9章 ヒロイズムと恐怖         (原文p.278
9・1 911日現在の備え   
 緊急時の対応は準備の産物である。2001911日の朝、ワールド・トレードセンターで働く、あるいは訪れた人達にとって、最後の、最善の希望は、国の政策決定者ではなく、個人企業や地方の公務員、特に第一対応者である消防、警察、緊急医療サービスおよびビル安全専門家たちに託された。


建物の備え

ワールド・トレードセンター 
 ワールド・トレードセンター(WTC)複合施設は、ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社[Port Authority]のために建てられた。建設は1966年に始まり、テナントは1970年から入り始めた。そのツインタワーは、ニューヨーク市とアメリカの文化の中でも、ユニークで象徴的な場所となっていった。
  WTCは、実際には一つのホテルを含む7棟のビルにより構成され、16エーカーの敷地に拡がっていた。ビル群は地下のモール(コンコース)で結ばれていた。ツインタワー(1WTC、北タワーと、2WTC、南タワー)は特徴ある構造で、[合わせて]1,040万平方フィートのオフイス空間を持っていた。両タワーは110階建てで、高さは約1,350フィート[410m]、[断面は]四角形で、各々の壁は208フィート[63m]の長さがあった。平日には5万人に上るオフイス勤務者がタワーを占め、4万の人々が複合施設を通り抜けた。Note 1
 それぞれのタワーは三本の中央吹抜け階段を持っていた。それは基本的には頂上から底部に抜け、99のエレベーターが走っていた。一般的には、エレベーターはロビーを出発して高い階にあるスカイロビーに向かい、そこからは別のエレベーターが乗客をビルの頂上に運んだ。吹抜け階段ACは、110階からロビーの中2階レベルまで走っていた。吹抜け階段Bは、107階からB6:地下6階まで走っていた。そして中2階レベルの1階下のウエスト通りレベルのロビー階から[地表に]出入りすることができた。




World Trade center Complex(9/11現在) 配置図 


(下の図は現地の概念が得られるように訳者が独自に作図したもので、
縮尺、方位などは厳密には正しいものではありません)



 基本的にはすべて
3本の吹抜け階段は、まっすぐに上下に走っていた。ただし、吹き抜け階段ACには、ビルの外周方向に突き出した二つの階段室があった。これらの逸脱部の上部と下部の境界は、その中に正常な吹抜け階段を含んで、乗換ホール[の天井と床]となっていた。各々のホールには、煙がビルの底部から上昇するのを妨げるための防煙扉が設けられていた;扉は閉じられていたが、ロックされてはいなかった。テナントスペースから吹抜け階段へ導くドアは絶対にロックされる事はなかった;吹抜け階段からの再入場は、一般的には少なくとも4階毎に可能だった。
 屋上に出るドアはロックされていた。屋上からの避難計画は無かった。北棟、南棟とも屋上は傾斜しており、そこは放射線の危険radiation hazard)でいっぱいだった。それを考慮して乱雑で凹凸のある表面となっていた。そのことがヘリコプターの着陸を不可能にし、一般人には[工事の]足場のようだった。南棟にはヘリパッドがあったが、それは1994年の連邦航空局のガイドラインには適合していなかった。
1993年のテロリストによるWTC爆破と港湾公社の対応.
 アメリカの大部分と違って、ニューヨーク市,特にワールド・トレードセンターは、
9/11以前からテロリストの攻撃目標だった。1993226日、午後1218分、レンタル・バンに隠した、1,500ポンドの爆弾がツインタワー下の駐車場の傾斜路で爆発した。この爆発は6人を殺し、約1,000人以上を傷つけた。そしてWTCと市の非常時の準備のもろさを暴露した
 タワーは電力と通信能力を失った。発電機は安全確保のために停止しなければならなかった。そしてエレベーターが停止し、館内放送システムと緊急照明設備は故障した。照明の無い吹抜け階段は煙で満ち、通過できないほど暗かった。ツインタワーのような大ビルディングの中では無線電話機能が働かなくなったため、ニューヨーク市消防局(FDNY)の救助活動は妨げられた。緊急電話システム「911」は[殺到する通話に]圧倒された。タワー入居者の階段を通じての脱出は4時間以上を要した。
 身体的に階段を下ることが不可能な小グループの人たちは、南棟の屋上からニューヨーク市警察(NYPD)のヘリコプターで脱出した。少なくとも一人が北棟の屋上からNYPDのヘリコプターの危険な脱出作戦によって吊り上げられた―爆発の15時間後だった。このような空からの救助が行われたという一般的な認識は、ツインタワーで働いている多くの民間人たちに、ヘリコプター救助はWTC脱出計画の一部であり、屋上からの救助が実行可能であるとの誤った考えを残したと思われる。好ましくないとしても、それは上層階で働いている者の選択肢であるように思えた。にもかかわらず、1993年以降、ヘリコプターによる脱出は、WTC火災安全計画の中に取入れられなかった。
 1993年の爆破への対応で遭遇した問題を処理するために、港湾公社はWTCの物理的、構造的、技術的改良に、当初1億ドルを費やした。同様に、火災安全計画を強化し、火災安全および保安スタッフを再編成した。
 電源と出口について、本質的な強化がなされた。蛍光標識とマークが吹抜け階段内とその近くに追加された。また港湾公社は精巧でコンピューター化された火災警報システムを、豊富な電子機器と制御パネルと共に設置し、最新技術(state of the art)の防火指揮所が、各タワーのロビーに置かれた。
 火災危機への準備と作戦を指揮するため、港湾公社は専任の火災安全主任の職位を設けた。この主任は、火災安全副主任チームを指揮・監督する。副主任チームの一人は、各タワーのロビーの防火指揮所で一日中勤務に就く。彼または彼女は、非常事態の間、ビル入居者との連絡に責任を持つこととなった。
 また港湾公社は、将来の緊急事態に向けて民間人の準備の改善も検討した。火災安全副主任は、少なくとも年二回、テナントに予告された火災訓練を行った。また「火災安全チーム」が各階の一般従業員の中から選ばれ、火災安全責任者、同副責任者および捜索員から構成された。火災訓練の標準手順では、火災管理者が同僚を階の中央部に導き、そこで緊急内線電話を使って、事態の進行状況についての情報を得る。入居者の何人かは、911日の避難の際、港湾公社が1993年の爆破に対応して行った変更と訓練に、大いに助けられたと我々に語った。
 しかしこれらの訓練の間、民間人は吹抜け階段の中までは誘導されなかった。またその配置や乗換ホール、防煙ドアの存在などについて、情報を提供されなかった。全体どころか部分的な避難訓練も行われなかった。さらに、実施された訓練への参加は、テナントによってまちまちだった。一般には、民間人は上に向かって避難しないようにと言われことは絶対に無かった。通常の火災訓練のアナウンスでは、実際の緊急時の場合、少なくとも火災階の3階下に降りるよう、参加者にアドバイスしていた。多くの民間人は、単に緊急時には提供される指示を待つようにと教えられていたと思い出している。民間人は、屋上からの避難は避難計画の一部ではない事、および屋上に出るドアはロックされている事を知らされていなかった。港湾公社は、タワーの中で火災階の上に閉じ込められた人たちについて、救出の協定が無かったことを認めた。
 9/11攻撃の6週間前、ワールド・トレードセンターの管理は完全リース契約により、個人ディベロッパーのシルバースタイン不動産に移管された。選ばれた港湾公社の職員たちは、その移行を助けるように指名されていた。残りの現場職員たちは、もはや公社の指揮系統の一部ではなかった。しかし、911日、大部分の港湾公社のWTC職員たちは ―「移行チーム」に割当られた職員以外も― その朝を通じて、援助を提供するため彼らの従来の部署にいたと報告されている。911日にはシルバースタイン不動産がWTCに責任があったが、WTC火災安全計画は基本的には同じように残っていた。
第一対応者の備え
 911日、基本的な第一対応者は、ニューヨーク市消防局(Fire Department of N.Y.FDNY)、ニューヨーク市警察(N.Y. Police DepartmentNYPD)、港湾公社警察(Port Authority Police Department PAPD)、および危機管理市長オフイス(Mayor's Office of Emergency ManagementOEM)であった。
港湾公社警察
 
2001911日、ニューヨーク‐ニュージャージー港湾公社警察
(PAPD)1,331名の警官で構成されていた。その多くは、法執行と同様、火災の制圧についても訓練を受けていた。PAPDは警視監(superintendent)に率いられていた。WTCを含む港湾公社の九つの施設の各々に、独立したPAPD警官隊があった。
 大部分の港湾公社警官隊は超高周波[UHF]無線電話を使っていた。すべての無線電話は1チャンネル以上の能力があったにもかかわらず、大部分のPAPD警察官は一つのローカル・チャンネルしか使わなかった。このチャンネルは低出力で、その隊のごく近くでしか働かなかった。PAPDは全署に届くチャンネルを持っていたが、すべての警官が利用できたわけではなかった。
 911日現在、港湾公社は、WTCの重大な事件に際し、多くの隊の警察官をどのように対応させ、現場に立たせ、役立つように管理するかという、標準作戦手順書を持っていなかった。特に、このような重要事件の時に、異なる[施設の]警官隊と無線電話によって、どのよう交信するかの標準作戦手順書が無かった。
ニューヨーク市警察 NYPD40,000名の警察官(officcer)は、警察総監(police commissionerに率いられていた。総監の任務は、作戦執行を第一義とするものではなかったが、作戦執行権限は保持していた。NYPDの作戦活動の大部分は警察本部長chief of dep.)によって運営される。 大きな非常事態の時、指揮は「特別作戦部」(Spec. Operations Div.)によって行われる。この部は、捜索と救助のためにヘリコプターを提供する航空隊と、特別の救助任務を実行する「緊急サービスユニット」(Emergency Service UnitESU)を持つ。NYPDは、事件の重大さに応じて警官を出動させる明確で詳細な標準作戦手順書を持っていた。
NYPDの管轄範囲は、35の異なる無線地域に分かれ、それぞれに中央通信指令係(dispatcher)が割り当てられていた。さらに、市内全域での作戦用に数個の無線電話チャンネルがあった。警官は20またはそれ以上の適応チャンネルを持つ携帯無線電話を持っていた。その使用者は所轄範囲外とも応答できた。ESUチームもこれらのチャンネルを持っていた。しかし、出動時には分離した「二点間のチャンネル」を使っていた。(それは通信指令係にはモニターされなかった。原注)。
 NYPDは、また、市の911緊急電話システムを管理していた。その約1,200名の交換手と通信指令係、監督者は民間人で、NYPDの被雇用者だった。彼らは緊急応答の初歩的訓練を受けていた。911電話が火災に関するものであった場合には、それはFDNYの通信指令係に回された。
ニューヨーク市消防局
 
11,000名のFDNYメンバーは、消防総監(fire commissioner)に率いられていた。彼は
警察総監とは異なり、作戦執行権限は持たなかった。作戦執行は唯一の五つ星の長である消防局長官(chief of dep.)が当たっていた。FDNYは地理的に分割された九つの管区(division)によって構成され、各管区はさらに4ないし7の大隊(battalion)に分割されていた。各大隊は典型的には3ないし4のポンプ車隊(engine company)と2から4の梯子車隊(ladder company)によって構成されていた。FDNYは合計で、205の消防車隊と133の梯子車隊を持っていた。出動時、梯子車隊は中隊長(captain)または小隊長lieutenant)と5名の消防士(firefighter)で構成され、ポンプ車隊は隊長または副長と通常は4名の消防士で構成されていた。梯子車隊の基本機能は救助であり、消防車隊は消火だった。
 FDNY特殊作戦隊Specialized Operations CommandSOC)は、テロリストの攻撃その他の特別に重要な事件に対応する限られた数隊を持っていた。この部門の五つのレスキュー隊と七つの特別分隊(squad company)は、特殊な、また高度に危険な救助作業に携わっていた。
 消火活動の後方支援業務は、消防派遣業務部によって指揮された。それは五つの区の各々にセンターを持っていた。すべての火災に関する911緊急電話はFDNY通信指令係に転送された。
 911日現在、火災に対応するFDNYの各隊と隊長は、通常6作動チャンネルを持つアナログの二点間無線電話を使っていた。通常、各隊は同じ戦術チャンネル上で運用された。現場の隊長はそれをモニターし、消防士との交信に使った。火災作戦に当たった隊長は、別の指揮チャンネルも使っただろう。なぜならこの二点間チャンネルは信号強度が弱く、他のFDNY署員はごく近くでしか聞けなかったからである。これに加えて、FDNYは五つの地区の各々に指令用周波数を割り当てていた。これらは二点間チャンネルと異なり、市内のどこでも傍受できた。
 FDNYの無線電話は1993年のWTC爆破の際、二つの理由で貧弱な状態でしか働かなかった。第一に、分離した中隊と交信しようとしたとき、無線電話の信号は多くの鉄とコンクリートからなる床を貫通できなかった。第二に、多くの異なる中隊が同じ二点間チャンネルを使おうとしたため、交信は認識不能となった。
 1994年、港湾公社は、ツインタワーの高層階環境でのFDNYの無線通信を大幅に改善するため、自費で反射[増幅]システム(Repeater System)を設置した。港湾公社は反射システムを常時作動させることを勧めた。しかしFDNYは、システムを実際に必要な時にのみ作動させるよう要望した。なぜなら、そのチャンネルは南部マンハッタンの他のFDNY作戦用[電波]と干渉を起こす恐れがあったからである。当初、反射システムは5WTCの港湾公社警察デスクに設けられた。それはWTC複合施設を担当するFDNY隊が要求したとき、港湾公社警察のメンバーによって起動された。しかし、2000年春、FDNYは反射システムの起動盤を、各タワーのロビーの火災安全デスクに置くことを依頼した。それによると、FDNYの人物がその起動に完全に責任を持つことになる。港湾公社はこれに応じた。
 1946年に正確な統計が始まって以来、1998年から2000年の3年間、ニューヨーク市内の火災による死者は、他のどの3年間より少数だった。消防士の死亡は 1990年代の合計は22名― 消防局の歴史で最も静かな時期と比べても好ましいものであった。
                            図:WTC Radio Repeater System (省略)

危機管理オフイスと部局間の準備
 1996年、ルドルフ・ジュリアーニ市長は危機管理市長オフイス[Mayer’s Office of Emergency ManagementOEM]を作った。それは三つの基本的機能を持っていた。第一に、OEMの監視部は、市の主要な通信チャンネル FDNYの車輌派遣とNYPDの無線周波数を含む― その他のデータをモニターする。OEMの第二の目的は、テロリストの攻撃を含む大きな出来事に対するニューヨーク市の対応の改善であった。それは特にNYPDFDNYを含む市の多くの部局を巻き込んだ計画と訓練の実行だった。第三は、OEMが事件に対する市全体の対応の管理の上で、決定的役割を演じることであった。OEMの緊急作戦センターが活動を始めた後、関係部局からの連絡官と、市長およびその上級スタッフがここで対応することになる。さらに、協同した対応が行われているかを確認するため、OEM現場対応員が現地に送られることになった。
 OEMの本部はWTC第7ビルに位置していた。ある者は、その位置は先ごろのテロリストの攻撃目標に近く、またビルの23階は(エレベーターが動かなくなると)接近が難しいと疑問視していた。バックアップ・サイトは無かった。
 20017月、ジュリアーニ市長は「ニューヨーク市の危機管理と指針」と題する方針を発表した。その目的は「経験と責任が重複する範囲がある場合の、対応組織間で起こりうる混乱」を取り除くことにあった。指令はその目的を、緊急事態の異なるタイプに応じて、適当な部局を「事件指揮者」とする事によって達成しようと考えていた。この「事件指揮者」は「緊急事態に対する市の対応管理に責任を持つ」ことになるだろう。一方、OEMは「現場の部局間調整者に指定」された。
しかし、FDNYNYPDは互いに作戦上は独立していると見なされた。911日現在、彼らは重大な事件に対応して、その取り組みを包括的に調整するという準備はされていなかった。OEMはこの問題を克服できていなかった。

                        
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9・2 
2001911
    (原文 p.285)
 我々が911日の出来事を振り返るに当たって、後知恵によって与えられる公平でない見方に注意しなければならない。しかし、我々は次の102分の間に何が起きたかを再現してみよう。
・ハイジャックされたアメリカン航空11便が第1ワールド・トレードセンター(北棟)に衝突した[午前]846分から、南棟が衝突されるまでの17分間。
・ハイジャックされたユナイテッド航空175便が第2ワールド・トレードセンター(南棟)に衝突した[午前]93分から南棟が崩壊するまでの56分間
・[午前]959分の南棟の崩壊から、[午前]1028分の北棟の崩壊までの29分間
午前846分から93分まで 
 84640秒、ハイジャックされたアメリカン航空11便が北棟の上部に飛び込んだ。それは93から99階を切り裂いた。ビルの吹き抜け階段の3本すべてが92階以上は通過不能となったことを証拠が示している。[突入の]衝撃で民間人数百人が瞬時に殺された。数百人以上が生きていたが、閉じ込められた。
民間人・火災管理者・911電話 
北棟. 衝撃によって噴出したジェット燃料が火球となって、少なくとも一つのエレベーターの開口部から勢いよく落下していった。火球は77階と22階、ウエスト通り側のロビー階、B4―地表の4層下― を含む、多くの下の階で爆発した。燃焼するジェット燃料は直ちに濃い黒煙を作り出し、それは北棟の上層階の床と天井を覆った。南棟の屋根も北西からの卓越する弱い風で煙に覆われた。
 ただちに、ニューヨーク市の911システムは、事態の目視報告であふれた。大部分の通報者は攻撃の対象を正しく見定めていた。何人かは、飛行機は民間機と認めていた。
 最初の応答はビルに入居していた会社や個人から来た。次の二、三分間に、その場にいたビル職員にも助けられ、彼らの状況と準備に応じてすべての事が始まったに違いない。
 数百人の民間人が、大・小のグループとなって、92階以上,主に103から106階に閉じ込められた。92階の大きなグループが、厳密には衝突部の下だが、降りることが出来ないと報告してきた。民間人はまたエレベーターにも閉じ込められていた。衝突部分の下の民間人は ―大部分は70から80台階、また少なくとも47階と22階― に閉じ込められ、救助を待っていた。
 館内放送システムによる最初の全館脱出指示が、いつ行われたかは明らかではない。ロビーにいた火災安全副主任は、直ちに重大な事件が起きたことを知ったものの、約10分の間、民間ジェット旅客機がビルを直撃したとは知らなかった。彼は協定書に従って、最初にコンピューターによる警報が行われている階に放送した。それは、これらのテナントに安全な地点 ―少なくとも煙や火災の階の2階下― に降り、そこで次の指示を待つようにとの通知だった。火災安全副主任は、爆発から約10分以内に完全退去の指示を始めたと我々に語った。しかし最初にロビーに到着したFDNYの隊長たちは、港湾公社の火災安全主任から ―彼はもう火災安全主任に指名されていなかったが、ロビーにいたと報告されている― ビルへの衝突1分以内に、ビル全体の退避放送が行われたと報告された。
 飛行機の衝撃によって引き起こされたビルシステムの損傷のために、多くの場所で館内放送のアナウンスは聞くことが出来なかった。同じ理由で、多くの民間人は、火災訓練で使用を指示されていた緊急構内電話を使うことが出来なかったと思われる。多くのものが911(非常電話)に電話をした。
 911システムは、膨大な量の受信を扱うようには設計されていなかった。ある通話者は911の交換手に接続できず「回線は混雑しています」とのメッセージを受けた。標準の操作手順では、火災に関する緊急通報は、911交換手から適正な地区(この場合ではマンハッタン)のニューヨーク市消防局(FDNYの通信指令係に転送される。しかしこの転送は、しばしば遅れによって悩まされ、ある場合には失敗した。多くの通報がすぐには接続しなくなった。
 911交換手とFDNYの通信指令係は、衝突の位置と衝撃強度についての情報を持っていなかった。したがって、彼らは通報者が火災の上にいるのか下にいるのかという基本的な情報を提供することができなかった。交換手は、この日、ツインタワー屋上からの救助は不可能とのNYPD航空隊の決定を知らされていなかったため、彼らは通報者が上に行くべきか下に行くべきかを質問したとき、知識に基づいた説明ができなかった。そのため、多くの場合、交換手とFDNYの指令係は、高層建築の火災に対する標準業務手順書に頼った。それは、民間人は身を低くして彼らがいる場所に留まり、緊急職員の到着を待つように、というものだった。このアドバイスは、北棟の衝突地帯の上下双方の通報者に対して与えられた。消防隊長たちは、何万人もの摩天楼からの脱出は多くの新しい問題を発生する、特に障害者や健康弱者の問題があると我々に語った。1993年の爆破後の負傷は、脱出中に起こった。
 その場所に止まると言う案内は、一般の高層建築火災については理解できるものだが、北棟ロビーにいたFDNYの隊長たちは、すべてのビル入居者は直ちに脱出を試みるべきだと決定した。857分、FDNYの隊長たちは、南棟についても同様に脱出するよう、PAPDとビル職員に指示した。それは最初の飛行機の激突による損傷の重大性のためであった。
 これらの危急の決定は、911交換手やFDNY通信指令係には伝えられなかった。協定書から外れて、多くの交換手は、通報者に窓を破ることが出来ると話した。何人かは、もし出来るなら[とどまる事なく]脱出するよう助言した。5WTCにある港湾公社警察(PAPD)に電話した民間人は、もし出来れば離れるよう助言された。
 協定書によるアドバイスに妨げられなかった大部分の民間人は、構内電話システムによる指示を待つことなく脱出を始めた。いくらかは、911交換手がアドバイスしたように、残って助けを待った。他の者は単に働き続けたり、あるいは個人的な品物を集めるのに手間取った者もいた。しかし多くの場合、他の者から離脱を促された。何人かの港湾公社に雇用された民間人が、上層階各所に残り、閉じ込められた民間人を助け、脱出を手伝った。
 脱出の間、いくらかの民間人は出口に達した時、衝撃によって生じた損傷によって、トラブルに遭遇した。何人かは、混雑が増してくる階段通路の屈曲に困惑していた。そしてロックされたように見えるが、実際は瓦礫や飛行機の衝突の衝撃によって移動された備品によって塞がれたドアに邪魔された。このような障害にもかかわらず、脱出は比較的静かで秩序だっていた。
 衝撃後10分で、上の階に向かっ煙が邪魔になるような量で上がり始め、分離した火災が報告された。しかし、いくつかの避難空間も有った。だが、耐え難い熱、煙、そして火に直面し、さらに救助の見通しもなく、何人かはビルから飛び降り、あるいは墜落した。
図:WTC北棟 階段通路と拡張部(省略)
 南棟. 南棟にいた多くの民間人は、初め別のタワーで何が起きているのかを知らなかった。何人かは、彼らのビルで事件が起きたと信じていた。他の者は北棟の上層階で大きな爆発が起きたと気付いていた。多くの人々が脱出を決めた。そして何人かはそうするよう火災安全責任者からアドバイスされた。それに加えて、南棟の20以上のフロアを占めていたモルガン・スタンレー社が、企業の警備担当者たちの決定で従業員を脱出させた。
 協定書にしたがって、849分、南棟の火災安全副主任は北棟の同職位者に「消防局の上位者または誰か」からの連絡を待って、避難命令を出すと話した。このころ、南棟の館内放送システムを通して、テナントに、この事故は別のビルで起きているので、一般的には彼らのビルは安全であり、彼らはその職場またはフロアに止まるか、あるいは[脱出した者は]戻るようにとのアナウンスが開始された。火災安全副主任の、事故は別のビルで起きているというテナントへの情報提供の声明は、協定に従ったものだった。[しかし、それに続く]拡張されたアドバイスは、いかなる協定文書にも存在しない。そして、当日 火災安全副主任に与えられてきた、いかなる指示も反映していない。我々はこのアナウンスの根拠を知らない。それは、アドバイスを作ったと思われる防火副主任と、WTC複合施設の防火局長director)が、南棟の崩壊によって共に死亡したからである。しかし、別の飛行機が第二のビルに衝突するという予想は、アドバイスを与える誰の見通しも明らかに超えたものだった。最初に到着した消防隊長の一人によれば、このようなシナリオは予想不可能で「我々の意識を超える」ものだった。このアナウンスの結果、多くの民間人が彼らのフロアに止まったであろう。他の者は避難を止めて逆に上がっていった。
 同様のアドバイスが、地上階ロビーと上部スカイロビー双方にいた警備担当職員によって、個人的に行われた。地上階ロビーでは、エレベーターを降りた20名のグループが、上階に戻るよう個人的に指示された。スカイロビーでは、多くの者が下るために急行エレベーターを待っていたが、同様のアドバイスが与えられた。このアドバイスを与えた警備担当職員たちは、火災安全スタッフではなかった。数人の南棟入居者は、5WTCの港湾公社警察のデスクに電話した。幾人かは次の指示を待つようアドバイスされ、他の者は離脱するよう強くアドバイスされた。
 FDNYによる避難命令が、アナウンスを行う火災安全副主任によって受領されたかどうかは知られていない。しかし、ほぼ92 ―少なくともビルが衝突される1分前― 南棟の館内放送システムは、民間人に状況が許せば彼らは統制的避難を始めることが出来るとアドバイスしていた。それは、その場所に残るようにとの初期のアドバイスと同様、あらかじめ書かれた如何なる緊急時の協定にも相当するものでは無かった。
ニューヨーク市消防局(FDNY)の初期対応 
動員FDNYの対応は衝突後、5秒以内に始まった。900分、消防局の11名中7名の最高位の隊長(chef)を含む、多くの上級職のリーダーたち、同様に消防総監と多くの彼の副官、補佐たちが、ブルックリンの本部から対応し始めた。消防局長官と消防部長(Chief of Operation)は、出動の途上、ブルックリン・ブリッジ越しに、北棟・上層階の状況がはっきりと見えた。彼等は、火災の強さと位置がビルの頂上に近いことから、任務は何よりもまず救助になると決定した。彼らは第5警報を発令した。それは、消防車と梯子車および2隊の選抜レスキュー隊の追加をもたらすだろう。長官は、ほぼ900分に[指揮所に]到着した。FDNYの事件指揮所は、ウエストサイド・ハイウエイに移された。32名のうち22名上級隊長と消防総監が1000分前にWTCに到着していた。
900分現在、派遣された隊(unitは(本部に集合した上級隊長を含み)ほぼ235名の消防士を含んでいた。この隊は21の消防車隊と9隊の梯子車隊に加え、4組の選抜レスキュー隊、1隊の危険物処理チーム(Hazmat team)と2組の市選抜分隊(squad company)および支援スタッフが構成していた。さらに、853分には9隊のブルックリン隊が、ブルックリン‐バッテリー・トンネルのブルックリン側で、出動命令を待っていた。
作戦:ほぼ852分に大隊長と梯子車2隊、消防車2隊が北棟に到着した。彼らがロビーに入ると、[ジェット燃料の]火球の通路の中に捕らえられて激しく火傷を負った民間人に出会った。ウエスト通りレベルのロビー北西隅の床と天井の間の窓は吹き飛ばされ、大きな大理石タイルは壁から外れていた。エレベーター・シャフトの一つは全体が火球で破壊されていた。照明は機能していた。空気中には煙がなく透明だった。
この現場の最高位の職員として、当初は大隊長がFDNY事故指揮者だった。数分後に勤務中だった南マンハッタンの地区隊長が到着し、[指揮を]引き継いだ。両隊長は直ちに、火災安全主任の前任者や他のビル職員と、ビルシステムが動作しているかどうかを知るために話し始めた。彼らは、北棟の99台のエレベーターすべてが破壊したようだと報告を受けた。そして、スプリンクラーや給水パイプが上層で働いている確証も無かった。隊長たちはまた、港湾公社警察官や危機管理市長オフイス(OEM)の代表たちとも話し合った。
 ロビーで隊長たちが協議した後、857分頃、ポンプ車隊と梯子車隊の各一隊が吹抜け階段Cを、衝突地点を目標として登り始めた。偵察隊として、ロビーの隊長たちに報告するためである。彼らが使っていた無線電話チャンネルは戦術チャンネル1だった。FDNYの高層建築火災協定によれば、隊を送り出す計画を隊長たちが作り上げる前に、他の隊は上り始めないことになっていた。各隊はロビーに集まり始め、整列し、前進命令を待っていた。
 また、同じく857分頃、FDNYの隊長たちはビル職員と港湾公社警察官双方に南棟の避難を頼んだ。それは、北棟への飛行機の衝突が、複合施設全体を不安定にしているという判断からで、第2の飛行機の[衝突の]可能性のためでは無かった。
 混雑を増し始めた北棟ロビーの隊長たちは、ほとんど情報が無い中で、極限の選択を迫られていた。彼らは、隊に階段を上り、状況を報告するよう命じた。しかし彼らは、衝突を受けたフロアがどのようなものかを知らなかった;彼らは衝撃地帯へ行くクリアーな開口部が有るのかを知らなかった;そして彼らは消火活動のための水が上層階で使えるかどうかも知らなかった。彼らはまた火炎と衝撃場所が、外部からどのように見えるかも知らなかった。
しかし、彼らは知っていた。爆発は、エレベーターやロビーの窓ガラスを吹き飛ばす火球を落下させるほど十分に大きく、幾人かの上層階の民間人が、ビルから飛び降りたり落ちたりしているほど状況は悲惨なものだということを。彼らはまた、ビル職員から聞いて、何人かの民間人がエレベーターや特定のフロアに閉じ込められていることを知っていた。南部マンハッタンの地区隊長ピーター・ハイデンは述べている。「我々は消防士を失い、大きな災難に見舞われるだろうと強く予感していた。しかし我々は推定25,000から50,000の民間人の救助を試みる必要が有った」。
 隊長たちは、これは消火活動ではなく、救助活動になるだろうと結論した。一人の隊長は説明した:
 我々は飛行機の衝撃のためビルに何らかの構造的損害はあることを覚悟していた。最も有りそうな事は、ビル内の火災抑制システムが損傷を受け、操作できないことだった。・・・我々はこの日、最高時には50,000人の人々がビル内にいたことを知っていた。上層階には大量の火が有った。各フロアは約1エーカーの広さだ。火災の起きているいくつかのフロアでは、我々が手にしている消火能力を超えるだろう。そこで我々は、いち早く救助を任務とするべきだと決定した。我々はビルを空にしようとした。誰をも外に出し、それから我々も外へ出た。
彼らは80階以上の状況について殆ど情報が無かったので、任務の決定は困難だった。またFDNYの先任隊長から、構造的損傷は差し迫ったものではないが、やがてビルは上部で部分的な破壊に遭うかもしれないというアドバイスを受けていた。全体の崩壊の可能性を予期した者は誰もいなかった。
緊急医療サービス(Emergency medical servicesEMS)の職員は、WTCの周辺に4か所中の一つのトリアージ領域を設置するよう指示されていた。何人かは特定の被害者の報告に対処するためロビーに入った。さらに多くの救急医療士が、私立病院からWTC施設に駆けつけていた。
 ニューヨーク市警察(NYPD)の初期対応
 多くのNYPD警察官たちは飛行機が北棟に衝突するのを見て、直ちにNYPD通信指令係に報告した。
 858分、出勤途上にあったNYPD警察本部長は、NYPDの動員をレベル4に引き上げた。これによって、ほぼ22名の警部補と100名の巡査部長、800名の警察官が市内全域からWTCに送られた。本部長900分、「チャーチ・アンド・ヴィージー」[*]に到着した。

       *:WTC敷地外北東の交差点(訳注)

 901分、NYPDパトロールの動員地点は、高レベルの動員で送り出される多数のパトロール警察官を扱うため、「ウエスト・アンド・ヴィージー」(*)に移された。これらの警官はWTC複合施設の周辺に配置され、民間人の避難を指示するはずだった。しかし、多くの者が攻撃に関係した緊急事態に妨げられて、現場への道から外れた。
 
WTC敷地外北西の交差点(訳注
 850分、NYPDの航空隊は2機のヘリコプターをWTCに出動させた。状況の報告と屋上着陸あるいは特別救助作業の可能性の評価のためである。途中、2機のヘリコプターはエリア内の3か所の主要空港の交通管制官と交信し、民間航空機がWTCに衝突した事を告げた。管制官たちは、この事実を知らなかった。
 856分、NYPDの緊急サービス・ユニット(ESU)は、屋上からの救助を開始するため、ウオール・ストリートのヘリポートで拾い上げてもらうことが出来ないか尋ねた。しかし、858分、北棟屋上の評価を行った後、ヘリコプターのパイロットは「あまりに炎と厚い煙に巻き込まれている」ので、屋上に着陸する事はできないとESUチームに告げた。
 900分、3機目のNYPDヘリコプターがWTC複合施設に出動した。NYPDのヘリコプターとESU警察官は、朝の間 現場に止まり、もし状況が改善されれば屋上からの救出作業を開始する準備をしていた。FDNYNYPDの協定は、高所火災で屋上救助を試みる場合、FDNYの職員をNYPDのヘリに配置することを求めていた。911日には、NYPDのヘリにFDNYの職員は配置されていなかった。
 911交換手とFDNYの通信指令係は、屋上からの救出は行われない事を知らされなかった。そのため、彼らはこの事実を電話通報者に伝えることは無く、そのため通報者の何人かは屋上に行ってみると話した。
 846分[飛行機衝突時]、NYPDの警官二人が北棟の20階で勤務中だった。彼らは29階まで上って、民間人に退避を促した。しかし22階で閉じ込められた民間人には指示をしなかった。
 900分直前、ESUチームが「チャーチ・アンド・ヴィージー」から北棟のロビーに向かって歩きはじめた。ゴールに向かって昇り、重傷者用のトリアージ・センターを上層階に作ることが目的だった。第2ESUチームもそれを手伝うため、彼らに続いた。
 数多くの警官が、負傷した民間人を助けるために対応した。そして歩ける者にはこの地帯から直ちに立ち退くよう促した。落下する瓦礫に身をさらしながら、数人の警官は広場に入り、少なくとも一人の、救助されていない民間人負傷者の救出に成功した。そしてさらに別の人たちの救出を試みた。
 また9時頃から、交通警察官たちが、ワールド・トレードセンター付近の地下鉄駅の閉鎖と、これらの駅からの民間人の退去を始めた。
NYPDは、市の周辺で、WTCに向かう緊急車両のために、主要道路の通行車両の排除を始めた。NYPDPAPDはマンハッタンに入る橋とトンネルの閉鎖を共同で行った。
 港湾公社警察(PAPD)の初期対応 
 港湾公社の現場指揮警察官は、[ジェット燃料による]火球がエレベーター・シャフトから噴出し、モールの広場で爆発したとき、コンコースに立っていた。爆発は彼を退避所に飛び込ませた。勤務中の巡査部長は当初WTC隊の警官たちに、5WTCビルの警官デスクに集合するよう指示した。しかし、すぐ後で彼はWTC以外の隊から来た警官たちに、北棟ロビーの防火デスクに集合するよう指示した。外部の隊の少数の警官には、WTC隊の無線電話が与えられた
 WTCにいた港湾公社警察官の一人は、直ちに北棟のC階段開口部を登り始めた。他の警官たちは、地上階とWTC複合施設の下の地下鉄:PATHPort Authority Trans-Hudson)駅で救助と避難活動を始めた。
 衝突後数分以内に、PATH,橋、トンネル、空港の各隊の港湾公社警察官たちは、WTCに対応を始めた。PAPDは、WTCの大きな事故に集まってきた、外部の隊の警察官のための標準作業手順書を持っていなかった。さらに、あるPAPD隊の警官の無線電話は、相互通信できる周波数を持っていなかった。その結果、PAPD全体の対応としての包括的な協力は無かった。
 900分、WTCPAPD指揮警察官は、ワールド・トレードセンター複合施設内のすべての民間人の避難を指示した。これは北棟の被害強度からの指示であった。この指示はWTC警官用無線電話のチャンネルW上で与えられたが、南棟の防火副主任に聞かれることは無かった。
 ほぼ900分、PAPDの警視監と警察本部長がそれぞれ到着し、北棟に向かった。
危機管理オフイス(OEM)の初期対応 
 847分、WTC7ビル ―それは北棟の真北にあった― 23階のOEM本部は、関係部局 FDNYNYPD,保健局、大病院協会など― に電話することによって活動を開始した。そして、決められた代表者をOEMに送るよう指示した。加えて連邦緊急事態管理局FEMA)にも電話し、少なくとも5組の都市捜索救援チーム(このようなチームは合衆国中に配置されている)を送れないかと尋ねた。ほぼ850分にOEMの上級代表が北棟のロビーに到着し、事故に対するOEMの現場対応者として活動を始めた。彼はすぐにOEM局長(directr)を含む他の数人のOEM職員と合同した。
要約 
  911日の午前846分から903分にいたる17分間で、ニューヨーク市とニューヨーク・ニュージャージー港湾公社は市の歴史上、最大の救助作業を展開した。千人を超す第一対応者が動員され、退避が始まった。そして火災は鎮圧できないという極限の決定がなされた。
 次いで第二の飛行機が衝突した。
9時3分から9時59分まで  
 9311秒、ハイジャックされたユナイテッド航空175便が、WTC2ビル(南棟)南側の77階から85階の間に衝突した。市の歴史上、最大で最も込み入った救助作業は直ちに二倍の大きさとなった。[第二の]飛行機はビルに衝突するとき傾いたので、ビルの衝突したフロアに損害を受けない部分を残した。その結果 ―北棟の状況とは対照的に― 一つの吹き抜け階段(A)が、当初少なくとも91階から下へ、おそらくは頂上から底部へ通過可能な状態で残った。
民間人、火災安全職員、911電話
南棟.衝突の最低部、78階のスカイロビーでは、飛行機が衝突したとき数百人が避難を待っていた。多くの者は、満杯の急行エレベーターに割り込もうとして失敗していた。衝突によって、多くの者が殺され、または深刻な傷を受けた;割合に無傷の者もいた。我々は少なくとも一人の民間人が主導して、歩ける者は階段を歩き、可能な者は助けが必要な者を助けろと叫んでいた事を知っている。その結果少なくとも二つの小さな民間人のグループがその階から降りていった。他の者は負傷者を助け、また動けるが階段を歩くことの出来ない犠牲者を救護するため、そのフロアに残った。
 78階以上の衝撃領域にも、なお生き残った者がいた。損傷は大規模で、状況は高度に危険だった。衝突領域の中心から逃れた唯一の生存者が81 ―飛行機の翼が彼の職場を切り裂いた― の記述をしている。そこではすべての物が「破砕」され、ジェット燃料の臭いで呼吸できないほど強い「破壊地帯」だったと書いている。この人物は、上階から降りてきた民間火災管理者に助けられ、稀有の救助を得て逃れた。彼は注意深くフラッシュライトを準備していた。
 少なくとも4人が81階あるいはそれ以上の階から、吹き抜け階段Aを降りることができた。一人はビルが衝突されてすぐ、84階を離れた。このときでも、階段は暗く煙っていて通過が難しかったが、階段と手摺りの光反射帯が重要な助けとなった。何人かは駆け降りた。しかし、避難者は防煙ドアに達したとき、階段が終わったと信じて混乱した。だが、彼はその吹き抜け階段を出て、他の階段に移動することが出来た。
 衝突部分あるいはその上にいた多くの民間人が階段を上った。小さな1グループは階段を下っていたが、彼らは「燃焼中」のフロアに近付いていると他の民間人に言われて、方向を逆にした。知られている唯一の生還者は、彼らの意図は、きれいな空気を求めて吹き抜け階段を出ることだったと我々に話した。91階で損傷を受けた階の人々と合流し、彼らは吹き抜け階段に閉じ込められたことを自覚して再び降り始めた。そのとき、吹き抜け階段は「かなり暗い」状態だった。強くなる煙が、多くの者を失神させた。82階では乗換ホールに炎が移ってきていた。
 他の人たちは屋根に行き着こうとして上ったが、施錠されたドアに妨げられた。930分ごろ、「鍵解除」指令 ―この指令は、ビルコンピューター化安全システムによって管理されている複合施設全域の鍵を開くもので、そこには屋上へ通じるドアも含まれていた― が北棟22階に位置する安全指揮センターから伝えられた。だが、飛行機の衝突の結果生じた、システムのソフトウエア制御の損傷がこの指令の実行を妨げた。
 降下を試みた他の者は、吹き抜け階段の中の混雑とロックされたドアにいらいらし、また吹き抜け階段の屈曲した構造に混乱させられていた。しかし70階台以下では吹き抜け階段のABはよく照明され、環境は一般に正常だった。いくらかの民間人は損害を受けたフロアに残っていた。そして少なくとも一人が仲間の避難を助けるため、あるいは負傷者を手伝うために、衝突部に登っていった。
 衝突15分以内に、邪魔な煙が100階の少なくともある場所に達した。そして厳しい煙の状況は、90階台から100階台の各所から、引き続く半時間の間、報告された。
 930分、屋上に到達することに失敗した多くの民間人が105階に残っていた。吹き抜け階段の強くなる煙のため、降りることも不可能だった。その階には、すさまじい煙があったとの報告がある。しかし少なくとも一つの領域が、ビル崩壊の直前まで、殆ど影響されずに残っていた。衝突部と最上階との間で、やや状況が良い幾つかの領域が有った。88階と89階には少なくとも100人の人々が生き残っていた。あるものは911に電話し、指示を求めた。
 911システムは、交換手が、進行している事態の認識を欠いたために、困難な状況にあった。北棟の場合と同様、衝撃部の上下の通報者は、彼らのいる場所に残って救助を待つようにアドバイスされた。交換手たちは、屋上からの救助が実施不可能なことについて何の情報も与えられていなかった。したがって、通報者に彼らが本質的に[救助の]対象外だと言うことをアドバイスできなかった。この情報の欠落は、彼らが居る場所に残れという一般的アドバイスと結びついて、衝突部より上の民間人には吹き抜け階段Aを通過する可能性が有ったのに、降下を試みない事態を引き起こしたかもしれない。
 これに加えて、911システムは通報の多さと、牢固な標準操作手順と戦っていた。その手順によれば、重要な情報を伝える電話は、EMS[*]またはFDNYの通信指令係に転送されるのを待たねばならなかった。衝撃部分の中心から吹き抜け階段Aを通って避難してきた民間人の一人は、31階で911に電話するために立ち止まった。
  *:緊急医療サービス(Emergency Medical Services)
 「彼らが電話に出たとき、私は、彼らに私がどこにいるかを話しました。それは私が44階で誰か判らないが負傷者を通り越したが、彼らは医者とストレッチャーを必要としていると状況を簡潔に話しました。相手は私の電話番号その他をいろいろと尋ねました。そして彼らは、私との通話を維持しておかねばならない「あなたは私の上司に話してほしい」と言いました。そして不意にそのまま待機状態になり、かなりの時間、私は待ちました。誰かが電話に帰ってきて、私は話を繰り返し、そしてまた同じことが起きました。私は2回目の待機をしたのち、同じ話の3回目を繰り返す必要があったのです。しかし私は第三の男に、私はただ一度だけあなたに話す。私はビルを出ようとしている。ここに詳細がある。それを書きとれ。そしてあなたは、しなければならないことをしろと言いました。」
 衝撃部の下の階からの911電話は殆ど無い。しかし少なくとも一人が、酸素が無くなっているという抗議にかかわらず,73階に残るようアドバイスされていた。この位置からの最後の911電話は、952分に来た。
 証拠は、ビルが衝突された後は館内放送システムは機能しなかったことを示している。しかし、97階に閉じ込められたグループは、911電話の中で繰り返し「アナウンス」は階段を降りろと言っていると引用している。退避の音声は、衝突部の上でも下でも聞かれている。
 935分、南棟のウエスト通りレベルのロビーは、ロビーに降りてきたが、そこから進むのが難しい負傷者で覆われ始めた。[歩き]続けることが出来る者は、コンコースを通って北または東出口から出て、WTC複合施設の外に出るよう指示された。
 959分、少なくとも一人の人物が、91階から降りてきた。また、吹き抜け階段Aは殆どカラだと報告されていた。吹き抜け階段Bは、朝の早い時期と同じように、一握りの降下中の民間人が入っていると報告されていた。しかしタワー崩壊の直前、NYPDESU警察官は、20階台の[呼称が]確認されていない吹き抜け階段を降下する民間人の流れに遭遇した。これらの民間人は、衝突部分かその上から降りてきたのかも知れない。
    
北棟:北棟の中では、民間人が退避を続けていた。91階は、吹き抜け階段で近付ける最上階だが、一人を除き、すべての民間人が無傷で降りることが出来た。幾人かは煙や熱、刺激臭それに吹き抜け階段の混雑に不満を漏らしたが、状況は衝突階の下までは かなり正常だった。少なくとも一つの吹き抜け階段は80階台上部から下は「透明で明るい」状態だったと報告されている。衝突部の下の階から911に電話したものは、一般にその場に残るようアドバイスされていた。83階に閉じ込められた1グループは、火災は彼らの上か下かを知ろうと、繰り返し懇願し、特に911交換手が、外部あるいはニュースから、なにか情報を持っていないかを尋ねた。電話通報者は前後に数回、たらい回しにされた後、結局そのまま止まるようにアドバイスされた。証拠は、これらの通報者は死んだことを示している。
 859分、ニューアーク空港の港湾公社警官デスクは、第3パーティーに、64階にいる港湾公社の民間人雇用員のグループは退避するべきだと話した。(第3パーティーはWTCにはいなかったが、64階のグループと電話での接触を持っていた) 919分、64階の雇用員自身からの質問に応答して、ジャージー・シティーの港湾公社警察デスクは、「注意して、吹き抜け階段のそばに止まり、警官が昇って来るのを待つ」ように確認した。931分、第3パーティーが再度尋ねると、ニューアーク空港の警察デスクは彼らに「無条件」の退避をアドバイスした。第3パーティーは、雇用員たちはFDNYから逆のアドバイスを受けたと告げた。それは単に911を通じて来たものであろう。これらの雇用員たちは、多くの他の上層階のと違って、閉じ込められてはいなかった。彼らは衝突直後、ただちに下ることを選ばなかった。彼らは結局階段を降り始めたが、その大部分は北棟の崩壊によって死んだ。
 ロビーに達した民間人はNYPDPAPDの警察官によってコンコースに行くよう指示された。そこでは他の警察官が、落ちてくる瓦礫や犠牲者を避けて、彼らが北と東の出口からコンコースを出て、さらに複合施設を出るように誘導した。
 955分、僅かな民間人が25階の吹き抜け階段Bの中を下っていた。その先頭は負傷者、障害者、老人、あるいは体重過多の民間人だった。ある場合には他の民間人に助けられていた。
 959分、91階のテナントが階段を下ってコンコースに出てきた。しかし多数の民間人が吹き抜け階段Cの中に残っており、低層階に近づきつつあった。別の避難者は、初期には道路に落下する瓦礫によって殺された。

 FDNYの対応 
動員の増加 2機目の飛行機の衝突直後、消防局長官は2回目の第5警報を発令した
 915分、出動途上、および現場にいたFDNYの署員の数は、現場の指揮隊長たちの要求より、はるかに多かった。この違いは五つの要素が原因だった。第一に、2回目の第5警報は消防車20輌、梯子車8輌の隊を召集するものだが、実際は消防車23、梯子車13輌の隊が出動した。第二に数隊が自己の判断で出動した、第三に、攻撃がちょうど勤務が交代する9時前後だったため、「明け」の消防士が隊の上司から超過勤務の許可を与えられ、次の勤務シフトの一部となって、その隊の指揮下に入った。第四に、多くの非番の消防士が、当直の隊とは別の消防署から(多くの場合そうしないようはっきりと言われていたのだが)あるいは家庭から対応した。このような過剰な出動人員の到着は、特にエリート隊で顕著だった。第五に、多くの特別なFDNYの人たち ―管理的立場にある消防士長や消防士など― である。彼らはWTCに報告されている事前に決定された役割には入っていなかった。
反復システムRepeater System) 南棟が衝突された直後、FDNY上級隊長たちが、二つのタワーでの作戦戦略を討議するため、北棟のロビーに集まった。隊長たちの特別の関心は、1993年の爆破へのFDNYの対応の困難に照らして、通信能力についてだった。一人の隊長が、反復チャンネルの動作確認テストを忠告した。
 早くからFDNY隊長は、ビル職員に、反復チャンネルを起動させたかを尋ねていた。それは、高層階で、FDNY携帯無線電話の通信を大幅に強化するはずだった。北棟の操作盤にある反復システムの一つのボタンは、854分に押されていた。誰によってかは明らかでない。この操作により、反復チャンネル上でFDNY携帯無線電話間の交信が可能となった。さらに、防火デスク上の反復マスター送受話器によって、反復チャンネル上のFDNY携帯無線電話の交信を聞くことができる。しかし、マスター送受話器の交信開始には、第二のボタンが押される必用があった。この第二ボタンは、911日の朝、押される事は無かった。
 95分、FDNYの隊長はWTC複合施設の反復システムのテストを行った。第二ボタンが押されていなかったため、マスター送受話器上の隊長は、明らかに送信出来なかった。彼はまた、彼と携帯無線電話で交信しようとしている他の隊長を聞くことが出来なかった。それは技術上の問題か、操作盤上のボリュームが低かった(システムを使用しない時の定常状態)かのいずれかの理由だろう。反復チャンネルは操作できないと見なされた ―マスター送受信器が作動しない― ため、北棟ロビーの隊長たちはそれを使わないことに決めた。しかし、反復システムは部分的には働いていた。FDNYの携帯無線電話、また南棟の消防士が後に使った反復第七チャンネルである。
FDNYの北棟作戦.指揮と統制の決定は、30, 60, 90, 100階で何が起きているかの知識の不足により影響を受けた。ロビーにいた隊長の一人によれば、「このような大きな作戦に最も重要なものは、情報を持つことだ。我々には多くの情報は入ってこなかった。我々はNYPDのヘリコプターから何が見えるかについて、なんの報告も受けていない。上層階がどの程度の損傷を受けたか、吹き抜け階段が無傷かどうかなどを知る事は不可能だ」他の隊長は言う。「テレビを見ている人々は、我々の上の100階で何が起きているかを、ロビーにいる我々より知っている・・・。入ってくる重要な情報がないのに・・・重要な決定を通告することはとても難しい」。
 その結果、衝突部またはその上で誰かが救助される可能性があるか、また燃焼部を通って脱出路を切り開くために、部分的な消火活動が必要かなどについて、ロビーの隊長たちは意見が一致しなかった。
 多くの隊は単に衝突部に向かって上り、無線電話を通じてロビーに報告するよう指示されていた。一部の隊は、衝突部の充分下で、エレベーターやオフイスに閉じ込められた指定された個々のグループを助けるよう指示されていた。あるFDNYの隊は、最初の火球による損傷の結果として22階に閉じ込められていた民間人たちを救出することに成功した。

 マグネット盤上で、対応中の隊を追跡する試みがなされた。しかし、多くの隊と個人の消防士がロビーに到着し始め、この試みを目茶苦茶にした。消防車隊は特に指示を受けなかったので、協定に従って彼らの無線電話を戦術チャンネル1に保っていた。そのチャンネルはロビーの隊長に傍受されるはずだった。上ろうとする大隊長たちは別の指揮チャンネルを扱っていた。これもロビーの隊長に傍受されるはずだった。
 907分頃、消防車隊は吹き抜け階段Bを上り始めた。彼らは、100ポンドの重い防護服と、自己完結型の呼吸装置その他の装置(消防車隊はホース、梯子車隊は重い機材を含む)を担っていた。
 消防士たちは、彼らが入った吹き抜け階段は無傷で、照明され、煙も無いことを発見した。ロビーの指揮所には知られていなかったが、北棟の大隊長は動いているエレベーターを発見し、それによって上りだす前に
16階まで行った。
 吹き抜け階段Bを上るにつれ、消防士たちは、降りてくる民間人の安定した大きな流れとすれ違った。消防士たちは、殆どすべての民間人によって示された落ち着きと、全体にパニックが無いことに感銘をうけた。多くの民間人は消防士たちを敬い、その存在だけで彼らを落ち着かせていることに気付いた。
 消防士たちは、特定の階ごとに周期的に停止し、そこに民間人が残っていないかを確認するために探した。僅かではあるが、健康な民間人が発見された。彼らは個人的な品物を集めているか、あるいはなんの理由も無くそうしていた;彼らは直ちに退避するよう告げられた。消防士たちは、もがいている人や負傷者の面倒を見ている健康な民間人と交代した。
 重い防護服と装備をつけて階段を登ることは、身体的に健全な消防士にとっても大変な仕事だった。消防士たちは、異なるレベルの疲労を経験したため、同じ隊の中で、ある者は他の者と離れ始めた。
 932分、上級隊長は北棟の中のすべての隊に、ロビーに戻るよう無線電話で伝えた。それは、第三の飛行機が接近しているとの誤った情報、あるいはビルの劣化した状態についての彼の判断によるものだった。第三の飛行機について、うわさが誤りと判明したため、他の隊長たちは作業を続けた。そしてどの隊も実際にロビーに戻った証拠は無い。同じ時にロビーの隊長は屋上からの救助の可能性についての見解を尋ねられたが、FDNYの通信指令担当者には無線も電話も通じなかった。しかし、ウエスト通り上にいた消防局長官は、いかなる屋上からの救助も不可能だとして、すでに[その考えを]捨てていた。
 隊が高く登るにつれて、戦術チャンネル1上での隊長との通信能力は、より限られたものとなり、とぎれ勝ちとなった。それは、高層階でのFDNYの無線電話の限られた効力と、多くの隊が戦術チャンネル1上で同時に交信しようとしたためだった。ロビーの隊長は個々の隊に通信しようとしたとき、しばしば何の応答も聞けなかった。
 1000分直前、北棟では一つの梯子車隊が54階まで昇った。少なくとも消防士の他の2隊が44階のスカイロビーに達していた。そして多くの隊が5階から37階の間に配置されていた。
 FDNY 南棟およびマリオット・ホテル作戦 反復システムのテストを終えた直後、上級隊長と大隊長は南棟ロビーで作業を開始した。殆ど同時に彼らはOEMの現場対応者と合流した。しかし、彼らは大きな数の消防隊と直ちに合同することは無かった。903分に北棟ロビーにいたか、[北棟に]向かっていた隊が南棟に再配置される事は無かったからだ。
 大隊長と梯子車隊は、40階まで動いているエレベーターを発見し、そこから吹き抜け階段Bを上り始めた。その後すぐに他の梯子車隊が到着した。そして1階と2階の間で、エベーターに閉じ込められた民間人の救助を始めた。ロビーの上級隊長は、南棟作戦のために、初期に配置できる隊の不足について、不満を表明した。
 北棟の指揮者たちと異なり、ロビーの上級隊長と上っている大隊長は、無線電話を反復チャンネル7に合わせていた。作戦の最初の15分は、彼らと、大隊長と一緒に昇っている梯子車隊との通信は良く動作した。隊の保安係(security official)から、衝突ゾーンは78階から始まると聞いて、梯子車隊はこの情報を中継した。大隊長は40階にいた消防車隊に、上の階まで行けるエレベーターを探すよう指示した。
 我々の知る限りでは、南棟の外にいたFDNYの隊長で、反復チャンネルが機能しており、またタワー内の隊で使われたと認識したものはいない。南棟ロビーの上級隊長は、初めのうち、より多くの隊を[回せ]という要求を、北棟ロビーの隊長にも、屋外の指揮所の隊長にも伝えることが出来なかった。
 ほぼ921分頃、ロビーの上級隊長が反復チャンネル7での交信を止めたため、上っていた大隊長は南棟ロビーの指揮所に送信できなくなった。南棟の中の大多数の隊が、反復チャンネル上で交信できなくなった。
 この日、最初のFDNYの災難は、9時30分に起きた。ウエスト・アンド・リバティー通り交差点[敷地外南西部]の近くで、飛び降りた民間人が消防隊員を殺した。
 930分、南棟[ロビー]で任務についていた隊長はまだ追加の隊を必要としていた。いくつかの要素が応答の遅れの原因となった。第1903分より前に北棟に派遣されていた隊の内、直ちに南棟に向かったのはただ2隊だと伝えられている。第2に消防局長官が彼らの派遣を命令するまで、約5分の間、隊は実際には送られなかった。第3853分に「ブルックリン-バッテリー・トンネル」 WTC複合施設に非常に近い― に集結するよう命令された隊は、飛行機が南棟に衝突するまで出発しなかった。第4に、ウエスト・ストリートのはるか北に駐車した隊は、南に徒歩で進み、ウエスト通り上のFDNY総合指揮所で止められた。そこで、ある場合には彼らは待機を指示された。第5にいくつかの隊は[誤って]直接北棟に対応した。(実際、無線電話交信は、ある場合には消防隊員たちが南棟は1WTCだと信じていたことを示している。実際には南棟は2WTCだった)第6に、いくつかの隊は(リバティー通り上、ウエスト通り南の[WTC敷地外南西部])南棟に対する集結場所を発見できなかった。結局、南棟にリバティー通りの主玄関から入ろうと試みた隊は、飛び降りと瓦礫に直面して、このタワーに入る回り道を探すことになり、大部分はマリオット・ホテルから入り、または単にウエスト通りに残った。
 屋外の総合指揮所の一人の隊長は、彼が南棟ロビーの作戦を助けなければと感じていた。実際に、彼の副官は既に援助のためにロビーにいた。しかしWTC複合施設に詳しくなかったため、どのようにそこに行くかで困惑し、彼は935分頃マリオットで終わりにした。ここで彼は偶然14の隊と出会った。その多くは南棟への安全な接近路を見つけようとしていた。彼はエレベーターを確保するよう指示し、マリオットの上部階で捜索と救助作業を指揮した。四隊(companies)がホテル最上階 22階― の風呂で民間人を探したが、誰も見つけられなかった。
 マリオットでの作戦の見通しに満足を感じながら、そこのロビーにいた隊長はいくつかの隊に彼が南棟だと思う方へ進むように指示した。彼は、実際には北棟を指示していた。マリオットから北棟に来たFDNY3中隊は、ロビー南端の銀行で動いているエレベーターを発見し、それにより23階に上がった。
 南棟での隊の不足に対応して、937分、追加の第2警報がウエスト・アンド・リバティー通りの集結地点の隊長によって要求された。この時、当初「ブルックリン‐バッテリー・トンネル」のブルックリン側に集結していた隊は、南棟に向けて出発した。幾人かはすでにトンネルを抜け、南棟ではなくマリオットで対応していた。
 945分から958分の間、上り続けていた大隊長は、FDNYの作戦を南棟の上部で指揮していた。950分、FDNY梯子車隊は、70階で多くの重傷の民間人に遭遇した。警備員の援助の下に、95378階のスカイロビーのエレベーターに閉じ込められていた民間人がFDNY隊によって発見された。彼らは、958分エレベーターから解放された。このとき、大隊長は吹き抜け階段A78階に達していた。彼は、79階の床は衝突部に向かって開け放されたように見えると報告した。衝突部の穴であった。彼はまた多くの民間人の死者があると報告した。
タワー外部でのFDNYの指揮と統制.総合指揮所は上級隊長、消防総監(コミッショナー)、現場交信用バン(フィールドコム)、南棟衝突後に到着した多くの隊、および緊急医療サービス(EMS)の隊長と隊員で構成されていた。フィールドコムの二つの主要機能は、すべての指揮所とFDNY通信指令係の間で情報を中継し、また現在活動中の全隊を追跡して、大きなマグネット板上に表示することだった。これら二つの任務は、911日の惨事の強度によって著しく損なわれた。第一に、情報交信手段は信頼できないものだった。たとえば、FDNY通信指令係は、フィールドコムに911[電話]経由の報告として、北棟105階に100人が閉じ込められていると通知した。そしてフィールドコムはこの報告を屋外の指揮所にいる隊長に伝達しようとしたが、この情報は北棟のロビー[現場指揮所]には届かなかった。第二に、どの隊がどこで作戦をしているかを追跡するフィールドコムの能力は限られていた。なぜなら多くの隊が直接、北棟、南棟、マリオット[のロビーにある現場指揮所]に報告したからである。第三に、戦術チャンネル1を聞くことで隊を追跡する取組みは、多くの隊がそのチャンネルを使うことで妨害された。多くの人が同時に話そうとしたため、送信が重なり、時には解読できなかった。フィールドコム・グループのメンバーの一人の意見では、戦術チャンネルは、その朝のような多くの隊の作戦を扱うようには設計されていなかった。
 本来のフィールドコム・バンはNYPDの「特別作作業チャンネル」(NYPD飛行隊が使用)と通信できた。しかし、その車輛は修理のため、911日には車庫にあった。代替車その機能は無かった。
 消防局長官は、民間人の消防総監、EMS上級隊長と協力して、ウエスト通り上で民間人負傷者の病院への搬送を促進するため、救護所を開設した。 
 我々が知る範囲では、両方のタワーの完全な崩壊の可能性を信じた隊長は誰もいない。一人の上級隊長は、上層部は2ないし3時間で崩壊し始めるかもしれないと懸念し、したがって消防士たちは60階台より上に昇るべきでないと明言していた。この意見は北棟ロビーの隊長には伝えられなかった。そして、南棟ロビーの隊長に伝えられた証拠もまた無い。
 消防局長官は作業全体の権威者であったが、戦術的決定はロビーの指揮者の領域であった。北棟の最高位の士官は消防局長官と連絡する責任があった。彼らは2回の簡単な会話をした。最初に、ロビーの上級隊長は、長官に状況を報告し、この作業は消火ではなく救急だということを確認した。945分、二回目の会話では、長官は北棟の状況を彼がどう見ているかについて話した。ロビーの上級隊長はFDNYの人員の退避を望んでいたと思われる。
 946分、長官は追加の第5警戒を発令し、954分には追加の20台の消防車と6台の梯子車中隊がWTCに送られた。その結果、全FDNYの三分の一の隊がWTCに向けて配車された。957分頃、一人のEMSの救命医療士が長官に近づき、7WTCの前にいる技術者が、ツインタワーは差し迫った完全な崩壊の危機にあると、今、気付いたと忠告した。
 NYPDの対応
 第二の飛行機の衝突後、NYPD
警察本部長は、直ちに二回目のレベル4動員を指令した。これはNYPD署員の2,000名に近い対応をもたらした。また、NYPD本部長は市内の重要な施設の保護を要求するオメガ作戦を命じた。NYPD本部の警備は強化され、すべての政府ビルは避難によりカラにされた。
 チャーチ・アンド・ヴィージーにあるESU(緊急サービス・ユニット指揮所は、すべてのNYPDESUチームを管理した。南棟が突入された後、指揮所を運用していたESU警察官は、各ツインタワーに吹き抜け階段を上るESUチーム(1チームはおよそ6名の警察官よりなる)を送ることに決めた。彼は、全市の特別作戦部(SOD)チャンネル ―NYPDのヘリも使っている― をモニターしながら、タワーを上っているESUチームが使う二点間戦術チャンネルもモニターしていた。
 最初のNPYDESUチームは、ウエスト通りレベルのロビーから北棟に入り、午前915分には上り始める準備ができた。彼らはそこにいたFDNY隊長に登録しようとしたが、拒否された。OEM危機管理市長オフイスの現場対応員は妨害しなかった。ESUチームは階段を登り始めた。前後して第二のNYPDESUチームが南棟に入った。そこにいたOEMの現場対応員は、彼らがロビーで任務についていたFDNY隊長に登録したことを確認し、ESUチームが上って、FDNYの人たちを支援することに同意した。
 第三のESUチームは引き続きエレベーター用の中2階レベルから北棟に入った。そしてFDNY指揮所での登録に問題はなかった。第四のESUチームは南棟に入った。959分、第五のESUチームは6WTCに隣接して、北棟に入る準備をした。
 ほぼ950分、先頭のESUチームは31階に達し、もう降りてくる民間人はいないようだと観察した。このESUチームは消防士の大グループと遭遇し、疲労している何人かに酸素吸入を行った。
 956分頃、チャーチ・アンド・ヴィージーESU指揮所を運用している警官が、南棟のESUチームと最後の無線電話交信をした。そしてそのチームは20階台の階段を上っているが、多数の民間人が階段を下りて来る混雑のために、前進は遅いと言っていた。
 3人の簡易な服のNYPD警官が無線電話や保護用具なしに北棟の吹き抜け階段AまたはCを上りだした。彼らは、12階以上の一つ置きの階で民間人をチェックし始めた。時折彼らは誰かを発見し、その民間人に直ちに避難するよう命令した。各階をチェックする間、彼らは上司との連絡にオフイスの電話を使った。一度電話したとき、NYPD隊長は北棟を離れるよう指示した。しかし彼らはそれを拒否した。上るにつれて、彼らは増加する煙と熱に遭遇した。10時少し前、彼らは54階に達した。
 この時期(93分から同59分)を通して、NYPDと港湾公社警察官、同じく二人のシークレット・サービス職員は民間人が北棟を離れることを助け続けた。彼らは、北棟の中二階ロビーを周るように配置され、吹き抜け階段AおよびCを離れてくる民間人にエスカレーターを下り、コンコースに向かうよう指示した(*)。警官たちは、落ち着いているように見えるこれら民間人を、静かにかつ速やかに複合施設から避難させるよう指示されていた。階段には、負傷したり、疲労により階段で足を骨折した民間人がいた。警官たちは彼らがビルの外に出るのを助けた。
 (*)中二階から、直接外(プラザ)に出ることも出来たが、落下物などが有り危険なため、プラザの下のコンコースを通ってWTC敷地外に出るコースが安全な避難路だった。ところが、  中二階は二本の避難階段の終点だったにもかかわらず、コンコースへ降りるエスカレーターは一基しかなかった。このため、中二階では大渋滞が発生し、階段の中まで続く状態となった。  (訳者註) 
 民間人がコンコースに到達すると、エスカレーターの下部に配置された他の警察官が北と東へ通じるコンコースを通って、WTC複合施設を出るよう指示した。この出口ルートは、ウエスト通りやタワー間の広場あるいはリバティー通りで、瓦礫や人の落下による危険から確実に民間人を護った。
 何人かの警官は、5WTC脇のコンコースに降りて行く一連の階段上部に立ち、必要な時には負傷者や方向を失った民間人をコンコースへ導いた。多くの他のNYPD警官たちはコンコースを通じて配置され、火傷した者や負傷者、方向を失った民間人を助け、立ち退くすべての民間人と同様に北と東へ出るよう指示した。NYPD警官は、南棟ロビーにもいて、民間人の避難を助けた。また、NYPD警官はウエスト通りとチャーチ通りの間のヴィージー通りにも配置され、民間人がエリア内に残ることなく、北に向かうように説得した。
 96分、NYPD警察本部長は、いかなる隊も、両タワーの屋上に着陸してはいけないと指示した。930分、ヘリコプターの1機は屋上からの避難は現在も可能性がないと意見を述べた。一人のNYPDヘリコプターのパイロットは、北棟の屋上の一部は煙が無く、救助のための引き上げ索を降ろすことができるだろうと考えたが、そこには誰もいなかった。このパイロットはタワーの上で直接ホバリングすることは無かった。他のヘリコプターはそれを試みたが、そのパイロットは、北棟のジェット燃料の炎による熱の激しさから、救助のために十分低い位置でホバリングするのは不可能だろうと告げた。高い熱はヘリを不安定にするからだ。
 951分、飛行隊は、大きな瓦礫がビルから垂れ下がっていると[地上の]隊に警告した。959分より前に、NYPDヘリコプターのパイロットは、誰も両タワーの崩壊を予測できなかった。
911電話とNYPD作戦の相互作用.937分、南棟106階にいた民間人が、911交換手に下の床 90何階か― が壊れつつあると報告した。この情報は、やや不正確に911交換手からNYPD通信指令係に伝えられた。通信指令係は、952分、911電話の内容を、WTC複合施設のNYPD警官にさらに混乱して伝えた。「106階の床が崩壊している」。911電話の15分後だった。このNYPD 通信指令係は、このメッセージを、WTC周辺の管区で使われる無線周波数と、続いて「特別作戦部」チャンネルで伝達したが、全市域のチャンネル1では伝えなかった。

港湾公社警察(PAPD)の対応 
 PAPDの外部[WTC隊以外]からの初期対応者たちは、5WTCの警察デスク、あるいは北棟ロビーの防火デスクに向かった。ある警官たちは吹き抜け階段の避難を手伝うよう割り当てられ、他の者は広場、コンコース、PATH駅の退避の促進を割り当てられた。民間人が北棟の地上階以上で閉じ込められているとの情報があったので、別のPAPD警官は救助のためこれらのフロアに上るように指示された。さらに他の者は、衝突部に向かって上り始めた。
 911分、PAPDの警視監(Superintendent)と警視は、北棟の吹き抜け階段Bを、衝突部とその付近の損傷を評価するために昇り始めた。PAPDの隊長と数人の警官が106階のレストラン「世界の窓」に到達しようと吹抜け階段を上り始めた。そこには少なくとも100人が閉じ込められているとの報告がPAPDの警察デスクに来ていた。
 異なる隊から来た多くのPAPD警察官が、自身の判断で対応していた。930分、PAPD本部のデスクは、対応した警官たちに、ウエスト・アンド・ヴィージー[WTC西北交差点]に集まり、その後の指示を待つよう要請した。このような強度の事件を扱う、あらかじめ定められた指揮系統がなかったため、930分頃、多くのPAPDの警視、警部、警部補などが現場対応計画の作成を始めた。彼らは何人の警官が現場で対応しているか、またこれらの警官がどこで作業をしているかを知らなかったので、動きが取れなかった。この指揮所で対応している警官はWTC複合施設に入るための十分な保護具を持っていなかった。
 958分、一人のPAPD警官が北棟44階のスカイロビーに到達した。北棟にはPAPD警官の一チームが20階台の中間に、他のチームが20階台の下部にいた。また多くのPAPD警官が南棟を上りつつあった。そこにはPAPDESUチームも含まれていた。多くのPAPD警官は複合施設の地上階にいた―あるものは退避を手助けし、他の者は5WTCPAPDデスクを手伝い、またロビーの指揮所を助けていた。
危機管理オフイス(OEM)の対応 
 南棟が突入された後、OEMの上級管理者は、すべての民間人を7WTCから避難させたが、その後も「掩蔽壕」(bunker(*)に残って、作戦の指揮を継続することを決めた。ほぼ930分、OEMの上級管理者は7WTCからの退避を命令した。そこにいたシークレット・サービスが、追加の[ハイジャックされた]民間航空機は報告されていないと告げた後のことだった。避難に先立って、OEMに到着した外部官庁の連絡員はいなかった。OEMの現場対応員は各タワーのロビー、FDNYの総合指揮所、及び少なくともある時期、チャーチ・アンド・ヴィージーのNYPD指揮所に配置されていた。   (*)航空機、船舶などを、爆弾等から守るコンクリートなどの覆いのこと。7ビルを比喩的に表した。(訳注)
まとめ  
 緊急対応の取り組みは、ユナイテッド175便の南棟への衝突によって増大した。これによって、指揮と統制と同様、連絡も限界的となり、困難さを増した。対応している部局の指揮者は、他の部局が何をしているのかを知らず、時には自身の部局の対応者が何をしているかも知らなかった。それにもかかわらず、第一対応者は、数千名の民間人のタワーからの退避を助けた。

9時59分から午前10時28分
 
 95859秒、南棟は10秒で崩壊し、内部のすべての民間人と緊急対応要員を殺した。また同様にコンコースやマリオット、そして隣接する道路にいた多くの人々、第一対応者と民間人を殺した。ビルはそれ自体の内側に向けて崩壊して、凶暴な嵐を引き起こし、瓦礫の塊の雲を作り出した。マリオット・ホテルは南棟の崩壊によって著しい損傷を受けた。
北棟における民間人の対応 
 北棟から送られたと推定される911電話は、時間がたつにつれて絶望的なものとなっていった。遅くとも1028分には、人々は92階と78階を含むいろいろな場所で生き残っていた。突入部の下では体力的、心理的に下ることが可能な大部分の民間人は、タワーを脱出したようだった。吹き抜け階段Cの下部に近付いていた民間人は、NYPDFDNYおよびPAPDの人たちの助けを借りてビルの外に出た。低層階で避難が困難だった者は緊急対応者によって助け出された。

FDNYの対応 
南タワーの崩壊による直接の衝撃.FDNYの全体指揮所および北棟ロビー、マリオット・ロビーの指揮所、およびウエスト通り南・リバティー[交差点]の集結地点は、南棟の崩壊によってすべての活動を停止した。EMSの待機所も同様だった。それはビルにあまりに近かったためである。
 北棟ロビーにいたものは、南棟の完全な崩壊を知る方法が無かった。ウエスト通り西側の全体指揮所から逃れた隊長たちは、第2ワールド・フィナンシャルセンター[*]の地下駐車場を避難所とした。だが、引き続く10分間程はFDNYの作戦に関与できなかった。
  
*:ウエスト通りの西側に有り、四棟のビルよりなる(訳註)
 南棟が崩壊したとき、北棟の上層階にいた消防士たちはすさまじい咆哮を聞いた。そして多くの者が床に叩きつけられた;彼らは瓦礫が階段を駆け上がってくるのを見た。さらに電力が失われ,非常灯が作動した。しかし、南に面する窓近くにいなかった消防士は、南棟の崩壊を知る方法が無かった;多くのものは爆弾の爆発あるいは北棟が上層部で部分的崩壊をこうむったと推測した。我々は959分以降、反復チャンネルが機能し続けていたかどうかを知らない。
最初の避難指示と通信.南棟の完全な崩壊は、ハドソン河上にあったFDNYの消防艇からマンハッタンの通信指令チャンネルで直ちに伝えられた。しかし我々の知るところでは、現地でこの情報を受信したものは誰もいない。なぜならFDNYの指揮所は ―フィールドコム・バンのある全体指揮所を含め― すべて放棄されていたからだ。南棟に起きた事象についての知識が欠けていたにもかかわらず、北棟ロビーで退避作業を実施中だった隊長は、崩壊の一分以内に指令を出していた。「タワー1のすべての隊に指令。ビルから退避せよ」北棟ロビーの別の隊長は、戦術チャンネル1上で追加の退避指令を出していた。退避命令は、ビルの崩壊が切迫している時に与える協定の指示とは違っていた。協定に従えば ―南棟の崩壊から北棟のそれに至る29分間― 「メーデー、メーデー、メーデー」と定期的に繰り返すことになっていた。ただ、退避指示のほとんどは、南棟の崩壊について述べていなかった。しかし、少なくとも3人の消防士が、北棟の「崩壊が切迫している」という避難指示を聞いていた。
北棟地上階以上にいたFDNY職員.数分以内に、何人かの消防士は、戦術チャンネル1上で退避命令を聞き始めた。少なくとも一人の隊長が、北棟の隊長しか使わない、従ってそんなに混んでいない、指揮チャンネルを使って退避命令を与えていた。
 少なくとも二人の上層階 ―23階と35階― にいた大隊長が、指令チャンネルで退避命令を聞き、それを出会ったすべての者に繰り返して伝えた。23階にいた隊長は、積極的にフロア上の近い範囲のすべての消防士の退避の確認に責任を持った。35階の隊長は、また別の無線で南棟が崩壊したと言っていることを聞いた。(それは23階の隊長も同様に聞いたであろう)。彼は引き続いて緊急の感覚で行動した。そして何人かの消防士は、彼が「戦術チャンネル1」で退避命令を繰り返したとき、初めてそれを知った。この隊長はハンドマイクを持っていて、吹き抜け階段を移動しながら退避命令を叫んだ。「すべてのFDNY(フィドゥニー)脱出しろ」彼の努力の結果、まだ退避作業に入っていなかった消防士たちも、退避を始めた。
 他の消防士たちは、退避の通信を受けなかった。それは次の四つの理由のうちの一つによってだった:第1に、FDNYの無線電話は,高層階での無線交信が困難なため,交信を拾っていなかった。第2に、南棟崩壊後、多くの者が戦術チャンネル1を使おうとしたため、避難指示が聞き取れなかったかもしれない。その時 北棟の31階にいたFDNY小隊長lieutenant)によれば「(戦術)チャンネル1は、沼地に入り込んだようで、そこから抜け出すのは不可能だった」。第3に北棟のある消防士たちは、非番だったので無線電話を持っていなかった。第4に、北棟のいくらかの消防士たちは、南棟に派遣されたので、おそらく南棟に割り当てられた別の戦術チャンネル上にあった。
 退避命令を受けた北棟のFDNY隊員は、均等に反応したのではない。いくつかの隊 ―その南棟の崩壊を知っていた警官を含む― は、救護されていない民間人を救助するために、彼らの避難を遅らせたか停止した。上っている時、メンバーが離れてしまった隊は、一緒に降りるために最集結を試みた。ある隊は避難を始めたが、目撃証言によると、急いではいなかった。少なくとも生き残った数人の消防士たちは、南棟の完全な崩壊を知っていたら、彼らや他の者はもっと急いで避難しただろうと信じている。他の消防士たちは、床に座り込み、休み続けた。別の隊は彼らの側を通って降りて行ったが、彼らは避難について考えているのだろうと思った。ある消防士たちは、他のFDNYの職員が内部に残っているのでビルを離れないと決めていた。そしてある場合には、他の者に彼らと共に残るように説得していた。他の場合では、消防士たちはロビーまで降りるのに成功したが、そこで他の消防士から特別のFDNY職員を探すために、もう一度上るよう説得された。
 他のFDNY職員は彼らの無線電話で退避命令を聞いていなかった。しかし避難中であった消防士や警官から、ビルを離れるよう口頭でアドバイスを受けた。
 1024分頃、FDNYのほぼ5隊が吹き抜け階段Bの底に達し、北棟のロビーに入った。彼らはそのロビーで1分以上立ち止まった。隊長は誰もおらず、どうすれば良いのか確かでなかったからだ。結局、一人の消防士 ―その前に窓から南棟の崩壊を見ていた― が、このビルも同じように倒れると主張して、彼ら全員に離れるよう説得した。そこで各隊はウエスト通りへの出口に進んだ。彼等がそうしている間に、北棟は「パンケーキ型」の崩壊(*)を始め、これらの男たちの何人かを殺した。
(*)垂直内側方向に各側壁が均等に崩壊し、最後に中央が丸く膨れたパンケーキ状になる崩壊(訳注)
他のFDNY職員.マリオット・ホテルは南棟の崩壊で重大な損傷を受けた。ロビーにいた者は叩き倒され、瓦礫の雲の暗黒に包まれた。幾人かは傷ついたが、歩くことができた。他の者はより激しく傷つき、またあるものは閉じ込められた。数人の消防士たちが、50人程度の民間人グループがレストランに避難しているのを見つけ、彼らの退避を助けた。そこより上では、南棟の崩壊のとき4中隊、約20名が一列縦隊で階段を降りつつあった。4名が生き残った。
 南棟の崩壊の時、FDNY2隊が共に北棟ロビーの東側、モールのコンコース近く、あるいは事実上モールのコンコース内にいた。彼らは南棟に達しようと試みていた。これらの男たちの多くは、南棟の倒壊で足をすくわれた。そして彼らは、瓦礫の雲の暗闇の中で再び集結を試み、民間人と共に退避した。彼らは南棟が崩壊したことを知らなかった。これら消防士のうちの数人は、引き続きコンコース下のPATH駅を探した。彼らは、919分にPAPDがすべての民間人を立ち退かせたことを知らなかった。
 1015分頃、駐車場[避難所]から、ウエスト通りに帰ってきた消防局長官と安全部長Chief of Safety)が南棟の崩壊を確認した。長官はすべての隊が北棟から退避するよう無線電話により命令を出し、それを5分間 繰り返した。それから彼はFDNYの指揮所をウエスト通りのさらに北に移動するよう指示し、この領域のFDNY隊に、ウエスト通りを北に、チェンバー通りまで進むように話した。また1025分頃、彼は梯子車2隊にマリオットに対応するよう無線で指示した。彼は、そこにFDNY職員と民間人が閉じ込められていることを知っていた
 北棟のロビーにいた数人の隊長を含む多くの隊長が、南棟の崩壊を30分かそれ以上知らなかった。しかし二人の目撃証言によると、南棟の崩壊を知っていた一人のFDNY上級隊長は、南棟と違って北棟は[建物の]角部分を打撃されていないので、崩壊する事はないだろうという意見を強く主張していた。
 南棟の崩壊後、北棟近くの路上にいた消防士たちは、彼らのいた場所に残るか、あるいは北棟にさらに近い場所に来た。これらの消防士のいくらかは、南棟の崩壊を知らなかった。しかし多くの者はそれを知っていたにも拘わらず、他の生命を救おうとして残ることを選んだ。このような消防士の一人によれば、マリオットでの捜索と救助の任務のための準備をしていた隊長の一人は「もし私が南棟の崩壊の後に、ウエスト通りを北に向かったとしたら(*)、私は自分が男たちのリーダーだと考える事は絶対に無いだろう」と言った。北棟のちょうど外側のウエスト通りで、一人の消防士が他の者にビルの出口を指示していた。彼はそのとき飛び降りはもう無いので、走り出ても安全だと言っていた。ある上級隊長NYPDのハンドマイクを握って、ウエスト通り上の消防士たちに、北に走り続け、WTCからを充分離れるように説得していた。最上級FDNYの尊敬されるメンバー3人が、マリオットの民間人と消防士を救出する試みに参加した
 (*)彼にとっては、火災現場からの退却を意味した。(訳注)
NYPDの対応 
 NYPDの飛行ユニットは、南棟はそれが始まると一気に崩壊したと無線で伝え、さらにWTC複合施設と周辺地域のすべての人々を避難させるべきだと忠告した。1004分、NYPD飛行ユニットは、北棟の上部15階が「赤く輝いている」ので、崩壊するかもしれないと報告した。1008分、ヘリコプターのパイロットは、北棟がこれ以上長く耐えられるとは信じられないと警告した。
 南棟の崩壊直後から、多くのNYPDの無線周波数は負傷者、閉じ込められた者、行方不明の職員などについての交信に圧倒された。その結果、NYPDの無線交信は大部分のチャンネルで満杯となった。しかし、106分、WTCから充分離れたところに移動した、二か所の接近したNYPD動員ポイントでは充分有効だった。
 大部分の消防士たちがそうだったように、北棟のESUチームは、南棟が崩壊するとは思ってもいなかった。しかし、1000分、チャーチ・アンド・ヴィージーの指揮所に駆けつけたESU警官は、全ESUユニットのWTC複合施設からの退避を命令した。南棟の崩壊を見たこの警官は、退避指示の中でそれを北棟のESUチームに報告した。
 この指示は、すでに北棟にいた二つのESUユニットと、タワーに入る準備をしていた他のESUユニットに明瞭に聞かれた。31階のESUユニットは、南棟の完全な、理解を超えた崩壊を見た。彼らは指揮所の警官にそれを無線電話で伝え、次に彼[指揮所の警官]に通信の復唱を求めた。彼は緊急メッセージを繰り返した。
 31階のESUチームはそこのFDNYの職員と協議し、両者とも退避が必要だと考えていることを確認した。そして吹き抜け階段Bを降りていった。降りてゆく途中で、彼らは多くの消防士たちが休んでおり、退避中には見えないと報告した。彼らはさらに、これらの消防士を退避させるよう助言した。しかし、この時、彼ら[消防士]は[退避は]認められていないと言った。一人のESU警官の見解は、これらの消防士は、警官からの命令を基本的には拒否しているというものだった。少なくとも北棟にいた一人の消防士は、その朝、警官からの退避命令には従わないという見解を持っていた。しかし、他の消防士は、ESU警官は退避について忠告することもなく走り過ぎたと報告している。
 11階のESUユニット は、退避命令を受けて、吹き抜け階段Cを降りはじめた。中二階レベルに近くなると ―そこで吹き抜け階段Cは終わっていた― この隊は鎖のように列になって、何階かから中二階に降りるまでつながった。彼らは、自らのフラッシュライトを使って、暗闇と瓦礫の中で階段を下ってくる民間人のために通路を照らした。ついに、誰も降りてくる者がいなくなってから、ESUチームは北棟を出た。なお北棟の上層階からジャンプする人を互いに偵察者となって避けながら、同時に6WTC駆けつけた。彼らは地域内に止まり、追加の捜索を続けた。二人を除いて全員が死んだ。
 南棟の崩壊を生き延びた後、北棟への進入を準備していたESUチームは、鎖状の列になって(北棟の中2階から脱出してきた)民間人たちの通路を作った。[この通路によって]民間人はヴィージー通りにつながる5WTC 6WTCの北側の階段を下り、WTC複合施設から退避した。警官たちはこの位置に北棟の崩壊まで留まったが、全員が生き延びた。
 北棟の54階まで昇った3人の私服(*)NYPD警官[前出]は、959分、南棟の崩壊によってビルが激しく揺れるのを感じた(もっとも彼らはその理由を知らなかった)。その後直ちに、彼らはFDNY消防車中隊の3人の消防士と合流した。一人の消防士は明らかに彼の無線電話で退避命令を聞いた。しかし返信で応答していた。「我々は入った以上出ない」しかし消防士は警官たちに、彼らは増加する煙と火に対抗する保護具と設備を欠いているとして降りるよう説得した。警官はしぶしぶ降り始めた。下の階に民間人がいないことをチェックしながら、吹き抜け階段Bを下った。各階で頭を突き出し、民間人を探した。
  (
)防護服ではなかったと思われる。(訳註)
 北棟の中2階で避難を助けていた別のNYPD警官たちは、南棟の崩壊で起きた瓦礫の雲の中に包まれた。彼らは暗闇の中でグループを再集合し、彼ら自身と出会った民間人の退避に努めた。少なくとも彼らの内の一人が北棟の崩壊によって死んだ。この地域のNYPD警官の一人が5WTCへの退避を監督した。そこで、彼はPAPD警察官とチームを作り、なお脱出してくる民間人に助言する看視員 ―民間人が、上層階から落ちてくる人や瓦礫を避けて、1WTCから5WTCへ安全に走れるようにする― として働いた。
 南棟が崩壊したとき、多数のNYPD警官がコンコースにいた。彼らの何人かはそこで死んだと信じられている。生き残った者は、コンコースからあらゆる方向に脱出してくる民間人を助けながら、暗闇の中で自身の避難に必死だった
 港湾公社の対応  
 南棟の崩壊は、ウエスト‐ヴィージーのPAPD指揮所の避難を強いた。PAPD警察官も北に移動することを強いられた。WTC指揮所の無線電話を除いて、PAPD警察官が退避命令を無線電話により受信した証拠はない。北棟の警察官たちは、自らの判断あるいは出会った第一応答者と相談して避難を決定した。何人かは、救急を受けていない民間人を助けるために、彼ら自身の下りる速度を大きく緩めた

10時28分以後 
 上層階で生き残っていた民間人、下部にいた数え切れない人々、そして多数の第一応答者を殺しながら、北棟は午前102825秒に崩壊した。ニューヨーク市消防局長官、港湾公社警察警視監および多くの上級スタッフが殺された。信じられないことだが、北棟の吹き抜け階段Bを下っていた12名の消防士と1名のPAPD警官、そして3人の民間人が崩壊から生き残った。
 911日、国家はその国土上で敵の攻撃による歴史上最大の生命の損失―2.973名―に遭遇した。FDNY343名の死亡―初動対応の官庁として史上最大の生命の損失だった。PAPD37名が死亡―警察力としては史上最大の生命の損失だった。NYPD23名が死亡―これは同じ日のPAPDに次ぐ警察として史上2位の生命の損失だった。
 ジュリアーニ市長は警察と消防局総監およびOEM長官director)と共に北に移動し、緊急作業指揮所を警察学校に設けた。時間が、週が、月が経つにつれ、何千人もの民間人と市、州、および連邦の公務員たちは、ニューヨーク市が立ち上がるために、夜も昼も献身した。
 写真:3枚 (WTC, PentagonShanksville, PA  (省略)

                     
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9・3 ペンタゴンの緊急対応  (原文 p.311
 もしほかの日に起きていれば、ペンタゴンの惨事は異常な挑戦として、また特別な国家の物語として記憶されたであろう。しかし、同じ朝のワールド・トレードセンターの大災害は、地上1,000フィートで数万人の人々を直ちに危険にさらす大惨事といえる損害を含んでいた。二つの経験は比較できるものではない。にもかかわらず、多くの官庁間の対応の統合についての広い教訓は、我々がペンタゴンでの対応を分析するときにも明らかである。
 ペンタゴンでの緊急対応は地区、州、連邦直轄区から提供され、一般に効果的だった。9/11において、事故指揮システム ―緊急対応の公式の管理機構― が国家首都地区[ワシントンD.C.]に置かれた事は、管轄区域を越えての対応に固有の混乱を防いだ。
 事件の性質上 ―飛行機の衝突、火事、部分的なビルの崩壊― アーリントン郡消防局が事故対応の指揮をとった。異なる官庁が異なる役割を持った。この事件は、その施設が国防総省の管理下にあったため、アーリントン郡から、合衆国軍司令部にいたる、幅広い救急,消火および医療の対応を必要とした。また、テロリストの攻撃であったことから、司法省が、担当する連邦機関の統率に責任を持った。(作戦対応のため権限をFBIに委嘱した)これに加えて、テロリストの攻撃は、アーリントン郡とそのすべての境界を接している管轄地区の、日常業務と危機管理に影響した。
 937分、ペンタゴンの西壁にハイジャックされたアメリカン航空77便、ボーイング757が命中した。衝突は即時に壊滅的な損害を引き起こした。飛行機に乗っていた全員64(*)が殺された。同時に、ペンタゴンの中にいた125名(民間人70名、軍人55名)が殺された。106名が重症を負い、地域の病院に運ばれた。           (*)犯人5名を含む。したがって、犯人を除く犠牲者数は184名となる。(訳注)
 緊急対応が完全ではなかったものの、ペンタゴンへのテロリスト攻撃の対応は三つの理由によりほぼ成功した。第1に、危機対応者の間に強いプロ的関係と信頼が確立されていた、第2に「事故指揮システム」の採用、第3に対応の地域的取組の追求であった。対応した多くの消防士や警官は、先だって地域の行事や訓練で共に働いた大規模な経験を持っていた。実際、その時これらの多くの官庁では、その月遅く、ワシントンD.C.で計画されていた、国際金融機関(IMF)と世界銀行の年次総会で、公衆の安全を確保するための準備が進行中であった。
 地方、郡、州および連邦機関が直ちにペンタゴンの攻撃に対応した。郡の消防、警察および保安官署に加えて、対応は首都ワシントン空港公社、ロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル空港消防局、フォートマイアー消防局、バージニア州警察、バージニア危機管理局、FBIFEMA,国家医療対応チーム、アルコール・たばこ・火器局そしてワシントン軍管区内の多くの軍関係者に助けられた。
 941分、指揮所が設けられた。同時に、アーリントン郡緊急交信センターは、フェアファックス郡、アレキサンドリア、およびコロンビア地区の消防局に接続し、相互支援を要請した。事故指揮所の位置は衝突部分の明瞭な眺望と通路を提供し、事故指揮者に常に状況の評価を可能にした。
 955分、[建物の]部分的な破壊が迫ったので、事故指揮者は衝突領域の退避を命令した。破壊は957分に起こった。第一対応者に負傷者は無かった。
 1015分、事故指揮者は指揮所の全退避を命令した。FBIを通じてハイジャック機の接近が警告されたためだった。これは進入機の報告によって起こされた3回の退避の最初のもので、退避命令は良く伝えられ、良く協調された。
 数件の要因がこの事故に対する対応を促進した。そして、ニューヨークのはるかに困難な任務とは区別された。それは単純な事件で、地上1,000フィートでは無かった。事件現場は比較的安全確保と収容が容易で、近くに他のビルも無かった。そこにはペンタゴン以外の「随伴被害」も無かった。
 しかし、ペンタゴンの対応は、ニューヨークの経験の反響でもある困難に遭遇した。「アーリントン郡:行動後の報告」が書いているように、そこには自発的出動と通信の二つの重要な問題があった:「組織、対応単位、個人は彼ら自身のイニシアティブで、主管轄者および事故指揮者の許可なしに、直接事故現場に進んだ。これは指揮を混乱させ、本来の対応者を危険にさらし、任務への挑戦を悪化させた」。
 通信については、報告は次のように結論を記している。「コミュニケーションのほとんどすべての面で、最初の通知から戦術上の操作まで、問題があり続けた。携帯電話はほとんど価値が無かった。無線電話チャンネルは早い時期に飽和した。ポケットベル(pager)が使用可能で、通知の手段として最も信頼性があったように思われた。だが、ほとんどの消防士はポケットベルを使わなかった」。
 与えられたニューヨーク市と北バージニアの異なる状況下で、双方に起こった指揮、統制、通信の問題、これらは同様のスケールの緊急事態には、同様に繰り返されるだろう。期待される任務は、第一対応者が状況を最大限に把握し、協力的態度で対応出来るようにすることだ。

                      
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 9・4 分析   (原文p.315
 第1章に書いた国家防衛の努力のように、9/11の攻撃に対する緊急対応は止むを得ず、その場しのぎのものであった。ニューヨークでは、FDNYNYPD,港湾公社、WTC従業員そしてビル入居者たちは、自身が想像もできない惨事 ―それは恐ろしい勢いでたった102分間だけ展開された― の影響に対抗するため、彼らの最善を尽くした。このような惨事に対して、彼らは訓練と心の準備が出来ていなかった。第一対応者の努力、互いの助け合い、そして彼ら自身の良い天性と善意などの結果として、衝突ゾーンの下の民間人の大部分は、タワーから退避することができた。
 国家標準技術協会(National Institute of Standards and Technology NIST)は、911日の午前846分には、16,400から18,800の民間人がWTC複合施設にいたと暫定的に推定している。そして(1)消防士や警察官の第一対応者、(2WTCおよび個々の会社の警備または防火責任者、(3)飛行機の衝突後、他人を助けるために駆けつけた民間ボランティア、(4WTCに衝突した2機の飛行機に乗っていた人たち、などを除いて、最大2,152名の人々がWTC複合施設で死んだ。この死者数の内、我々は2,052名、95.35%の職場の配置を説明することができる。[それによると]この内の1942名、94.64%が、それぞれのツインタワーの衝突ゾーンまたはその上で働いていたか、会議などに出席していたと考えられる。衝突ゾーンの下で死んだ者は[上記2,052名との差(訳注)]110名、5.36%だけである。与えられた人物のWTCのオフイスの位置から、この朝、これらの人々がどこで死んだのか、あるいは避難できたのかを確実には指摘できないが、このデータは衝突ゾーンの下では民間人の退避は成功だった事を強く示唆している。
 いくつかの要素が911日の避難に影響した。それは1993年の爆破に応じた港湾公社による変更と、そのとき以後の港湾公社職員と民間人の訓練とによって大きく助けられた。吹き抜け階段は[衝突の]影響を受けなかった階付近では照明が残された;いくつかのテナントは、彼らの安全のために、火災訓練で学んだ手順に頼った;他の者は、ロビーに位置した防火責任者に導かれて階段を下った。飛行機の衝突によって生じた損害のため、ビルの精巧な[コンピューター]システムの能力が損なわれた。しかし、手摺りと階段への発光帯の取り付けのような初歩的な改善によって、生き残ることが出来た者もいたと信じられる。一般的なタワーの避難時間は、1993年の4時間以上から、911日には、閉じ込められた者や、身体的に長い降下に耐えられかった者を除く民間人の大部分については、1時間以内に減少していた。
 第一対応者はまた、避難の成功について重要な役割を果たした。いくつかの特殊な救助は定量化できる。たとえばFDNY消防による北棟22階で閉じ込められた民間人の救出、あるいはFDNYNYPD,およびPAPDの職員による、南北両タワーでの救急を受けていない民間人の搬出の成功である。その他の例は、より高かったかもしれない死者総数を減らすことに結びついた無形のものである。それは測定する事はできない。地上階に下りてきた民間人が、NYPDPAPD職員の誘導 ―飛び降りや瓦礫を避け、安全な出口を通り、急いでしかし静かに複合施設を離れるように指示していた― が無ければ、さらに何人が死んだかなどといった事は定量化できない。また南棟の崩壊後も、民間人の支援を続けるというFDNYPAPDおよびNYPDの決定がなければ、さらに何人の民間人が死んだかを測定する事などは不可能である。上ってくる消防士たちが、下りてくる民間人を落ち着かせるよう影響したこと、あるいは消防士の存在が無ければ、ごく僅かな民間人の下手な行動が、危険なパニックになった暴徒の群れを発生させたかもしれないことなどを測定する事は不可能である。しかし第一対応者の避難にとってのプラスの影響は、彼らの生命の損失という膨大なコストを生じた。
 民間人と個人企業の挑戦 
 
9/11での「第一」の初期対応者は、最大の惨事の中にも拘わらず、個人企業の民間人だった。なぜなら、我々の国家[アメリカ
合衆国]の重要な社会基盤の85%は、政府ではなく個人企業によって運営されているからだ。個人企業の民間人は、将来の惨事においても多分一の初期対応者だろう。そういった理由で、我々は緊急時の必要性に対処する勧告を作り上げるために、個人企業と民間人の準備の状態を評価した。我々の勧告は、9/11のワールド・トレードセンターでの民間人の経験から生まれた。
屋上救助協定の欠如.北棟の衝突部およびその上にいた民間人は、生き残る僅かな希望を持っていた。飛行機の衝突以後、ビルの三つの吹き抜け階段の損傷と通過困難な状況により、彼らは下りることが出来なかった。北棟の上層階にいた者たちにとっての唯一の希望は、速やかで大規模な空からの救助だった。いくつかの要素がこれを不可能にした。安全上の理由で、屋上に続くドアは閉じられていた。そして安全指揮所のソフトウエアの損傷が、鍵解除指令の作働を妨げた。ドアがロックされていなかったとしても、構造と放射線の危険radiation hazard)[不詳]が、屋上を多くの民間人が立つ場所としては不適当なものとしていた;そしてもし条件が通常のヘリコプターによる避難を許したとしても ―とてもそのような状態ではなかったが― 一度に吊り上げることが出来るのは数人だった。
 WTCは、すべての吹き抜け階段が下方に通過できない場合、WTC上層階の民間人に対する如何なる避難計画も持っていなかった。
北棟衝突直後の南棟の包括的避難の欠如.北棟が衝突された直後に、南棟を退避させなかったビル職員の決定以上に批判されているものはない。断固としたすばやい退避命令は、多くの者に安全をもたらしただろう。完全に「助言」にすぎないアナウンスであれば、自ら退避を決めた者を思いとどまらせることはなかっただろう。だが、その場所に残れと言う助言も、その前後関係を考えると理解できる。その時、第2の飛行機が南棟に衝突すると考えていた者は誰もいなかった。数千の人々の避難は、本来危険と考えられる。さらに、タワーの外のある範囲の状況は危険に満ちていた。
 我々の視点で理解し難いことは、ロビーに達した何人かの民間人に与えられた、彼らの職場に戻れという指示である。彼らはロビーに留められるか、あるいは、地下のコンコースの通過を指示されることが出来ただろう。
 館内放送システムによる最初のアドバイスにもかかわらず、FDNYPAPDによって、北棟衝突12分以内に南棟は避難を命じられていた。もし第二の予期できない攻撃がなければ、退避は多分進んでいただろう。
災安全計画と火災避難訓練の影響.南棟が衝突されると、上層階の民間人は、クリアーな下降路を探すことなく、階段を上るのに時間を費やした。吹き抜け階段Aは少なくとも最初は通過可能だった。屋上からの救助は最終的には除外されていなかったとはいえ、民間人は火災訓練の中で、屋上のドアがロックされていること、屋上エリアは危険で、ヘリコプターによる救助計画は存在しないことを知らされていなかった。
両方のタワーで、階段に到達し、さらに下った民間人は、階段の屈曲と防煙ドアに妨げられた。この混乱はある者の避難を遅らせ、他の者を邪魔したかもしれない。港湾公社は将来このことを認め、またテナントは彼らが降下中に遭遇する状態を認識するべきである。
避難時の911電話の影響.NYPD911交換手と、FDNYの通信指令係は、緊急時の対応のために適切に統合していなかった。911電話システムは、いくつかの点で大惨事に対抗する準備がなかった。これらの交換手と通信指令係は、タワーの衝突部分およびその上の人たちにとって、唯一の情報源だった。FDNY857分に両タワーに完全な避難を命令した。しかしこの指示は、911交換手とFDNY通信指令係には伝えられなかった。そのため彼らは、引き続く時間、民間人に、衝突部の上下に関係なく自主避難をしないようにアドバイスし続けた。そればかりか、911交換手もFDNY通信指令係も、屋上からの救助は規定にない事を知らされていなかった。この失敗は、南棟上層階の民間人にとって有害だったかもしれない。911に電話したものは、彼らの唯一の避難の望みが、上ることではなく、下降を試みることだと知らされなかった。将来の惨事の計画において、911電話を緊急対応チームに組み入れ、彼らに更新された情報を提供して、公衆を援助することが重要である。
個々の民間人の備え 9/11の一つの明らかな教訓は、たとえ大災害であっても、個々の民間人が、生き残るための可能性を最大限にする責任があるということだろう。明らかに、ワールド・トレードセンターの多くの入居者が本気で準備をしていなかった。個人は彼らの働いている場所の吹き抜け階段の確実な位置を知るべきだった。加えて、彼らはいつでもフラッシュライトを準備するべきだった。それは911日にWTCから避難をしようとした民間人にとって、貴重なものだったと考えられる。
第一対応者に経験された課題 
 事故指揮の課題.先に記したように、20017月、ジュリアーニ市長は「ニューヨーク市の緊急時の指示と統制」という指示書を更新した。その指示書は、異なるタイプの緊急事態に対して、最適の部局を「事故指揮部」とすることを明示した。その部局は「緊急事態において市の対応の管理に責任を持つ」その指示書はまた「事故が多面的で一つの部局が事故指揮部としてすぐには立ち上がれないとき、OEMが、事故指揮部の役割を一つの部局に、状況に応じて任命する」としていた。
 ある程度、市長の事故指揮についての指示書は9/11で実行された。指導的な対応部局がFDNYであったことは明らかだった。そして対応した他の地方、連邦、二州(*)そして州は支援する役割を担った。ツインタワーの地上階以上の民間人の退避に、FDNYの職員が第一に責任があることについては暗黙の理解があった。しかし、NYPDPAPDの職員も地上階に達した民間人をWTC複合施設から退避させる任務についていた。NYPDも、WTCへの緊急通路を確保することで、出動するFDNY隊を大きく助けた。 (*)ニューヨーク州およびニュージャージー州。(訳註)
 さらに指揮の高いレベルでの協力が起きた。例えば、920分頃、市長と警察総監が消防局長官と協議した。作戦レベルでも協力の例があった。そして特別の目的の情報はその場で共有された。例えば、北棟でNYPDESUチームは、彼らの退避指示のニュースを消防士に伝えた。
 しかし、対応作戦で指示書が予測した、情報の集約や統一指揮などが欠けた事もまた明らかである。これらの問題は、対応した部局内にも、部局間にも存在した。
第一対応部局の指揮と統制.総合的な事故管理システムを成功させるには、個々の参加者が自身のユニットを管理・統制し、適切な内部の連絡を取らなければならない。これは、9/11WTCの場合、常にあったとは限らない。
ワールド・トレードセンター攻撃のような強度の出来事に対応した経験を欠いていた事は理解できるが、FDNYは、組織としても認めているように、16エーカーの複合施設の異なる場所に派遣された多くの隊を統合する能力を欠いていた。その結果、多くの隊が損傷のないマリオット・ホテルと、ウエスト通りの全体指揮所に、930分に集合した。この間にも、南棟で任務についていた隊長は、絶望的になるほど隊を必要としていた。すでに利用できる資源のより良い理解があれば、追加の隊を937分に南棟に向けて出発させなくても良かったかもしれない。
 複数の隊に説明し、協力させる業務は、内部連絡の障害によって、不可能ではなかったが困難なものとなった。その障害は、WTCの高層環境での無線の能力の限界と、どの人物にどの周波数が与えられているかについての混乱に由来した。さらに南棟が崩壊したとき、全FDNY指揮所が操作を停止した。それは状況を理解するFDNYの能力を損なった;FDNYの海上ユニットは、FDNY通信指令係に即時に無線交信で南棟の完全な崩壊を伝えたが、現場の隊長には伝えられなかった。FDNYの協調の無能力と、この大きさの緊急事態で使われた異なった無線電話チャンネルは、初期の南棟での隊の不足をもたらした。南棟ロビーの隊長は初めタワー外の誰とも交信出来なかった。
 911950分まで、殆ど誰も差し迫ったツインタワーの全体の崩壊を予期した者はいなかった。一方、多くの第一対応者と民間人はニューヨーク市内いたるところに、切迫したテロリストの攻撃を予想していた。もしこのような攻撃が起こったら、FDNYの対応は著しくその名誉を汚される事になっただろう。それは、多くの非番の職員、特にその上級職員がWTCに集中していたからである。
 港湾公社の対応は、標準作業手順を欠いた事と、WTCの事件に対して、統一した方式で多くの隊に応答できる無線電話が無かったことで、妨害された。トンネルや空港の指揮所から報告している多くの警官は、WTC指揮所の周波数で送信される指令を聞き取ることが出来なかった。これに加えて、上級職の港湾公社警察官が救急作戦の前線に直接参加したため、指揮と統制が複雑になった。
 NYPDは内部の指揮、統制、および連絡に関し、[WTCでの]経験から学ぶべきことは比較的少なかった。なぜならNYPDは何千もの警察官を、群集の整理に必要な多くのイベントに動員した歴史を持っていたからである。その専用無線電話の能力と、大きな事件についての協定書は、9/11の強度の出来事にも容易に適合された。これに加えて、この日の彼らの任務は、大部分がタワーの外側だった。ESUチームと僅かな個々の警官がタワーを上っていたが、大部分のNYPD警官は外部に配置され、群集の整理や退避を助け、また市内の他の場所の安全を確保した。NYPDESU部門は、そのユニットに対してしっかりと指揮と統制を保っていた。それは、(FDNYの隊数と比べて)ごく少数の隊しかなく、すべての隊が同じESU指揮所に報告していたことによる。しかし、ESUNYPD以外の警官がWTCの地上階で任務についていたか、上層階にいた僅かな警官と協力していたかは明らかではない。
 FDNYの指揮、統制能力の重大な欠点は、911日に苦痛に満ちて露呈された。その大きな信望のために、FDNY9/11以後、この報告書発行までの(訳注)]過去3年の間、これを処理する基本的な努力を行ってきた。一方、PAPDについても指揮と統制について、重要な問題が911日に露呈されたが、港湾公社がこれらの欠陥を処理する、新しい訓練の実施や、重大事故の協定書を採用したかについては、あまり明らかではない。
第一対応官庁間の協力の欠如. 9/11で統一指揮所を設立しようとする試みは、対応官庁間の連絡と協力の欠如によって、さらに挫折させられた。確かにFDNYは、市長の指示書の要求するように「緊急時にあたって市の対応の管理に責任を持つ」ものではない。指揮所は異なる場所に作られた。そして情報共有の中心として機能するはずだったOEM本部は、その退避前にも、情報が部門間で共有されているか否かを確認する総合的な役割を果たす事はなかった。地上階からツインタワーを上る、FDNYNYPDPAPDの人々の間で、包括的な協調関係が欠けていた。
 意思決定のために伝えられる重要な情報が、部局間で共有されていなかった。あの朝、指導的役割だったFDNYの隊長は、NYPD航空隊からの情報の欠如によって、彼らの意思決定の能力は妨げられていたと我々に語った。午前951分、ヘリコプターのパイロットは、南棟の「大きな塊」が落下しそうで、その下部に危険を生じるかもしれないと警告した。[南棟の]崩壊直後、ヘリコプターのパイロットはこのニュースを無線電話で報告した。この通信に1008分、同15分、さらに北棟の状態を疑う22分の交信が続いた。FDNYの隊長がヘリコプターの人物と交信できれば、大きな利益があっただろう。
 NYPD航空部からのリアルタイムの情報の欠落の結果を、強調しすぎるべきではないないだろう。広く持たれている誤った認識に反して、南棟の崩壊まで、両タワーの崩落を予測したNYPDのヘリは無かった。またそのとき(南棟崩壊)以前に、WTC複合地域から避難を始めたNYPD職員はいなかった。さらに、FDNYは、組織としては、南棟が崩壊した認識をNYPDより早く得た。その崩落が、FDNYの消防艇によって直ちに配車チャンネルを通じて報告されたからである。しかし、局内の故障によって、この情報は現場のFDNY職員に広く伝えられることは無かった。
 WTC複合施設での民間人捜査について、FDNYPAPDNYPDは、彼らの隊を調整する事はなかった。多くの場合、不要な捜索が特定のフロアや範囲に関して行われた。もし総合的な対応が有ったら、集合した中からツインタワーに入った第1対応者は、もっと少なかったのではないかとか、もしそれが有れば、余分な捜索が[少なくなって]第一対応答者の死者数に影響したのではないかなどは明らかではない。
 911日にFDNYNYPDの間の協力が欠けたことが、悲劇的な効果をもたらしたかどうかは、議論されてきた問題である。我々は、これらの影響について責任を持って定量化するには、変数があまりに多いと信じる。協力の不足が、民間人の退難に悪い影響を与えなかった事は明らかである。しかし、「事故指揮システム」が官庁間の認識の統合、あるいは官庁間の対応の促進に機能しなかったことも明らかである。
 もしニューヨークその他の大都市が、将来のテロリストの攻撃に備えるとすれば、合衆国軍隊の異なる部門[陸、海、空、海兵]がしているように、それぞれの市の異なる第一対応部局が十分に協調しなければならない。協調とは、すべての派遣された警察、消防その他の第一対応資源を広範囲に配置する、統一された指揮を意味する。
 20045月、ニューヨーク市は緊急時対応計画を採用した。そこでは、テロリストの攻撃に対応するとき、2またはそれ以上の官庁が合同して指導官庁となることを明らかに想定している。しかし、一つの全体指揮所から、すべての対応者資源を配置して監視するような、広く統合された指揮の権限は与えていない。我々の判定では、これは最適な対応計画としては不十分である。計画は明確な指揮と統制、共同の訓練とそこから作り出される信頼を必要とする。軍隊の経験は、このような協調した対応に統合するには、911交換手を含むすべての第一対応者からの情報を受け取り、結び合わす、統一した現場の情報ユニットが存在するべきだという事を示している。このような現場情報ユニットが、大きく込み入った事件では価値があるだろう。
無線電話交信の課題:退避指示の効果と緊急性.先に討議したようにNYPDESUの指揮所の位置は、南棟の完全な崩壊を説明して緊急の退避命令を可能とする上で決定的だった。消防士たちはこの情報から、最も確実に利益を受けただろう。
 南棟の崩壊後、北棟内にいた職員に対して避難指示を伝達する場合、別々の方法が、さまざまな成功をもたらした。NYPDESUの指示の成功は(1)無線の強度、(2)比較的少なかった使用者、(3)全員の正しいチャンネルの使用、などの複合した結果に帰せられる。
 同じ三つの要素は、FDNY職員間の通信においては不利に働いた。に無線の効果は高層階で著しく減衰した。に戦術チャンネル1は、10時に多くの隊が交信を試みたため、簡単にオーバーフローした。に何人かの消防士は誤ったチャンネルを使い、あるいは単に無線電話を持っていなかった。
 何の手違いが、1000分以降、北棟の隊が反復チャンネルを使えなくしたかを知る事は不可能である。南棟の崩壊前、反復チャンネルは少なくとも部分的に使われていた。我々は、959分以降、それが使われ続けたかどうかを知らない。
 反復チャンネル無しでも、北棟に派遣され、そこにいた最小24、最大32の隊が、退避指示を受けていた。無線電話からか、あるいは直接他の第1応答者からかだった。しかしながら、これらの消防士の多くが死んだ。民間人を助けたり、隊をまとめたり、緊急性に欠けたり、あるいはこれらの理由の組み合わせによって、退避が遅れたためである。これに加え、北棟に派遣されていなかった多くの他の消防士も、その崩壊の中で死んだ。何人かは無線電話を誤ったチャンネル上に保っていた。他の者は非番で、無線電話を持っていなかった。これらの考察の中で、我々はFDNYの無線電話の技術的欠陥が、北棟での多くの消防士の死に影響した要素であったかもしれないが、第一の原因ではないと結論する。
 FDNYは過去数年間、熱心に無線電話の欠陥と取り組んできた。高層階での無線電話の能力を改善するため、FDNYは「現場無線電話」を内部で開発してきた。それは大隊長が上層階に運べるよう十分に小さく、信号強度を大きく増幅し反射することが出来る。
 北棟での港湾公社警察官に関する話はそんなに込み入っていない;彼らの殆どは港湾公社警官に退避命令が与えられた無線電話のチャンネルに接続していなかった。911日以来、港湾公社は彼らの異なる部隊の無線システムの統合に努力している。 

                             ・・・

 9/11の民間人と一次対応者に対する教訓は簡単に述べることができる:テロの新しい時代には、彼らは ―我々も― 主要な攻撃目標だという事である。あの日アメリカが遭遇した損失は、テロリストの脅威の重大さと、それに相応する準備の必要性の両方を明らかにした。
 今日の第1応答者は、9/11の攻撃によって変質された世界に住んでいる。すべての考えられる攻撃の形態を防ぐ事ができるとは誰も信じていない。したがって、民間人と第一応答者は、自身が前線にあることに気付くであろう。我々は不測の事態に対して計画しなければならない。準備に向かって再び専念することは、おそらく あの日、我々が失った者の記憶に敬意を払う最善の方法であろう。



第9章:Note

Note 1  (一部) 各タワーの外面は、幅14インチの鉄柱の枠で覆われ、鉄柱の中心間隔は40インチだった。これらの外壁が、建物の重量の大部分を支えていた。 ビル内部の中心は、中空のスチ-ルシャフト[の集まり]で、その中にエレベーターと階段が集められていた。




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