ラディンは多面的作戦を計画中」との概況報告が行われた。430日、次官たちがアルカイダ政策について討議したとき、彼らは脅威についてのブリーフィングから始めた。
 20015月に入ると、「ビン・ラディンの周知の像は攻撃を予測させる」「ビン・ラディン・ネットワークの計画は前進中」といった幹部職員向け報告と共に、報告のドラムの響きは大きくなってきた。5月初め、ある飛び込みの通報者(walk-in)は、FBIに対し、ロンドン、ボストン、ニューヨークを攻撃する計画があると主張した。515日、司法長官アシュクロフトは、アルカイダについては一般的に、また現状の脅威については特別に、CIAの概況報告を受けた。次の日、ビン・ラディン支持者が合衆国で「高爆発力」を使った攻撃を計画していると言う電話が合衆国大使館にあったとの報告がもたらされた。517日、前日の報告に基づいて、CSGの協議事項の最初の項目は「UBL:合衆国内の作戦を計画」であった。匿名の電話通報者のタレ込みについては裏付けが取れなかった。
 5月下旬、海外のアメリカ人に対して起こり得る、人質陰謀の報告がもたらされた。1993年のニューヨーク市内各所を爆破する陰謀[ランドマーク計画]に関して終身刑に服している「盲目のシャイフ」ことシャイフ・オマール・アブデル・ラーマンを含む受刑者の解放を強いるためである。報告には、工作員たちは、航空機のハイジャックか合衆国大使館の強襲を選ぶだろうとあった。この報告は連邦航空局(FAA)により航空各社へ情報配布された。それは「合衆国内のテロリスト拘禁者の解放のための航空機ハイジャック」の可能性を記していた。他の報告は、アブ・ズバイダはおそらくイスラエルに対する攻撃を計画している、そしてもし状況が良ければさらに数件の実行を期していると述べていた。524日だけでもテロリズム対策職員は、イエメンとイタリアでの陰謀を主張する報告、カナダの細胞が合衆国に対する攻撃を計画していると主張する匿名の電話通報などを受けた。
 これらの多くの報告は、DCIテネットの朝の概況報告でブッシュ大統領に伝えられた。そこには通常、副大統領ディック・チェイニー、国家安全保障補佐官ライスも同席する。この概況報告では、アメリカとその資産に関する攻撃の一般的脅威が討議されたが、特別な脅威は、すべて海外でのものだった。
 529日、クラークはライスに、アブ・ズバイダの「連続する重大なテロリスト攻撃」を止めるために、合衆国は何をするべきかを、テネットに尋ねるよう提案した。その攻撃目標は多分イスラエルだが、合衆国施設かも知れない。クラークはライスと彼女の次席ステファン・ハドリーに宛てて「もし攻撃が彼らの考えているように起きたら、彼らを止めるために、これ以上どういう手があったのかと考えてしまうでしょう」と書いた。5月に、CIAテロリズム対策センター(CTC)長のコファー・ブラックは、脅威のレベルを1から10の段階で示せば、ミレニアム[警戒期間]中の8に対し、現在は7だとライスに語った。
近い時期の「スペクタクル的」攻撃の高い確率 
 6月から7月に押し寄せた脅威に関する報告は、さらに高い緊急時のピークに達しつつあった。夏の脅威は、サウジアラビア、イスラエル、バーレーン、クウェート、イエメン、そして多分ローマに焦点を合わせているようだったが、危険はジェノバ[イタリア]のG8サミットも含め何処にでもあり得た。612日、数人のテロリストの経歴的背景の情報について、CIAの報告が伝達された。そこには、ハリド・シェイク・ムハンマドについての記事もあって、彼が、ビン・ラディンに代わってテロ攻撃を実行するために合衆国に行き、既にその地にいる仲間と合流する人物を募集中と書いてあった。622日、CIAはすべての支局長宛てに、以後数日中に合衆国の標的に対するアルカイダの自殺攻撃の可能性を示唆する情報を通知した。DCIテネットは、すべての合衆国大使たちがブリーフィングされるように求めた。 
 同日、国務省はすべての大使館にテロリストの脅威について通報し、全世界の公開警報を更新した。6月、国務省はサウジアラビアで安全対策としてビザ急速発行プログラムを開始した。これは、外国人の長い列を、攻撃されやすい大使館の敷地から離すためで、ビザ申請を大使館や領事館で直接行わずに、旅行社を通じて行なえるようにした措置である。  
 6月末に配布されたテロリストの脅威の現状報告は、近々多数の死傷者をもたらす「スペクタクル的」テロリスト攻撃の確率が高いことを示していた。別の報告のタイトルには「ビン・ラディンの攻撃は近いだろう」「ビン・ラディンと同盟者による緊迫の脅威」などがあった。後者の報告は、近い将来の多発攻撃計画を報告し、次の2週間以内の合衆国とイスラエルの「権益」に対する「深刻な打撃」も含まれていた。
 621日、脅威の報告が最高潮に達したころ、合衆国中央軍司令部は6ヶ国の合衆国部隊の防衛レベルを最高位の「デルタ」に引き上げた。合衆国第5艦隊はバーレーンの港を出、合衆国海兵隊はヨルダンでの訓練を中止した。ペルシャ湾岸の合衆国大使館は、緊急時保安訓練を行い、イエメン大使館は閉鎖された。CSGFESTsとして知られる海外緊急対応チームを持っているが、4時間の通告で出動する準備をし、またテロリズム警報体制を「24時間シフト」に格上げした。
625日、クラークはライスとハドリーに、6通の別個の情報報告が、アルカイダの要員による切迫した攻撃を警告していると告げた。あるアラビアのテレビ局が、ビン・ラディンがアルカイダの指導者たちと上機嫌でいるところを放映した。彼らは、来週「すごくびっくりすることが見られるだろう」と言い、合衆国とイスラエルの資産が標的とされるだろうとも言っていた。アルカイダは、また新たな献金と兵員募集のキャンペーン・テープを放映した。クラークは、こうしたことは合衆国をピリピリさせるための単なる心理作戦というには余りに込み入りすぎていると書き、CIAもそれに同意した。情報報告は、一貫して来たるべき攻撃は惨憺たるレベルとなると述べ立て、世界を混乱に巻き込み、また、同時では無いかもしれないが、多分、 多発的攻撃となるだろうと示唆していた。
 628日、クラークはライスに、攻撃計画を示すアルカイダの活動状況は、過去6週間を経て「最高潮に達した」と書き送った。「一連の新たな報告から、私や国務省、CIADIA(国防情報局)、NSAの分析官たちの、大きなテロリストの攻撃、もしくは一連の攻撃が7月に起こりそうだという確信は依然として変わらない」と彼は記している。あるアルカイダ情報報告は「とても、とても、とても、とても」大きな何かが起ころうとしていると警告し、伝えられるところでは、ほとんどのビン・ラディン・ネットワークが、攻撃を期待していたようだった。6月末、CIAはすべての支局長に、アルカイダについての情報を彼らの受入れ国政府と共有し、直ちにその細胞の破壊を進めるように命じた。
 630日の最高幹部への概況報告の見出しは明確そのもので「ビン・ラディンは高度な攻撃を計画している」とあり、その報告は、ビン・ラディンの工作員は、近日中に行われる攻撃が破滅的な規模の劇的結果を持つと期待していると述べていた。同じ日、サウジアラビアは最高レベルのテロ警報を発令した。おそらく合衆国の保安強化が引き起こしたであろう遅延の証拠にもかかわらず、攻撃計画は続行していた。
 72日、FBIテロリズム対策部は、ビン・ラディンの脅威に関する情報を集約した通達を、連邦省庁および州、地域の法執行機関に送った。それは、脅威の報告の量が増加しつつあると警告し「ウサマ・ビン・ラディンの同盟者や同調者」グループによる、海外の合衆国の標的に対する攻撃の可能性を示していた。全般的な警告にもかかわらず、その通達はさらに「FBIは合衆国内でのテロリスト攻撃の脅威については、信頼できる情報を持っていないと」述べている。しかし、合衆国内での攻撃の可能性を割り引く事はできないと強調し、74日の休日[独立記念日]に脅威が高まるかもしれないと書いている。さらに報告は、受領者に「極度の警戒の実施」とFBIへの「疑わしい行動の報告」を依頼しているが、攻撃を防ぐためにとるべき特別の行動を指示してはいない。
 アルカイダに所属する細胞の破壊作戦が、20ヶ国で実施された。複数のテロリスト工作員が外国政府によって拘留されたことで、多分、湾岸国とイタリアでの破壊作戦と、二あるいは 三か所の合衆国大使館に対する攻撃が防止できたと思われる。クラークその他の人々は、74日の攻撃に対する特別の関心を我々に語った。その日が平穏に過ぎた後も、CSGは警戒の維持を決めた。
 より国際的な協力を求めるため、チェイニー副大統領は、75日、サウジのアブドラ皇太子に連絡を取った。ハドリー[安全保障次席補佐官]はヨーロッパの同職位者に電話をした。一方、クラークは湾岸国の幹部職員と共に作業していた。7月下旬、テロの脅威を危惧して、イタリアはブッシュ大統領も参加するG8サミットの期間中、ジェノバ上空の空域を閉鎖し、ジェノバ空港に対空砲を配備した。
 国内では、CSGは、いくつかの国内官庁の情報および保安職員にブリーフィングをするようCIAに手配した。75日、移民帰化局(INS)、FAA,沿岸警備隊、セキュリティー・サービス、税関、CIAFBIの代表者はクラークに会い、現在の脅威について討論した。出席者たちは、彼らが会合で受け取った脅威の情報を流布しないよう言われたと報告している。彼らはこの指示を、上司に概況を報告できるが、現場に警報を送ることは出来ないと解釈した。あるNSC職員は、別の強調された問題を思い出した。そこでは、出席者はこの情報を所属官庁に持ち帰り、その機密度と配布制限に従って「あなたが出来ることをしろ」と頼まれたという。INSからの代表者は、彼女が現場職員と共有できる情報の要約を求めたが、何も受け取れ無かった。
 同じ日、CIAは司法長官アシュクロフトにアルカイダの脅威について、概要報告した。重大なテロリストの攻撃が差し迫っているとの警告だった。アシュクロフトは、多発攻撃に対する準備は最終段階にあるか、既に完了しており、わずかな追加の警告が予定されていると告げられた。報告は合衆国の外での脅威についてのみであった。
 翌日、CIAの代表はCSGで、アルカイダのメンバーは、今度の攻撃は今までに彼らが行なったどの攻撃よりも質的に異なった「一大スペクタクル」になると信じていると告げた。
 75日のクラークとの会合との結果として、連邦ビルの保安についての省庁間委員会は保安基準を調査する任務を与えられた。この委員会は79日に会合し、その時には27の省庁と機関から集まった37名の職員が、合衆国内の「現在の脅威水準」について概況報告を受けた。彼らは、海外からの脅威の報告だけでなく、最近の東アフリカ爆破裁判の有罪判決、アーメド・レザムの有罪判決、評決されたばかりのホバル・タワーの起訴などによって、「最高度の警戒実行」の必要性が一段と強化されたことを告げられた。出席者たちは、それぞれの省庁で保安基準の強化が必要か否かを決定することが求められた。
 2001718日、国務省はアラビア半島でのテロリスト攻撃の可能性に関する、公開の警告を発表した。FBI長官代理トーマス・ピッカードは、719日にすべての現職の特別捜査官を集めた定例会議を持ったと我々に語った。彼が挙げた問題の一つは、増加する脅威の報告にかんがみ、攻撃があった場合には、証拠を掴むため対応チームが通報の瞬間に出動するよう準備する必要性についてだったと語った。彼は現場支局に、合衆国内に何らかの陰謀が考えられているかどうかを見きわめる事や、このような計画を粉砕するために何らかの行動を取る事は任務として課さなかった。
 7月中旬、ビン・ラディンの計画はおそらく2ヶ月遅れているかもしれないが、放棄はされていないという報告が入り始めた。723日、CSGの討議の主要課題は、なおアルカイダの脅威だった。そこにはテロリストと疑われる人物が、合衆国へやってくることについての討議も含まれていた。
 731日、航空社会へ警告するFAAの回覧「近い時期に起こり得るテロリスト作戦についての報告・・・特にアラビア半島(もしくは/と)イスラエルにおける」が発表された。そこには、FAAは合衆国民間航空機に対する特別の計画について、確たる証拠はないものの「現役」のテロリスト・グループが「ハイジャックを計画し、訓練している」事、精巧な爆発装置を作ることが出来、手荷物や日用品に隠すことが出来る事が知られていると書かれていた。
 テネットは、彼の世界では、「[警報]システムは赤で点滅していた」と語った。7月下旬、テネットは「これ以上悪くなる」事はないと言ったが、全員が納得したわけではなかった。ある者は、これらの脅威は単なるこけ脅しではないかという者もいた。630日のSEIBには「ビン・ラディンの脅威は現実である」と題された記事が載った。だが、7月に、ハドリーはテネットに、国防次官のポール・ウォルフォビッツはこの報告を疑っていたと言った。おそらく、ビン・ラディンは合衆国の反応を試しているのではないか。テネットは、すでにこの問題については国防総省に、報告は説得力が有ると答えたと告げた。その時の彼の懸念がどれほどであったか、あるテロリスト対策センターの幹部職員が我々に語ったところでは、自分たちの懸念を公表するために彼と同僚は辞職をも検討していたということだった。
(To give a sense of his anxiety at the time,one senior official in the CTC told us that he and a colleague were considering resigning in order to go public with thir concerns.)

嵐の前の静けさ 
 727日、クラークはライスとハドリーに、当面アルカイダの攻撃について情報の急増(spike)は止まっていると報告したが、8月の休暇期間中も、高度の警戒を保つよう促した。他の報告が、攻撃は二、三か月延期されたが、「それにも拘わらず起きるだろう」と警告していたからである。
 81日、FBIは脅威の報告の量の増大にかんがみ、また来るべき東アフリカ大使館爆破の1周年にあたって、警備計画に今までにも増した注意を払うべきだとの警告を発した。それには、報告の大部分は、合衆国の海外資産に対する攻撃の可能性を指摘しているが、合衆国内での攻撃の可能性も無視することは出来ないとあった。
 83日、情報社会は、差し迫ったアルカイダの攻撃の脅威は際限なく続くだろうと結論した警告を発した。警告は、アラビア半島、ヨルダン、イスラエルおよびヨーロッパを例にとって、アルカイダは彼らが計画した攻撃を開始する前、警戒の間隙を探しながら寝そべって待機しているのだと示唆した。
 2001年春から夏のあいだ、ブッシュ大統領は、脅威の兆しのうち合衆国を標的としたものが有るか否かを、彼に概況報告する人々に何度も尋ねた。CIAは、こうした質問に応じて、この危険に対する見解を集約した概要報告文書を書くことに決めた。この文書作成に係わった二人のCIA分析官は、合衆国内でのビン・ラディンの攻撃の脅威は、なおも現実の深刻な問題であるという、自分たちの見解を伝えるチャンスだと信じた。その結果が「ビン・ラディンは合衆国内の攻撃を決めた」と題する、86日付「大統領日報」である。それは、その年に報告されたビン・ラディンとアルカイダに関するPDB36番目のものであり、合衆国内での攻撃の可能性を最初に指摘したものとなった。(そして、9/11攻撃前のUBLに関する最後のPDBである。訳注)

下記は、200186日に大統領ジョージ・W. ・ブッシュが受け取った「大統領日報」PDBの項目の全文である。編集部分は角カッコで示されている

 
 
ビン・ラディンは合衆国内の攻撃を決意した

 外国政府およびメディアの極秘報告によれば、ビン・ラディンは1997年以来、合衆国内でテロリスト攻撃を実行することを望んできた。ビン・ラディンは、1997年と1998年の合衆国のテレビ・インタビューで、彼の信奉者たちが、ワールド・トレードセンター爆破の犯人、ラムジ・ユセフを手本としてそのあとに続き「アメリカに戦闘をもたらす」だろう、とほのめかした。

  1998年、アフガニスタンの彼の基地が、合衆国ミサイルの打撃をうけたのち、〔―〕サービスによると、ビン・ラディンはワシントンに報復することを望んでいると彼の信奉者たちに語った。

  あるエジプト・イスラム聖戦 (EIJ) 工作員は、ビン・ラディンがテロリスト攻撃に取り掛かるために、合衆国に工作員を入国させることを計画していると、同じ時期に〔―〕サービスに語った。 

 1999年のカナダにおけるミレニアム陰謀は、合衆国でのテロリスト攻撃を実行するビン・ラディンの最初の真剣な試みの一部であったかもしれない。有罪となった陰謀者アーメド・レザムは、自分はロサンゼルス国際空港を攻撃しようと思っていたが、ビン・ラディンの副官アブ・ズバイダが彼を激励し、作戦の遂行を助けたとFBI語った。レザムはまた、1998年、アブ・ズバイダ自身が合衆国攻撃を計画していたとも語った。レザムは、ビン・ラディンはロサンゼルス作戦を知っていていたと言っている。

 ビン・ラディンは続けなかったが、1998年のケニアとタンザニアの合衆国大使館に対する彼の攻撃は、彼が数年前から作戦を準備したものであり、それは挫折によって思いとどまるものでは無いことを示している。ビン・ラディンの仲間たちは、我々のナイロビとダルエスサラームの大使館の監視を早くも1993年から開始しており、爆破を計画したナイロビ細胞のメンバー数名は逮捕され、1997年国外に追放された。

 アルカイダのメンバー ―何人かの合衆国市民を含む― は何年かにわたり国内に住み、あるいは合衆国に旅行し、一味はどうやら攻撃を助ける支援組織を維持しているようだ。東アフリカ大使館爆破の陰謀で有罪となった二人のアルカイダ・メンバーは合衆国市民で、さらに上級EIJメンバーの一人は1990年代中ごろには、カリフォルニアに住んでいた。

 ある秘密の情報源は、ニューヨークのビン・ラディン細胞が、1998年、アメリカ人ムスリムの若者を、攻撃に勧誘していたと言った。

 我々はいくつかのより衝撃的な脅威の報告を裏付けることができないでいる。それは「盲目のシャイフ」ウマル・アブデル・ ラーマンその他の、合衆国が拘束している過激主義者たちを釈放させるために、ビン・ラディンは、合衆国航空機のハイジャックを企んでいるという、1998年の〔―〕サービスからの報告のようなものである。

しかし、この時期からのFBIの情報は、この国での疑わしい活動傾向が、ハイジャックの準備や別のタイプの攻撃の準備と一致することを示している。それには、 最近のニューヨークの連邦ビルの監視などが含まれる。

 FBIは、ビン・ラディンが関わっていると見なされる、ほぼ70の徹底した調査を合衆国中で実施している。CIAFBIは、ビン・ラディン支持者のグループが合衆国内にあり、爆発物による攻撃を計画しているという、5月にUAE大使館に掛かって来た電話について調査している。

 

 
 
大統領は86日の報告は歴史的な特質を持つものだったと我々に語った。その記事は、アルカイダが危険だと告げていたが、そんなことは大統領に就任した時から承知していたと彼は言い、ビン・ラディンはずっと以前からアメリカを攻撃したいと言い続けていたと述べた。また、FBIの作戦データをいくつか思い出して、70件もの捜査が進行中であると知って勇気付けられたことを回想した。だが彼が思い出せたことはせいぜい、ニューヨークの連邦ビルにおけるイエメン人の監視が5月と6月に行われたが、これといった情報は得られなかったとライスが言ったこと位だった。
 大統領は86日の報告を司法長官と討議したかどうか、あるいはそうしたのがライスだったのか思い出せなかった。もし補佐官たちが、合衆国内に[アルカイダの]細胞があると告げていたら、それを処置すべく行動に出ていただろうと言ったが、そうしたことは起きなかった。
 翌日のSEIBは、このPDBのタイトルを繰り返していたが、そこには、ハイジャックについての言及、ニューヨークでの警戒、ニューヨーク市内のビルの調査、脅威についての大使館への電話、さらにFBIがビン・ラディン関係の約70件の捜査を実行中である事実などについては含まれていなかった。この報告の結果として、合衆国内での攻撃の脅威について討議するCSGNSCの会合は持たれなかった。
 その月下旬、ある外国の情報機関が、アブ・ズバイダが、ヨーロッパでの作戦を延期した後、合衆国でテロリスト攻撃に取り掛かろうとしていると報じた。攻撃目標、時期、攻撃方法についての言及はなかった。
 我々は、911日以前に、大統領と彼の上級席補佐官たちの間で、合衆国内でのアルカイダ攻撃の脅威の可能性について、さらに討議が行われたことを示す確証または気配を全く把握していない。817日、DCIテネットはブッシュ大統領をテキサス州クロフォードに訪ね、831日(大統領がワシントンに帰った後)から910日までの間、大統領のPDB報告に参加した。だがテネットにはこの期間中、国内での脅威についても、何であれ大統領と討議した記憶はまるでない。
 情報社会の大部分の人々は、2001年夏の脅威の報告の件数と重大性は、前例のないものであったことを認識していた。多くの職員たちは、何か恐ろしいことが計画されていることを知っており、それを阻止しようと必死になっていたと、我々に語った。数の多さにもかかわらず、受け取った報告には、その時間、場所、方法、標的についての具体的な言及はほとんどなかった。攻撃は海外の標的に対して計画されているとするものがほとんどで、他のものは不特定の「合衆国資産」に対する脅威を示唆していた。我々は、これらの報告が劇的ではあるものの、9/11攻撃に関連していたか否かについては、確信を持って述べることは出来ない。
脅威に対する政府の対応 
 国家安全保障補佐官ライスは、CSGが危機管理の「神経中枢」であったと我々に語ったが、他の幹部職員たちも夏中ずっとそれに関与していた。テネットは、ブッシュ大統領との日常会議に加えて、他の問題についても週間会議でライスと繰り返し討議したうえ、国務長官コリン・パウエル、国防長官ドナルド・ラムズフェルドとも定期的に会っていた。対外政策担当の首脳たちは、各種の問題について毎日電話で話し合っていた。
 ハドリー[安全保障補佐官代理]は、9/11以前には彼とライスは、国内の諸官庁を調整する仕事があると感じてはいなかったと我々に語った。彼らは、クラークとCSGNSCの一部)が国外と国内の脅威の仲立ちとなるNSCの橋だと感じていた。
 国外と国内の脅威に対する対応のレベルには明らかな格差があった。国外では起こりそうな攻撃を阻止するため、さまざまな手段がとられていた。テロリストの計画を混乱させるべく外国人協力者を取り込んだり、大使館を閉鎖したり、軍施設を安全地域に移動したりすることなどである。これに比べて、国内で行われたことは、はるかに少なかった。というのも、ある程度具体的に示された脅威の対象は、国外に関連したものが多かったせいでもある。前述したように、イエメン大使館は襲撃が予測されるや直ちに閉鎖された。だが、国内での脅威はもっと漠然たるもので、国内で行われた事は、はるかに少なかった。報告が攻撃の場所を特定していない時には、国内の標的を除外してはいないのに、政府職員たちは今度も国外だろうと推定していた。FBIの脅威についての警告は、常にこの問題を引き起こした。
 クラークは少なくとも2回、国家安全保障補佐官ライスに、アルカイダの休眠細胞が合衆国内に有るようだと言った。20011月、クラークは、アルカイダが合衆国内に存在するという戦略文書をライスに提出した。彼は、ミレニアム陰謀に関与したヨルダン細胞の2名の主要アルカイダ・メンバーが、帰化した合衆国市民であり、また1人の東アフリカ爆破のジハード容疑者が「アルカイダの休眠工作員の組織されたネットワークが、現在合衆国内に存在する」とFBIに告げたと言及した。そして、199912月のレザムの攻撃は失敗に終わったものの、合衆国内のアルカイダ支持者が露呈されたと付け加えた。しかし、彼の分析は新しい脅威の報告によったものではなく、過去の経験によるものだった。
  911日の攻撃は、国外と国内の脅威の隙間に落ち込んでしまった。国外の情報機関は海外で監視し、国外の合衆国資産に対する脅威について警告した。国内の諸官庁は、合衆国内の休眠細胞からの国内の脅威の証拠を持っていた。国内の標的に対する国外からの脅威を予期しているものは誰もいなかった。やってきた脅威は、休眠細胞からではなく、国外から濾過されることなく合衆国に入り込んだ外国人によるものだった。
 この対応の相違の第2の理由は、国内の官庁が何をするべきかを知らず、また誰も彼らに指示を与えなかった事による。クレッシー[NSCテロ対策担当官]は、CSGは脅威にいかに対応するかについて、諸官庁に指示した事は無かったと我々に語った。彼は海外で作戦している部局は、どう対応するかについて指示を必要としなかったとメモしている。彼らはこのような脅威に経験があり「プレイブック」[作戦教本;アメフトの選手が持つ]を持っていた。片や、国内官庁はゲームプランを持たなかった。NSCCSG)のみならず、それを作るよう指示した者は誰一人いなかった。
 この指示の欠落は、75日の国内諸官庁の代表者会合の際にも明らかだった。概況報告は海外の脅威に集中していた。国内官庁は、どのように脅威に備えているかについて質問されることも無く、彼らに何が期待されているかを指示されることもなかった。実際、前述した通り、彼らは概況報告に基づいて警報を発することも出来なかった。国内官庁の限られた対応は、彼らが行動の呼びかけに気付くことも無かったことを示している。
 クラークは2001915日[事件後]のメールでライスに異なった見解を述べた。彼は、合衆国内での攻撃の可能性について、CSGが国内諸官庁に対して発した警告を段階的に集約し、アルカイダの一大攻撃が近付きつつあり、合衆国内でそれが起こり得るとCSGが信じていたことを、FAAを含む国内諸官庁は知っていた、と結論している。
  FAAは新しい保安手続きの指令を発する権限を持っていたにも拘わらず、2001年夏に発行された数少ないものの内のどれ一つとして、検査場と搭乗の際の保安検査強化を指示したものは無かった。配布情報は、おおむね航空会社に「慎重な対処」と警戒を促したにすぎない。9/11 以前に、FAAは航空各社と空港当局に民間航空機に対する脅威の増加について記述したCDROMを送っていたことは確かだ。それは自殺ハイジャックの可能性に触れてはいたが「幸いなことに、現在このような傾向を示す如何なるグループの兆候もない」とあった。FAA200151日から2001911日までの間に、特定の航空会社に対して27の特別保安報告を行っていた。これらの報告のうち2通は、海外でのハイジャックの脅威について検討していた。だが、自殺ハイジャックの可能性、あるいは飛行機の兵器としての使用を討議しているものは皆無で、新しい保安基準が設定されることもなかった。
 ライスは、FBI56の合衆国現地支局に対して、テロリストと疑われる者の監視を強化し、またテロリストの計画について情報を持っているかもしれない通報者に接触するよう指示したことを理解していたと我々に語った。当時のあるNSCスタッフの資料は、このような任務が6月末に与えられたことを記録しているが、それが発せられたのがNSCからか、FBIからかは示していない。先に記した413日付け通達は、FBIの全現地支局に送られたが、FBIがそれ以外にこのような指示を受け取ったいかなる記録も発見することが出来なかった。413日の情報は、現地支局にスンニ派過激主義についての情報収集を求めているが、合衆国内で起こりうるいかなる脅威についても述べていないし、疑わしい工作員の監視を命じてもいない。NSCFBIの指示に何を含めるべきかを指示していなし、それ以前に発行されたものの再調査もしていない。
  FBI長官代理ピッカードは、彼の719日の電話会議に加えて、現地支局の特別捜査官たちとの年次活動検討の電話の中で、高まるテロリストの脅威について話題にしたと我々に話した。国中の捜査官たちの会話の中で、ニューヨーク地区支局以外で、このような重大事がFBI職員に届いたという証拠を我々は殆ど発見できなかった。 
 FBIテロリズム対策の主導者、デール・ワトソンは、起こりうる攻撃についてコファー・ブラックとCIAでたびたび討議したと言った。彼らは74日[独立記念日]の攻撃を予期していた。ワトソンは、何かが起きようとしている、という強い予感を持ってはいたが、脅威の情報は「星雲状」でぼんやりかすんでいたと我々に語り、「もっと知っていたらなあ」と悔やんだ。「ウサマ・ビン・ラディンの脅威の情報について、2人ではなく、500人の分析官を持っていたらなあ」とも思った。
 アシュクロフト司法長官は、5月にCIAから、6月初めにピッカード[FBI臨時長官]から危険についての概況報告を受けた。ピッカードは、6月末から7月中、アシュクロフトと週1回、そして8月には週2回会っていたと言った。ピッカードによるテロリストの脅威の状況の概況報告に対する、アシュクロフトの関心については論議がある。ピッカードは、このような2回の報告の後、アシュクロフトがこの脅威についてはこれ以上聞きたくないと言ったと、我々に語った。アシュクロフトはピッカードの非難を否定した。ピッカードは、その夏、さらにテロリズム情報の概況報告を続けたが、合衆国政府が受け取ったものは「おしゃべり」以上の何物でもなかった。
 司法長官は、彼がピッカードに国内での攻撃についての情報があるかを尋ねたとき、ピッカードは「ノー」と言ったと我々に語った。ピッカードは、脅威の報告は海外の標的に関するものだが、合衆国内で攻撃が無いと保障することはできないとアシュクロフトに答えたと言った。アシュクロフトはそれゆえ、FBIは必要とされることをしているのだと思ったと言った。彼は、それは危険な想定だったと回想の中で認めた。彼は、FBIに脅威に対応して何をしているかを尋ねなかったし、何か特別の行動を取ることを命じなかった。彼はまた、当時まだ法務省の一部であったINS(移民帰化局)に何か特別の活動を指示することもなかった。
 要するに、国内諸官庁は、脅威に対して全く動員されていなかった。彼らは指示を持たず、何らかの処置を講じる計画もなかった。国境は強化されなかった。輸送システムは堅固にされなかった。エレクトロニクス的監視は国内の脅威を対象とはしなかった。州と地方の法執行機関は、FBIの努力を拡大するようには組織されなかった。公衆は警告されなかった。
 テロリストたちは、我々の政府の深い組織的弱点を利用した。問題は、警戒の強化が果たして陰謀を阻止するための機会に転じたかどうかだ。第7章で見たように、アルカイダ工作員は失敗を犯している。2001年の間に、特に8月末には、少なくとも2回のこのような失敗が計画阻止のチャンスを生んでいた。

                 
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82 遅れた通知(リード)ミダル、ムサウイ、KSM (原文p.266
 6章で、我々はどのように情報官庁が飛行機作戦の[工作員の]初期のいくつかの旅行を、首尾よく把握したかを論じた。ハリド・アル・ミダルの動きを掴み、彼を認定した。そして誰かと一緒になる彼の旅行を監視することで、その誰か ―ナワフ・アル・ハズミ― を確認出来そうだったが、出来なかった。やや確認が容易ではないがハラドとアブ・バラなども同様である。こうした監視は199912月から、20001月に行われた。その足跡は、20001月以降失われたが、それが失われた明確な自覚が無く、また再び拾い上げる努力もあまりなされなかった。それだけでなく、CIAは、大使館や入国港で、もしミダルが再び現れた場合に注目されるように、彼等をテロリストの容疑で国務省の監視リストに載せる措置を講じなかった。
 2001年には、CIAFBIあるいはその両方とも、ハズミとミダルの重要性に再び注目し、彼らの捜査を再開する明らかなチャンスが四回もあった。これらのエピソードを再確認した後、我々はムサウイの扱いに戻り、またハリド・シェイク・ムハンマドについての遅れた通報(リード)に戻ろう。 
20011月:ハラドの確認 
 最初の足跡がバンコックで失われてからほぼ1年後、FBICIAは「コール」爆破の捜査を行っていた。そして、拘束された容疑者と「ハラド」と呼ばれる人物の関係を知った。また、ハラドがビン・ラディンの古参警備要員で、爆破を直接助けたことも知った。(我々はハラドを第5章で紹介し、第6章でコール爆破での彼の役に戻っている)
 イエメンにいるFBI捜査チームの一人が、ハラドについて、FBICIA共通の情報源から四か月前に聞いていたことを思い出した。そのFBI捜査官は、ある外国政府からコール爆破を指揮したと信じられる人物の写真を入手していた。それが情報源に示され、写真の人物が、彼がこれまで述べてきたハラドであることが確認された。
 200012月、ハリド・アル・ミダルに関係する幾つかのつながりをもとに、CIAのビン・ラディン班はハラドとハリド・アル・ミダルが多分同一人物だと推測した。
 CIAは、ミダルのクアラルンプールでの監視写真を、ハラドを確認した共同情報源に見せるよう求めた。20011月始め、クアラルンプール会議の二つの写真が情報源に示された。一つはミダルの知られた写真で、一つは未知の人物だった。情報源はミダルを認識しなかったが、他の人物がハラドである事は90%確実だと指摘した。
 これは、ハラドとミダルが異なる人物であることを意味している。これはまた、ハラドとミダルの間に結びつきがあることも意味し、ミダルの[テロリストだという]容疑がいっそう強くなったNOTE 59。だがCIAが長期間放棄していたミダルやその旅行仲間の捜査を再開したという形跡は見出せなかった。
 さらに、我々は、CIAFBIにこの人物確認を伝えていないことを知った。DCIテネットとコファー・ブラックは議会の9/11合同調査で、FBIは初めからこの確認事実を承知していたと証言した。しかし、この証言は広範囲の記録 ―証言を下書きしたCIA職員も容易に利用できない書類を含んでいる― に依存していることから、我々は、これは事実ではないと結論した。FBIの初期のコール事件の捜査官たちは、ハラドがクアラルンプールにミダルその他といたことを911日の攻撃後まで知らなかった。FBI20001月には、ミダルが合衆国のビザをもっていることを知らされていなかったため、彼の合衆国内での捜索は開始されていなかった。ハラドとミダルの関係が知られていなかったため、彼の捜索は20011月には始まっていなかった。
 この出来事は、たとえ相互に善意が有ったとしても、情報共有の日々の隙間がどういう結果につながるかを示す例である。この情報はFBICIAの共通の情報源からもたらされたものだった。だが、彼は基本的には英語を話すことが出来ず、彼の言葉は海外の現場ではFBIの捜査官には理解されなかった。移動の問題や警戒に関する事柄が必然的に、情報源と共に過ごす時間を制限し、その結果、CIA職員は同僚であり友人でもある、FBI職員の質問もしくは答えまで通訳しないのが普通だった。
 同時通訳なしの面接では、FBIの捜査官はCIAが他の官庁向けに配布するインタビューについての報告書のコピーをその場で受け取るが、さらに詳細なCIAの内部報告には接することが出来ない。20011月のハラド確認に関する情報は、このFBIの分析官が接触できない報告の中にあった。CIA職員はこの特殊な人物の確認を思い出すことはなく、したがって何故それがFBIの同僚と共有されなかったかを説明できない。彼はこの新たな人物特定がどれほど重要な結果をもたらし得たかを認識していなかったのだろう。
  20006月、ミダルはカリフォルニアを去り、イエメンに帰った。もし20011月にCIAが彼の捜査を再開し、彼を国務省のTIPOFF監視リストに載せるか、FBIに情報提供していれば、彼は発見されていただろう。それは20016月、彼が新たなビザを申請した時か、あるいは74日、彼が合衆国に帰ってきた時のいずれかだったろう。
     
2001
年春・クアラ ルンプール会合の見なおし
 
 20015月中旬、脅威の報告が急増していたため、FBIの国際テロリズム作戦局に派遣されていたCIA職員 ―我々は彼を「ジョン」と呼ぶ―  は、攻撃がどこで起きるかを思いめぐらしていた。ミダルと彼の仲間のクアラルンプール旅行のエピソードを思い出しながら「ジョン」は旅行についての情報をCIAのデータベースで探した。515日、彼とCIAの職員の一人は、2000年初めからの多くの古い電報を再調査した。そこには、ミダルの合衆国ビザの取得と、ハズミが2000115日にロサンゼルスに来た情報が含まれていた。
 この電報を受けたCIA職員は、そのことについて何も行動していなかった。だが「ジョン」は、CIAの分析官 ―以後「デイブ」と呼ぶ― とともに、こうした電信がなにを意味するかを解き明かそうとして、長々と会話のやり取りを始めた。「ジョン」はハラドがいかに危険であるかに気付いており、ある点で彼を「大リーグ・キラー」と呼び、「何か良くないことが絶対におこりそうだ」と断定した。この交信で、合衆国とのつながりが明らかだったにも拘わらず「ジョン」はこうした人物のうち誰かが合衆国内にいるかどうかを確かめる努力をせず、その可能性をFBIの同職位者に伝えようともしなかった。彼の関心は、もっぱらマレーシアにあった。
 「ジョン」は、CIAは「ゾーン・ディフェンス」(フットボール等で一定の守備範囲を守る。訳註)しがちな官庁だと表現した。彼はもっぱら、合衆国ではなくマレーシアについて懸念していた。これとは対照的に、FBIは「マン・ツー・マン」(同対人守備。訳註)の傾向があったと彼は我々に話した。
 CIAのビン・ラディン班のデスクワーク職員は、初めから終わりまで一つの調査にたずさわるFBI職員と同じ意味での「事件」を担当してはいなかった。したがって、20001月のクアラルンプール会議ののち、足跡をたどり難くなると、デスク職員は別の仕事に移動した。旅行者の一人がロサンゼルスに飛んだという電報が、20003月に到着したとき、事件担当官にはもうそれを追跡する責任は無かった。電報が着いた時、ビン・ラディン班の数人が電報を開いたが、何の行動も取られなかった。
 CIAのゾーン・ディフェンスは、「誰が」ではなく「何処で」に集中していた。その情報がFBIと共有されていたなら、FBIのマン・ツー・マン方式の組み合わせから、豊かな成果が生まれただろうに。

20016月:ニューヨークの会議 
 「ジョン」のクアラルンプール会合の見直しは、一人のFBI分析官の注意を惹いて、さらに幾つかの情報共有が始まった。我々が「ジェーン」と呼ぶことになる分析官は、FBIのコール捜査に任命されており、彼女は、もう一人のテロリストが作戦に参加していたことを知っていた。その男、ファド・アル・クソは20001月にバンコックに行き、ハラドに金を与えていた。
 「ジェーン」とCIA分析官「デイブ」は、「コール」に関係する問題で共に働いてきた。クソの足跡を追いながら、「デイブ」は幾枚かの写真を、コール事件のために働き、クソをインタビューしたことのあるニューヨークのFBI捜査官に見せてはどうかと提案した。
 「ジョン」は、3枚のクアラルンプール捜査の写真を、ニューヨークの捜査官に見せるために「ジェーン」に渡した。彼女は写真の中の一人が、ハリド・アル・ミダルと言う名前だと聞かされたが、なぜ写真がとられたか、なぜクアラルンプールの旅行が重要なのかを知らなかったし、写真の中の誰かがハラドだと確認されていることも告げられなかった。「ジェーン」が情報報告のためにデータベース「インターリンク」を調査していたとき、会議の計画についてのNSAのオリジナルな報告を見つけた。CIAはミダルの追跡について報告を配布していなかったため「ジェーン」はミダルの合衆国ビザや、ハズミまたはミダルの合衆国行きについて何の情報も引き出さなかった。
 「ジェーン」「デイブ」およびCIAのビン・ラディン班に派遣されていたFBI分析官は、「コール」事件の[FBI]捜査官に会うため611日、ニューヨークに行った。ジェーンは捜査写真を持って行った。会合のある時点で彼女は写真を捜査官に見せ、写真の中にクソがいるかどうかを尋ねた。捜査官たちは写真について質問した ―なぜこれが撮られたのか。なぜこれらの人々が追跡されているのか。残りの写真は何処にあるのか。
 写真以外にジェーンが持っていた会合についての情報は、彼女が「インターリンク」で見つけたNSAの報告書だけだった。しかし、これらの報告には司法省の情報政策審査局(OIPR)の許可無く、犯罪調査官と内容を共有することを禁じるという但し書きがついていた。したがって「ジェーン」はこの報告の情報を捜査官に渡すことは出来ないと判断した。この判断はもしかすると重大だったかもかもしれない。というのは、彼女が共有しなかった通信情報は、ミダルを中東の疑わしいテロリスト組織と結びつけるものだったからだ。捜査官たちは、大使館爆破事件の調査をもとに、この疑わしい組織との結合を確定し、それによってミダルにますます興味を抱き、彼の事を知りたくなっただろう。この情報源を見つけた捜査官たちが、自分たちの仕事の成果をつかみ取るのを阻まれたのは、悲しい皮肉である。  
 CIA分析官「デイブ」は、クアラルンプール会議についてさらに知っていた。彼は、ミダルが合衆国のビザを持っている事を知っており、そのビザ申請は彼がニューヨークに行こうとしていることを示していた。さらにハズミがロサンゼルスに行ったことや、ある情報源がミダルをハラドの仲間だと証言した事なども知っていた。だが、会議で彼に何を知っているかを問う者はいなかったし、彼も進んで話そうとはしなかった。彼は[FBI]調査官に自分はCIAの分析官であり、CIAの情報に関するFBIの質問に答える権限は無いと述べた。「ジェーン」は、もし「デイブ」が質問の答えを知っていれば、進んで答えただろうと思うと言った。ニューヨークの捜査官達は、彼らにミダルの捜索を始めさせたかもしれない情報を得ることなく会議をあとにした。
 ミダルはアルカイダの作戦計画とつながる、か細い糸であった。彼は合衆国を20006月に去った。この軽率な行動で、KSMは、すべての計画がくつがえるかもしれないと思ったほどだ。作戦を継続するために、ミダルはもう一度合衆国にやって来なければならなかった。おまけに、他の工作員と違って、ミダルは「潔白」ではなかった:彼はジハード主義者とつながりを持っていた。まさにこのつながりで、合衆国職員たちの注意が彼へと向けられたのだ。
 しかし、この場合KSMの心配は杞憂に終わった。ミダルは、ニューヨークでのCIAFBI会議の2日後、新しい合衆国ビザを受け取った。彼は74日にニューヨークに飛んできた。彼を探すものは誰もいなかった。

20018・ミダルとハズミの捜査の開始と失敗 
 2001年夏の間、「ジョン」は、正式の任務ではなかったが、直観に従って、CIAのビン・ラディン班に派遣されていたFBIの分析官「メアリー」に、もう一度すべてのクアラルンプールの資料を再検討してはどうかと提案した。彼女は「ジェーン」、「デイブ」と共にニューヨークの会議に出席していたが、その問題について彼女自身は、調査していなかった。「ジョン」は、彼女の自由時間に調査するよう頼んだ。
 「メアリー」は仕事を724日に開始した。その日、彼女はミダルが合衆国のビザを得たという電信報告を見つけた。1週間後、彼女はミダルのビザ申請の電信報告を発見した。 ―後にそれは彼の最初の申請であることが判った― 彼の目的地として、ニューヨークが記載されていた。821日、彼女は、ハズミが20001月にロサンゼルスに飛んだことが「興味を持って記録」されている、20003月の電信を探し出した。そして、直ちにこの情報の重要性を把握した。
 「メアリー」と「ジェーン」は即座にINSの代表とFBI本部で会った。822日、INSは彼らに、ミダルは2000115日に合衆国に入国し、さらに200174日に再入国したと話した。「ジェーン」と「メアリー」は、またハズミが20001月[入国]以降、合衆国を去った記録を残していないことを知った。そして、彼はミダルと共に20006月に[合衆国を]去ったと推測した。もしミダルが合衆国内にいるなら、彼女らは彼を見つけ出さなければならない。
 彼女たちは仕事を分割した。「メアリー」は、ビン・ラディン班にミダルとハズミをTIPOFF監視リストに載せることを電信で要請した。ハズミとミダルは両人とも、824日に監視リストに追加された。

 「ジェーン」は合衆国内での捜査を分担することになった。情報は、ミダルが最終的にニューヨークに到着することを示していたため、彼女は、FBIのニューヨーク支局宛てに、リード(lead)として知られる文書の下書きを始めた。リードはFBIのある部署から別の部署へ情報をリレーし、特別の行動が取られることを要請するものである。彼女はニューヨークのある捜査官に電話し、彼にこの事態に対して「警戒態勢をとる」ように告げた。しかし彼女のリードは828日まで送られなかった。彼女のメールは、ニューヨークの捜査官に、一刻も早く取りかかって欲しいと書かれていたが、そのリードの表示を「通常扱」とした。この指定は、これを受けたオフイスは返信まで30日の猶予があることを示していた。
 このリードを受け取った捜査官は、それを彼の班の監督官に転送した。その監督官は、情報事件として取り上げるため、その日のうちに、リードを一人の情報捜査官に転送した。その捜査官は「壁」の後ろにいて、FBIの情報が犯罪検察官に共有されないように守っていた。彼はまたそれをコール事件の捜査官たちと、もう一人のハリド、ハリド・シェイク・ムハンマドをマレーシアで長い間探している捜査官に送った。
 捜査の目的としたところは、ミダルを捜し出し、彼の接触者と合衆国にいる理由を確認し、できればインタビューを行うことである。リードを送る前に、「ジェーン」はFBIに派遣されたCIA職員「ジョン」と討議した。彼女はまた、FBIのビン・ラディン班の班長代理とも事実確認をした。その討議は、捜査が情報捜査として機密扱いにされるべきか、あるいは単なる犯罪事件かという点に限られていたと見られる。この事件については、FBIでもCIAでも、上位の管理者には誰も通知していなかったように見える。これらのテロリスト容疑者についてのリードや調査が、FBI本部のテロリズム対策部の副部長以上のいかなるレベルでも、実際に討議されたという証拠は無い。
 「コール事件」捜査官の一人が興味を持ってリードを読み、さらに情報を得るため「ジェーン」に接触してきた。だが「ジェーン」は彼がFBIの「犯罪」捜査官で、「情報」捜査官ではなかったため、協力を断った。「壁」が彼をミダルの如何なる捜査にも参加させなかった。実際、彼女は、彼がリードのコピーを破棄するべきだと思った。なぜなら、そこには、OIPRの許可無く情報を共有してはならないという警告を含むNSAの情報が含まれていたからである。その捜査官は「ジェーン」に、自分がミダルに関して犯罪捜査を開始出来るかどうか、FBIの国家安保障法ユニット(NSLU)の意見を求めるように頼んだ。
 「ジェーン」はコール事件の捜査官にメールを送り、NSLUによれば、この件は情報事項としてのみ捜査を開始することが出来、もしミダルが発見された場合、この件に対処でき尋問に立ち会えるのは、指定された情報捜査官のみだと説明した。どうやら彼女はこの状況に適用される複雑な規則を誤解していたように見える。
 FBI捜査官は怒って返信した。
 このことで何が起きようと―いつか誰かが死ぬだろう―壁が有ろうと無かろうと、大衆はなぜ我々がもっと効果的でなかったか、我々がある「問題」に、持っていたすべての資源を投入しなかったかを理解しないだろう。国家安全保障法ユニットが、彼らの決定の後ろに立つことを希望しよう。特に目下我々の最大の脅威であるUBLが最大の「保護」を受けつつある今こそ。 
 「ジェーン」は彼女が規則を作ったわけではないと返信し、自分たちは互いに関連のあるマニュアルに従っており、「(FISA)法廷に指示され、ニューヨーク支部を含むすべてのFBIオフイスはそれに従うことが求められる」と主張した。
 関与した誰もが、情報チャンネルで集められた情報の共有と使用を統制する規則について、混乱していたことがいまや明らかだ。ミダルはコール爆破について関係があるか、知識を持っていると考えられていたので、実在するコール犯罪事件のもとで、彼を調査、追跡することが可能だった。犯罪捜査官は、ミダルの捜査を開始するに当たって、新しい犯罪事件を必要としなかった。さらに、NSAはその情報を犯罪捜査官へ通知することを認めていたので、彼[犯罪捜査官]はすべての利用できる情報を使って、調査を実施することが出来たはずである。この混乱の結果、アルカイダについて精通し、容疑者を発見し告発することを含めて、犯罪捜査技術に経験がある犯罪捜査官たちは、調査から締め出されてしまった。
 捜査は一人のFBI捜査官に割り当てられた。それは彼にとって最初の対テロリズム・リードだった。そのリードは「定常扱い」だったので、情報事件として捜査を開始し、努力してミダルの所在を突き止めるまで30日の余裕があったが、彼は二、三日後に作業を開始した。そして犯罪記録と運転免許情報についてニューヨーク地域のデータベースをチェックし、ミダルが合衆国入国書類に記載しているホテルを調べた。結局、911日、捜査官はリードをロサンゼルスに送った。なぜならミダルは2000年1月、先ずロサンゼルスに到着していたからである。
 我々は、もしもっと人材が割り当てられ、異なる手法がとられていたら、ミダルとハズミは見つかっていたかも知れないと信じる。彼らは合衆国内で実名を使っていた。もしこのような捜査が「リード」の書かれた823日より早く始まっていたとしても、9/11以前に彼らを見つけるためには、捜査官たちは、技術と同様に幸運を必要としただろう。

 多くの
FBIの証人は、もしミダルが見つかっても、捜査官は彼を飛行機の上までついてゆくこと以外、何も出来なかっただろうと示唆した。委員会はこれを正しくないと信じている。ハズミとミダル両人とも、移民法に違反するか、コール事件の物的証拠を持っていたかも知れない。彼らの捜査や尋問、そして調査などが、9/11陰謀の他の参加者とのつながりを証明したかもしれない。彼らの拘留という単純な事実が、計画を脱線させたかもしれない。ともかく、その機会は失われた。


フェニックス
・メモ

フェニックス・メモは[上下両院]合同調査会Note 86と、司法省監察総監(Inspector General)によって徹底的に調査された。それをここで簡単に要約してみよう。20017月、FBIフェニックス支局[フロリダ]のある捜査官が、FBI本部とニューヨーク支局の国際テロリズム班の二人の捜査官にメモを送った。それは「おそらく、ウサマ・ビン・ラディンの協力により」学生を合衆国に送り、民間飛行学校に出席させていると忠告していた。捜査官は彼の説をアリゾナのこの種の学校に出席している「無数の個人的調査員」から得ていた。

捜査官はFBI本部に4種の勧告をしていた:民間飛行学校のリストを作成すること、これらの学校との連絡を確立すること、ビン・ラディンについての彼の説を情報社会で討議すること、飛行学校に申し込んでいる人物のビザ情報を当局に求めることである。彼の勧告は実施されなかった。彼のメモは一つの現地支局に転送された。宛先はFBI本部のウサマ・ビン・ラディン班と過激原理主義者班の班長になっていたが、911日が過ぎるまで彼らはそれを見ることさえしなかった。911日以前に、本部でこのメモを見た班長はいなかったし、ニューヨークの支局は何の行動も起こさなかった。

その[メモの]書き手が調査官に語ったように、フェニックス・メモは自殺パイロットについての警告ではなかった。彼の懸念は、爆発物が機内に積み込まれたパンナム103便のシナリオにとどまらなかった。メモの言及する飛行訓練は、航空工学を含む幅広いものであった。もしメモがタイムリーな方法で配布され、勧告が適切に実行されていたとしても、それで陰謀が暴かれたとは信じられない。だが、それによって、FBIが敏感になり、翌月のムサウイ問題について、より真剣に取り組むことになったかもしれない。 


ザカリウス・ムサウイ

2001815日、ミネアポリスのFBI支局は、ザカリウス・ムサウイについての情報調査を開始した。第7章に述べたように、彼は20012月に合衆国に入国していた。そして、オクラホマ州ノーマンのエアマン飛行学校で飛行訓練を始めた。その後、ミネソタ州イーガンのパンナム国際飛行アカデミーで813日、訓練を再開した。彼は、パンナムのボーイング747フライト・シミュレーターの飛行訓練のために必要な普通免許を、何一つ持っていなかった。彼は営業用パイロットになろうとしているのではなく「自己高揚」のために訓練を望んでいると言った。ムサウイは飛行の知識が殆ど無かったのに、ボーイング747をどのように離陸し、着陸させるかを学びたがったために目立った。

ミネアポリス[ミネソタ]の捜査官は、早くもムサウイがジハード主義者の信念を持っている事を知った。おまけに、ムサウイは銀行口座に32,000ドルを持っていたが、これほどの大金について妥当な説明が出来なかった。彼はパキスタンに旅行していたが、パキスタンにいる間に周辺国に旅行したのではないかと尋ねられたとき、興奮した。(パキスタンはアフガニスタン訓練キャンプへの慣例的ルートだった。原注)彼は武術の訓練を受けようと計画し、また地球位置受信機[GPR]を買おうとした。また、捜査官は、ムサウイは宗教的信念に関係した質問をされると、いつも極端な興奮状態になると記している。捜査官は、ムサウイを「過激原理主義の目的を遂行するため、将来の行動に備えているイスラム過激主義者」と結論した。彼はまたムサウイの計画は彼の飛行訓練と関係が有ると信じた。

ムサウイはアルカイダの失敗と見なされ、また[合衆国からは]失われた機会とも見られた。この明らかに信頼できない工作員は、FBIの手に落ちた。第7章で論じたように、ムサウイはラムジ・ビナルシブと接触があり、彼から金を受け取っていた。もしムサウイがアルカイダと関係付けされていたら、航空機の操縦を含むアルカイダが起こす陰謀について、直ちに疑問が持ち上がったに違いない。その可能性は、これまで情報社会では全く真剣に分析されてこなかったものだった。

この事件担当のFBI捜査官は、ミネアポリス・合同テロリズム作業班JTTF)のINS[移民帰化局]代表とこの事件を共同で扱っていたが、ムサウイは飛行機のハイジャックを計画しているのではないかと疑った。ミネアポリス支局とFBIの本部は、ムサウイを直ちに拘束するべきか、追加の情報を得るために監視するべきかを討議した。ムサウイを収監できるかが明らかでなかったため、FBIの事件捜査官は、最も重要な事は、彼が攻撃を実行できないよう、これ以上の訓練を受けさせないことだと判断した。

彼のビザは滞在期限切れのフランス国籍のビザだったので、ムサウイは直ちに拘留することが出来た。INSがムサウイを移民法違反で逮捕した。2001817日、強制送還命令が署名された。

ミネソタの捜査官は、ムサウイのラップトップ・コンピューターを捜査するための犯罪令状を得るには、ミネアポリスの合衆国検察庁(U.S.Attorney's Office)が、犯罪を証明する論拠が不十分だと判断するのではないかと心配していた。FBI本部の捜査官は、立証の論拠は不十分だと信じていた。そこで、ミネアポリスは、捜査を実行するには、外国情報監視法(FISA;第3章)による特別の令状が必要と考えた。

しかしそのためには、FBIはムサウイが外国勢力の工作員であることを証明する、しかるべき根拠を提示する必要があった。この提示は、犯罪令状を得るには必要が無かったが、FISA令状を得るには法定上必要だった。この事件の捜査官は、ムサウイを「外国勢力」に結びつける十分な情報を持っていなかったので、彼は合衆国内と海外に助けを求めた。

FBI捜査官の818日のメッセージは、パリ[駐在]の法務官の援助を求めていた。ムサウイはロンドンに住んだことがあるので、ミネアポリスの捜査官は、同様にそこの法務官にも援助を頼んだ。824日、ミネアポリスの捜査官は、FBIの[CTC]派遣職員およびCIAの内勤職員と、対テロリズム・センターでこの事件について相談した。

 パリのFBI法務官事務所は、ミネアポリスの事件捜査官と電話で話したすぐ後の816日もしくは 17日、フランス政府と接触した。822日と27日、フランス政府はムサウイがチェチェン反乱の指導者、イブ・アル・ハタブと関係があったという情報を提供した。これはミネアポリス支局とFBI本部、CIAとの間に活発な討論を引き起こした。チェチェン反乱軍とハタブが、FISAの定める「外国勢力」を構成するテロリスト組織として十分かどうかの討論である。FBI本部は十分だとは信じず、その国家安全保障法ユニットはFISA申請の提出を断った。

 援助の要請文書を受け取って後、ロンドンの法務官は即座に英国政府の彼の同職位者に転送し、さらに821日要望書を手渡しした。824日、CIAはロンドンとパリに「疑わしいB747飛行訓練関連問題」について、電信を送った。そこではムサウイを「自殺ハイジャッカー」の可能性があると記述していた。828日、CIAは英国政府の別の部署に情報の提供を求め、この連絡ではムサウイが8月末に英国に追放されるかもしれないと警告していた。ロンドンのFBI事務所は93日、より緊急性のある問題についての会議の後、この話題を英国の当局者と余談として簡単に触れ、95日、英国の情報機関に更新文書を送った。この件は、他にも多数のテロリスト関連の調査がある中で、英国で優先度を持って扱われることは無かった。

 94日、FBIは、ムサウイについて集めた事実を集約して、CIAFAA,税関、国務省、INS,シークレット・サービスにテレタイプを送った。それには、ムサウイはハイジャックを計画しているという事件捜査官の個人的推定は報告されていなかった。しかし、中東の人間が合衆国で飛行訓練に参加する事は異常ではないというFAAのコメントが含まれていた。

 ミネアポリスの捜査官は初めからムサウイについてFAAに話したがっていたが、FBI本部は、ミネアポリスに事件担当官がFAAのために準備した、より詳細な報告書を開示してはならないと指示した。ミネアポリスの監督官は、当の捜査官をFAAの地方事務所に派遣して、自からFBI本部のテレタイプとのギャップを埋めようとした。これに呼応してFAAが何らかの行動を起こした様子はなかった。

ムサウイが何を計画しているかについて、ネアポリス捜査官とFBI本部の間には、かなり大きな意見の相違があった。ミネアポリスの監督官とFBI本部捜査官のある会話で、本部捜査官はミネアポリスのFISA請求は、人々を「飛び上がらせる」ような、やり方で表現されたと不平を述べた。[ミネアポリスの]監督官は、それこそまさに自分が意図したことだ、とやり返した。そして自分は「誰かが飛行機を乗っ取り、ワールド・トレードセンターに突入しようとするのを、防ごうとしているのだ」と言った。本部の捜査官は、そんなことは起きようとしてもいないし、ムサウイがテロリストかどうかも判っていないと答えた。

FBI臨時長官(Acting Director)のピッカードもテロリズム対策主席長官補佐(Executive Assistant Director)デール・ワトソンも、9/11以前にムサウイ事件について概況報告されたという証拠は無い。FBI長官補佐Assistant Director)マイケル・ロリンスは、FBIの国際テロリズム作戦セクションITOS)を率いていたが、ムサウイについては2回、廊下を歩きながらの会話に上がったことを思い出した。だがそれはただ、彼がミネアポリスから、この件について本部の取り扱いに不平を言う電話を受けているらしいという状況についてにすぎなかった。そのような電話を彼が受けたことは全く無かった。ミネアポリス担当の特別捜査官代理は、827日、ムサウイ事件について討議するため、ITOSの監督官に電話をしたが、彼はFBI本部の指揮系統を上にたどって、ロリンスに電話する事を拒否した。

 823日、DCIテネットはムサウイ事件について「イスラム過激主義者が飛行訓練」との題で概況報告をうけた。テネットはまた、ムサウイが[ボーイング]747の飛行訓練を望んでいること、訓練費用を現金で払ったこと、飛行中ドアが開かないことに興味を持ったこと、シミュレーターによるロンドンからニューヨークへの飛行を希望したことなどを説明された。また、FBIがムサウイをビザの期限切れ滞在で逮捕したこと、CIAはこの件でFBIと協力していることなども聞かされた。その時点で、彼はアルカイダとの明白なつながりはなかったと、テネットは我々に語った。それはFBIの事件と見ていたので、彼はこの問題をホワイトハウスやFBIの誰とも討議しなかった。合衆国でのムサウイの存在と、2001年夏の間の脅威の報告の間には、何の関連もつけられなかった。  

 911日、攻撃の後、ロンドンのFBI事務所はムサウイの情報について、あらためて情報を求めた。合衆国の要望に応じて、英国政府はムサウイに対するいくつかの基本的な経歴情報を提供した。英国政府は、直ちに情報収集機関にムサウイについて通知するよう命じたと我々に告げた。913日、英国政府はムサウイがアフガニスタンのアルカイダ訓練キャンプに参加していたという、新しい微妙な情報を得て、その日のうちにそれを合衆国に伝えた。この情報が、もし20018月末に得られていれば、ムサウイ事件は強く高いレベルの注目を集めていたに違いない。

 FBIはまた、9/11以後、ミレニアム・テロリストのレザム ―彼は2001年には調査官に協力していた― がムサウイをアフガン・キャンプにいた人物だと認めたことを知ったNote 106.。先に述べたように、9/11以前、ミネアポリスのFBI捜査官は、ムサウイのコンピュータのハードディスクと付属品を捜査するためにFISA令状を求める十分な証拠があったのに、本部の監督官を説得するのに失敗していた。英国の情報か、レザムの人物特定のどちらかが、行き詰まりを打破していたかもしれない。

 ムサウイの調査に合衆国が最大限の努力を払っていたら、もしかすると、彼とビナルシブとのつながりを暴露できたかもしれない。そして、これらのつながりが、調査官を9/11陰謀の核心へと導いたかもしれなかった。ビナルシブとのつながりは、9/11直後に確認されたが、それを発見する事は容易ではなかった。その発見には、迅速で実質的なドイツ政府の協力を必用としたが、これまた容易なことではなかっただろう。

とはいえ、ムサウイの逮捕を公表し、ハイジャックの恐れがあることを一般に知らせていれば、陰謀を脱線させることが出来たかもしれない。時間の余裕が有って、ミダルとハズミが捜査され、ムサウイの調査がなされていれば、それが陰謀を粉砕する突破口となっていたかもしれなかった。


ハリド・シェイク・ムハンマド

もうひとつ、チャンスを逸した例として挙げられるのは、2001年夏に情報社会が受けた、ハリド・シェイク・ムハンマド(KSM)に関する情報が交錯したことである。だが、KSMとムサウイの、また後にラムジ・ビナルシブと確認される人物とのつながりがあっただろうということは、いまだに未確認のままだ。

 今日でこそ、我々は直ちにKSMとアルカイダを同一視するが、これは9/11以前の状態ではない。KSMは、マニラ航空機計画での役割によって、19961月に起訴されていたが、当初はラムジ・ユセフと組んだ、組織に属さないテロリストと見なされていた。当時、KSMとビン・ラディンおよびアルカイダとのつながりは認められていなかったので、KSMに対する[捜査の]責任を負ったのは、テロリスト対策センターCTCの中の小さな「イスラム過激主義者班」で、「ビン・ラディン班」ではなかった。

 おまけに、KSMはすでに起訴されていたので、逮捕の目標となっていた。1997年、テロリスト対策センターは手配されている逃亡者の発見を助けるため「引渡し部」Rendition Branch)を追加した。KSMに対する責任は、この支部に移された。それはCIAに「マン・ツー・マン」の視点を与えたが、そこは分析集団ではなかった。引き続く情報が来たとき、追跡ではなく分析がより緊急となったが、その情報が何を意味するかを分析する集団が無かったNote 108

 たとえば、20009月、ある情報源がハリド・アル・シェイク・アル・バルシという名前の人物が、アルカイダの鍵となる副官だとの報告をもたらした。アル・バルシは「バルチスタンから」という意味で、KSMはバルチスタン出身だった。この情報の重要性を認めて、ビン・ラディン班はさらに情報を探した。だがそれ以上の情報は一切得られなかったので、ビン・ラディン班は問題から手を引いた。2001年の春と夏にパズルの追加の断片が入手できたが、それらを接合しようとした者はいなかった。

 パズルの最初のピースは、「ムクタル」という通り名の人物に結びつく、きわめて興味深い情報に関するものだった。CIAは、ムクタルについて20014月から分析を始めていたが、この時点では、ムクタルが誰であるかを知らなかった。ただ彼はアルカイダの副官アブ・ズバイダと関係が有り、情報の性質によれば、明らかに、起こりうるテロリスト活動計画の一員だった。

 パズルの二つ目のピースは、KSMについての驚くべき情報であった。2001612日、あるCIA報告に「ハレド」がアフガニスタンを出て他国へと行く人物を活発に募集しているとあった。合衆国を含むそれらの国には、彼らと合流する仲間がすでにいて、そこでビン・ラディンのためにテロリスト活動を実行すると言われていた。CIA本部は報告の細部から、この人物はハリド・シェイク・ ムハンマドと推定していた。7月、同じ情報源が一連の写真を示され、ハリド・シェイク・ムハンマドの写真を、彼が先に語ったハレドであると確認した。

 パズルの最後の一片は、2001828日にCIAのビン・ラディン班にもたらされた。 それはKSMのニックネームは「ムクタル」だという電信の報告だった。だが誰一人として、これをこの春に回覧されていたムクタルの報告に関係づけた者はいなかった。この関連付けは、KSMが合衆国を含む外国に行くテロリストを募集していると言う、6月の報告を強調するものであったかもしれない。9/11の直後、ムクタル/KSMがビナルシブによって使われた電話で連絡していたことが見つかった。ビナルシブはまた第7章で論じたように、同じ電話をムサウイとの連絡にも使っていた。ムサウイの状況はすでに書いたが、ビナルシブとのつながりの痕跡を見つけるのは容易ではなく、ドイツ政府の実質的な協力が不可欠であった。しかし、そうするための時間は切れようとしていた

時間切れ 

テネットが我々に語ったように、2001年夏の間「システムは赤く点滅していた」。全職員が、世界中から警告を受けていた。多くの者が、脅威に対抗するために全力を尽くしていた。

だが2001年夏、これら遅れたリード(通報)にたずさわっていた職員のだれ一人として、自分の書類入れの中にある一件を、上役たちが躍起となって、大統領に概況報告している例の脅威に関する報告と結びつけた者はいなかった。こうして、これらの個々の事件は国家の優先事項とはならなかった。CIAの監督官「ジョン」が我々に語ったように、誰も、より大きな画を見ていなかった;稲妻が雷雲を地面に結び付けることを予見するような分析的な作業はなされなかった。

陰謀の進行が、政府のなんらかの活動によって妨害されたという証拠は見あたらない。合衆国政府は、アルカイダが犯した失敗を 利用する事はできなかった。時間は切れた。


第8章 Note

 NOTE 59.(要旨)CIAは、ミダルとハラドが20011月にバンコックにいたことは知っていた。しかし、ハラドが偽 名でミダルと共にバンコックに飛だことは知らなかった。テネット長官は、ハラドの出席が確認されれば、クアラ ルンプールの会議はさらに重要な意味を持つと認めている。 
    両院合同委員会報告:Joint  Inquiry Report.  p.149 

 NOTE 86.     同上          Joint Inquiry Report.  pp325-335

 NOTE 106.    同上          Joint Inquiry Report.  pp340-341

 NOTE 108.    同上          Joint Inquiry Report.  pp329-331




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